最愛−優恋歌−

章−優恋歌− 4


 優歌は心許(こころもと)なさいっぱいで、周りの景色さえ目に入らないままマンションに戻った。
「優歌」
 エレベーターを降りて通路に出たとたん、匠の声がした。優歌がうつむけた顔をゆっくり上げると、足早に近づいてきた匠が目の前に立った。
「匠さん……」
 続けて、おかえりなさい、と云おうとして優歌は途切らせた。声は力なく震えきっている。
 匠の手が優歌の顔に伸びた。濡れて貼りついた髪をはらいながら、匠は思いつめたような優歌の頬に添えた。肌は冷たく、くちびるは動揺のせいなのか寒さのせいなのか小刻みに震えている。
「指輪なら見つかってる。そのことより、いまは躰を温めないと」
 ……見つかった? ……指輪……?
 その意味が思考回路に浸透する間もなく、匠は強引に優歌の手を引いた。小走りについて行きながら、覚束(おぼつか)ない足もとがもつれそうになる。頭の中も安心するよりは混乱した。

 優歌が失くした指輪と匠が云う指輪は同じ話なんだろうか。
 そう疑問に思うまでもなく、優歌と匠の間で指輪の話が出るとしたら、ブライダルリングしかない。優歌の手を引く匠の左手の薬指にはちゃんとマリッジリングがあって、優歌の左手にもちゃんと納まっている。あとはエンゲージリングだけで。
 見つかった、というのは失くしたことの結果報告に違いなく。
 どうして匠さんは知ってるの?

 訊ねる(すき)は与えられず、家に入るなり匠は、コートを脱いで、と命令して浴室に向かった。
 リビングに残された優歌は云われたとおりコートに手をかけた。コートは湿っていて、手から冷たい感触が伝わり、優歌は身震いする。コートをダイニングの椅子にかけたとき、匠がバスタオルとカーディガンを手にして戻ってきた。
 匠は優歌の肩にカーディガンをかけ、頭をバスタオルで包むと手早く濡れた髪を拭いた。ちょっと乱暴で優歌の頭がふらふらに揺れる。いまの状況に整理がつかないなかで、優歌は気が触れたようにただ可笑しくなった。
「匠さん、目が回りそう」
 優歌の声は笑みを含んでいて、匠は呆れ半分、その反応に安堵して力なく笑った。
「話はあとだ。風呂に入って」
 頭から手が離れると、バスタオルを被ったまま優歌は匠を見上げた。
「匠さんも頭ちょっと濡れてますね?」
「おれはいい。丈夫にできてるから。それとも一緒に入る?」
「……準備できてません」
 匠の平然とした申し出に、優歌は言葉に詰まったすえ、恥じらいにカッとしながら結婚初夜のやりとりを思いだして答えた。
「風呂もベッドも大して変わらないと思うけどな。それはともかく、さっさと行く」
 匠はからかったあと、お尻を叩くように急きたて、優歌は指輪のことを訊きそびれたまま浴室に行った。

 かじかんだ手は思うように動かず、優歌はのろのろと服を脱いで洗い場に入った。軽く洗い流して半分くらい溜まったバスタブの中に浸かると、経緯はわからないものの、匠が知っているということに安心したこともあって強張っていた躰が(ほぐ)れていく。冷えた手足の先が熱を取り戻した。
 やがてバスタブはお湯で満タンになり、優歌がリラックスしきって躰を伸ばしたとたん、不意に風呂場の戸が開いた。びっくり眼の優歌を見て、匠はおもしろがった眼差しを向ける。
「温まってる間に話。早く安心したいだろうと思って」
 匠はジャケットだけ脱いで仕事着の格好をしたまま風呂場に入ってくると、濡れようがまったくおかまいなしにバスタブの縁に腰掛けようとした。
「匠さん、待って」
 優歌は慌てて制止すると、蛇口に引っ掛けていたタオルを取って水滴を(ぬぐ)った。それから優歌が脚を縮めて躰を隠すと、匠は小さく笑う。お風呂の暖かさとは別に躰の奥が熱くなった。

「優歌の携帯が繋がらないって真由ちゃんから電話があった」
「真由?」
「尾崎くんから連絡あったそうだ。落とした指輪は尾崎くんが拾ってて真由ちゃんが預かってるって」
「……ほんと?」
「どうした?」
 匠がある程度の事情を知っていて、そうなった経緯を訊きたがっているのはわかったけれど、優歌は云う気になれないで首を振った。
「いいんです。指輪のことのほうがショックだったから」
「肝心なことは云わないんだな。口が堅いって誉めるべきなのか」
 優歌の答えに、匠はため息混じりでつぶやいた。
「さっき優歌が帰ってきたって真由ちゃんに電話したときに聞かされた。尾崎くんから謝っといてくれって伝言だ。尾崎くんによれば、別におれをつけてたわけじゃなくて、就職活動の一環で業平まで下見に来たらしい。偶々(たまたま)、おれが美里と出てきたから興味持って尾行したってことだ。その時はおれにとっても偶々で、優歌に対して何も後ろめたいことはない」
「それはわかってます。匠さんを疑ったことはありません」
 優歌が断言すると、匠の口もとが笑みをかたどった。
「美里には云い渡してる。二人で会うことはもうない。なあなあでずっと付き合ってきたおれも悪いんだ」

 匠の云い方は美里との時間をリアルに感じさせ、優歌は複雑な気がしないでもない。それが顔に出たのか、出くわした匠の瞳ははじめて会った日に向けられたものと同じで、優歌の気持ちを見透かすようだ。体裁を繕おうと笑ってもぎこちないのが自分でわかる。
 そんな優歌を見下ろした匠は皮肉ったように口を歪めた。それは優歌に対してではなく匠自身に向けられているように感じた。

「おれの昔の汚点を話すべきかどうか迷ってる。恥(さら)し以外のなんでもないけど、優歌がおれを信用しすぎてるから曝したくなるんだ」
「……匠さんを信用できない人いるんですか?」
 匠は曖昧に肩をすくめた。しばらく待っても、やっぱり迷っているのか、匠は口を(つぐ)んで話さなかった。匠の実家で話してくれた、模範的じゃない大学時代のことなんだろうと優歌は見当をつけた。あのとき匠は、反省してるとも性に合わないとも云った。
「わたしはいまの匠さんが匠さんであればいいと思います。わたしがショックだったのは……尾崎くんがあんなことする人って思わなかったから……」
「やっぱり話さないほうがいいらしい」
 匠はぼそっと吐いてかすかに笑った。匠は立ちあがって今度は洗い場にかがんだ。
 優歌は伏せた目をあげて横に来た匠を見ると、問うように首を小さく傾けた。
「おそらく、だけど……尾崎くんは行きすぎたんだ」
「行きすぎた?」
「そうだ。おれも肝に銘じておく」
 優歌はまったく理解できなくて耳がお湯に浸かりそうなくらいに首をかしげた。
 そのあどけないしぐさを見て匠はため息(まが)いに笑うと、あとを続けた。
「尾崎くんが業平に来るようだったら、仕返しでとことん鍛えてやる」
 匠の子供じみた発言に、優歌はくすくすと笑いだす。直後に涙が溢れた。
「笑うのと泣くのが一緒って器用だな」
 それが安堵なのかショックの後遺症なのか、優歌は自分でもよくわからない。
 匠が腕を伸ばして優歌の頭を引き寄せる。顔を少し傾けた匠のくちびるがさっと触れて離れた。
「じゃ、のぼせるくらい温まれよ」
「匠さん、ラーメンが食べたい。安心したらおなかすきました」
 立ちあがりかけた匠は可笑しそうに、オーケー、と了解して浴室を出ていった。


「優歌」
 息苦しさの中から浮上して優歌は薄っすらと目を開けた。フロアライトが匠の険しい顔を照らす。匠の手が額に触れて、優歌はその冷たさにぞくっと躰を震わせた。
「……匠……さん」
 優歌は思うように喋られず、喉が()れているのがわかった。口の中が乾いている。
「熱が出てる。測らせて」
 匠は云いながら優歌の腕をつかんで(わき)に体温計を挟んだ。冷たくしたタオルが首筋に当てられて、思わず押しのけようとした優歌を匠が反対の手でさえぎった。
「じっとしてるんだ」
 匠はきつそうに(あえ)ぐ優歌の様子を見守った。腕に抱いていた優歌の体温からくる暑苦しさに目が覚めた。急速に上がった熱は深刻に思えた。
 やがて電子音が鳴ると、体温計を見て匠は顔をしかめた。すでに三十九度を超えている。
「水……飲み……」
「ああ」
 匠は優歌を抱き起こすと、ベッドヘッドを付けた窓枠から用意していたコップを取って口にあてがう。優歌は少し飲んだだけでもういいと小さく首を振った。水を飲むだけでも喉に負担を感じる。
「優歌、病院に連れていく」
「匠さん……たぶん、扁桃腺(へんとうせん)……朝になってから……」
「朝では遅いこともある」

 優歌は抗議ができるほど体力はなく、匠に任せるしかない。
 タクシーの中で見た時計は午前二時を示していた。まだ肌寒い時期で病院は急患が絶えない。順番を待つ間、待合室の椅子の上で、優歌は匠の脚を枕がわりにして眠った。診察した当直のドクターは優歌のカルテと症状を照らし合わせて扁桃腺からの熱と結論づけた。あとは経過観察するしかなく、家に帰りついたのは四時だった。
 処方された抗生剤と解熱剤を飲むと、匠が見守るなかで優歌は眠りについた。

 それから匠は眠ったのか、仕事に出かける間際に優歌を起こしたとき、寝不足を感じさせることはなかった。
 測った熱は少し下がったけれど、まだ三十八度台で匠は眉間にしわを寄せる。
「どうだ?」
 見てわかるだろうに、匠はやっぱりいつもの質問をした。優歌は力なくではあったけれど笑ってしまった。
 匠はそうした優歌を見て、ほっと息をつきながらかすかに笑った。
「お義母さんに来てもらうように電話した。今日は外せないアポイントが入ってる。休めなくて悪い」
「そんなことありません。自分の面倒くらい自分でみれます。大事な仕事あるのに、わたしのほうが匠さんの睡眠時間を取りあげました」
「あたりまえのことだ」
 それだけの一言で優歌は元気になれそうな気がした。
「はい」
「お(かゆ)作ってる。もう一眠りしたらちゃんと食べろよ」
「はい。いってらっしゃい」
「ああ」
 匠は身をかがめると、移るかもしれないのに、熱を含んで乾いたくちびるを掠めていった。


 匠が出かけてすぐ、起きようかどうしようか迷っているうちに優歌はまた眠ってしまっていた。
 起きたのは十時で、匠が小さな土鍋に作っていたお粥を温めた。お粥は口の中に入れると()けるほど米の芯が残っていなくて、優歌の腫れた喉にはちょうどいい。
 匠がキッチンに立つのはコーヒーを淹れるときくらいで、料理しているところは見たことがない。もっとも、家ではできるだけゆっくりしてほしいと思っているから、優歌が立たせていないというほうが正しいだろう。
 昨日のラーメンはつい甘えてしまった。お風呂から上がったときはちょうどテーブルに運ばれてきたところで、匠が作っているところは見られなかった。即席にしては(どんぶり)の中に半熟の目玉焼きという具材まで入っているのにびっくりした。
 ひょっとして、匠は料理も器用にやれるんじゃないだろうか。今度、できる料理を訊きだしてじっくりと作ってもらおう。
 優歌はまた一つ楽しみを見いだした。怪我の功名(こうみょう)ならぬ、病気の巧名だ。


 佐織がやってきたのはお粥を食べ終わった頃だ。手にはスーパーの買い物袋を提げている。起きてすぐ、佐織には電話して大丈夫だと伝えたけれど、様子を見たいからと半ば押しかけてきた。
 お粥を作ったのが匠と知ると佐織は(しき)りに感心した。
 それもそのはずで、淳介がキッチンに立っているという記憶は皆無だ。家庭内に女が三人もいれば、出番がないといえばない。
 佐織は、申し分ないわ、と優歌の具合が悪くても匠が善処してくれることに安心したみたいだ。それから、手抜きできないわね、と優歌に“いい奥さん”のプレッシャーをかけることは忘れなかった。
 佐織は優歌に合わせて遅い昼食をとったあと、夕食まで手がけてくれて夕方早めに帰った。
 それと入れ替わるように訊ねてきたのは、(あらかじ)め連絡をくれた真由だ。

「大丈夫?」
「うん。ごめんね、心配かけて」
 真由はリビングのソファに座ると、買ってきた温かい缶コーヒーを差しだして、それから折り畳んだ封筒を優歌に手渡した。
「尾崎くんからの預かり物。後悔してたから。わかってるとは思うけど、悪い奴じゃないんだよ。わたしがまえもって優歌に云っとけばよかったのかも……」
「何を?」
「んー……」
 真由はうなると同時にため息をつき、ためらったすえ結局は答えないで、ごまかすように肩をすぼめた。
「……匠さんは行きすぎたんだろうって。よくわからないけど」
「ふうん……上戸さん、わかってるんだ」
 真由は匠の云う意味がわかるらしく、訳知り顔でうなずいた。
「真由、何?」
「尾崎くんが直接、謝りたいって云ってた。そんときに優歌もわかるんじゃないかな」
「やっぱり尾崎くんとは話さなくちゃだめなんだよね」
 優歌は憂うつな気分でため息をついた。どんな顔をして会えばいいんだろう。
「尾崎くんはケジメつけたいんだよ。優歌が気を遣うことじゃない。それより、女の人のこと、大丈夫?」
 真由はあっけらかんとして、普通なら訊きにくいはずのことを訊ねた。
「その人、業平を見学したとき、匠さんの前のデスクにいた人だよ。匠さんの高校のときからの友だちなの」
『友だち』というにはちょっと特殊すぎる気がしたけれど、大まかなことしかわからないだけにほかに云い様がない。それに匠に云ったとおりで、優歌はそれ以上のことを疑ってはいない。
「え、そう? わたしはあんまり覚えてないけど。まあ、そういう付き合いがあってもヘンなことじゃないしね」
「うん。匠さんはわたしが嫌がることは絶対にしないってわかってるから」
「わぁ。元気づけようと思ってたのに、なんか、あてられに来たって感じ」
 真由はわざと手で顔を扇ぎながら優歌をからかった。優歌は熱以上に顔を火照らせた。
「とにかく、そのことは大丈夫」
「うん。その点では安心した。上戸さん、尾崎くんとは何度か会ってるんだよね?」
「うん」
「ふうん」
「何?」
 真由のもったいぶった返事に優歌は問い返した。真由はにやけた顔で惚けるように首をすくめた。
「上戸さんはわかってるみたいだし、電話じゃ至って冷静だったけど、ホントのところどう思ってるか知りたいなと思って」
「ホントのところ? どう思うって何を?」
「今度、このトラブルの話になったときに訊いてみたら?」
 真由はおもしろがって云い含むと立ちあがった。
「もう帰る?」
「熱あるのに長居できないよ。玄関じゃ寒いだろうって思って上がってきただけだから。じゃ、気をつけるんだよ」
「うん。真由、いろいろありがと」
「どういたしまして」
 真由は軽快に手を振って出ていった。


 優歌はリビングに戻ると、返ってきた指輪をクロスできれいにしてからネックレスに通した。すっかり慣れた重さが首にかかると、それだけで熱が下がりそうなくらいほっとした。
 ソファで毛布に包まり、テレビを見ているうちに優歌はまた微睡んでいたらしい。冷たい手が額に触れてビクッとしながら目を開けた。真上に匠がいて、さらに優歌の目が丸くなる。
「まだ熱下がってないな」
「おかえりなさい」
「どうだ?」
 起きあがると優歌は笑みを浮かべてうなずいた。

 かすかに目を細めた匠の視線が胸もとにおりて、パジャマの外に飛びだしたネックレスを捉えた。手が伸びてきて、その指先が指輪をつかむ。その動きを追っていた優歌が目を上げると、匠が顔をおろしてきた。
 目の前に迫ってくる顎のラインは力と意志を秘めている。優歌が見惚れたと同時に匠がくちづけたのはエンゲージリングだった。

BACKNEXTDOOR