最愛−優恋歌−

章−優恋歌− 1


 結婚してからちょうど五カ月。季節はまったく逆になって、十一月も半ばを越え、だんだんと寒くなっている。夕方の六時を過ぎて外はすでに真っ暗だ。
「上戸さん、じゃあまた来週ね!」
「はい。お疲れさまでした」
 英会話教室の玄関を一緒に通り抜けると、同じクラスの女性が優歌に手を振りながら帰っていった。
 最初の頃は匠と同じ姓の人がいるんだと思うくらいで、気にかけていなければ聞きすごしていた『上戸さん』もしっくりくるくらい慣れた。

 英会話教室には九月から週二日のペースで通っている。
 毎日、家事ばかりで時間が過ぎていくというのは気を遣わないぶん、優歌にとってはらくなのに、現実から取り残されたような閉塞(へいそく)感がある。
 マンションの住人が知らない人ばかりなのは当然だけれど、主婦たちが井戸端会議をやっているなかに、そうそう簡単に入りこめるような性格はしていない。そもそも不景気で働きに出ている人が多いのか、ちょっとしたお喋りの場面さえめったに見かけない。サスペンスドラマの再放送でよく見た風景は、いまや過去の産物なんだろうか。
 優歌はもともと独りでいても苦にならないから、閉塞感とは違う気もする。匠が仕事をしている間、自分が毎日をなんとなくすごしていることに罪悪感みたいな気持ちを覚えたのだ。

 仕事を探そうかと思って。
 お盆休みを利用した蜜月旅行(ハネムーン)のあと、思ったままを添えて優歌がそう云いだすと、匠はわずかだけれど顔をしかめた。
 習い事でもいいんじゃないか?
 何やら考えこんだ匠はやがてそう助言した。
 優歌なりにいろいろ思案したすえ、匠には海外転勤の可能性があることを考えて、いちばん無難な英会話を習い始めた。仕事をするにしても、定職を探そうとしていたわけではなく、アルバイトということしか頭になかった。人見知りするわりに定住地に安泰する(こだわ)りはなく、優歌の中で単身赴任というのは選択外のことなのだ。
 英会話教室にしろ、付き合いが不可欠で、むしろ会話という以上、コミュニケーション必須の習い事だ。それでも尻込みするよりは頑張ろうという気持ちになるのが自分でも信じられない。
 優歌が拘るのは匠の居場所なんだろう。
 たぶん、それくらい匠さんのことが好きで……。
 優歌は誰も見ていないのに独り顔を熱くした。

 去年の今頃を思えば、匠は中国で、優歌は短大生だ。その一年後のいま、想像すらしたことのなかった結婚をして、ふたりともに生活はまるで一変した。いや、一変という言葉は月並みすぎる。
 淳介の申し出から結婚するまでは、()かされるような日々だったせいか、いまになってみると現実離れしていた。マリッジブルーどころか、逆に浮足立っていた感覚。
 匠自身がどうだったのかはわからないけれど、匠はそういう優歌に気づいていたようだ。違う。わからない、ではなく、匠はやっぱり優歌よりも遥かに大人で着実に冷静だった。

「急ぐ必要はない。気持ち的に落ち着いて、優歌の準備ができてからでも遅くない」
 そう匠が云ったのは結婚した夜のこと。

 披露宴のあとは、ふたりの友だちや業平の社員が入り混じっての二次会を開いた。新生活の場となるマンションに帰ったのは八時を過ぎた。
 トラブルもなく無事に終えた結婚式の余韻が残って気が張っていることと、匠の実家へ行ったときに同じ部屋で眠るという経験をしていたせいか、“ふたりきりの夜”ということに優歌はそれほど緊張もなかった。さきに寝室に入ってベッドに座ったとたん、ちょっと呆然とはしたけれど。
 そのすぐあと、いざ寝室に入ってきて云った匠のセリフが何を意味しているのか、優歌でもすぐに見当がついた。



「準備はいりません」
 ベッドの傍に立った匠を見上げて、考える間もなく優歌の口をついて出た。云ってしまってから赤面しているんじゃないかと思うくらいに顔がカッとした。
 匠は、優歌のその衝動がしぼんでしまうほど長い時間、不自然に無言で動かない。長いというのは大げさかもしれないけれど、優歌が考え直すには充分な時間が与えられた。そうする匠に困惑を覚えながら、優歌は取り消さなかった。
 まずいま断ったとして、今度はいつ? ということに不必要にどぎまぎするのは目に見えていて、優歌から、準備できましたと云えるわけない。“いま”でなければ“いつ”は来ない気がした。
 きっと、いまがいいんです。優歌はその“二つ返事”の二つ目を云おうとして、いったん口を開けたもののすぐに閉じた。ふと気づいたのだ。
 もしかして取り消すのを待っている? それ以上に後悔している?
 真由と話したことがオーバーラップしてしまう。匠が乗り気じゃないという疑惑が浮上して、優歌は居心地悪さのあまり、血の気が引くくらい焦った。
「……あ……匠さんが――」
 優歌は云いながらうつむいた。同時に匠の足が視界に入ってきた。
「急ぎすぎるようだったら云ってくれ」
 そう云うなり、匠から脚をすくわれた。何がなんだかわからないうちに優歌の躰はベッドに横たえられた。伸しかかるように躰を(また)いだ匠の顔が優歌の真上に来た。大きく見開いた瞳と目を細めた瞳が重なる。

 いつもの(かす)めるようなキスのあと。頬を包んだ大きな手。くちびるに宿る熱。躰を滑る手。躰の奥へと伝うキス。そこに行き着くまでどれくらいの時間が流れたのか、躰が果てしない空間に浮遊する感覚。恥ずかしい気持ちは痛みを感じた瞬間に消えた。匠はゆっくりとして、それでいてどこか(あつ)くて、全身に匠の手の痕跡が焼きついた気がした。

 匠はそれからごく自然なことのように優歌を引き寄せ、その腕の中、優歌は猫が喉を鳴らすような気分で眠った。

 順風満帆な出だしかと思えたその翌日、優歌はいきなり現実という地に舞い戻った。
 自分でも、躰のことが気にならないほど調子良かったことに油断していたのかもしれない。
 朝、優歌はふわふわした気分で目覚めた。昨夜の名残で躰の奥にちょっとした違和を感じながら、匠の腕から抜けだす。ベッドから脚をおろしたとたん、優歌はふにゃふにゃと床にしゃがみこんだ。ふわふわなのは異様にだるい躰のせいだった。優歌は息を荒くつきながら、頭をベッドにもたせかけた。
「どうした?」
 気づいた匠がすぐさまベッドからおりて、正面にかがみながら優歌の顔を覗きこんだ。
「匠さん……」
 喋るのも億劫で優歌は目を閉じた。かすかに冷や汗が(にじ)む額に匠の手が触れる。
「掛かりつけのドクターの名前は?」
「匠さん……大丈夫。たぶん……低血圧で起きれないだけ。しばらくしたら……」
「いいから名前は?」
「……石川先生」
 答えると匠は優歌を抱えてベッドに戻した。互いに裸であることが気にもならないくらい、優歌はぐったりとなってされるがまま布団に包まれた。
 クローゼットのほうで服を着ているような布の(こす)れる音がして、それから匠は寝室を出ていった。五分なのか十分なのか、しばらくしてベッドの片側が沈んだ。
「先生と連絡取れた。たまにあるらしいな?」
「はい……疲れてるとき……」
「ずっと忙しくさせたし、躰のこと気を遣うべきだった」
 匠の言葉に優歌は自分が(うら)めしくなった。
「……匠さんのせいじゃありません」
「泣くことじゃない。少し具合がよくなったら教えてほしい。病院に連れていくから」
 匠の涙を(ぬぐ)う手のひらの中で優歌はうなずいた。

 それから服を着られるまでに回復するのを待って病院へ行った。診察では特に異常は見当たらず、自分で診断したとおり血圧がいつもより低いだけだった。食べる気になれなかった優歌は栄養剤の点滴注射を処置された。
 ベッドに寝て点滴している間、その(かたわ)らで匠と石川が話すのを聞いていて、優歌は匠の実家が病院であることを思いだす。総合病院という迷いそうに大きな病院でも、加えて、休日とあって不便な受付をしなくてはいけないのに匠が手際よく対処したはずだ。
 石川は優歌が物心ついて以来の担当医で、五〇才を超えても、大きいという印象は変わらず恰幅(かっぷく)がいい。匠との会話のなか、石川はその反応が気に入ったようで、かなりの時間を治療室で潰した。
「このまえまで学生だったのにもう結婚と思ってたんだが、いい旦那さんで安心だ。結婚して早々、倒れるというのも優歌ちゃんらしい。気が滅入るのもわかるが、なあに、あとになったらこれはこれでいい思い出になる」
 石川は感慨深げに口ひげを擦りながら、そう云い残して治療室を出ていった。
「石川先生の云うとおり、気にすることはない」
「……はい」
 一時間半の点滴の間、匠はずっと優歌に付き添っていた。話すことはあまりなくても、投げだした手に重なった匠の手が優歌をなぐさめた。



 結婚して躰の弱さを挽回(ばんかい)するつもりだったのに、逆に警戒心を(あお)ったようで、それから匠は、どうだ? と朝起きたときと仕事から帰ったとき、優歌に躰の調子を訊くのが常習化した。
 そういう経緯があるから、おそらくは仕事をすると云ったときも渋ったに違いない。
 その過保護ぶりを抜きにすれば、匠を“知る”まえよりもいまのほうが格段に、ありふれた言葉で云うなら、幸せ、だ。
 結婚していることをいまだに不思議に感じるときがある。一年前にまるっきり他人だったことのほうが現実で、いまは夢の中にいるんじゃないかという疑い。それくらい、ふたりは相容(あいい)れなかったのに。

「あれ、水辺?」
 英会話教室の玄関から道路際まで出ていると、優歌はいきなり横から旧姓で名を呼ばれた。外灯と教室から漏れる灯りが頼りの薄暗いなか、ちょっと距離があって、目を凝らしてみても誰か判別がつかない。ただ、男とわかる声はどこかで聞いた気がする。
 近寄ってきた人がほんの間近で立ち止まる。その顔を見上げると、優歌の目は大きく開いた。
「あ……尾崎くん?」
 ここで高校三年の時のクラスメートだった尾崎伸也(のぶや)に会ったことにも驚いたけれど、声をかけられたことのほうが余計にびっくりした。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
 優歌は戸惑いながら同じ言葉を返した。久しぶりというのは今年の初めにあった同窓会以来ほぼ一年ぶりのことだ。

 尾崎とは三年になってはじめて同じクラスになった。なんでもオールマイティーにこなす人で、一年生の終わりには優歌が知っていたほど、高校時代はやたらと何か役を引き受けて男女ともから頼られていた。くどさの一歩手前という彫の深い顔立ちは根が明るい性格だとわかる。嫌われることもなければ嫌うこともしない、誰からも好かれる人気者だ。かといって、優歌はこんなふうに気軽に声をかけられるほど尾崎と話したことがない。それ以前に、尾崎以外でもそういう男の子はいなかった。
 尾崎と近づいたときはあった。気を遣うのも遣わせるのも嫌でずっと目立たなくやりすごしてきたのに、三年になってすぐの文化祭で、クラス実行委員の五人のうちの一人として無理やり借りだされた。その実行委員のなかに尾崎も在籍したのだ。
 尻込みする優歌に、真由はかばうよりもむしろ勧めた。
 優歌は自分で断れるほど強い気持ちも持ち合わせていなければ、やる気も見いだせずに、駄々をこねる子供みたいに尾崎の足を引っ張った。
 あまりいい印象を人に与えることはないけれど、尾崎には間違いなくぐずぐずした面倒くさい印象しか与えていないはずだ。
 そういえばあの文化祭のあとも倒れたんだった。何もしてないのに気だけは遣っていたらしい。そこまで思いだすと、優歌は自分にうんざりしてため息をつきそうになった。

「ここにいるって、もしかして通ってんの?」
 尾崎は英会話教室を指差した。
「うん。九月から始めたばかりで……」
「おれは十月から。いまからだけど水辺は?」
「いま終わったとこ」
「なんだ、入れ違いか」
 尾崎はそう云いながら、優歌を上から下までざっと眺めた。
 なんだろう?
 それは匠がたまに見せる視線の流し方と似ている。匠のときのどぎまぎと違って、いま目の前にいる尾崎には親しくないだけに困惑した。
「お、尾崎くんは大学だったよね?」
 話題を探して焦ったあまり、優歌はちょっとどもってしまった。
「ああ。来年は就活だし、英会話もそのために始めた。講義じゃ話になんねぇし」
「そうなんだ」
 高校のときからそうだったように尾崎はやっぱりしっかりしている。感心していると、尾崎は何か云いたそうに首を傾けた。
「なんか、雰囲気変わったよな」
 尾崎は質問とも独り言ともとれそうな響きでとうとつにつぶやいた。
「え、そう……?」
「優歌」
 今度は反対側から名前を呼ばれた。匠に違いなく。今日十九日は優歌の誕生日で、外食するのにここで待ち合わせた。
 優歌が振り向くと、ちょっと先に匠が立ち止まっていて、優歌からその背後に見える尾崎に目を向けた。
「カレシ?」
 尾崎に訊かれて優歌は視線を戻した。
「結婚したの」
 優歌は尾崎の反応を確かめるまえに、傍に来た匠を見上げた。
「匠さん、高校のときに同じクラスだった――」
「尾崎伸也です」
「上戸匠です」
 優歌をさえぎって尾崎が名乗り、匠は小さくうなずきながら応じた。
「へぇ。なんか意外だったな。じゃ、もう始まるから行かねぇと。またな!」
 尾崎は匠をしげしげと眺めたあと優歌を向き、端的な感想らしきことを一方的に云い残すと、軽く手を上げて教室に向かった。

「尾崎くん、ここで英会話習ってるって。今日、はじめて会ったんですけどびっくりでした」
 匠は不躾な尾崎の視線に気を悪くした様子もなく、肩をかすかにすくめると、行こう、と、もと来た道に折り返した。
 こういう反応のなさはいまに限ったことではない。優歌は追いついて匠の小指をつかんだ。
 可笑しそうな眼差しがおりてくる。匠を見上げて笑うと、優歌のくちびるにキスが落ちた。

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