最愛−優恋歌−

章−優恋歌− 9


 優歌は佐織に付き添われ、匠の運転で病院へ行った。
 血液検査をして貧血の診断が下り、若干の脱水と体重が二キロ落ちたことで優歌は点滴を余儀なくされた。処置室はいっぱいで、車椅子に乗って空いた病室に通されると、看護士は手際よく優歌の腕に注射針を刺し、点滴を調整して出ていった。佐織は優歌が落ち着いたのを見届けてからいったん家に帰った。

 病室が一気に静かになる。
 額に匠の右手が触れ、優歌は目を開けた。匠の左手は優歌の投げだした右手を握っている。それは結婚した翌日のことを思いださせた。あのときも自分が嫌になったけれど、いまはもっと(みじ)めだ。
「どうした? 大丈夫だ」
 何を大丈夫と云ったのか、匠は額に置いた手を滑らせて、優歌の濡れたこめかみを(ぬぐ)った。
「匠さん……怖い、って違うの。匠さんが好き。すごく好きで、だから匠さんにも好きになってもらいたかった。わたしが勝手に赤ちゃんを欲しがって、妊娠して匠さんは……触れてくれなくて……避妊してたし、子供は欲しくなかったのかなって……」
 匠の顔が(にじ)んで見え、優歌は(まばた)きして視界を晴らした。匠の表情は無ではないまでも複雑に揺れて不透明だ。
 匠はやがてふっと息を漏らして笑った。
「おれは云ったんだよな。結婚から始まるのもいいって。始めたらどこかでいったんは落着させるべきだった。優歌が怖がるまでもない。たぶん、優歌の“好き”よりおれのほうが重篤(じゅうとく)で、少なくとも優歌より早く、おれのほうがそういう気持ちを持っていたことはたしかだ」
 優美からもらった可能性は望み以上に返ってきて、優歌は大きく目を開いた。
「匠さん?」
「子供のことは欲しくないわけじゃなくて、うれしいと思えるほど余裕がないだけだ。第一、子供ができたのは優歌のせいじゃない。おれが勝手に避妊してた以上、おれのせいだ」
「余裕がないって匠さんが?」
「結婚するまで子供のことはできたらできたでうれしいだろうなって思ってたし、できなかったらできなかったでいいと考えていた。けど結婚した次の日、優歌の漠然としてた躰の弱さを目の前にして、おれは自覚したんだ。避妊してたのは、まず優歌のペースをつかみたかったからだ。優歌のためってきれいに云うなら守りたかった。おれのためを云えば子供はいらないと思っていた」

 あの日に優歌が倒れたことは、挽回できなかったどころか匠の考えを変えてしまっていた。優歌が憂慮しなければならない気持ちなんて匠の中にはない。
 近づくにつれて柔らかくなった瞳は、いままた冷たく見せている。けれど違った。間近にある瞳。そのずっと冷たいと思っていた瞳は、いまみたいに炎熱を消火しきれないまま(くす)ぶっていたのかもしれない。

「きっと……匠さんが思いこんでるほど弱くないです」
 まごついている優歌を見て、匠は力なく笑った。
「そうあってほしい。優歌に先を越されておれはいいとこなしだな。正直に云えば……セーヴが利かなくなる気がして曝したくなかったってのもある。おれのほうが弱くて臆病だ。優歌に干渉しすぎてることはわかってるんだ。結婚してから病的ないくらい気持ちが強くなって収拾がつかなくなってる。こうなることは予想ついて、それでずっとセーヴしてきた。そういう自分に当惑してたし、距離を取ろうとして優歌には冷たく見えていたのかもしれない。高校んとき、美里とのことではじめて恋愛ってことを考えたけど、優歌と会うまでこういう気持ちは経験がなかった」
 恋愛を考える、というのが匠らしい。優歌が可笑しそうにすると、匠は顔をしかめた。
 その表情が知りたかった匠の本心を優歌に見せた。そこには匠自身が不本意に思うほどの、優歌への忠実な気持ちがあった。
「結婚も考えました?」
「考えてない。というより、考えられないで即断したかもしれない」
 曖昧な云い方は匠の体裁の悪さを示していて、優歌は小さく笑った。匠は降参したようにため息をつく。

「美里と先に進めなかったのは――情欲がないわけじゃなくて、欲自体は人並みに持ってる。けど、意味なくやってもまさに意味がない。隙を曝すことになるし、どうしてもやりたいんなら、独りでやったほうがマシだって思ってた。美里はああだったし、それでも先に進まなかったことで周りの奴からは固いって云われて、自分の考えに疑いを持った。それで、自分に逆らってみたのが大学んときだ。来るもの拒まずってやつ。つまり、まえの美里と同じことをやった。いや、それよりもっと酷かったな」
「……ホントですか?」
 優歌が信じられないという口調で(ただ)すと、匠は苦笑いをした。
「金城に訊いてみるといい。まず、大学時代のおれしか知らない奴におれのことを訊いたら、“いいかげんな奴”としか云わない。優歌にはそういう邪心がないし、だからおれは相応(ふさわ)しくないという思いもあって、一定のラインから近づかなかった。実際、結婚の話があってから、優歌に信じられれば信じられるほど(やま)しくなった」
「匠さん、違います。匠さんも悩んだりすることあるんだって安心しました」
 そう云ったら、匠は声を出して短く笑った。

「たぶん、おれは自分が怖いんだ。優歌の“好き”は、かろうじて残ってるセーヴを解きそうだ。一緒に暮らせることで充分すぎるし、もう云わないでくれ。わかったから」
「匠さんて生真面目だし、変わってます」
 匠の言葉は身に過ぎて、ただうれしい。そう思いながら優歌がからかうと、匠はめずらしく目を逸らして自嘲めいた。それは匠が本気で危惧していることを示す。
「かまいすぎて優歌をがんじがらめにするかもしれない」
「大丈夫です。かまわれて育ってきたから――お姉ちゃんが云うにはかまわれすぎだそうですけど、だから、わたしはどれだけかまわれても耐えられると思います」
 匠は優歌の手を心持ち強く握って椅子から立ちあがると、ベッドに腰を引っかけた。
「優歌に触れなかったのは、欲は自制できても生理的反応を抑えきれなくて優歌を困らせると思ったから」
「わたしは別に困りません。先に進んでもかまわ――」
「最初からそうだ。そういうとこは大胆なくせに、いまだに壊せない領域があるってなんだろうな? 大胆じゃなくてそれも素直さなのか?」
 匠は優歌をさえぎって自らに問いかけた。それからため息をつく。
「触れていいんなら望むところだ。けど大事な時期だし、頼むから、それから先はしばらく守らせてくれ」
 そう云うと、匠はキスのかわりに右手の甲を優歌のくちびるにつけた。儀式みたいなしぐさに、匠の手の下で優歌は笑った。


「お邪魔していいかな」
 突然、声がしたと思ったら、匠の手の向こうに石川の顔が見えた。
「一年たっても相変わらず仲が良くて何よりだ」
 石川が冷やかすと、匠は静かに笑ってベッドからおりた。
「一年で冷めるほど軽い気持ちになれたら、と思いますよ」
「それは、切実、ということかな」
「そのつもりですが」
「たしかに」
 匠と石川のやり取りは、優歌にはよくわからなかったけれど、いつの間に、というほどふたりがごく親しい間柄になっていることは感じ取れた。匠が退くと同時に石川が優歌のベッド脇に来た。
「今日は当直ですか」
「そうだよ。貧血に痩せすぎと聞いた。食べられないんなら面倒でも病院に来ることだ。貧血は胎児にも出産するときにも悪影響だ。子供を産むからには母親として自覚が必要だろう?」
「はい」
「まったく。妊娠について根掘り葉掘り訊いてきたわりに、匠くんは何やってたんだろうね」
 石川はさっきまでの表情と一転して、不満げに顎をさすりながら目を細めて匠を見やった。
「優歌に振り回されてました」
「匠さん!」
 優歌が悲鳴じみて呼びかけると匠は肩をすくめ、石川は愉快そうに匠から優歌に視線を戻した。
「ほう、優歌ちゃんもなかなかのもんだ」
「そんなことしてません」
「家出した」
 匠が云うと石川は笑いだした。優歌はばつが悪く、足もとに立っている匠を責めるように見てかすかにくちびるを尖らせた。
「匠さん、もういいです。それより、根掘り葉掘りって……?」
 匠に問うと答えたくなさそうに首をすくめ、そのかわりに石川が口を挟んだ。
「聞いてないのかな? 優歌ちゃんが妊娠したとわかって、報酬外でかなり相談を受けたな。僕も久しぶりに産科の専門書を(あさ)った」
 口煩くなった情報源が石川だったことに驚きつつ匠に目をやると、ため息をつきながら首を傾けた。
「先生、匠さんは先生より融通が利きません」
「そう案じることはないと云ったんだがね。母子が健康であることと医療従事者がそろっていれば出産のリスクは低い。医療従事者の点でうちは合格点だ。あとは優歌ちゃんが赤ちゃんにしっかり栄養を与えてあげることだ」
「はい」
「子供ができたことで体質が変わることもある。子育ては大らかにやったほうがいい。妊娠した時点で子育てはもう始まってるらしいからな」
 そう云い残して石川は病室を出ていった。
「だそうです、匠さん」
「努力する」
 またベッドの傍に来た匠は、優歌の手を取りながら肩をそびやかした。


 点滴が終わる頃に佐織が戻ってきて、匠は精算をしに行った。
「荷物、取ってきたけど、ほんとに大丈夫なの?」
「うん」
「急に家に戻るって云ったときからおかしいとは思ってたけど。いまのあなたたちの様子を見る限りじゃ、解決したようね?」
「バカげたことを考えちゃっただけ。さっき匠さんと話して大事なことがわかったの。心配かけてごめん。これからはちゃんとするから」
「何を悩んでたのか知らないけど、匠さんに申し訳ないったら。母親になるんでしょ。匠さんは間違いないんだからしっかりしてちょうだい」
 佐織のへんに断言した言葉を聞いて優歌は考えた。
「お母さん、間違いないって何?」
「優歌を安心して任せられるってこと。丸く収まったようだし、云う必要もないのかもしれないけど。お父さんが優歌と匠さんの結婚を考え始めたのは、匠さんに関して証拠をつかんだからなの」
 佐織の物々しい云い方に優歌は眉をひそめた。
「証拠?」
「お母さんも詳しくは知らないけど、お父さん、匠さんがいる中国に巡視に行ったじゃない? それからすぐ結婚のことを云いだしたのよね。ハロウィンパーティは大成功だったな、って漏らしてたわ」
 佐織は首をかしげながら云った。

 ハロウィンパーティといえば短大生になった年、一度しかやった覚えがない。佐織が気紛れに云いだして、淳介の部下たちを呼んで仮装パーティをやったのだ。優歌も無理やりシスター服を着せられた。匠は吸血鬼で、まさに“そのもの”だった。

「お父さんから相談受けて、お母さんも勧めたことは云ったわよね。最初からだったわ。優歌は匠さんを見て、匠さんと目が合うと逸れちゃうけど、そのかわり匠さんが優歌を追ってる。匠さんの目が逸れると優歌がまた見てる。それの繰り返し。匠さんはなぜか動こうとしなかった。いずれは動いたんだろうけど、せっかくお父さんが云いだしたことだし、優歌の性格を考えて、いろんなことで右往左往するよりは結婚させちゃったほうがって思ったの」
 優美が指摘したように、優歌にはお膳立てづくしだ。不甲斐ないとしか云い様がないけれど、とても優歌から動けなかったという佐織の推察に反論はできない。
 そして匠もまた、距離を取ろうとしていたのだから、その性格上、ふたりは平行線のままだったかもしれない。もしくはあの高校二年生だった春を交差点にしてどんどん離れていくだけだったのかもしれない。
「お母さん、いまはホントにそうしてもらってよかったって思ってる。ありがとう。お父さんにもそう云ってくれる?」
「あら、そう伝えたらまた拗ねちゃうかもね」

 よかった。
 そうじゃなかったら、と考えることすら苦しいくらい、優歌は心底からそう思った。



 一悶着が解決した日から二週間を過ぎた六月二十日、結婚して一年を迎えた。
 気持ちが落ち着いたことともうすぐ安定期に入ることで、優歌の悪阻も軽くなってきた。もう一つの体調変化で、どんなに夜眠っていても不意打ちで眠くなるのは続いている。
 ふと風を感じると同時に躰が柔らかいものに包まれ、優歌は目を開けた。匠が出かけている間に、いつのまにかソファの上で眠っていたらしい。横向きになった優歌のすぐ傍で匠がかがんでいる。
 壁時計を確認すると、匠が出かけてから二時間近くたっていた。外を見れば梅雨に入った空から雨が落ちている。

「いくら寒くないっていってもタオルケットくらい必要だろ」
 いつものように匠は小言を口にした。
「取りにいくのが面倒なくらい眠かったんです、きっと」
 優歌が他人事みたいに云うと、匠はしようがないなというように首を傾けた。そしてパンフレットみたいなものを何冊か優歌に差しだした。
「ケーキ買うだけなのに遅かったですね?」
 優歌は訊ねながら起きあがって、匠からパンフレットを受け取った。何かと思えば車が表紙になったカタログみたいだ。
「車、買おうかと思ってる。子供が生まれたら、出かけるには車のほうがラクだろ」
 カタログを開きかけた優歌の手が止まる。
 生まれたら。
 匠がはじめて口にした子供がいる未来。
「はい!」
 優歌が勢いこんで返事をしながら笑うと、くちびるに匠の右手の甲が触れた。それがくちびるに変わるのももうすぐかもしれない。
 優歌は離れようとした手を捕まえる。匠は床に座りこみ、片方の手を繋いだまま、優歌の膝の上に置いたカタログをふたりで眺めた。
「わたしも免許取ります」
「冗談はやめてくれ」
 優歌は真剣に云ったつもりが、匠は顔をしかめて一蹴(いっしゅう)した。
 匠は小さく笑った優歌を目を細めて見上げ、何かを――たぶん、欲求を振り払うようにかすかに首を振った。


 互いに気持ちを曝したいま、手加減する自信がないと云う匠は、優歌が眠ってしまったあとにしかベッドに入ってくることはない。優歌は朝目覚めてから、夜の間抱きしめていてくれたことを知る。
 掠めるキスさえ控えてしまったことと、三月のあの日に見せた欲情との落差は優歌を戸惑わせるけれど、不安に思うことはない。
 驚いているのは、言葉にはならなくても匠から“好き”という激情が時折感じられること。さながら、極上の血に誘惑されて我を忘れた吸血鬼、といったところだろうか。
 匠は自分でも曝していることに気づいているらしく、エスカレートしそうなときは怖いと教えてほしい、と云ったときは、優歌がちゃかせないくらい深刻な顔をしていた。
 思い返してみれば、ハロウィンパーティで普段にないほどふたりが近づいたときがあって、そこで見せた一瞬の眼差しはいまの激情と似ている。あのときは仮装が仮装だっただけに、ひんやり感と眼差しがセットになって怖いと思った。いまになると、それはすでに匠の中に優歌に対する気持ちがあったという証拠でもある。
 匠はおそらく優歌の“好き”を結婚してからだと思って、好きになったのは自分が早いと断言した。
 優歌ちゃんに特別好きな奴がいなければ――。
 その実、優歌は一目惚れだったわけで、その言葉はまるっきり的外れだ。優歌はその時点ですでに匠のことが特別だった。だから断然、優歌のほうが好きの時間は長い。自覚したのは遅いけれど。
 一先(ひとま)ず、好きの長さも、匠の激情も優歌にとっては問題にすることではない。
 抑制を解いたらどうなるんだろう、という好奇心はあるけれど、いくらかまわれるのに慣れているとはいえ、全部を許してしまえば際限ない気もする。それよりはいまの心地よさに浸っているほうが、互いにとってちょうどいいのかもしれない。
 匠に特別に通じているらしい優歌の極上の血、ならぬ魅力は、年を重ねるごとに褪せていくかもしれないし、そうなったら、好き、とつぶやくことからはじめて抑制を解いてみよう。
 普段すまして見える匠からはちょっと想像できない、怖いというほどの気持ち。
 いまは言葉にできない『好き』のかわりに優歌は繋いだ匠の手に囁く。


 歩いていけるよ。
 一年前の今日、手と手を重ねて誓ったように、何があっても。
 その心が傍にあるなら。
 一緒に、ずっと、ね。

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