最愛−優恋歌−

章−優恋歌− 2


 匠はふたりがはじめて一緒に食事をしたイタリア料理のレストランに入った。
 匠の誕生日は結婚してまもなくの七月四日で、ささやかなお祝いをした。優歌としては何かプレゼントをあげたいという気持ちがあっても、無一文では元手がない。匠の給料で買うのもありがたみがないと思って、優歌は料理を頑張ってみた。丸一日かけて料理の本と睨めっこしながら作ったコース料理は、なかなかの出来栄えだった。
 今日はそのときに優歌が奮闘奮発した手料理のお返しだ。初デートの日と同じように匠が名乗るとすぐさま予約席に案内された。
 違うのは、テーブルにちょっとしたキャンドルと花が添えられていること。メニューが決められていないこと。今更、匠のまえで緊張することはなくメニューくらい自分で決められる。
 いや、一つだけ緊張するときがある。
 匠がベッドに入ってくる瞬間。照れてしまってどきどきする。
 けれど、それも触れられるまでのこと。いったん、匠の手がその意思を持って触れてくると羞恥心すら飛んで、何かを考えられる状態ではなくなる。体調に問題なければ、匠は毎日でも(はばか)ることなく優歌を(いざな)う。求められることは心地いい。
 真由が忠告したことは心配ないくらい相性はいい。と、優歌は勝手に思っている。
 メニュー表を眺めていた優歌は、同じようにメニュー表を持った匠の手を目の隅に捉えた。
 やっぱり匠の手は好きだ。
 そう思ったとたん、優歌はおよそいまの状況にそぐわない場面を思いだしてあたふたした。いまはそっちではなく食欲を満たさないと。

「どうした?」
 手に視線を感じる機能なんてないだろうに、匠はメニュー表をおろし、不意打ちで優歌を向いた。
 優歌ははっとして匠の手から目を外すと姿勢を正した。目と目が合って優歌の頬がかっと熱くなる。あらぬことを考えていたと悟られていないように願った。
「あ、いえ……やっぱりメニュー決めてもらっていいですか」
「自分で決める」
「……はい」
 すぐには気持ちを切り替えられず、優歌はまごついて依頼してみたけれど、匠は即座に却下して云い渡した。
 優歌はそっとため息をつく。自分で決められると豪語したものの、手渡されたメニュー表を見ると、前菜からデザートまでそれぞれ選択性になっていて面倒くさい。優歌にとっては迷路の手引書みたいに見える。幸いにしてどうしても食べられない食材はなく、優歌は適当に“何番目”という数字を決めて選んだ。
 匠が知ったら顔をしかめるだろうか。
 念のために見た値段は、そこまで(かしこ)まった雰囲気でないわりに普通のお店より二倍くらいのゴージャスぶりだ。優歌は思わず自分が頼んだ料理がいくらになるのか計算してみた。
 もちろん外食するからには余裕をもって財布の中は補充してきた。ただ家計を預かっている以上、主婦的な感覚だけは身について、つい考えてしまうのだ。単純にふたりで優歌の二倍の額と考えると、十日分くらいの食費をらくに(まかな)える。
 切り詰めが必要なわけではない。むしろ預かってみて、世間と比べてみたら業平の給料がいかに椀飯(おうばん)振る舞いかということを知った。淳介はいったいいくらもらっているんだろうと下世話なことを考えた。
 独身時代、匠は自炊しなくても余裕でやっていけたはずだ。匠は生まれ育ちも申し分なく良くて、そうなるといままでは思いもしなかった別のことが不安になる。
 ひょっとして優歌の手作り料理は、匠の口にお粗末すぎるんじゃないだろうか。いや、優歌の育ちもけっして悪くはない。ただ、淳介も佐織も中流層で育ち、特に佐織はいまでも普通の感覚だ。
 そういえば、と優歌は匠の実家を訊ねたときのことを思い浮かべた。パーティのことを除けば、杏奈は朝、昼と、料理の本を見ないとできないような気取った料理はしなかった。ということは普通でも全然かまわないのかもしれない。けれど、杏奈から昔はお手伝いさんがいたという情報も得ている。

「匠さん、わたしの作ったお料理は口に合ってます?」
 料理の注文をしたあと、優歌はつい訊いてしまった。いきなりなんだ? と云わんばかりに匠は目を細めた。
「残してないはずだけどな」
「……そういうことじゃなくて……こういう美味しいお店でばっかり食べてたら、わたしが作ったのってほんとに退屈だろうなって思って」
「退屈?」
 匠は優歌の表現をおもしろがって問い返した。
「まだレパートリーは広くないし、得意でもないから……」
「こういう店でしょっちゅう食べてたわけじゃない。もっと庶民的だ。……そうだな、優歌の料理を食べだして、嫌いな椎茸(しいたけ)が食べられるようになった」
 優歌は目を丸くした。
「匠さん、最初に訊いたとき、嫌いなものないって……」
 匠は(とぼ)けたように肩をすくめた。優歌は笑いだしてしまい、あわてて口もとを手で覆った。
「うれしい」
 首をすくめて優歌が云うと、匠は口を歪めてうなずいた。
 ちょうどそこへ給仕がワインボトルを手にしてやってきた。目の前でコルクを抜くと匠のグラスに少なめに注ぎ、別の給仕が前菜を運んできた。ワインを口に含んだ匠がうなずくと、給仕はそれぞれのグラスに三分の一くらいまで注いでから下がった。
「誕生日おめでとう、優歌」
 匠は胸もとでワイングラスをかすかに傾けた。
「はい!」
 優歌は匠がするように見様見真似でグラスに口をつけてみた。優歌の味覚はお酒を苦く感じて好きとは云い難い。けれど今日のワインは甘く感じた。そう知っている匠が飲みやすいのを選んでくれたんだろう。
「美味しい」
「だからと云って飲みすぎないようにしてくれ」
「いままでたくさん恥かいてきたんですけど、恥かくのって慣れないんです。酔っぱらって笑われたくありませんから大丈夫。それより、匠さんはこれ甘すぎて物足りなくありませんか」
「お酒には拘ってない」
 匠は頓着していないようにあっさりと答えた。
 毎日晩酌とまではないけれど、匠が種類を選ばずに飲めること、強いらしいことはわかった。それゆえ、いまだに酔っぱらわせることができていない。これで優歌が強ければ、一緒に飲み明かせるのに。

 食事はメインまで進んで、仔牛ロースのチーズ重ね焼きがやってきた。
「匠さん、一つ相談事あるんですけど……」
 肉にナイフを入れながら、優歌はためらいがちに切りだした。あらたまった云い方に、匠は手を止めて顔を上げた。
「なんだ?」
「あの……仕事が決まったんですけどやっていいですか?」
 優歌は反対されるまえにと決めてしまったのだけれど、案の定、匠は若干ながら気に入らないといった顔をした。
「なんの仕事?」
「あ、保育助手の仕事です。しかも助手の助手っていうか……話すと長くなるんですけど……」
「手短に話してくれ」
 長いと前置きしたにもかかわらず、匠は学生の頃から要約が苦手だった優歌に難題を下した。
「え……っと、はじめは九月にたまたま保育園の前を通ってて。あ、マンションの近くにある“ひかる保育園”ですけどわかりますか?」
「ああ。それで?」
「保育助手の募集のチラシが貼ってあったんです。保育士の資格は持ってないですけど、助手は資格が必要ないって。匠さんの実家に行ったとき、祥吾くんといて楽しかったし、だから人付き合い苦手でも子供が相手なら大丈夫かなって。安易ですけど。もちろん、保育士さんは大人だからそういう付き合いがあるのもわかってます」
御託(ごたく)はいい。本題だ」
「だめですか?」
「まだ全部聞いてない」
 匠はにべもなく答えた。
「……それで、そのときすぐに面接に行って……」
 おずおずと匠を(うかが)うと、口もとは真一文字に結ばれている。
「云わなかったのは採用されなかったらがっかりしちゃうし、それで匠さんになぐさめられたら泣きそうだったから。それ以前に匠さんは面接受けさせてくれないかもって……」
「云い訳はいらない」
 匠は不機嫌そうで、近づき難いくらい素っ気ない。それでもめげないあたり、優歌も対匠への免疫力は確実に向上している。
「やっぱり、そのときはダメだったんです。そしたら今日電話があって、決まった人がしばらく毎日来れなくなったから、臨時のホントに穴埋めだけどどうかって」
「それで、やりますってもう返事したわけだ」
「……はい」
「杏奈が云うには、子供の相手は体力勝負だそうだ」
「はい。でも毎日じゃありません。週に二、三日くらいだし」
 優歌がうつむくと匠はこれ見よがしにため息をついた。
 すぐに二回目のため息が短く漏れて優歌は顔を上げた。もしかしてと思ったとおり、匠の口もとには笑みが浮かんでいる。呆れた感も(いな)めない。

「わかった」
「いいですか?」
「自分でやると決めたからには途中で投げださないだろうし、反対する理由はない」
 匠はさりげなくプレッシャーをかけた。いや、もしかしたら嫌味と取れなくもない。
「怒ってます?」
「怒ってる顔に見えるのか?」
「いえ……お手上げって感じです」
「そのとおりだ」
 優歌が困ったように首を傾けると、匠は声と同じくすました表情を向けて食事に戻った。
「気をつけるって云ったのに……」
「なんのことだ?」
 優歌は聞こえない程度に(なじ)ったつもりが、匠は耳聡(みみざと)く気づいたようでまた顔を上げた。
「……云い方が遠慮なくなってませんか」
「そのままでいいって聞いた気がするけど幻聴だったらしい。悪かった」
 謝罪と相容れない匠の当てこすりは大人気ないと思うのに、やっぱり自分のほうが悪いような気分にさせられるのはなぜだろう。たしかに順番が違っているのは認めざるを得ない。
「……そのままでいいです。今度はちゃんと相談してからにします」
「……悪かった。優歌は悪くない。おれの問題だ」
 今度は本当に後悔している口調だ。何が『おれの問題』なのかは本人のみぞ知るところで、匠に教えるつもりがないのは明らかだ。
「子育ての練習できて、きっと損はないと思います」
 そう優歌が云うと、匠の顔にしかめた表情がよぎった。が、気のせいかと思うくらいすぐにその表情は消えて匠は可笑しそうにした。
「子育てって損得で考えることか? とにかく躰のことあるし、休んで迷惑かけないようにすることだ」
「倒れたのは一回だけですよ。普通に大丈夫……匠さん?」
 不意に匠の視線が優歌の後方に向き、優歌は云いかけている途中で言葉を切った。匠はわずかに眉間にしわを寄せている。

「優歌ちゃん、こんばんは。久しぶりね」
 優歌が振り向きかけると同時にテーブルの横に立ったのは立花だった。
「立花さん! こんばんは」
 優歌が驚きながら挨拶を返すと、立花は匠を見て問うように首を少し傾けた。それからまた優歌に戻る。
「匠から聞いてない? わたし、入籍して名字変わったの。お披露目はやってないんだけど、優歌ちゃんよりちょっと早く、六月の初めにね」
「そうなんですか。おめでとうございます!」
 優歌はさらに驚きながらお祝いを口にすると、立花は微笑んで小さくうなずいた。
「優歌ちゃんたちの結婚式はちょうどハネムーンの最中で行けなかったんだけど。いまは田辺っていうの」
 立花はそう云うと匠に視線を移した。
「匠、ちょっと相談があるんだけど今度乗ってくれない?」
「旦那がいるだろ?」
 優歌はとうとつな立花の頼み事にもちょっと驚いたけれど、匠の云い方にもびっくりした。それは以前の優歌への素っ気なさより、もっと冷たい印象を受けた。
 匠が顔見知りの女性と話すところをあまり見たことはないけれど、優美に対する態度と全然違っている。優美は年下だし、上司の娘でもあるから当たりが柔らかいのも当然といえば当然だ。立花の場合、昔から知っていると云っていたから遠慮もないのだろうか。それにしても、まえはこれほど酷くはなかった。

 あ、でもお姉ちゃんにはそうでも、わたしには柔らかくなかったような……。というより、わたしが勝手に冷たいって思いこんでいただけかもしれなくて……。

「匠じゃないとだめだからわたしは頼んでるんだよ?」
「仕事の話なら会社でいつでも相談に乗る。そうじゃないならだれかほかを当たれ。面倒はたくさんだ」
 優歌がのん気なことを考えているうちに、匠は険悪な様で立花を突っぱねた。匠にこんな口調で云われたら、優歌は間違いなく卒倒している。そうじゃなくても優歌は身をすくめた。加えて匠と立花の間に、これまでになかった不穏(ふおん)な雰囲気を感じた。
 なんだろう。人生経験がなさすぎる優歌には考えても見当もつかない。
 当の立花は匠の言葉にノックアウトされるどころか、優歌の反応とは真逆に笑みを見せた。
「優歌ちゃん、匠って退屈じゃない? 融通きかなくてワンパターンなのよね。女の子を連れて来るっていうとこの店なんだから」
 立花がまえに云った、『うまいことやったわね』というセリフとはまったく逆の意味合いだ。
 優歌はどう受け取っていいのか、困惑して匠を見やった。匠は目を細めて睨むように立花を見上げている。
「あの……退屈なのはわたしが作る料理のほうで、匠さんには好き嫌いの融通してもらってますから」
 優歌がためらいながら返事すると、きれいな立花の顔がかすかに歪んで見えた。何か答えなくちゃと思って云ったことは、立花にとって不愉快に聞こえたかもしれない。
「そう――」
「美里、何してるんだ?」
 男性の声が聞こえたと思ったら、立花が逸早(いちはや)く反応して声のしたほうを振り向いた。

 ……美里……さん?
 記憶にある名前が急浮上して優歌は目を見開いた。

 立花の傍に来た男性は三〇代の半ばくらいだろうか。匠より穏やかな雰囲気だけれど、精悍(せいかん)風貌(ふうぼう)だ。その視線は匠に向かい、一瞬目を止めたあと優歌に流れて、そして立花に戻った。
「会社の先輩とその奥さんがいたから挨拶してたの。上戸さんに優歌ちゃん。こっちはわたしの旦那さまで田辺(ゆずる)
 立花が仲介を取った挨拶から、匠と田辺はちょっとした会話を交わした。
「じゃあ、わたしたちはこれから食事なの。優歌ちゃん、またね」
 優歌は奥に進んでいく田辺夫妻の背中を見送った。

 美男美女というふたりに圧倒されつつ、まるで突風が吹いたあとみたいに、優歌の頭の中には疑問が散乱した。
 匠はあからさまにため息をつく。
「匠さん、美里さんて……」
「覚えてる?」
 匠が承知していないところで杏奈から聞かされていることに気後れしながら、優歌はうなずいた。匠はあのときと同じ苦笑いを見せる。
「美里は一つ下で、高校んとき付き合ってたことがある。いろいろあって長くは続かなかったし、終わってからは連絡とることもなかった。おれと同じで、美里も大学から東京に出てきたらしい。それから業平で偶然会った。こっちでずっと独りでやってきてるし、郷里が一緒だと気がラクなんだろうな。相談事を持ちかけられたりした。地元の奴に云ってないのは話の種にされるのが面倒くさいから。念のために云い訳すると、あのとき云ったとおり傷じゃない」
「そういう説明をわたしにするのも面倒くさかったんですね?」
 優歌はかなり大まかに説明をすませた匠をからかった。匠はすかすように首をひねった。
「もう一点、補足するなら。美里が云う『女の子』は会社の部下で、必要以上に残業させたときに何度か連れてきたことがある。ここは女受けするって金城に教わった。おれはここが気に入ってるし、ワンパターンには違いないけど(やま)しいことは何もない」
「わかってます。それに、きっとわたしの料理のほうがワンパターンです」
 優歌が答えると匠は可笑しそうにしながら肩をすくめた。

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