最愛−優恋歌−
章−優恋歌− 3
十一月の下旬から始めた保育助手の仕事は三カ月を越えた。優歌の生活パターンに組みこまれてすっかり馴染んだところだけれど、それも来週までだ。
今日は三月初めの日曜日。春にありがちな霞で膜が張ったような空の下、マンションから見える公園は色とりどりの雪割草が満開になりつつある。花が目に入るだけで暖かく感じて、優歌はわくわくした気分になる。仕事の終わるさみしさが紛れた。
とはいえ、肌寒さはもうしばらく続きそうだ。太陽の熱が空気の温度を暖かくしていても、時折吹くこの時季特有の突風が寒さを運んできて、そのたびに優歌は身を縮めた。
いまもまた風が吹き抜け、ライトブルーのストールが解けた。優歌は躰を強張らせて立ち止まる。
「今日は風が強いな。帰ろう」
匠は風をさえぎるように優歌のまえに立った。繋いでいた手を離すと、ストールを優歌の首に巻きなおす。
「歩いているうちに温まります」
「寒いだけならいいけど、風はあまり躰によくない」
優歌はそっと笑ったはずが、匠は目敏くそれに気づいた。
「何?」
「匠さんて躰のこと、ヘンに気を遣いますよね。お義父さんがお医者さんだからですか?」
「ヘンにってなんだ?」
匠は顔をしかめた。ここで正直に『ヘン』さを云ったらまずいことになりそうで、優歌は首をかしげながら笑ってごまかした。匠は肩をそびやかし、優歌の躰をくるりと回してマンションのほうへと向けた。
優歌の誕生日に保育助手の仕事を決めたと報告してから、その週末、匠は優歌を散歩に誘った。それ以来、匠は休日に天気がいいと必ず優歌を外へと連れだす。
日に当たらないから躰が弱くなるんだ。
散歩を始めた初日、匠はそう云った。
たしかに優歌はインドア派に違いない。ただ、その云い分が年寄りじみていると、優歌が一瞬でも思ったと知ったら匠はどんな顔をするだろう。ついさっきの配慮もそうだ。
日光浴については対抗して、いまの紫外線は皮膚ガンのもとらしいんですけど、と云ってみた。匠は思っていなかった優歌の反撃に黙りこんだ。
次の週末、出かけるまえに手渡されたのは日焼け止めクリームだった。
いましているパシュミナのストールは誕生日と初仕事が決まったという二つのお祝いを兼ね、散歩のときに寒くないようにと買ってくれた。その辺にある安物じゃなく、会社の伝手を頼って手に入れたもので、優美によればけっこう高価らしい。
あまり語らない裏で匠がいろんなことを考えてくれているのがわかる。
「匠さん、今度の木曜日、ちょっと遅くなっていいですか?」
家に戻ると、匠のあとをついてリビングに入りながら優歌は訊ねた。
「かまわないけど?」
「英会話の……あ……」
優歌は喋りながらストールを外そうとしてふと手を止めた。
「どうした?」
「ネックレスを引っかけたみたいです」
匠は脱いだコートをダイニングの椅子に引っかけると、優歌の後ろに回り、緩く巻いた長い髪を優歌の胸のほうに払った。
繊細な糸はネックレスの留め金に絡みやすくてよくこうなる。匠の手が離れると、ストールがなくなった首もとはすっと寒くなった。
「コーヒーを淹れよう。温まらないと」
首をすくめた優歌を見て匠はキッチンに入っていった。優歌もコートを脱ぐと、食器棚からコーヒーカップを取りだした。
「仕事がちょうど英会話の日に終わるから、尾崎くんたちがお疲れさま会をしてくれるって」
「わかった。おれも外で食べてくる」
「はい」
「また仕事、探す?」
「そのことなんですけど、園長先生から定期的じゃなくなるけどたまに頼んでいいかって云われたんです」
「そう云われるってことは働きぶりがよかったらしいな」
優歌の顔が綻んだ。
最初は戸惑うばかりで、はじめて給料をもらったときはうれしいと同時に、ろくに役立つことができなくて心苦しささえあった。
流れをつかむと、週に二、三回というペースと子供相手ということが、優歌にそれほどプレッシャーを与えず、体調的にも落ち着いてやれた。皆勤賞があればもらえたところだ。慣れたところで補助していた人が完全復帰となり、残念だと思っていただけに、園長から打診されたときは、やってきたことが認められたみたいで本当にうれしかった。
「どうですか」
「無理にならなくていいんじゃないか?」
「はい、じゃあ園長先生にそう返事します」
木曜日の仕事は、最後と思って張りきりすぎたあまり、いささか空回りした。
外で遊ぶには雨が降りだしそうな曇り空で、担当している年中の子供たちとは室内で遊んだ。子供と一緒になって賑やかにしていると、一人の女の子が、ゆーか先生、お絵かきしよ? と優歌のエプロンの裾を引っ張った。その瞳が、はしゃぎすぎだと忠告しているみたいに見えたのは気のせいなのか。
子供は大人が思っているよりも、いろんなことを観て考えていることは学んだ。時折、びっくりするくらいの指摘がある。
情けないことに、優歌にしてはハイテンションであることはたしかだ。
そろってお絵描きの時間に転換すると、そのうち今日が最後だと知っている子供たちは、ゆーか先生を書こう、と云いだした。書きあげるたびに子供たちが見せにやってくる。それぞれのスケッチブックに描かれたたくさんの絵の中に、自分を描いた絵が加わっていることに優歌は感動を覚えた。
終わったときはどっと疲れを感じたけれど、子供たちのお礼の言葉がそれを吹き飛ばしてくれた。仕事仲間の保育士たちから労いの言葉をもらったときは、やってよかったという満足感でいっぱいになった。はじめての感覚だ。
「で、どうだった?」
「うん。失敗もあったし、きついこともあったけど、終わってみると楽しかったって感じ」
尾崎はカフェ店のテーブルに着くと、早速仕事の感想を優歌に訊ねた。
木曜日の英会話の日は、教室の向かいにあるカフェでレッスン仲間とちょっとコーヒーを飲んで帰るというのがスケジュール化している。長居はしないけれどいまや常連客だ。
仕事をしだしてから、優歌は一つ時間をずらして尾崎と同じクラスになった。今日のお疲れさま会も尾崎が云いだして、コーヒーだけでなく食事まですることになったのだ。
優歌と尾崎のほか、あとの女性二人と男性一人はいま補習中で、十分もしたら合流してくるだろう。
尾崎とは、高校の頃と比べたら考えられないほどざっくばらんに話せるようになった。たまに真由と三人で会うこともあり、男という意識はなくて女友だちと同じように付き合えている。
「水辺ってさ、一年前と全然違うよな。しっかりしたっていうかさ」
「そうかな。自分ではよくわからないけど……ちょっと気持ち的に頑張れるようにはなったかも」
尾崎の失礼な云い方は怒るべきところかもしれないけれど、しっかりしていないのは優歌自身も認めるところだ。
淳介が云いだした匠との結婚話からまもなく一年がたつ。あれから、匠といることで臆病さがだんだんと払拭されている気がする。
仕事をしようという気になったのも匠のおかげだ。
週に一回しか会わないレッスン仲間とのコーヒータイムにしろ、尾崎のリードに助けられつつ、男女関係なく自分から話題を振れるくらいに気安く付き合えている。
それらのことがいま、優歌のちょっとした元気のもとになっている。
「旦那のせい?」
「たぶん」
優歌は照れ笑いをしながらストールを外そうと手をかけたとたん、またネックレスを引っかけたことに気づいた。カフェまでと思って乱暴に羽織ってきたせいだ。無理やり引っ張れば解れてしまう。ストールも大事なものの一つだ。優歌は留め金を外して、ネックレスごとストールをとった。
「それ、婚約指輪?」
尾崎はネックレスのトップを指差した。
「うん」
「いつもしてんだ」
「そう。しないのはもったいないし、普段指にはめるには大げさだからネックレスにしてるの。匠さんが教えてくれて――」
「旦那ってさ、極端に冷めた感じを除けばモテ男の典型って気がするけど、どうなんだ?」
尾崎は優歌をさえぎって訊ねると、ポケットから携帯を取りだした。
尾崎の声は思いがけず険しく、優歌は慎重に糸から留め金を抜いていた手を止めて顔を上げた。何が『どう?』なのか優歌は見当がつかず、問うように尾崎を見つめた。
「これ」
携帯を操作していた尾崎は優歌にその画面を向けた。雑音ばかりの動画が流れる。何を映しだしているか理解したとたん、優歌は目を見開いて画面に見入った。
匠と女性が食事をしているシーンで、画像が途切れる瞬間、女性の手が匠の腕に伸びた。女性が自分でないことは確かめるまでもなく、その姿は背中しかわからない。それでも、その雰囲気と匠の見たことのある表情が女性の正体を明らかにしている。ショックなのは匠とその女性、美里のことじゃない。
英会話の帰り、匠とたまに合流することがある。そんなとき、固い経済の話から、互いが野球好きということを知るとプロ野球の話まで、匠と尾崎が挨拶がてらに話すことは一回や二回じゃない。楽しそうに見えていたのに、その裏で尾崎は何を考えていたんだろう。
「……なんでこんなことするの?」
優歌は信じられない気持ちでつぶやき、不安定になった鼓動が手を震わせた。
「水辺があんまりこいつを信用してるから。好き勝手にやらせてたまるか。おれは水辺が――」
「この女の人はわたしも知ってる人なの。匠さんは信用できる人だよ。それに尾崎くんには関係ない。こんなことをする人だって思わなかった!」
優歌はひったくるようにバッグとストールを手にして席を立った。呼び止める声も無視してカフェを出ると、優歌は小走りで駅に向かった。
三〇分後、動揺したまま家に戻ってから気づいた。
留め金を外したままだったネックレスから指輪が抜け落ちていた。
どう……しよう……。
ショックにショックが重なって眩暈がした。しばらく頭も回らなかった。呆然としたなかに携帯音が鳴って、優歌はびくっと肩を揺らす。
バッグから携帯を出すと画面は尾崎を示していて、優歌は出る気にもなれずに無視した。長いコールのあとやっと電話は切れた。
その電話でやっと思考力が復活して、優歌は一縷の望みを抱きながらカフェの電話番号を呼びだした。が、望みは呆気なく砕かれた。
それでも、と優歌は家を出てまたカフェに向かった。そっと覗いて見た店の中には幸いにしてレッスン仲間の誰もいない。店員に無理を云って探させてもらった。普段だったら優歌には絶対にできないこと。恥ずかしくてもそれにかまっていられないほど、優歌は不安に焦った。
馴染みの店員が手伝ってくれたけれど、その甲斐もなく指輪は見つからない。気にかけておくから、という店員になぐさめられつつ、優歌はお礼を云ってカフェを出た。
街灯を頼りに指輪を探しながら、帰り道をゆっくりたどった。駅構内に入る直前、小雨が降りだす。駅構内でも見つかることはなく、乗った電車なんてどれだかわからない。もし電車の中で落としたとすれば、届けでて出てくるのを待つしかない。
優歌はホームに立ち尽くした。あまりの衝撃で涙も出ない。
匠さん、怒るだろうな……。
優歌は他人事みたいにつぶやいた。
何気なく見たホーム内の時計は九時半を過ぎている。
匠は帰っているだろうか。正面を向いて話すよりも電話のほうがいい。優歌はそう思ってバッグを探ったものの、今度は携帯が見当たらない。コートのポケットにもなく、記憶をたどってみて、ブーツを履くとき玄関の靴箱の上に置いたことを思いだした。
……なんて間抜けなんだろう。
匠は仕事帰り、同期の金城と仲村と三人で会社の近くにある居酒屋に寄った。三人ともにそろって、去年の今頃は思いもしなかった家庭を築いた。この一年、業平の本社はゴシップの宝庫と化している。その噂どおりに愛妻家らしい二人とは、あまり長居もせずに駅で別れた。
腕時計を見ると九時半を差していて、ふと優歌はもう帰っているだろうかと思いながら携帯を開いた。しばらく待っても通じない。
風呂に入っていれば出られないだろうと考え至ると匠は電車に乗った。ガラス窓に雨粒のラインがいくつも見え始める。朝から曇り空だったにもかかわらず、傘は持ってきていない。濡れそうだな、と思いつつ電車を降りると同時に携帯が鳴った。
相手が誰かわかると匠は顔を険しくした。改札口を出て、足早に歩きながら呼び続けるコールに応じた。
「なんだ?」
『匠、だから相談に乗ってほし――』
「このまえ、仕事のことだって呼びだした挙句、云いだしたことはなんだ?」
『大学のときのこと、匠がルーズだったこと知ってるの。優歌ちゃんがいてもかまわないはずよ? わたしは云わない――』
「美里、いいかげんにしてくれ。おまえとは高校んときに終わったことだ。このことは優歌も知ってる。おれが独り身ならまだしも、優歌まで面倒に巻きこみかねない。泣かせるつもりは毛頭ない。いままでのようなことも、このまえおまえが云ったことも一切断る。男関係のダシにされるのはたくさんだ」
『逆なのよ! わたしはずっと匠を――』
匠は舌打ちして美里をさえぎった。
「結婚までして何やってるんだ? まさかそれまで当てつけだとか云うつもりじゃないだろうな。旦那はやり手のコンサルタントだって聞いてる。でたらめな奴じゃないらしいし、なんの不足がある? そういう奴に惚れられるんだ。おまえはもっと賢明にやっていける。おれはそう思ってきた。幻滅させないでくれ。おまえのことでおれが何を後悔してるかって云ったら、昔のことに絆されておまえの頼み事に付き合ってきたことだ。それが期待させることになったんだろ? だったらこれで終わりだ。おれはいま大事にしたいものがある。美里、おまえがいま本当に大事にしたいのはなんだ?」
美里が引き止めるまえに匠は電話を切ると、辛気臭さを振り払うように首を振った。
優歌を連れていれば十分ちょっとかかるところを、匠は八分足らずでマンションに帰り着いた。ドアホンを押してから濡れたコートを脱いで軽く水滴をはらう。が、一向に玄関のドアが開く気配はない。鍵を取りだしてドアを開けると、部屋が真っ暗なことに匠は眉をひそめた。
その時、携帯がまた匠を呼びだす。玄関の明かりをつけながら携帯を開くと見知らぬ番号だ。
「はい」
『上戸さん? 真由です。西尾真由』
「真由ちゃん?」
『はい。上戸さん、いまどこですか?』
真由は焦ったような口調だ。靴を脱ぎながらふと見た下駄箱に優歌の携帯を見つけ、匠は顔をしかめた。
「いまちょうど家に帰った――」
『優歌はいます? 優歌の携帯が通じなくて』
「ああ、優歌はまだ帰ってない。携帯は置きっぱなしになってる。忘れて――」
『上戸さん、優歌が今日、尾崎くんたちとお疲れ会やるっていうのは知ってますよね? そこでトラブったみたいなんです』
「トラブル?」
『なんか尾崎くん、余計なことして優歌を怒らせたって。それで優歌はすぐ帰っちゃったんですけど、その時、エンゲージリングを落としていったって。尾崎くんが電話しても優歌は出ないし、今度会うときにって思ったらしいんですけど、やっぱり落とし物が落とし物だからってさっきわたしに連絡が来て。結局、お疲れ会は潰れちゃったみたいだし、いま家にいないってことは優歌、探し回ってるのかも――』
「わかった。それで指輪は?」
匠はだいたいの状況を把握し、急くように捲くしたてる真由をさえぎると、優歌の携帯に目をやった。忘れるほどにあわてていたに違いなく、詳細よりもいまは捜すほうが先だ。
『わたしが預かってます』
「また連絡する。真由ちゃん、ありがとう」
匠は電話を切るなり舌打ちをした。
濡れたコートは着る気になれず、匠はそのまま玄関を出た。鍵を閉めかけたとき、ちょうど七階でエレベーターが止まった。
目を向けると同時に廊下に現れたのは優歌だった。