最愛−優恋歌−

章−優恋歌− 5


 熱が出てから三日間、日曜日まで優歌はほとんど寝てすごした。日曜日は三十七度台まで下がって優歌は起きられそうだったのに、匠が許さなかった。
 躰はきつくても、そのおかげで楽しみにしていた収穫は一つある。匠が簡単な料理なら手際よくできるということ。
 チャーハンを作るとき、しゃもじを使わずに鍋を揺らしてご飯をひっくり返す、というのは優歌にはまだできない技だ。対面カウンター越しに見た料理の腕も、そのあと食べたチャーハンの味も云うことなしだった。
 匠は大学時代に飲食店でバイトしていたと教えてくれた。お坊ちゃんなのにバイトしてたんですか? と訊いてみると、学費と生活費は出してもらっても、小遣いは自分で稼いでいたらしい。優歌とは心構えが全然違っていて、遅まきながら自分の甘えたぶりを反省した。
 優歌が家事に復帰したのは四日目の月曜日。それでも本調子ではない。酷くはならなかったものの、平熱に戻るまで丸一週間かかった。優歌の体質上、長引くのはいつものことだ。
 匠は表立って心配している素振りは見せない。そのかわり、一歩も外に出るな、という指令が月曜日に発せられた。さすがに出不精な優歌も辟易(へきえき)しかけた土曜日、午後になってやっと同伴での買い物という外出許可が出た。きっと病院より匠の管理下のほうが厳しい。

「大丈夫か」
 優歌がそれぞれに食材を冷蔵庫や棚にしまっていると匠が問いかけた。最後の一つ、コーン缶をストック用のかごに入れると、優歌は匠を振り向いてうなずいた。
「もう独りでも大丈夫ですよ?」
「ああ。制限して窮屈(きゅうくつ)にさせた」
『窮屈』という言葉が優歌をちょっとびっくりさせる。そこにどれほどの意味がこもっているのか、匠は後悔したように少し首を傾けた。
「窮屈というより、甘やかされて躰が腐っちゃいそうでした」
 おどけて優歌が首をすくめると、匠は口の端をかすかに上げた。
 優歌はカウンターを回って匠がいるリビングのほうに向かいながら、ストールを取りかけたところで手を止めた。
「匠さん、また引っかけたみたいです」
 優歌は情けなく云い、匠はため息をついた。
「このストールは失敗だったな」
「わたしは気に入ってます。柔らかくて軽いし、暖かくて」
「指輪失くして、熱出しても?」
「それはわたしが間抜けだから……匠さん、指輪失くしても怒りませんでしたね?」
「それどころじゃなかった」
 匠は背後で小さく笑みを漏らした。その返事で優歌は真由が云っていたことを訊くチャンスだと気づいた。
「匠さんて、ホントのところどう思ってるんですか?」
「……なんのことだ?」
 匠は優歌の首からストールを外しながら怪訝な声で訊ねた。
「え……っと、今度のこと」
 優歌が向き直って曖昧に云うと、匠は不可解な表情を見せた。
「優歌はどう思ってる?」
 思いがけず問い返されたけれど、自分でさえ理解できていない質問に答えようがない。優歌は困惑して首をかしげ、それを見下ろしている匠の瞳がなんらかの激情を(たた)えた。
「優歌」
 優歌の名を呼んだ匠の声は深い。まるで――。
「匠さん……?」
「一週間は長いな」
 匠はつぶやいていきなり優歌を抱えあげた。その行き先は、まるで夜の誘いのような声の深さが教えた。
「匠さん、まだお昼――」
「そのうち夜になる」
「でもお風呂入ってな――」
「じゃ、そこから始めてもいい」
 ささやかな抵抗は軽く()なされ、時間は匠の手を伴って心地よく優歌を(くく)った。
「自制できないこともあるらしい」
 微睡(まどろ)みのなか、匠が呆れたように囁いた。



 すっかり回復しての木曜日、優歌はあれから二週間ぶりで尾崎と顔を合わせた。
 気が重く、避けたいのは山々だったけれど、いいかげん逃げるというのも卒業したい。匠は優歌が今日英会話教室に行くと知ると、云い訳を聞いてやればいい、とおもしろがる反面、真意がわからないような表情を見せた。
 向き合うと決めても後回しにしたい気持ちには負けて、優歌は時間ぎりぎりに教室に入った。レッスンの間、尾崎の視線を何度となく感じたけれど、優歌は気づかないふりをした。演技がうまいわけでもなければ、ポーカーフェイスも取り繕えず、尾崎にとっては露骨に見えるだろう。
 一時間のレッスンが終わると、優歌はまずレッスン仲間の三人に先々週にすっぽかしたお疲れさま会のことを謝った。尾崎がフォローしてくれたらしく、先週休んだこともあって優歌は体調不良ということで無罪放免になった。
 今日のコーヒータイムは、尾崎との気まずさから行く気にはなれない。パスすることを知らせると、がっかりされたけれど、また今度あらためてということになった。一緒に外に出て、また、と三人は道路を横切ってカフェに入っていった。
 残った尾崎のまえで目も合わせられないまま、優歌は落ち着かなくうつむいた。

「このまえはごめん。これ消してくれ」
 尾崎は携帯を差しだした。あの動画の静止した画面上に『削除しますか』のメッセージがある。尾崎らしい誠意の見せ方だと思った。優歌は『はい』を選択して尾崎に携帯を返した。
「サイテーのことをやったって思ってる。西尾からいちおうは聞いてるけど、旦那とは……」
「匠さんのことは全然問題じゃない。だからそれは大丈夫」
 ためらっている尾崎をさえぎるようにして優歌はきっぱりと答えた。尾崎はため息をついた。それがどういう意味なのか、優歌はふと顔を上げた。匠より少し背が低いけれど、優歌からすればやっぱり見上げた格好になる。尾崎は決まり悪そうに(わら)った。
「そういうとこなんだよな」
「え?」
「めちゃくちゃ気を許してるだろ。旦那が(しゃく)に障るというか……水辺に近づくのって難しいって思ってたのにさ、なんか簡単に手に入れてんだよな。しかも水辺があんなに大胆な奴って思わなかったし」
「……え?」
「路上キス」
 ――。
 一瞬、思考停止してそのあと優歌の顔が一気に火照った。助かったのは暗がりにいること。
「見たの?!」
「んー、最初の日に」
 最初の日というのは、たしか優歌の誕生日。思い起こしてその場面が脳裡に浮かぶと、さらに赤面しそうになった。知らない人と知っている人の前では恥ずかしさが違う。
 やっぱり匠さんには警告しよう。

「いまの水辺を見てると、西尾に止められてもダメもとでやっぱコクるべきだったって後悔すんだよな」
「何……云ってるの?」
 尾崎は冗談ではなく至って真面目な声だ。優歌は狼狽(ろうばい)して力なくつぶやいた。
 見上げていた尾崎の目がふと優歌を()れる。その視線の先を振り向こうとしたとたん。
「おれ、水辺が好きだ」
 優歌は驚いたあまり、また尾崎に目を戻した。優歌に告げているはずなのに、尾崎は違うところを見ている。
「……尾崎くん……?」
 逸れていた目が優歌に焦点を合わせた。
「おれさ、高校んときからずっと水辺のことが好きだった」
 正面を切っての告白は必要以上に声が大きい気がして、優歌のほうが焦ってしまった。
「あ……え……でも……」
 告白されたのははじめての経験で、動揺しすぎて頭も言葉もうまく回らない。
「困らせようとしてるんじゃないんだ。区切りっていうかさ。返事はわかってるし、いい。そのかわり目標ができた」
「……目標って?」
「旦那を超えてやる」
 どこまで本気なのか、不敵に云って尾崎はニタリと笑った。目を丸くしてびっくりしていると、優歌は不意に思いだした。
「そういえば匠さん、尾崎くんが業平に来たら鍛えてやるって云ってた」
 優歌が可笑しそうに伝えると、尾崎の目はまた逸れてちょっと上を向いた。
「そういうことだ。超えるには相当の努力が必要になる」
 優歌をフォローして口を挟んだのは匠の声で。告白に気を取られて優歌は人の気配に気づく間もなく、ちょっと後ろを向いてみると匠はほんの傍に立っていた。
「匠さん!」
「冷めてても防衛本能はあるらしい」
 尾崎が挑発するも、匠は首を少し傾けただけですかした。尾崎はため息をついて軽く肩をすくめた。それから匠に向かって頭を下げた。
「このまえは余計なことをしてすみませんでした。鍛えられるのは望むところです。じゃ、上戸優歌、また来週な」
 優歌が答えるのも待たずに尾崎は向かいのカフェに走った。
 尾崎が、水辺、ではなく『上戸』と呼んだことは何か意味があるのだろうか。尾崎の力なのか、優歌にもちょっとした対処ができるようになったのか、とにかく尾崎と話せたことで、憂うつだった気分は抜けてすっきりした気さえする。

「どうだった?」
 その質問から匠が気にかけていたことがわかる。
「……匠さん、おかえりなさい。帰り早かったんですね。いつからいたんですか」
「だれに告白してんだろうなってとこから聞こえてた」
 匠の声は淡々としていて、目を凝らしても暗がりのなか、その表情は読めない。明るいとしても優歌にはわからない可能性のほうが高い。表情は柔らかくなっても、いつも大人然としている匠はあまり人に感情を読ませない。
「……びっくりしたけど……尾崎くん、やっぱり裏表がないっていうか……なんだか大丈夫でした」
「たしかに。尾崎くんは正々堂々って感じだ」
 匠は自嘲めいて優歌に賛同した。
「匠さん?」
 不思議に思って首を傾けたとたん、いつもの不意打ちがおりてきた。優歌はとっさに両手を上げる。
「その手は何?」
 匠はかがみかけた躰を起こしながら気に喰わないというような声で問いかけ、手で自分の口をふさいだ優歌を見下ろした。
「尾崎くん、ずっとまえに見てたって」
「気にするわけだ」
「……気にしないほうがおかしくありませんか」
「なるほど。優歌、これ」
 匠は何を思っているのかわからないような口調で云いながら、優歌にダレスバッグを差しだした。いきなりのことで意味もわからず優歌は本能的に受け取った。その重さは知っていて、必然的に両手で抱えたとたん、匠のくちびるが優歌のくちびるをふさいだ。
 いつもの軽いキスとは違って吸盤みたいなキス。
 一瞬うっとりして優歌は状況を忘れかけたけれど、悲鳴じみたひやかすような声がかろうじて耳に届く。手が不自由で押しのけられないかわりに一歩下がった。
「た、匠さんっ」
「代償、ってやつ」
 匠は周りをちらりと見て通行人を捉えたが、悪びれる様子もなくつぶやいた。優歌はいつものごとく、その意味がわからない。
「……なんですか?」
 匠は口を歪めた笑みを見せながら、不満そうに少しくちびるを尖らせた優歌の手からバッグを取った。
「 Right now, I wanna make love to you awfully. 」
 流れるようなイントネーションで低く深く響いた。
 簡単な単語の羅列は何を意味しているか、優歌にもわかる。レッスンでは習わないけれど、雑談のときにイギリス人の女性講師が教えてくれた。一回くらいダーリンに云ってみたら、と云われたけれど、そう云われただけであたふたする優歌にはとんでもないことだ。
「無理です」
 匠が小さく笑う。頬がカッとして優歌はやっぱり夜でよかったと思った。



「躰、大丈夫か?」
「大丈夫ってさっきも云いましたよ?」
 半ば呆れ、優歌は半歩先を行く匠を覗きこんだ。匠はどこかへんな眼差しで見下ろして首を少し傾けた。
 優歌の仕事が終わって一カ月がたつけれど、日課になっていた散歩はまだ続いている。四月も十日を過ぎ、風が吹くたびに公園の桜の木は花びらを大量に舞い散らせた。コートも不要になって、今日みたいに清々(すがすが)しく晴れた日はとにかく快適だ。
「どうかしました?」
「……いや」
 何か云いたそうにしながらも結局は何も云わないまま、匠は歩く方向へと視線を戻した。
 ここ何日か、同じ質問が何回も繰り返される。散歩に出るまえもまったく同じことを云った。どうだ? とは少しニュアンスが違う。あの扁桃腺熱で寝こんだことが今頃になってまた警戒心をレベルアップさせたのか。そう思うくらいに匠はしつこい。


 それから三日して優歌は体調の変化に気づいた。なんとなく胃の調子が悪くなって、小さなゲップを頻繁(ひんぱん)にしたくなるほどさっぱりしない。匠に云えば必要以上に心配させると思って、母に相談してみたら原因はすぐにわかった。
 気づいてみれば生理が一週間も遅れている。もともと生理不順で酷いときは三カ月飛んだこともある。ストレスで不順になるというけれど、この一年、不思議と定期的にやってきたことを考えると、匠といることで優歌は落ち着いていられるという証明なのかもしれない。それはともかく、優歌には生理があろうがなかろうが気にする習慣はなくて、自分では思いもしなかったのだ。
 ぬか喜びに終わるのも嫌で、優歌は買い物に出たついでに薬局で検査薬を買ってきた。使ってみると、判定時間を待つことなくすぐに結果が表れる。期待していただけに、陽性反応が出ると小躍りしそうになった。
 優歌は(はや)る気持ちを抑えつつ、めずらしく仕事中の匠に電話して帰宅時間を確認した。
 匠はどんな反応をするだろう。
 そんなことを思いながら、優歌はつい顔を緩めるということを繰り返した。

「どうしたんだ?」
 ダイニングテーブルのいつになく品数の多い料理と一緒に並んだケーキに気づき、予定時間に帰った匠は小さく首をひねった。
「なんとなくです」
 優歌はそわそわと匠の椅子を指差した。匠はリビングのソファにダレスバッグを置いてからダイニングに戻ってくると、優歌とはテーブルの角を挟んだ斜め前という定位置に座った。
「わざわざ電話してきたのは?」
「えっと……その……」
 いざ目の前にすると夫婦なのに優歌はためらって、どきどきしてしまう。匠が(しび)れを切らしてしまうまえにと口を開きかけたとたん。
「子供、できた?」
 優歌が報告するより早く云い当てられたことにびっくりしたのは一瞬のこと。それより、照れてうなずいた優歌を見てもいつもと変わらない、それどころかかすかに顔を歪めた匠に驚いた。
 それは最近になって何回も繰り返された質問のときと同じ表情で、匠が優歌よりも早く知っていた、もしくは予想していたことに気づいた。
「産む?」
 その質問がどういう意味なのか、優歌には理解できない。
「……産みます。うれしくないですか……?」
「そういうことじゃない……」
 それ以上、匠は口にしなかった。
 じゃない、なら何?
 ワクワクした気持ちが()せていく。
 そんな優歌に気づいたのか、匠が腕を伸ばしてきて、頭を抱えこむように引き寄せた。匠は顔を傾けると、くちびるで()むようなキスをした。それからなだめるようにくちびるを()められると、優歌は小さく笑みを零す。
「よかったな。無理するなよ。きつい時は遠慮しないで休んでいい」
「……はい」
 想像していた反応とは全然違った。匠は驚くでもなく、歓迎しているでもなく、戸惑うでもなく。
 いつもの軽いキスが気持ちを(ほぐ)したのもつかの間、『よかったな』はありきたりの言葉に感じて、胃袋と一緒でどこかすっきりしなかった。

BACKNEXTDOOR
* 文中英訳 make love … (愛ある)性交する
  Right now, I wanna make love to you awfully. … 今すぐ、君とひどく愛し合いたい。