最愛−優恋歌−
章−優恋慕− 7
マンションは五月の半ばに決まった。手続きが終わって正式に所有となるまで大急ぎで引越しの準備をした。
中国赴任直前に寮に引っ越した匠は荷造りも少しですむらしい。中国から帰ったあとにすぐ結婚話があったわけで、アパートから引っ越したまま、荷物はあまり解いていないようだ。
優歌が家から持っていくのはほとんど衣類で、あとは匠の提案で買いそろえることにした。
式の準備で打ち合わせや衣装決めと忙しいなか、ふたりが会うのも家具から雑貨品までのインテリア物を買いつけるというデートになった。わくわくした気分で楽しい。ベッドを選ぶときにはかなり戸惑ったけれど。
五月の最終日に鍵を手渡されて入った部屋は、七階という手頃な高さで見晴らしがよく、南に位置したベランダからは、ここが気に入った理由の一つ、緑の芝生の公園が見える。散歩コースもあって、毎年、四季折々を彩る木々や花がきれいに整備されているらしい。都心よりちょっと離れていても、買い物するにも公共設備も不自由はない。
建ったばかりというのも幸先がいい。蜜月旅行が夏まで伸びることもあって、ここが名実ともにふたり一緒にスタートする場所だ。そう思うたび、優歌は単純だけれど感極まる。
六月に入って最初の週末、明日は頼んでいた家具が届く予定だ。
「なんだか思いだすねぇ。四年前のちょうど今頃だったもんね」
正面に座った真由が、斜め向かいにそびえる業平商事のビルを眺めながら口にした。
業平商事と道路を隔てた向かいは公園になっていて、その横にオープンカフェがある。平日に匠と会うとき待ち合わせに使う場所で、今日は式まえに匠と会ってみたいという真由が優歌に付き添っている。
六月となると夕方でも温かく、オープンカフェは仕事帰りのOLたちが多い。ずいぶんと日の入りが遅くなり、六時半近くになってようやく暗くなり始めたところだ。
「うん。あの時のことを考えると、自分でも匠さんと結婚するって信じられない」
「ぷ。優歌ってば上戸さんが出た電話は切るわ、具合は悪くなるわで、まあいい日じゃなかったことはたしかだね」
真由は何を思いだしたのか、不意ににやつきだした。
「何?」
優歌が訊ねてもすぐには答えず、真由は手にしたカップを口につけた。
「お互いに一目惚れだったのかなぁって思って」
真由はしみじみしたため息混じりで云った。優歌は目を丸くして真由を見つめた。
「え?」
「優歌から結婚て聞いたときはただ驚いただけだったんだけど。わたしたちのうちじゃ、結婚一番乗りだもんね。優歌っていちばん、ていうか極端に晩熟じゃない? どうみても男と付き合うまでがたいへんそう。それなのに、全部飛び越えちゃって結婚だよ?」
「それにいちばん驚いてるのはわたしなんだよ、たぶん」
「だから、それ」
真由が人差し指を優歌の顔に向けた。
「それ、って?」
「お父さんが云いだしたといっても、決めたのは優歌と上戸さんでしょ? しかも即決ってことは、お互いにいい感情を持ってたってことじゃない? 優歌はずっと上戸さんのことを苦手だって云ってたけど、それだけ気にしてたってことだし」
真由に指摘されて優歌は考えこんだ。
「正直に云うと、いまは匠さんのこと好き、って思うの」
「わぁ」
真由が冷やかして奇声をあげた。
「真由、真面目に聞いて」
「はいはい。それで?」
優歌が諌めると真由は小さく肩をすくめて促した。
「でもその“好き”がホントの“好き”なのか、よくわからなくて……あ、でも、はっきりしなくても別にいいんだけど……」
「優歌がそこまで晩熟だとはねぇ……。じゃあね、こう考えてみて。例えば優歌のお姉ちゃん。いまの気持ちで、もし上戸さんの相手がお姉ちゃんだったらって考えてみて」
真由には優美のことは話していない。その優美の名前が出て、優歌はいきなりリアルに感じた。
嫌だ。
優美の告白を聞いたとき、優歌の心がそうつぶやいた。
「だめ!」
即答すると真由は笑いだして、優歌はばつが悪くて口をちょっと尖らせた。
「真由……」
「その気持ちが『ホント』じゃないの? さっきの返事、あの名刺のときと同じだよ?」
優歌は驚いて目を見開いた。
ホントの好き。
そうなんだろうか。優歌は宙を見ながらいままでのことを順に追ってみた。
あの最初の勇気は、単純にいえば見直してほしくて、そして振り向いてほしかったのかもしれない。ずっと苦手だったことも、実は苦手なんかじゃなくて、自分のことなのに名をつけられない感情に戸惑って、どう振る舞っていいかわからないだけだったような気がする。
ここに来てやっと自分の気持ちに合点がいく。
だって。
匠が中国赴任で日本を一年離れると聞いたときは、ほっとするより憂うつになった。いま思うと、憂うつじゃなくて、さみしい、というほうが合っている。帰ってきたと聞いたときはへんに浮きだってどきどきした。どうしよう。そう思ったのは不安ではなかった。
いつ家に来るんだろう、いや、来るんだろうか、と漠然と思っていた矢先、一年ぶりに会った席での結婚話。そのときの自分の気持ち。
後ろめたさは淳介が自分の気持ちを見透かしていたんじゃないか、恥ずかしさはもしかしたら匠も、という無意識の恐れだったのかもしれない。その匠が嫌われていると云った瞬間に否定してしまったこと。いつも優柔不断な優歌が、迷うより早く決断していたこと。
「……そうなんだ……」
優歌はぼんやりとつぶやいた。真由がぷっと小さく吹きだす。
「優歌のお父さん、大手柄だね。お父さんが云わなかったらきっと優歌の初恋は気づかずに終わってたかも。まあ、上戸さんが動けばいいことだけど」
「……匠さんが動くわけないよ。年の差を考えても普通に考えて釣り合わないし」
「そういうものじゃないでしょ。わたしは逆の発想をするけど」
「逆って?」
「上戸さんてどっから見ても上玉でしょ? 容姿はいうことなし、仕事はできる、おまけに地元じゃ坊ちゃん。そういう条件がそろってて彼女がいないことが不思議だし、いなくても普通、浮いた話の一つや二つあってもおかしくないのに、その金……えっと」
「金城さん」
優歌がフォローすると、真由はうなずいた。
「そうそう。その金城さんが云うにはまったくないらしいじゃない? そのうえで、即行オーケーしたってことは上戸さんて、少なくとも優歌のことを満更じゃないって思ってたのかなって」
「……そうなのかな……」
優歌は自信がない反面、うれしい気持ちでつぶやいた。
「満更じゃないっていうのは、控えめに云ってるんだけど。そうじゃなきゃ、女がいないって、精神的、もしくは身体的な問題を含んでるとしか考えられない」
「何、その問題って」
「精神的にいえば、女嫌い、とか、最悪の場合、男にしか興味ない、とか」
優歌はコーヒーを吹きだしそうになった。
「真由、ヘンなこと云わないでよ。匠さんはそんなんじゃない」
「ふーん、断言するんだ。……それじゃ、最後までいったの?」
「……何が?」
「決まってるでしょ、オスとメスがいて本能といえば?」
「――……まだ」
「それじゃ、ホントにヴァージンロードになるんだぁ。今時、めずらしいよね。ていうか、ちょっとうらやましいかも。きれいな気持ちでお嫁さんになるってロマンティック。相手は王子さまって云ってもおかしくないし」
真由はため息混じりに云った。それは“叶わぬ夢”のような嘆息で、優歌はふとその意味するところに気づいて訊ねてみた。
「……もしかして真由って経験したことある?」
「だから今時ねぇ、一年も付き合ってて何もないってことはないでしょ? 一言忠告しておくと、そういう相性も大事だよ。従姉の受け売りだけど。旦那が子作りに非協力で離婚しちゃったの。子作りってのを除外しても、その気とその気じゃないって二人の気持ちがすれ違ったら最悪らしい。これも別の従姉の受け売り」
「真由、もういい。ドキドキして匠さんの顔を見れなくなりそう」
「ぷ。キスくらいした?」
「……うん」
「よかった?」
真由は訊きにくく、尚且つ答えにくい質問を重ねた。優歌は困惑に顔をしかめてうなずく。
「じゃあ、大丈夫だよ。キスされたってことは不能とかいう身体的なものも問題なさそうだし」
「なんだか、だんだん露骨になってるよ?」
「いつまでも子供じゃないんだから、これくらいの会話、あたりまえだよ。実を云うと、わたし、頼まれたことがあるんだよね。そのときは、時すでに遅しでちゃんと断ってるけど」
「頼まれたって?」
「ちょうど優歌が上戸さんとのことを話してくれた頃、男子からセッティングしてくれって」
「セッティング?」
優歌は意味がわからず、きょとんと真由の言葉を繰り返した。
「成人式のあと、高校の同窓会したでしょ。そのとき、優歌に二目惚れした奴がいたの」
「え、わたし? 二目惚れ?」
「つまり、高校のときから好きだったらしいけど、優歌って近づくな光線出してたし、困らせそうだからってそのままになっちゃったのね。で、同窓会で気持ちが再燃したってわけ」
「近づくな光線てそんなの出してないよ」
「それは大げさなんだけど、雰囲気的に受け付けそうじゃなかったのはたしか」
「……うん。わたし、逃げちゃってるかも。でも知らなかった。わたしみたいな――」
「優歌は自分のこと、よくわかってないんだよね。けっこう、優歌みたいなお花っぽい子って男子の目につくらしいよ」
真由はさえぎって優歌の鼻先に人差し指を向けた。優歌は首をかしげた。
「お花っぽい?」
「ふんわりして、おとなしくて、それでいてなんていうのかな、品格? みたいなのが雰囲気に出てる子」
「品格なんて、わたしには程遠いけど」
「自分じゃ、わからないのかもね。上戸さんもそこに惹かれてるんじゃないかと思うけど。優歌はもうちょっと自信持っていいんだよ」
「うん、ありがと……あ」
優歌の素直に笑った顔が一瞬、静止した。
「上戸さん?」
優歌がうなずくと、真由は優歌が見ていた方向に目を向けた。
「わぁ。なんだかずるいってくらい男前。あのときもカッコいいって思ってたけど、なんだかもう一回りレベルアップしたって感じ。あれじゃあ断りたくないよね」
真由が感嘆のため息をついて、優歌は笑いながらまた匠に視線を戻した。
優歌たちのみならず、いつものようにちらほらと女性たちの目が匠へと向く。見知らぬ視線を受けることにも慣れているのだろう。カウンターに寄ったあと、匠の悠然とやって来る姿は余裕だらけだ。
「西尾さん、久しぶりだな」
匠は椅子を引きだして座った。真由がにっこりしてうなずいた。
「はい。その節はお世話になりました」
「お礼を云われるには時間がたちすぎてる気がするけど、どういたしまして」
「カタログ送ってもらったあと、あのチェスト、手頃な大きさで可愛い形だったし、すぐ買ったんですよ。記念に」
「売上協力に感謝しないとな。あれは家具にしてはヒット商品だった。幸運の女神がやって来たらしい」
匠が云い含んだことに気づき、真由は瞳をくるくるさせて笑みを浮かべた。
「そうなんですね! よかった。これで頼みやすいかも」
「真由、何を頼むの?」
「え、もちろん、来年の就職口。いま就職難だし、業平商事って口利きが可能って聞いてるんだよね。その点、優歌のお父さんと、そのお父さんに見込まれた上戸さんなら大丈夫かと思って」
真由がずうずうしく云うと、優歌は呆気にとられ、匠はおもしろがった。
「それはある程度の実力を備えていることが条件だ。面接で積極性ややる気が見えなければ落とされる。まあ西尾さんなら心配ないかな」
「それって内定ですか?!」
「おれと本部長の顔を潰さないって誓ってくれれば」
冗談ぽく匠が云うと、真由は張りきってうなずいた。
「それは任せてください。そう云ってもらったからって大学も手を抜くつもりはありませんから!」
「二年後の新人研修が楽しみだな」
匠が注文したコーヒーが運ばれてきて、それからしばらく三人で話した。三人というよりは真由がほとんど独りで喋っている。
「あ、もう七時十分過ぎてる。帰らなくちゃ」
二〇分くらいしてから真由は携帯をチェックして焦ったように云った。
「一緒にご飯食べていったらいい」
「真由はこれからデートなんです」
「上戸さん、そういうことです」
匠はうなずいて優歌に目を向けた。
「じゃ、おれたちも場所を変えよう」
「はい」
匠は勘定書を持ってレジに向かった。優歌と真由も席を立つと、歩道に出たところで匠を待った。
「なんだかいい感じ」
「何が?」
「優歌と上戸さんよ。優歌はまだちょっと他人行儀な喋り方してるけど、それでも親密って感じ。しっとりしてるっていうか……相手が大人だと安心できるよね。優歌には上戸さんみたいな人がやっぱり合ってる気がする。隆志も上戸さんくらい落ち着いてるといいんだけど」
大学のコンパで知り合ったという真由のカレは同い年で、優歌も何度か会ったけれど、似た者同士のふたりはいつも賑やかにしている。
「でも同じレベルで話せるから、わたしから見たら真由たちがうらやましいよ?」
「まあね……あ、上戸さん、ごちそうさまでした」
精算をすませた匠が来ると、真由は軽く頭を下げた。
「今度は本当にごちそうさせてくれるかな、カレと一緒にでも」
「それじゃあ、結婚式が終わって落ち着いたところで遠慮なく。とりあえずは二週間後、楽しみにしてます」
「ああ」
「じゃ、優歌、またね!」
真由は手を振って急ぎ足で立ち去った。
「相変わらず元気だな」
「はい、たまにわけてほしいときがあります……」
「どうした?」
ためらいがちに言葉を切ると、匠は首をかすかに傾けて訊ねた。
「いえ、あと二週間なんだと思って」
「……やめるならまだまにあう」
優歌は顔を曇らせた。
「匠さんは――」
「だから、おれは最初に云ったとおりだ。迷っているように見えるとしたら、それはおれのためじゃない。優歌のためだ」
匠の云っていることは意味がわからず、優歌は首をかしげた。
「わたしはやめたくありません。迷ってるつもりもないです」
自分の気持ちがはっきりしたいま、優歌にためらう理由はない。好き、と伝えるには匠の反応が見えなくて、ためらうばかりだけれど。
「優歌」
「は……い、匠さんっ」
返事する間に匠のくちびるが優歌のくちびるに触れた。不意打ちのキスにも慣れてきたけれど、オープンカフェの目の前で、しかも業平商事の目の前なわけで、優歌は独りあたふたした。こんな往来で一瞬にしろ、こういうことをする人だとは信じられない気持ちで匠を見上げた。
「優歌のびっくりした顔、好きなんだよな」
好き。
さり気なく匠が口にした言葉。それだけで血管を流れる血が猛スピードを出して、優歌は自分がゆでダコみたいになってるんじゃないかと焦った。匠の一言一言が優歌を一喜一憂させる。ある意味、怖い気がした。
「匠さん、心臓に悪いです」
「心臓は悪くないだろ?」
「たぶん」
「たぶん? 今度ちゃんと診てもらえよ」
心配しているのか、匠は顔をしかめた。匠には自分がほぼ健康体であることをいつか納得させるべきだろう。そうしないと、また優歌の躰に対する過剰反応者が一人増えることになる。
「たぶん、じゃなくてまったく大丈夫です」
「そう願ってる。今日は何が食べたい?」
「たこ焼き」
優歌がさっきの流れから思いつきで云うと、匠は呆れたように肩をそびやかした。
「それ、夕食になるのか?」
「一度、吐きそうになるくらい食べてみたいと思ってたんですけど」
「結婚して夕食にそれをやってもらったら困るし、いまのうちに食べさせておくほうが賢明だろうな」
匠は可笑しそうに云って、優歌の背中を押した。