最愛−優恋歌−

章−優恋慕− 8


 それからほとんどマンションの整頓に費やした二週間が過ぎた。
 結婚式を明日、六月二〇日の土曜日に控えた今日は匠の家族が上京してきた。匠は午後から休みを取り、淳介と優美は昼休みを長く取って、両家の初顔合わせの会食をした。匠とふたりでちゃんと橋渡しができて、やっぱり五月の連休に挨拶に行ってよかったと思った。
 昨日は、淳介と匠に連れられて業平商事の会長と社長への事前挨拶をすませている。慄きながら訪ねた最上階のフロアは、匠たちがいる営業部フロアとはまったく印象が違って、まるで高級ホテルのような(たたず)まいだった。
 淳介より三才年上になる加藤社長は第一声で、大きくなったなぁ、と優歌を見ながらしみじみと口にした。社長になるずっとまえは淳介と同じ営業部にいたという。優歌はまったく覚えていないけれど、その当時、会社に連れて来られたときに会っているらしい。
 そのことが気休めになって、社長と、その父親である加藤会長への挨拶は失態もなく終えた。何より、トップを前にしても匠からまったく緊張が見えないことが優歌を安心させた。
 とりあえずは明日まで大事が控えている。その時は無理しても、それがベストなことであればそう尽くすと、どこかで実を結ぶ。今日の会食がそれを証明している。やらなくちゃ、と思うことは尻込みしないでやらないといけない。匠といると不安があってもそういう気になれるから不思議だ。

「いよいよだな」
 夜になって水辺家の家族水入らずの夕食の席、淳介は大きく息をついて云った。匠もまた、家族と食事をしている頃だろう。
「うん」
「……明日からさみしくなるな」
 結婚は自分が云いだしたくせに、淳介はまったく矛盾した表情をしている。眉間にしわを寄せて、まるで不愉快そうだ。これを匠が見たらどう思うんだろう。
「まあ、やっぱり父親ね。いざとなるとごねるなんて。あなたが出しゃばらなくてもいずれはこうなったのに」
「……お母さん、こうなったって?」
「あ……つまり、いまの優歌と匠さんを見てると、数年後には自然とこうなったんじゃないかってことよ」
「そうかな……」
 佐織に云われて優歌は想像してみたものの、うまくイメージが湧かない。それでも、はじめて会った日に好きという気持ちの芽生えがあったとしたら、佐織の云うとおりかもしれない。匠を知りたいと思ったこと。それが“好き”の始まりだと、優歌は気づかされた。
「優歌、体調はいい?」
 佐織が心配そうに訊ねた。
「緊張はしてるけど大丈夫」
「優歌も子供じゃないんだから、自分の体調管理くらいできてるわよ」
 優美がフォローしてくれて、優歌はうなずいた。

 あの告白から、ぎくしゃくしていた優美との関係も大方もとに戻っている。そう素直に思っていいのか、思っちゃいけないのか、優歌にはわからない。ただ、ずっと気持ちがつかえている。優美にとっては無神経でしかないさっきの佐織の発言にしろ、優歌は優美を前にしてどう反応していいのか戸惑った。なるべく自分からは結婚の話はしないようにしてきたけれど。
 優歌は考えあぐねたすえ、うやむやのまま明日を迎えるよりははっきりしておきたい気持ちのほうが勝った。あくまで優歌の都合だ。優美をまた傷つけるかもしれない。

 優美がお風呂から戻ったらしいのを見計らって、優歌は部屋のドアをノックした。ここで拒否されたら元も子もない。返事を確かめずにドアを開くと、鏡台の前に座って濡れた髪を()いている優美の後ろ姿が目に入った。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
「どうしたの?」
 優美は鏡越しに優歌に目を向けた。
「うん……匠さんのこと……」
「いいんだよ、優歌。あの時はちゃんと決着をつけたかっただけだから。そうしないと、いつまでも引きずっちゃうじゃない? そういうのはわたしの性に合わないから。それだけのことなの」
「それでも……。お姉ちゃん……わたし、匠さんのことが好き。すごく好きで……だから……お姉ちゃんにも譲れないの! お姉ちゃんにはいろんなこと助けてもらったのに……わたし、わがままで卑怯でごめんね」
 優美はブラシを持った手をおろし、ふっとため息をついた。
「優歌が云う『好き』と、わたしが云った『好き』ってなんだか響きが違うのよね」
「え?」
「云い方とか雰囲気とか」
 優美は肩をすくめて答えた。
「お姉ちゃん……」
「わたしは上戸さんを見て、その上戸さんは何を見てたと思う?」
「え?」
「答えは自分で見つけるべき。まあ結婚するんだし、もう見つける必要はないのかもね。まったく、普通ね、好きだって告白されて、挙句の果てにあんなに素っ気なくふったくせに、そのわたしに優歌の指のサイズって訊く? わたしはもっと神経の通った男のほうがいい。優歌が上戸さんを好きなのはわかった。明日の朝は早いんだから、早く寝なさいね。お母さんじゃないけど、主役が倒れちゃったらどうしようもないでしょ?」
「……うん。おやすみ」
「おやすみ」
 優美は平気そうにしている。そんなわけはないのに。
 自分が、と立場を置き換えてみると、想像すらしたくないほどつらい。優美にまた誰かが現れたら、いつか自分のずるさを消化できるんだろうか。優歌はそんなことを考えた。



 結婚式当日、梅雨に入った空は気まぐれにも、祝福しているかのようにすこぶる快晴だ。
 早朝七時に匠が迎えにきた。式のまえにふたりで婚姻届を出しにいく。
 両親と簡単に挨拶を交わしたあと、匠を玄関先で待たせ、優歌はまたリビングに戻った。
 お世話になりました。
 まだまだ世話をかけることはあるだろうけれど、ここで一区切り。そう思った。ありきたりの言葉なのに、自分で云って泣きそうになった。
 何かあれば云いなさい。遠慮することはない。
 淳介は気恥ずかしそうに、それでいてさみしそうに答えた。
 両親に送りだされて玄関を出ると、匠は優歌を見て何かもの云いたげにした。結局は手を差しだしながら、行こう、と短く云っただけで、ふたりは待たせていたタクシーに乗りこんだ。
 会話はいつもみたいに途切れがちだけれど、ずっと繋いでいる手がやっぱり優歌を安心させる。
 一番目の目的地、区役所に着くとタクシーを待たせて時間外窓口まで行った。
 届け出るまえに匠はいったん立ち止まり、優歌も足を止めた。

「優歌、ここで届けでたら、もうまっさらの取り消しはきかない。いい?」
「匠さん――」
「返事はいい。どっちにしろ、おれは取り消しを認めるつもりはないから」
 不安そうにした優歌の表情が今日の空のように晴れやかになった。
「はい」
 うなずきながら答えた優歌はくすくすと笑いだす。匠は眩しそうに目を細めた。そうした表情のときに必ずおりてくるキス。匠は顔をおろしかけて止めた。優歌が問うように見ると、匠は惜しむようにしながら顔を上げる。
「今日は神聖な日だし式まで待たないとな」
「匠さんてお父さんと同じくらいロマンティックですね」
 優歌がからかうと匠は肩をすくめた。
「匠さん」
「何?」
「手を貸してください」
 そう云いながら優歌はバッグから箱を取りだした。
「左ですよ」
 立場が逆になって、優歌はまえと似た会話を可笑しそうに繰り返した。匠は首をかすかに傾ける。
 優歌は箱から中身を取りだして匠の左手首につけた。見上げると、匠は驚いたように眉を少し上げる。
 黒を基調にしたダイバーズウォッチは匠の力強さを感じさせる手首にぴったりだ。電池要らずの時計は、少なくともふたりが一緒にいられる間、ずっと止まらずに時を刻んでくれるだろう。
「指輪のお返しです。時計はずっと残るし、いまから動かせばちょっとロマンティックですよね?」
 匠は口を歪めた。
「さすがに本部長の血を引いている」
「匠さんに負けてられませんから。気に入りました?」
 匠は答えるまでもないとばかりに肩をすくめた。
 気に入ったのは当然に違いない。淳介の時計を選ぶと嘘をついて、さり気なく匠の趣味を聞きだした。
「たぶん、わたしの指輪よりすごく安いです。仕事してないから、お年玉とかお小遣いとか貯めてたのを全部使って。だから、一文無しですけどいいですか。取り消すならいまですよ?」
「覚悟のうえだ」
 取りようによっては散々な言葉だけれど、匠の表情は温かい。

 窓口で宿直者を呼びだし、婚姻届を書くときと同じくらいどきどきしながら提出した。まえもって不備がないことを確認した婚姻届が宿直者の手に渡る。
「ご結婚、おめでとうございます」
 義理でもうれしかった。
 会場に行くと、スタッフから待っていたとばかりに匠と引き離され、優歌は用意された部屋に連れて行かれた。まるで人形になった気分で頭から足の先まで着飾られていく。仕上がるまで一時間、促されて壁一面の鏡の前に立ち、やっと優歌はまともに自分を見ることができた。
 自分の姿をしげしげと眺め、いま本当に現実にいるのか、優歌は思わず疑ってしまった。
 フレンチスリーブの真っ白なウエディングドレスは、ウエストから程好い長さのトレーンまで緩やかに広がって、神聖な日にぴったりの清楚さがある。ハーフアップにしたフェミニンな髪とベールのせいで、試着のときの雰囲気とは全然違った。
 云うことなしね!
 スタッフが満足げにつぶやいた。優歌も自分にしっくり馴染んでいるように見えた。
 雰囲気が可愛いと云われたことはあってもきれいと云われたことはない。それでも今日は匠もきれいだと思ってくれるだろうか。そう思ったとしても、きっと云わないだろうから、せめて表情を見逃さないようにしよう。
 時間になって控室を出ると、ドレスの裾を踏まないために、ちょっと蹴るような歩き方を練習しながら式場に向かった。意識しすぎると兵隊っぽい歩き方になって自分でも可笑しくなった。それがちょっと緊張した気分を(ほぐ)す。

 チャペルの手前に設けられたスペースに匠が見えた。優歌に気づいた匠の視線が顔から足もとまで伝いおりて、また顔に戻った。
 きれいだと思ってくれたか、その表情を確認するまえに、優歌のほうが匠に見惚れてしまった。日本人にはあまり似合わないホワイトパールの色なのに、匠のシャープさが甘さを抑え、そのフロックコート姿は卑怯なくらいに決まっている。
「どうですか?」
「人形みたいにしてる……このまま飾ってたいかもな」
 優歌は首をかしげると匠は付け加えた。
「それは誉めてるんですよね?」
「そのつもりだ」
 匠は小さく笑った。

「優歌」
 優美の声がすると同時に、その後方には両家の両親の姿も見えた。
「お姉ちゃん、どう?」
「すっごくきれいだよ。……優歌」
 優美は感心したように云ったあと、ちょっと間を置いて優歌の名を呼んだ。優美がいつもの華やかな笑みを浮かべた。
「上戸さんて優歌みたいに静かな子のほうが合ってるのかもね。くやしいけど、ふたりを見てるとそう思うの。優歌、結婚おめでとう。幸せになるんだよ」
 優美からは聞けないだろうと思っていた言葉。優歌の目が涙に潤んだ。
「……お姉ちゃん……」
「上戸さん、優歌をよろしくね」
「ああ。優美ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして。そのかわり、上戸さんは絶対にわたしのことをお義姉さんなんて呼ばないこと。優歌はブーケトス、わたしが受け取れるように投げなさいよね」
「無理!」
 笑った拍子に溜まった涙が零れた。
 あらあら、とスタッフが慌ててティッシュで(ぬぐ)った。そのとき、ちょうど両親たちが近くに立った。
「どうかな?」
「きれいよ」
 佐織と清美が声をそろえて云う横で、淳介は何も云わずに二度うなずいた。
 アテンダーが、そろそろ、と促す。匠の両親と佐織、そして優美は先にチャペルに入っていった。

 いよいよとなって優歌の手が震える。気づいた匠が淳介の前にもかかわらず、優歌の手を取った。
「大丈夫だ。独りじゃない」
 見上げると、匠の眼差しが柔らかく優歌に注がれる。
「はい」
 匠はうなずき、それからアテンダーに案内されてチャペルの中へと消えた。

「娘とは薄情なものだな」
 一瞬にして落ち着いた優歌を見て淳介がぼやいた。
「お父さんが仕向けたんだよ?」
「それとこれとは別だ」
 優歌はくすくすと笑った。
「お父さんはずっとわたしのお父さんだよ」
「あたりまえだ。無理せずに頑張るんだぞ」
「うん」

 これからのことに緊張しているより、優歌を目の前にして()ねた、そして感極まったような淳介を見ると、手に残った匠の温かさと相俟ってしっかりした気持ちが湧いてくる。
 扉の前に立つと、その向こうからパイプオルガンの音が聞こえた。
 アテンダーが合図すると同時に扉が開いて、淡いブルー色をしたステンドグラス越しの柔らかい光に迎えられた。
 まっすぐ先にいる匠がこっちを向いて待っているなか、淳介の腕に手を添えて歩いていく。
 淳介の腕を離れ、二歩進んで匠の左腕につかまった。
 これまでの短い時間の中で手を繋いで歩くのはあたりまえのことになっていて、優歌と匠の歩調は自然にそろう。

 ヨイトキモワルイトキモ、トメルトキモマズシキトキモ、ヤメルトキモスコヤカナルトキモ――。

 独りじゃない。
 ふたりで。

 ともに重ね合わせた言葉は。

――誓います。

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