最愛−優恋歌−
章−優恋歌− 8
匠の声は平然として聞こえた。ここでも匠のことがわからない。
優歌は自分にとって都合のいい匠を勝手につくりあげていたんだろうか。近づいて、好きになって、大事に扱ってくれて、結婚をしたのだからそれで充分なはず。けれど欲張ってしまった。匠のことをもっと知りたい。違う、そうじゃなくて匠のたしかな気持ちが欲しいと思った。
怖いのはすれ違うこと。
匠が結婚を投げだすとは思わない。けれど、匠が納得しないままに子供を産んでしまってそのあと、終わりだ、と区切りをつけたらどうすればいいんだろう。取り戻せる条件なんて見当もつかない。
わけのわからない凝りを残した優歌の一言が、隣同士に座っているというのに互いを遠く隔ててしまい、何一つ会話はなくなった。
そのほろ苦さを緩和しているのは公園で遊ぶ子供たちの歓声だ。母親だろうと思われる三人の女性は遠巻きに子供たちを見守りながら、話に沸いて時折笑い声が広がる。小さな躰だから手狭な公園もだだっ広く見えるのだろうか、子供たちは奔放に駆け回っている。
そのなかでいちばん小さな男の子の足もとは危なっかしく、保育助手の仕事で慣れているとはいえ、優歌はハラハラしながら見守った。ずっと目で追っていると、男の子はほんの近くで転んだ。持っていたボールが手を離れて転がる。
優歌より早く匠が立った。匠は男の子にかまわず、さきにボールを拾って男の子が起きあがるのを待った。
「えらいな」
匠は自分で立ちあがった男の子に声をかけた。すると泣きそうに歪んだ表情は一瞬にして笑顔にかわり、男の子はボールを受け取るとまた駆けだした。
匠の扱いは申し分なく、きっといい父親になれるはずだ。子供が嫌いなら、テリトリー外のことだし、知らないふりでかまわないだろうにそうしなかった。
優歌のうれしさと隔たって、喜べずにいる匠の理由はもっと違うところにあって、優歌は一方的に蟠りを感じているだけなんだろうか。
優歌は今度、自分に疑いを持つ。違う怖さが現れた。
「帰ろう」
優歌が顔を上げようとしたところへ匠が声をかけた。来るときと同じで優歌から繋ぐことはないと思っているのだろう、匠はゆっくりと立ちあがった優歌の手を取った。
家に着くまで優歌は何度も口を開きかける。が、結局は何を云ってもうまく伝わらない気がして云いだせなかった。
匠は玄関の前まで来ると、いったん立ち止まった。何かを決断したようにみえる。
「おれは優歌にプレッシャーをかけているのかもしれない。ちょっと距離を置いたほうがいいんだろうな」
匠がどう考えてどう結論づけたのか、つぶやいた声からは読み取れない。優歌はただ心細くなり、玄関を開くと同時に匠が繋いだ手を離すと、見放された気がした。
リビングでそろって和気あいあいと進む会話は苦しい。いままでは無理やりに匠が会話のなかに引きこむから、かまわないでほしいと思っていたのに、いざ声をかけてくれないいま、優歌はほっとしていいはずが滅入って居たたまれなくなった。
お手洗いにでも立ったのだろうと思わせられるように、できるだけさり気なさを装って優歌はリビングを出た。
二階の部屋に行くとベッドに力なく座り、優歌は顔を深くうつむけた。ため息も出ないくらいに後悔した。
あるもので満足できないほどわがままで子供っぽくて、いつまでも大人になれないいじけた自分が嫌になる。匠の気持ちを惹きつけるものはどこにもなくて、反対にますます遠ざけてしまった。
「優歌、入るよ」
優美の声がして、優歌の返事を待たずにドアが開いた。
「どういうこと?」
優歌の陰にこもった表情を見て優美はひどく顔をしかめ、詰るように問いかけた。
「ごめん」
「謝るのはわたしにじゃないでしょ。どうしたの?」
幾分か柔らかい口調で優美は質問を重ねた。
「わからなくなって……」
「何がわからないわけ?」
「子供ができてうれしかった。でも匠さんは……」
そこで優歌が云い淀むと、優美はしばらく眉をひそめて黙った。
「匠さんが喜んでないって云うの? それくらいのこと。子供は独りじゃできないでしょ。匠さんは無責任に投げだす人じゃないし、覚悟はあったはずよ。優歌は贅沢。喜んでないとしても、あんなに大事にされてるのに何が不服なわけ? 仮に欲しくなかったとして、そういう場合、普通の男はほったらかしにするんだよ」
「わかってる。お父さんが結婚を勧めてから、匠さんはやさしくて、いつもわたしのことを考えてくれる。それが完璧すぎて、無理してそうしようとしてるように見えて、匠さんのことがわからなくなって……。わたし、こんなだし、いいところ全然ないし、匠さんが望まない子供を産んでしまって、匠さんはいつかうんざりするかもって……」
優美は呆れきって大げさすぎるほど深くため息をついた。
「マタニティブルーだかなんだか知らないけど、いま優歌が云ったことはわたしからすればお惚気でしかないんだよね」
優美に云われると、後悔と相俟って、優歌は自分でも馬鹿馬鹿しいくらいちっぽけで愚かな思考力だと思った。
「……匠さんが怖い、って云ったの」
「もう! ちょっとはマシになったと思ったのに。そう優歌に云われて、匠さんがなんともないって思ってるの?」
「後悔してる」
「じゃあ、ちゃんと匠さんに伝えるべき。そのぶんじゃ、好きってことも云えてないみたいだし。わたしに告白するんじゃなくて匠さんに告白しなくちゃ。結婚ていう保証があってもなんにもならないって……」
優美は信じられないとばかりに首を振って、優歌の横に座った。
「恋愛経験ゼロじゃあね。優歌はいろんなこと飛びこえちゃって結婚したからいまが恋愛修行中なのかな。云ったでしょ。わたしが匠さんを見て、匠さんが何を見てたのか」
「何を見てたの?」
「優歌、だよ」
思わず優歌は顔を上げ、目を丸くして優美を見つめた。
「匠さんはね、優歌が視界の中にいるとずっと追ってたんだよ。いくら優歌でも、その意味はわかるよね?」
「だって匠さんはいつも……」
「お父さんが知ってたのかはわからないけど、お母さんは知ってる。だから、結婚を勧めたんだよ。優歌が匠さんを苦手にしていたのは知ってたし、わたしが匠さんの眼中にないことも知ってたけど、結婚の話が出るまえからダメでもともとでも告白するつもりだった。それなのに、ダメじゃない優歌がなんでそんなふうに考えるのか理解できないし、わたしには贅沢にしか見えない」
優歌は優美に云われたことを考え巡った。
優歌に、云ってほしい、と願う匠に非なんてやっぱりない。応えよう、ではなくて、応えたい、と思っているのかもしれない。
「わたし、匠さんに酷いこと……」
「このままにしたくないでしょ。だったら無駄に自己卑下してないで、自分で解決することね。いまの優歌はまえの優歌そのまんま。つまり、いま以上に悪くなることはないくらい酷いんだし、匠さんはそういう優歌を見てたんだし、うんざりするかもって怖がるのは、わたしからしたら今更何云ってんのって感じ」
「お姉ちゃん、酷い」
姉妹だけに指摘するときは遠慮がなく厳しい。
「ホントを云っただけ。優歌がそんななのはね、云いたいことどころか云うべきことを云えてないからに尽きる。だいたいが小さい頃からかまわれすぎなのよね。優歌が臆病なのはそのせいだとわたしは思ってる。云ったりやったりするまえにお膳立てされて、自分からは動けなくなって、そのぶん不満とかいろんなこと我慢してる。友だちの妹や弟と比べると、優歌はまず人前で泣かないし、異様なくらい駄々こねることなかったんだよね。そういう反抗期がないと思ってたら、今頃になって匠さんに反抗してる。結婚して仕事とか英会話とか自主的にやれるようになったんだから、自立もあと一歩でしょ。エールとして一つ教えてあげる。匠さんの専用デスク、小さな写真立てがあるのよね。人が来たり、席を空けるときは伏せちゃうらしいけど、わたし、一回だけ無理やり見せてもらったんだ。きれいな海を背景に優歌が映ってる。ニューカレドニアの写真じゃない? 無理してるって云うけど、そういう優歌に見えないところまで無理してやるかな」
優歌は本当に後悔した。馬鹿げた不安と自分に自信がないあまり、匠に八つ当たりした。自分の愚かさかげんには呆れるしかない。
「わたし、やっぱり、帰――」
「優歌、匠さん、帰るそうよ」
優歌をさえぎるように、階下から佐織が呼びかけた。
はっとして優歌は立ちあがった。
いつもなら帰るまえに寄ってくれるのに。匠がああ云ったからには本当に距離を置くつもりなのだろう。それは『終わりだ』に近い宣告に思えた。
「優歌! 普通じゃないんだからあわてないで!」
とっさに部屋を出た優歌の背後から優美が叫んだ。
優歌は警告にかまわず、階段を駆け下りる。
「匠さん、待って!」
優歌は階段をおりきって玄関のほうへと直角に折れ、匠を引き止めようと呼びかけた。とたん、視野が急に狭くなって躰のバランスが崩れる。
「優歌!」
二つの声が優歌の名を叫ぶ。優歌の躰は側面から壁にぶつかり、その拍子にしゃがみ込むと同時に両腕を取られた。
「優歌?」
匠の声は抑制されているけれど、心なしか動転したようにも聞こえる。顔を上げて閉じた目を開くと、優歌の視野はほとんどが黒く遮断され、匠の瞳で占領されている。
「目が……おかしくなってるだけ」
「貧血ね?」
佐織が訊ね、優歌は酷くなるのが怖くてゆっくりうなずいた。
淳介が足早にリビングから出てきた。
「どうしたんだ?」
「優歌が貧血起こしたの。ちゃんと食べないから!」
佐織は心配を通り超えて優歌を叱った。
「急に立ちあがったせいかも。階段転げちゃうかと思った。優歌にはいつまでたってもハラハラさせられる」
優歌のあとを追ってきた優美は、ため息をつきながら佐織のあとを継いだ。
「病院だ」
匠は険しい声で一言口にした。
「しばらくしたら――」
「行くんだ。ただでさえ独りの躰じゃない」
「……はい」
問答無用と匠は命令を下し、優歌は気落ちしながら答えた。
「車を出そう」
「ええ。先生に電話しておくわ」
淳介と佐織はリビングへと消えて、優美は、バッグ取ってきてあげるから、と二階に上がっていった。
「眩暈は?」
「大丈夫です」
匠は返事を聞いてから、負担をかけないようにゆっくりと優歌を抱えあげた。
「やっぱり声かけるべきだった。迷ったんだ」
優歌の頭の上で、匠は自分を責めてつぶやいた。
「匠さん」
「何?」
「家に……帰りたい」
「ああ」
匠は短く返事をしただけでどう思ったのかはわからない。ただ、まだ終わりじゃないことを教えるように、匠の腕はわずかに力を宿して優歌の躰を締めつけた。