最愛−優恋歌−

章−最愛− latter


 彼女と実際に会ってから三年目、その距離は良くもならずに時間だけが進んだ。
 短大生になって大人びていく彼女を目の前に見ながら、匠は突然ずっとこのままではいられないことを自覚した。
 どこか身構えて受け身の彼女が見せるのは不安そうな瞳と作り笑いが多かったのに、積極的というには程遠くてもずいぶんと表情が素直に変わった。写真から見えたそのままの、隠れていた彼女の素顔だ。匠には相変わらず身構えているがそれはそれとして、素直さに伴い、彼女はきれいというよりは秘めた気品を身に(まと)っていく。
 いま気配はなくてもいずれは――。それは自分じゃない。そろそろ本気で醒ますときだ。
 理性が匠を(さと)した。
 葛藤(かっとう)に揺れる。相反する、自分への怖れと手に入れたい欲求。それ以前に、けっして悪くはなっても良くなることはない。いっそのこと当たって砕けたほうが踏ん切りがついていいのかもしれない。そうすれば怖れも意味が無くなる。
 そう考えるも、自分にごまかしはきかない。一縷(いちる)の願いを捨てきれない。あきらめがつかない自分にうんざりした。

 彼女についてはまったく無意味な日々のなか、仕事では九月になって金属事業部門への異動の話があった。
 中国支社の規模拡大に向け、中国事情に()けた人材を募るにあたって、入社以来小売部門でずっと中国と係わってきた匠への打診だった。それを引き受ければ、同時に来春から一年間の中国赴任が付随する。
 迷うまでもないだろう。
 一瞬の理性が決断した。
 異動したことは、彼女のことも、仕事上の利点を考えてもよかったのかもしれない。一からの出直しになり、頭の中から彼女を抹殺することはできないまでも、余計なことを考える余裕がなくなった。水辺家を訪ねる時間も削られた。
 十月に異動して一カ月、ひたすら仕事に打ちこんで落ち着きかけた矢先に、淳介からパワーハラスメントだろうと疑うような強制召集を受けた。
 月末は集計がかかって忙しい。そんな日に淳介はわざわざ匠を訪ね、今日はうちに来てくれ、と有無を云わせないうちに立ち去った。匠だけではなく、水辺家に行きつけただれもがそうだったのだが。

 ほぼ一カ月ぶりにいざ水辺家の敷地内に入ると、否応もなく病が鮮明になる。(はや)る気持ちと拒む気持ちが絡んだ。複雑な気分で敷居を(また)ぐ。
「はい、上戸さんはこれね」
 リビングに入るなり、淳介の妻である佐織から渡されたのは襟が立った黒いロングコートにケープ、シルバーのピラピラしたディッキーカラーとグローブだ。
「なんですか」
「ハロウィンじゃない? カトリックとは無縁だけど、たまには便乗パーティもいいかと思って」
 佐織は茶目っ気たっぷりに云って、次々とやって来た淳介の部下たちに衣装を手渡していく。
 外観上、純和風の家にどう見ても釣り合わないハロウィンという口実に疑問を持ちながら、匠は仕方なく着てみた。それが吸血鬼の衣装であることに気づき、まるで着ぐるみの奴を見て、せめて狼男じゃなくてよかったと匠は思う。
「優歌、早く来てちょうだい。準備できたわよ!」
 自ら魔女に変身した佐織が廊下から二階に向かって彼女を呼ぶ。姉の優美はクレオパトラ、淳介はバイキング。
 彼女はなんだ?
 臆しながら優美に引っ張られてやってきた彼女は、白を基調にした膝丈のシスター服だ。
 卑怯だ。
 匠は内心で呻いた。互いに正反対にある立場の衣装は、そのまま自分と彼女の距離を突きつける。
 リビングに参加者がそろうと、写真撮影会が始まった。渋っていた奴もだんだんと乗せられて、それなりのふざけた格好をしたりと賑やかになっていく。
 幸いにして吸血鬼におちゃらけたイメージはそうそうない。匠はこういったおふざけが苦手なだけに安心したものの、上戸さんはそのままの雰囲気で充分よ、と云う佐織の発言には苦笑した。

 内心でため息をつきながら付き合っていたが、その間も目が勝手に彼女を追う。
 どうしたいんだ?
 何度も問う自分に愛想が尽きる。
 それでも目を離せずに見ていると、張りきって写真を撮りまくっていた佐織が彼女に近づき何やら話している。直後、佐織が彼女の手を引っ張ってこっちへやって来た。
「上戸さん、優歌とツーショットどうかしら? 吸血鬼とシスターって禁断の恋って感じでワクワクするんだけど」
 匠は思わず彼女に目をやり、その驚いた表情と合った。佐織は果たして自分の娘が怯えているのを気づいているのか。
 禁断の恋。禁断という理由があるなら、あきらめるのももっと簡単かもしれない。そう思ったことは自分の往生際の悪さが露呈しただけで、匠はかすかに笑った。
 その自分への嘲笑が彼女にはどう見えたのだろうか。ますます目が丸くなる。驚いたのではなくやはり怖がられている。
「お母さん――」
「いいから」
 察するに抗議しかけた彼女を佐織がさえぎった。
 匠の目の前で彼女は困ったようにちょっとうつむいた。
「じゃ、並んで」
 佐織は彼女の背中を匠のほうに押しだして、彼女はのめるように隣に来た。どうみても嫌がっている。
「んー、優歌、もうちょっと笑えない? それに、もうちょっとくっついてくれるといいんだけど」
 一度フラッシュが光り、それで終わるかと思いきや、佐織はこっちの事情におかまいなしで不満そうに注文をつけた。たしかに匠と彼女の間はだれでも簡単に割りこめそうなほど開いている。
「じゃあ、僕がお手伝いしましょう!」
 いきなり着ぐるみが彼女の横から手を上げた。と思ったとたん。
 ガオーっ!
 匠にとっても不意打ちだったが、彼女はそれ以上に驚愕して短く悲鳴を上げた。びくっと後ずさった躰が匠にぶつかってよろけ、本能的に支えた。
 彼女が首をのけ反らせて匠を見上げた。びっくり眼で息もつけないようだ。それは必要以上に驚く小動物を思わせる。
「大丈夫だ」
 無分別にかまいたくなる衝動を抑えられず、はじめて会った日に云えなかった言葉が、ぶっきらぼうながらも匠の口をついて出た。彼女がどう思ったのか、困惑が伝わってくる。
「ご、ごめんなさい」
「謝るのは狼だ。目が落ちそうにしてる」
 (つか)えた彼女と同じで、抱きとめている感触にたぶん自分は慌てている。匠はそれをごまかそうとからかった。不器用なのは承知で、またそれをごまかすのに小さく笑った。匠につられるように彼女が照れ笑いを見せる。
 匠はフラッシュに気づかないまま、めったになく自分に向けられた本物の笑顔に見惚れた。
「優歌、上戸さん、こっち!」
 頭が働かないまま、その声に振り向いたと同時にまともにフラッシュが匠の目をさした。

 ハロウィンの写真はまもなく手もとに来た。
 何枚もある写真のなかで三枚の写真に目を留めた。
 不自然に距離のある強張ったふたり、打って変わって見つめ合うふたり、そして寄り添ってカメラに笑顔と微笑を曝すふたり。
 あとの二枚を傍から見ればまるで――。
 これが本物なら。そう考えて匠は自分に嫌気がさす。女々(めめ)しいというに尽きる。
 それでも捨てることはかなわず、写真はダレスバッグの奥底にしまった。



 それから五カ月して中国へと渡った。
 彼女と遠く離れ、会えるという期待のまえに物理的に簡単ではない。そのことが匠を冷静にさせた。かといって醒めたわけではなく、模索し始めた。
 開けたきっかけは、赴任して三カ月たつ頃に支社長から、結婚はしないのか、と訊ねられたことだ。考えていません、と匠は即答した。そう答えてしまってからわかった。
 考えていないどころか、彼女という条件がある以上、ほかのだれかなど考えられない。最初からすでに条件となっていて、逆らうことは愚行でしかなく、それなら受け入れるしかない。
 かまいたい衝動、つまりは守りたい。彼女を(いた)めるかもしれない自分が怖いのなら、おれは自分からも彼女を守ればいい。
 ダレスバックにしまっていた写真、そして『お疲れさまです』と書かれたメモを出した。向かい合ったデスクの間仕切りとしてある背の低いボードに、マップピンでそれを留めた。
 女々しかろうと、これがおれの気持ちだ。
 そうけじめがついて、一年の予定が長引くことのないように、一度も日本に帰ることなくがむしゃらに仕事に身を入れた。与えられた部下をフルに使い回し、培ってきた人脈を伝手(つて)に営業ルートを拡大して指針を定めた。彼女が成人式を迎える頃、正式に配属された後任者が来て、引き継ぎも(こと)のほかスムーズに終わった。

 そして週末の三月十九日、日本に帰った。
 週明け、各方面への報告に追われるなか、家に来てほしいという淳介からの招待。
 日本の感覚をようやく取り戻した木曜日、水辺家を訪ねたのは匠だけで、いったんはリビングに通されたものの、まもなく佐織から奥の部屋に案内された。
 あらたまってなんだ? 仕事のことか?
 淳介に呼びつけられ、動揺しなかったわけではない。当然、水辺家を訪ねるということは彼女に会うことになる。ただ迷いはなかった。
 が、この格式張った和室に彼女がいるとは思わなかった。一年ぶりに見た彼女は、着物のせいか写真より大人びた。
 想像していなかった場面に対処しきれず、匠はつい癖が戻って自制した。
 日本に帰ったらこうしようという明確な目途(めど)があったわけではない。彼女はまだ二十才になったばかりであり、急がなくてもただ成り行きに任せることからと、漠然と思っていた。
 それが――。
「うちの娘をもらってくれないか」
 一瞬、脳がショートした。淳介から彼女へと視線を移す。顔を赤くして困惑している。
「結婚、ということですか」
 成り行きが結婚か? そう自分に疑問を投げながら淳介に確認を取った。淳介の返事もろくに聞こえない。
「いいですよ。段取りはお任せします」
 いま返事したのはだれだ? そう思ったほど、匠は無意識で承諾していた。
 ふたり残されたあと、彼女は明らかに困り果てている。その様子から彼女にとっても突然の話に違いなく。
 何から始めていいのかわからない。違う。結婚という形から始めればいい。
 彼女の意思も尊重しなければならない。まずは率直に伝えることからと思った。
「おれは嫌われているようだし、だから、無理強いは――」
 無理強いはしない。いま、結婚は断られてもいい。ただ、付き合っていけたらと思ってる。
 そう続けようとした言葉は彼女にさえぎられた。
「違います! 嫌いじゃありません!」
 返ってきたのは思わぬ言葉。

 それなら。
 握りしめた手に匠は宣言する。
 覚悟できた。



 その覚悟が甘かったことはもう云うまでもない。
 結婚は野生動物じみたテリトリー意識を強くした。
 手を取った瞬間から、優歌は驚くほど急速に応えてくれるようになり、伴って匠に対して無防備になった。病は重篤(じゅうとく)へと深度を増す。
 匠に気を許したぶん、優歌は本来の素直さを曝しだし、自立心まで引きだした。
 喜ぶべきことなんだろうが、手放しでは喜べない。優歌はだれのまえでも自分を隠さなくなった。
――ホントのところどう思ってるんですか。
 その質問に答えたのは理性の飛んだ、まさに野生動物のような行動だ。
 領域は絶対に侵させない。
 その感情任せの行為は優歌に負担を強いて、匠は自分を苦しめることになった。
 怖いと云った優歌。当然だ。
 一緒にいられるだけでいい、できるなら閉じこめたい。
 外敵からだけではなく、そういう自分からも守らなければならない。
 優歌の尊厳を無視して傷つけて壊して、その果てに自分が壊れることを怖れるおれは、ずっとそうやっていくんだろう。



 優歌の出産に立ち会った午後、会社では淡々と時間が流れた。その実、課長も課長秘書からもそわそわとした空気が微妙に伝わってくる。
 たしかにビッグビジネスの成立には匠も高揚感を覚える。ただ、今日はそれよりも早く帰りたいかもしれない。もう外は真っ暗だ。
 情けないな。
 匠が内心でつぶやいたとき、電話の内線コールが響いた。
 待っていた、部長クラスが集まった重役室からのコールだ。課長のデスクのすぐ脇に立った秘書は抑えた声で応じると、課長に受話器を渡した。電話が終わったとたん、その顔が満面の笑みに変わった。
「よし! 開発権は落札した。日本の権益は六割だぞ!」
「やりましたね! ようやく我々の辛労も報われました。ここからまた業平がどれだけ貢献できるか、ですね」
 課長に続いて秘書も興奮混じりだ。
「イラクは政情が不安なところですが、その辺りでも貢献できれば、国内外で業平の影響力は相当なものになります」
 匠は至って冷静に云い、課長は奇妙な眼差しを向けた。
「上戸くん、きみは動じることがないのかね」
「これでも動じてます。今日のところ、企画課ではもう何もできることありませんし、あとは広報部に任せて帰りませんか」
 匠がいかにもあっさり促すと、課長はそこに真意を聴き取って呆れたように大きくため息をついた。
「きみといるとせっかくの満足感がいつも半減する。まあ結果的にはそれが判断ミスを防ぐことになってるんだが。何はともあれ、きみにとっては二重に悦ばしい日のはずだ。早く帰りたまえ。きみの奥さんには敬服するよ。唯一、きみを人間に見せてくれる」
 匠は苦笑いをした。
「いくら上司でも失礼千万です。また気分が盛りあがるように、今日はお二人で内祝いでもされたらどうです?」
 匠の提案に課長はころりとその気になり、そうだな、とつぶやいてさっそく秘書に、どうだ、と訊ねている。即、二人は投合すると、匠を残してさっさと帰った。

 匠も立ちあがる。飲みかけの缶コーヒーを、デスクに置きっぱなしにしている賞味期限切れの缶コーヒーに当てた。
「乾杯」
 匠はため息混じりに笑う。
 動じてないわけではない。むしろ、動じることばかりだ。
 コーヒーを飲み干し、空き缶をごみ箱に捨てて業平をあとにした。



 病室のスライドドアをそっと開けて中に入った。六畳ほどの個室はひっそりとしている。お手洗いと洗面所の間を抜けて奥に進んだ。壁につけられた広めのベッドには手前に優歌、そして奥に生まれたばかりの息子が眠っている。
 匠はその姿を眺めながら、あらためて安堵を覚えた。やっと今日のことが自分の中で収拾されていく。


 異変は夜中の三時頃だった。
 優歌は実家に帰らないまま、出産予定日も過ぎていた。
 眠っていながらかすかに身を(よじ)る優歌に気づいて匠は躰を起こした。優歌も続いて目を覚ます。半ば予想がつきながらも、どうした、と匠が訊ねると、優歌はただうなずくような素振りを見せた。しばらく黙って様子を見ていると、優歌の躰が強張る。
 陣痛かも、と云う優歌に内心の動揺を見せるわけにもいかず、匠はまた様子を見守った。定期的に痛みがあることを知ると、病院への連絡から始めて出かける支度をした。
 トイレに入った優歌が、少し破水したみたい、と云いながら出てきたとき、たぶん慌てたのは優歌より匠だ。もちろん、動転しているのを見せる匠ではない。
 病院で佐織と合流した。陣痛が増す間に夜が明け、分娩室に入ったのは九時過ぎだ。
 体力的なことから帝王切開を考えていた匠の意に反して、優歌は検討する気もなく、普通に産みたい、と云い張った。譲歩したかわりに優歌が渋った立ち会い出産を強行突破したまではよかったが、悲鳴を押し殺して苦しむ優歌を見ると匠は自分を責めた。
 なんで男じゃなくて女が産むんだ? というまるで無駄で馬鹿げたことを疑問に思った。
 歯を喰いしばって呻く陣痛の合間に、匠さん仕事に行かなくちゃ、と云う優歌は匠の心中が間抜けに思えるほど冷静だ。優歌が本気で云ったのかどうかはともかく、出社したとしても仕事にならないことはわかっている。
 追っ払おうったって無理だ。
 そう答えると、優歌は可笑しそうにした。
 それから十時五分、生まれた瞬間、力尽きたように優歌が(あえ)ぐなか、匠は自分が何を思ったのかよく覚えていない。
 匠さん、大丈夫ですか。
 傍から見れば、立場が逆だろうというようなセリフだ。抑制ができずに曝している匠への忠告なんだろう。
 だらしないことに、優歌の満足そうな笑顔が匠を安心させた。


 いま、ベッドの傍に椅子を寄せてずっと見守っていると、時折、眠ったままで息子が笑う。どっちに似ているんだろう。そう思いながら二人の顔を見比べているうちに優歌が目を覚ました。
「匠さん、来てたんですか」
「ああ」
「声かけてくれれば――」
「きつくないか」
 さえぎった匠に優歌が手を伸ばす。陣痛に耐えるとき驚くほどの力を見せたその手をつかんだ。
「普通じゃないけど大丈夫ですよ? じゃなければ母子同室の許可は下りません。匠さんは仕事大丈夫でしたか」
「うまくいった。来年はイラクに行くこと――」
「わたしも行きます!」
 優歌は匠の手を強く握りしめながら勢いこんだ。どうやら転勤と思ったらしいと気づく。
「そうじゃなくて、出張することがあるかもってだけだ。第一、向こうは危ない。赴任するとしても連れて行くわけない」
「即行でだめって酷いです」
「この場合、だれが聞いたって酷いって云うほうが酷い」
 そのまま返した。仕事にならない。匠は内心でぼやいた。
 優歌はちょっと口を尖らせ、匠は反射的に立ちあがるとかがんでそのくちびるに口づけた。
 その瞬間を狙ったように息子が小さく泣く。
「オムツと……食事」
 無言で問うように見下ろした匠に優歌が答えた。あとの『食事』はちょっと照れているようだ。
 優歌が起きあがるのを手伝って世話するのを見守った。オムツに出た黒っぽい便に驚いていると、最初はこうなんですよ、と優歌は手馴れた様子だ。子育てに関する限り、知識も技術も優歌のほうが上で、匠が口を挟む隙はない。
 手を洗ったあと、優歌は息子を抱いて戸惑うように匠を見上げた。
「何?」
「あの……おっぱいあげるんですけど」
「見たらだめなのか?」
「なんだか……恥ずかしくありませんか」
「おれが?」
「いえ……たぶんわたしが、です」
 匠が首をちょっとひねって促すと、優歌はあきらめたようにため息をついておずおずと胸を曝した。本能的に“食事”にありつく息子を見ていると、漠然と三人になったことに偉大さを感じる。
「どうですか?」
「もう片方空いてるなって思う」
 息子相手に若干の妬みを覚えなくもない。つい出た匠の本音に優歌はくすくすと笑った。



 ちょっと不公平だ。そう思いながら、一日を繰り返すたびに三人であることに慣れていった。繰り返すというよりは重ねているといったほうが正しい。腕に抱く息子もだんだんと重さを増していく。
湊真(そうま)、寝ました?」
 夕刻の冷たい海風のなか、子供みたいに貝殻を拾っていた優歌が立ちあがった。
 二才の誕生日からちょっと遅れた二十四日、寒くないとは云えないが天気は良く、午後から湊真の好きな海で過ごした。太陽が沈みかけて帰ろうとすると、まだ帰りたくないと主張するように湊真は泣きだした。根負けして付き合っていたが、抱っこだ、と手を差しだすと素直にやってきて程なく眠りについた。
「ああ。帰ろう。風邪を引く」
「はい」
 優歌はしばらく匠たちをじっと見て、それから波打ち際から近づいてくると匠を見上げた。
「匠さん」
「何?」
 匠が応じると優歌はためらうようにほんの少し首を傾けた。
「二人目、欲しくありませんか」
 一瞬、言葉を失くした。
 湊真が生まれてから一年目、寝不足から体調を崩して倒れること二回、寝こむこと一回。妊娠中も好調とはいかなかった。それなのにまったく懲りていないらしい。
 おれのことも考えてくれ。
 そう云うかわりに匠はなんとかごまかそうと試みる。
「優歌は自分で思ってるほど弱くない。おれより強いんじゃないか。躰もそれくらい強いといいけどな」
「はい。今年は強かったですよね? 体調管理は頑張ってます。まだ風邪ひいてませんから。匠さん、日本の人口を増やせないとしても減らしちゃったら湊真もかわいそうだし、もう一人くらい、匠さん似の男の子が欲しいです」
 今度は愛国精神まで持ちだしての宣言だ。

 準備はいりません、と云った結婚初夜。
 匠さんが好き、と云った、おそらく形勢逆転したあの日。
 そしていま。
 優歌は匠の意思をあっけらかんとして(くつがえ)そうとする。
 どこかで意思疎通が成っていない気がする不公平感に匠は顔をしかめた。
 気持ちは底なしで強くなっていく。想いが増せば増していくほど、大事にすればするほど損な気分だ。
 だが一つだけ、お相子(あいこ)だ、ということはある。
 優歌の財布に潜んだ名刺。
 指輪を失くして熱を出した日、診察カードが入った財布のポケットに見つけた。
 それが優歌の始まりだったとするなら。
 かろうじて理性を保持できる、傍にいてくれるだけで充分だという自分のための気持ちとは裏腹に、同じくらい愛してほしいという匠の矛盾したわがままな気持ちも救われる。

「わたしが強いって見えるのは匠さんが守ってくれてるからですよ。だから何があってもどうにかなります、きっと」
 優歌は強張った匠の顔を覗きこむ。
 優歌を守らなければならないのは、外敵からでもなく匠からでもなく、優歌自身からなのかもしれない。
 匠は大きくため息をついた。
「クリスマスプレゼントが欲しいらしいな」
「はい!」
 欲しいと駄々をこねるあたり湊真と一緒で子供だな、と暗に皮肉ったつもりが優歌は素直に受け取った。
 またため息をついたのもつかの間、匠は優歌の笑顔にキスを仕向けられた。
 優歌に手を貸すことが少なくなったいま、匠にとっては妊娠という口実ができるのもたしか。優歌が願った以上、かまいすぎても文句は云わせない。
「来年は四人ですね?」
 優歌の期待に満ちた問いかけに匠は笑った。それは確約したのも同じことだ。

 湊真を抱きなおして歩きだすと、優歌が匠のジャンパーをつかむ。
 愛してる。
 また曝しているんだろう。
 怖いと云うかわりに、見下ろした優歌の顔に笑みが広がった。

 − The Conclusion. Many thanks for reading.

BACKDOOR

あとがき
2009.12.25.【最愛-優恋歌-】完結/推敲校正済
サイトの開設から3年、本格稼働から2年、移転0年を記念して、原点に返った作品
とにかく大事に愛されてみたい、という願いを込めて。
拘ったのは「恋う」ということ。英語圏と違って「愛」とは別の言葉としてあることに日本語はやっぱり好きだなぁ、と。「愛する」よりも「恋う」のほうが男女の恋愛には深さを感じます。
それを「愛」という言葉で表すなら音の響き的にも「最愛」
優しく恋う歌。そんな物語として心の隅に残していただければ幸です。
奏井れゆな 深謝

Photo owned by 純愛ジュール.