最愛−優恋歌−

章−優恋歌− 7


 美里と譲は隙がなくうまくいっているようで、特に譲は最初に会ったときの身構えた感じが抜けて、美里を見ているときはなんとなく緩んでいる印象を受けた。帰り際、優歌はこっそり美里にそう云ってみた。
「子供ができてホントにうれしいみたいなの。譲が“かまって”くれるのはいまのうちかもね。優歌ちゃんを見習って、ちょっと頼りないふりしたらずっとかまってくれるかしら」
「そんなに頼りないですか?」
「冗談よ。それより優歌ちゃん、これからこんなふうに会ってくれる? 気取らなくていいし、そういう付き合いってはじめてなの」
「はい。わたしもいま周りに赤ちゃん産む人いなくて心細いから、さきに美里さんがいてくれると安心します」
「半年後には子供かぁ……まだおなかは出てないし、自分でも想像できないのよね」
 美里は微笑みながらため息混じりにつぶやいたあと、頑張りましょうね、と陽気に云って帰っていった。

「どうだった?」
 美里たちを送りだしたあと、リビングに戻りながら匠は訊ねた。
「美里さん、丸くなった感じです」
「いまから本当に丸々になるわけだし、そのうちふたりでそのへん転がってるんじゃないか」
「酷いです」
 優歌がむっつりとふくれると匠は片方だけ口の端を上げて笑った。
「訊きたいことはない?」
「え?」
「美里のこと。聞いたんだろ?」
「……質問するより、匠さんの云い分を聞きたい気がします」
 そう云った優歌を見て、匠は降参したふうに笑みを漏らした。
「優歌はときどき、びっくりするくらい賢明なときある」
「ときどき、ですか」
「賢明すぎるとおれが疲れるからときどきで充分だ」
 喜んでいいのか、優歌は少し複雑な気分で首をかしげた。
 優歌がキッチンへと片づけに入ると、匠は正面に来てカウンターに置いたコーヒーカップを手渡してくれた。それからカウンターに腕を預け、匠は云い分を話しだした。
「美里とは流れで付き合うようになった。流れといってもいいかげんに扱ってたつもりはない。だからこそ、先に進めなかった。結局はそのときのお互いの気持ちとか感覚が相容(あいい)れなかったってことだ」
「先に進めなかったって……」
 優歌は問いかけてやめた。なんのことを示しているのか、云っている途中で美里の告白が(よみがえ)って思い至った。
「……それだけですか?」
「こういうことをだらだら云ってどうするんだ?」
「それはそうですけど……。匠さん、やっぱり一つ訊いていいですか」
「何?」
「そのときのって匠さんは云ったけど……業平で美里さんと会って、そのとき、もしやり直そうって云われたらどうしてました?」
 優歌は云ってしまってから低俗な質問をしたと気づいて取り消したくなった。仮定の話なんて、きっと匠にとっては面倒でしかない。おまけに優歌が気にしていることは見え見えで恥ずかしささえ覚えた。
 匠はどう質問を受け取ったのか、すぐには答えないで、気まずくなるくらいに優歌をじっと見つめる。
「それを答えるには条件が外せない。その条件がなかったらってことは今更考えられないし、答えるまでもない」

 匠の云うことはまったく意図が読めず、それ以上に説明するつもりもないようで、優歌の中には『条件』という言葉が残った。
 美里と話をするなかで見えたのは、案のごとく匠の実直さ。
 匠の云い分を聞いて思った。
 匠にとって付き合うまえに美里がどうだったにしろ関係のないことで、匠は付き合うということを大事にしていたこと。そこで『相容れなかった』という、“思うこと”のすれ違い。
 美里が云ったように匠はテリトリーがはっきりしているぶん、いったんかかわったら、つらく冷たくあたることはあってもけっして見捨てることはない。
 匠はそういう人で、優歌に対してだけではなく誰に対しても。
 でもそれなら。再会して、美里を認めることはしても、それ以上に進まなかった条件とはなんだろう。
 彼女がいたわけでもなく。過去を捨てられる匠がそのときの美里を認めたのなら、そこから始まってもおかしくない。
 匠とこうして一緒にいるいま、そんなことがあって欲しいとは少しも思わないけれど。
 何かが()に落ちない。美里が話してくれたことで、匠と美里の関係を安心できたかわりに、最近になって優歌の中にずっとあったその不安を明確にした。


「匠さん、美里さんは男の子が欲しいって云ってましたけど、匠さんはどっちがいいですか」
 夕食の時間、優歌は訊いてみた。
「無事に生まれてくれればどっちでもいい」
 まるっきりお手本の答えだ。
「わたしは女の子。育てやすいっていうし、やっぱり一姫二太郎で二人目は男の子が欲しいです」
「まだ産んでもいないのに二人目の話か? おれはそこまで考えられない」
 匠は顔をしかめて首をひねった。
「二人くらい、欲しくないですか?」
「優歌は“授かりもの”って云ってた気がするけどな」
 普通に、そうだな、で終わればいいものをどこかずれた答えだ。そのことがずっと(くすぶ)っていた何かをはっきりさせた。
「でも……」
 優歌が云うのをためらうと、匠はまるで聞き分けのない子供に対するようなため息を漏らした。
「二人目のことを考えるまえに、子供が欲しいんなら、いまはとにかくちゃんと産めるように躰に気をつけておくことだ」
「気をつけるまえに匠さんが先回りするから、わたしは気をつける暇がありません」
 優歌が精一杯でふざけた返事をすると、その甲斐あって匠はしかめた表情を可笑しそうに変えた。

 その日、ほのめかしたことも通じないで優歌はよく眠れなかった。
 匠に訊かなければよかった。全然、自信なんて当てにならない。美里と同じで自信は簡単になくなる。
 ずっと疑問に思っていたのに、直視しないどころか無視した。
 匠は子供を欲しかったわけじゃない。将来的に考えていたのか、それはわからない。少なくともいま、頭になかったことはたしかだ。
 だって妊娠する“もと”となった日は限定できる。匠さんはずっと避妊していたから。
 そうしなかったのは、結婚した日とあの自制をなくしたとつぶやいた日。
 いろんなことが脳裡をよぎった。
 匠の実家で、おそらく遠回しに云われた言葉。急ぐ必要はない。
 子供ができたら、という想定の話をするだけで匠が乗り気じゃない表情を見せたこと。
 妊娠したとわかってから、匠は掠めるキスだけで触れてくれなくなった。触れた流れで朝まで抱きしめていてくれる腕もなくなった。
 いくら“授かりもの”でも、それ以前に優歌独りでは子供なんて生まれない。触れてほしいとは云えなくて、それとなく伝えたのに匠は気づかない。

 不安になってネットや本を見て調べてみたら、そういう男の人はけっこういるとわかった。おなかの赤ちゃんへの影響が怖いとか、父親になるプレッシャーとか、あるいは奥さんを女性として見られなくなったとか。よくある話だということに安心するどころかますます不安になった。
 優歌は勝手にいいと思いこんでいたけれど、真由が云った、相性は大事、ということが心許なくさせる。いまだけなら触れてくれなくてもいい。気遣いという理由があるから。
 ただ理由がなくなってもこのままかもしれないという(おび)えが芽生えた。
 優歌はどうしても子供が欲しいと思っていたわけではなくて、ただ自然に欲しいと思っていただけなのに、それは匠には欲張りに見えたんだろうか。
 匠は自分の感情を(あら)わにしない大人だ。優歌がどんなに年を重ねていっても及びもつかないくらい。年の差はわかっていたはずなのに、相手が匠であるということがどういうことなのかをわかっていなかった。匠はどこを取っても優等生。もしかしたら匠は結婚自体、いや最初に父が云いだした瞬間から、優等生として振る舞っているのかもしれないと思った。
 隙がなくて、ずっと優歌のことを考えて先回りしている。妊娠したこともそうで、匠が子供はいらない、もしくはまだだと思っていたとしても、自分の不満は押し殺して、優歌が喜んでいることを受け入れている。いや、不満ではなく、匠の性格を考えたら自分が自制をなくしたことの後悔かもしれない。

 匠は応えようってしたんだと思う。
 杏奈が美里とのことでそう云った。
 子供が生まれたのは優歌だけのせいではなく、だからこそいまの匠は優歌に応えようとしているんだろうか。けれど、どこかそれはおかしい。
 そもそも、応えようとする気持ちってなんだろう。
 そこで匠自身の感情は(おろそ)かにされている気がする。上辺(うわべ)を飾っているにすぎない。
 たしかなことは、匠が優歌の体調は気にしてはいても、子供が生まれてくる楽しみを一切口にしないこと。定期健診でもらってくるエコー写真もいちおうは見ているけれど、感想も質問もない。
 母親になる速度に比べれば、父親になる速度が遥かに遅いのはわかっている。ただ、ここで匠が優等生になりきれない理由がわからない。
 好き、ということに、なんだ、という答えを必要とする匠は、美里を好きになるまで先に進めないくらい品行方正で、そして裏切りともいえる美里の行動を許せて、尚且つ見放すことをしない。匠は絶対的に信頼を置ける人だ。
 それなのに、どうしてこんなに怖いんだろう。



 自分の怯えに直面してから、優歌は悪阻を口実にベッドにこもることが多くなった。実際、酷くなった。おなかが空いていると気持ち悪いし、かといって食べれば吐いてしまう。
「どうだ?」
 帰ってきた匠の手が横向きになっている優歌の額に触れた。お決まりのセリフに答えるのも面倒で、匠の手を振り払うことで意思を示した。
「優歌、食べたのか?」
「いりません」
「食べられるものでいいから少しは食べないと――」
「昼、食べました」
「優歌」
 匠は名を呼んだものの、そこで途切れさせた。
 いまにもため息が出そうな気配に、優歌は息を詰めた。困らせていることはわかっている。匠に落ち度なんてなくて、ただ自分が()ねているだけだということもわかっている。
「あとは自分でやるから寝てていい」
 ため息のかわりに、優歌の頬に口をつけて匠は寝室を出ていった。

 匂いに具合が悪くなりながらも、なんとか食事の用意はするけれど、ここのところ一緒に食べることはない。食べられないのは仕方ないにしても、付き合うことくらいはできるけれど――。
 さみしい。自分でやっていることなのに。
 背中を向けて眠ると匠との間に隙間ができて、心の中にも同じように穴が空いた気がした。



「どうだ?」
 五月が終わる月曜日の朝、考え事をしていた優歌は足音にまったく気づかず、匠に声をかけられてビクッと肩を揺らした。ネギを刻んでいた手もとが狂い、包丁が指先に当たった。
 匠はすかさずキッチンに入ってきて、小さく悲鳴をあげた優歌の手をつかむ。
「平気です。ちょっと当たっただけ――」
「驚かせて悪かった」
 優歌が云い終わらないうちに、匠は傷がないことを確認して謝った。
「匠さん、家に帰っていいですか」
 優歌がずっと考えていたことだ。とうとつすぎて、匠は無表情のままでしばらく返事をしなかった。面目を気にしているのだろうかと意地悪く思った。それともほっとしているだろうか。
「優歌の家はここだ」
 匠は怒るでもなく責めるでもない。いつも泰然とした匠は理路整然と訂正した。
 違う。
 漠然とそう思った。優歌は深くうつむいて、匠には答えなかった。
「いつ?」
 息が詰まりそうな沈黙のなか、やがて匠が訊ねた。
「今日」
「わかった。帰ったら送って――」
「病院行くついでに……お母さんを呼びます」
「……気をつけて行けよ」
 優歌が匠をまっすぐに見られなくなって三週間がたつ。その優歌の頬にくちびるが触れた。

 不機嫌な優歌の態度は、匠にとっては理不尽だろうに辛抱強く付き合っている。だんだんと息苦しくなっていって、逃げだしたくなって、それが叶ったところで優歌はらくになれなかった。


 両親と優美は優歌の悪阻が酷いことを知っていて、しばらく戻ることになっても特に勘繰られることなくすんだ。
 その日、匠は会社帰りに水辺家を訪ねてきた。当然、挨拶に来るだろうとは思っていた。匠を傍にして、優歌の振る舞いは自分でもぎこちなく感じた。
 優歌はその日を(しの)げれば、と思っていた。匠がどんなに遅くても、それがたとえ一分であろうと、帰る方向がまったく違う水辺家に毎日顔を出しに寄るとは思わなかった。
 匠が来ると間もなく、学生の頃に戻ったように優歌は部屋に引っこんだ。学生の時と違うのは、匠が帰るまえに必ず部屋まで来て優歌に声をかけていくこと。
 何に置いても不器用で、対処もろくにできない優歌の態度は露骨に違いなく、両親と優美が気づかないはずはない。問い(ただ)すことはなくても様子を(うかが)っているのはわかり、水辺の家も落ち着かなくなって優歌は気がふさいだ。


「優歌、散歩だ」
 土曜日、匠は昼からやってくるなり、リビングにいた優歌を誘った。
「気分がよくな――」
「いいから。今日は天気がいいし、少しくらいは気分もよくなるかもしれない。たまには躰を動かさないと」
 実家にこもりっ放しだと知っている匠は、優歌の腕を取って強引に立たせた。
「いってらっしゃい」
 佐織がすかさず声をかけ、優歌に拒否できなくさせた。
 匠に半ば無理やり手を引かれて優歌は外に出た。優歌の気分とは対照的に、梅雨まえの空はどこまでも晴れ渡り、絵の具では出しきれない、きれいな青に染まっている。
 具合が悪いと云って避けていた散歩は一カ月ぶりで、匠の手に触れるのもそうだ。優歌が小指をつかまないかわりに、匠の左手がまるごと優歌の右手を包んだ。
 ふたりともずっと黙って歩いた。
 匠は家から歩いて十五分くらいの公園に入っていく。手狭な公園では小さな子供たちが滑り台をぐるぐる回り、楽しそうな笑い声が辺りに響いた。

「どうした?」
 洗い(ざら)しで色の落ちた木製のベンチに優歌を座らせ、匠はその正面にかがんで口を開いた。うつむいた顔をますますうつむけなければならなくなった。
「悪阻です」
「おれは最初につまらないことでもいいから、話してほしいといったはずだ」
 優歌の理由を受け付けず、匠は険しい声で云った。
「……話してくれないのは匠さんのほうです」
「喋るのが億劫(おっくう)なのは悪いと思ってる。訊いてくれたら話すし、そうしてきたはずだ」
「訊きたくありません。もう……遅いから」
「遅い?」
 優歌はうなずくだけで口を閉ざした。
 やがて匠は立ちあがると優歌の隣に座った。
「大丈夫だ。待ってる。話したくなったら、もしくは訊きたいことがあったら云ってほしい」

 結婚の話が出て近づくまで、匠がこんなにやさしいとは思わなかった。けれど、その裏で匠の本心はずっと隠れている。信頼と不信がこんなに近くにあるなんて。もしくは同じこと?

「匠さん」
「ああ」
「匠さんが怖い」
 匠は息を呑んだ。そのかすかな息遣いは優歌にも届いて、それはなぜか優歌を後悔させた。
 やるせない気配の中に閉じこめられ、ふたりの時間が淀んだ。
「そうだな」
 ずいぶんと黙りこんだあと、ため息なのか笑ったのか区別のつかない息を漏らし、匠は優歌に同調した。

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