最愛−優恋歌−

章−優恋慕− 6


 匠の実家に戻ってリビングに行くと、杏奈と清美はパーティの準備に入っていた。優歌が手伝いに入ると、二人はゆっくりしているように云ってくれたけれど、黙って眺めているよりは手伝ったほうが気もらくだ。
 優歌は短大を卒業してはじめて母について料理を習いだした。つまりは花嫁修業の身だ。
 リラックスには程遠いなかで不器用さを露呈し、今更で何もできない自分が恥ずかしい。(わずら)わしいくらいに切り方や味かげんを訊ねても、二人はうるさがらずに応じてくれた。
「うちは男二人でしょ。だからこうやって娘が二人できたこと、本当にうれしいとよ。匠は祐と違って友好的じゃないし、結婚しないんじゃないかって心配してたんやけど」
 清美は時間がたつにつれて地元の言葉になっていく。聞き慣れないイントネーションはなんとなく口早だけれど素朴(そぼく)で親近感が湧く。
 匠の甥になる、杏奈と祐の子、祥吾は三才になったばかりで、起きてきたとたんにやんちゃぶりを発揮した。杏奈に絶えず纏わりついて、叱られながらもめげることなくふざけている。子供と接するのはめったになく戸惑ったけれど、女三人でお喋りしながら一時間たつうちに、初対面の優歌にも(なつ)いてきた。


 パーティの用意が整った六時頃、匠の友だちは七人連れ立って訪ねてきた。
「なんか、おとなしそうで純情な感じやねぇ」
 優歌の紹介が終わって第一声がそれだった。優歌が困惑して隣を見上げると、匠の目がちらりと向いた。
「そう思うんなら手加減しろよ。破談したらおまえらのせいだ」
 匠が切り返すと、どっと笑いが満ちた。
「東京に住んでるからってスレてる子ばっかりじゃないんだな」
「それはおまえの偏見だ」
「にしても、優歌ちゃん、大丈夫かぁ? 匠ってさ、(かた)いだろ。高校んとき、なんだっけ、あの(つわもの)女。あ、美里だ。あいつでも歯が立たなかった――」
「浩輔、その話はナシだ。匠の傷を蒸し返すなよ」
 口を挟んでさえぎった友だちを見て、匠は苦笑いをした。
「傷になんかなってない」
 そう云ったとおり、優歌から見ても匠が気にしている様子はない。別に気まずくなるでもなく、話題は昔話と相俟(あいま)ってそれぞれの近況報告になった。匠に廻ってくると中国の話を中心に盛りあがる。
「匠、優歌ちゃんの親父さんてあの業平の役員だって?」
「ああ」
「ってことは、出世間違いなしか?」
 優歌が浩輔のグラスにビールを注いでいると、からかうように云った。
「いまでも課長代理だろ。業平で出世って匠もすげぇな。ただの“上戸さんちの坊ちゃん”じゃ、終わらなかったらしい」
「業平はそう甘くない」
 匠は肩をそびやかした。
「てか、それ抜きにしても優歌ちゃんて二十才だろ。なんか若い奥さんでいいよなぁ」
「匠もうまいことやるよな」
「そういうことを云わないの! 優歌ちゃん、上品なんだから困っちゃうでしょ!」
 どう反応していいのか、優歌が笑って流していると、ちょうどお酒を運んできた杏奈が諌めた。隣では匠がため息を吐いている。
「優歌、もう引っこんでていい」
 まごつきっぱなしの優歌を見ると、匠はしかめた顔で首を傾けた。
「はい」
 優歌がいつものとおり返事をしたとたん、おお、と匠の友人たちがどよめいた。
「うわぁ、おれの奥さんに聞かせたいくらい従順な答え方だな。匠、トレードしねぇか」
「頼むから、そういう冗談はナシにしてくれ。さっき云ったはずだ」
 匠は苦々しく云いながら、促すように優歌の背中を軽く押した。
「優歌ちゃん、ここは放っといて向こうに行きましょ。あとは勝手に盛りあがるんだから」
 同じお酒の席でも、淳介が部下を連れて来たときの雰囲気とは違ってざっくばらんすぎる。特に嫌な感じを受けているわけではないけれど、緊張していただけに、匠と杏奈の助け舟を頼って優歌は客間を出た。

「ガサツでごめんね。お披露目って余計なことしたかも」
 杏奈は洗い物をしながら、すまなさそうに首をすくめて云った。
「そんなことないですよ。なんだか知らない頃の匠さんを知れていい感じです」
 優歌がすすぎを手伝いながら答えると、杏奈はにこやかに笑った。
「匠が結婚する人ってどんな人なんだろうって思ってたけど……優歌ちゃん見てると、なるほどねぇって納得しちゃうんだよね」
「え?」
「優歌ちゃんて深窓のお姫さまって感じ。なんにも染まってないんだよね」
「なんだか美化されてる感じです。わたしは何もできないから、ただ自分に自信がなくて臆病なだけなんです」
「そう? でもこうやってはじめてなのに自分から手伝ってくれたし、わたしはちゃんとやれてると思うよ」
「そうですか」
 優歌がうれしそうに云うと、杏奈が可笑しそうに笑った。
「ほら。やっぱり素直。そういうとこ、匠はすんごく救われてる」
「救う?」
「聞いたことを匠に内緒にしてくれるんなら昔話してあげるけど?」
 匠のことを考えるより好奇心に負けて優歌はこっくりとうなずいた。

「わたしたちが高二んときの話だけど、匠って見た目いいじゃない? 当然、ファンは多くてモテるくせに、あのとおりの堅物なわけ。告白されても、興味ない、って一言で退けてたけど、一人だけ熱心な子がいたのね」
「あ、さっきのえっと、美里さん?」
「そう。一つ下の子だったんだけど、きれいだし、自信満々で積極的だったんよ。そのうち、匠は黙認したの」
「黙認て?」
「付き(まと)ってたのを追い払わなくなった。匠は応えようってしたんだと思う。それからしばらくして付き合いだした。でもやっぱり堅物なとこはそのまんまで。あの子と匠がどこまでいってたのかは知らないけど、匠の反応のなさにじれったくなっちゃったのかな」
「どうしたんですか」
「古典的な手口よ。ほかの男といるところを見せて焼きもち焼かせようってしたわけ。匠にとってはマイナス効果なのに。流れでその同級生の男の子とやっちゃったらしい。匠は何も云わないから、あくまで噂なんだけど」
「や……っちゃったって……」
「男と女のやること」
 杏奈が云うところの男と女ということについてはまだ未経験なだけに、優歌はびっくり眼になってそれから困惑した。
 赤面した優歌を杏奈はおもしろそうに見やった。
「匠は黙って引き下がったから意気地なしのレッテル貼られて散々よ。仲間内からすれば、美里って子のほうが見限られたってことになるんだけどね。それ以来、匠は女の子を完全に避けるようになった」
 聞いてしまってから、匠が承知していないところで自分が聞いてよかったんだろうかと優歌は後悔した。
「あ、こういう話、聞きたくなかった? そうだよね。昔の彼女の話なんて……ごめんね」
「いえ。そうじゃなくて。わたしが聞きだしたって知ったら気分悪くするだろうなって思ったんです」
「優歌ちゃんて、やっぱりいい子やん。匠、その欲張らないとこに参ったんやろうね」
 杏奈はしみじみとそう云った。

 匠が友だちとワイワイやっているうちに優歌はお風呂をすませ、上戸一家とリビングで過ごした。完全にリラックスとはいかなくても、祥吾がいることで終始賑やかに声が飛び交って笑い声も絶えない。
 遅くなるかと思っていた飲み会は九時を過ぎた頃に終わった。お酒を追加したりとたまに顔を出すくらいでもどきどきしたけれど、匠の友だちと顔見知りになれたことは収穫だ。
 片づけが終わって匠がお風呂に入っている間に、優歌はパジャマに着替えた。気をきかせたつもりで用意されていた布団をいざ敷いてしまうと、はじめてのキスの時みたいに鼓動が速くなった。
 布団の隅っこで半ば呆然と座りこんでいるうちに部屋の戸が開いた。優歌の躰がびくっと硬直した。顔を上げられないどころか項垂(うなだ)れた。
 どうしよう……。

「やっぱり、待ったほうがよかっただろ」
 匠は布団の傍に座った優歌の横を通り過ぎた。からかうような声だ。そのまま外へと続く窓を開けて、匠は縁側に腰をおろした。
「……え?」
 思わず顔を上げると、匠は声と同じでその顔に小さく笑みを浮かべていた。それに誘われるように優歌はおずおずと匠のところへ行った。はじめて見るパジャマ姿はラフな格好よりもっと気さくな感じだ。
「“大丈夫”ってやつ」
 昼間の会話を思いださせられ、優歌は照れたように笑った。匠が目を細めたと思ったとたん、素早いキスに襲われた。お酒の香りがする。
「……もう大丈夫です」
「ああ。付け加えれば、優歌のパジャマ姿は何度か見てる。今更だ」
 匠は優歌に高校生の頃を思いださせた。当時、女性という意味での羞恥心はまったく未発達だった。何分、小さい頃から家に淳介の部下がいることはめずらしくなかったゆえに、鉢合わせには困惑しても、パジャマ姿でうろうろすること自体は恥ずかしく思わなかった。高校を卒業する頃、優美に注意されて気づいたという愚かぶりだ。
「もういいです」
 優歌が顔を火照らせながらかぼそく云うと、匠はふっと小さく笑んだ。

「今日は疲れさせたな」
「ううん。いろんな匠さんが知れてよかったです」
「そんなに曝したかな」
「……なんとなく、です」
 お酒を飲んでいるせいなのか、匠はちょっとふざけた感じだ。
「また近づけた感じがしました。来てよかった」
「おれも連れてきてよかった。負担かけるから迷ってた」
「だから、そんなに弱くありません」
「弱いと思ってそう考えてるわけじゃない。ただ……」
 その先は云わず、匠は手に持ったグラスを口につけた。
「お酒?」
「いや、水。酔い覚まししとかないと余計なことしそうだ」
 匠の云わんとするところは優歌もわかる。やっぱり匠はいつもより砕けている。
 環境のせいなのかお酒のせいなのか。今日の飲み方を見ていると、家に来たときはセーヴしていたみたいだ。優歌は話を逸らそうと話題探しに手間取りながらも、結婚したら試しにお酒をたくさん飲ませてみよう、とこっそり思った。
「祥吾くん、可愛いですね。祥吾くんがいるだけでその場が和むっていうか……子供ができたら楽しくなりそうです」
「それって(けしか)けてるのか?」
 匠にからかわれて、逸らそうとした話がかえって危うくなってることに気づいた。間抜け以外の何者でもない。

「なんか云われた?」
 優歌は決まり悪く伏せてしまっていた顔を上げた。匠は打って変わって真面目な声だ。
「え?」
「早く子供を、とか」
「云われてませんよ?」
 優歌は首をかしげて不思議そうに匠を見た。
「おれがもう三〇になるからって、周りに云われても急ぐ必要はない」
「はい。大丈夫です。子供は(さず)かりものですから」
 そう答えると、匠はふっと笑みを漏らした。
「母がさっき云ってた。どうやったら優歌みたいな古風な子を育てられるんだってさ」
「古風ですか?」
「たぶん、優歌の場合、古風というよりは反応が純粋なんだ。害がないと知っていると無防備になる」
「誉めてるんですか?」
「最大の賛辞のつもりだ」
「はい!」
 張りきって返事をすると、匠はまた笑みを見せた。
「旅行はどうする? まさか旅行先まで本部長が決めるわけないだろうから、行きたいところあれば――」
「休み取れるんですか?」
「それどころか、会社からそうするように勧告されてるって云ったら? 式が急になるから仕事の都合上すぐには無理だけど、そのぶん盆休みを長く取ってゆっくり行ければと考えてる」
「ほんとですか? じゃあ、パスポート取ります!」
「パスポートってもう行き先、決めてるのか?」
「はい。お姉ちゃんが、大学の卒業旅行でニューカレドニアに行ったんですけど、すんごくよかったって。年中、夏だし、お勧めだって云ってました。だから行けるんだったらそこがいいなって思ってて――」
「オーケー」
「でも一つ問題です。わたし、フランス語全然だめなんですけど」
「片言くらいならできる。日本人の観光客が多いとこだし、ツアーじゃなくても身振り手振りでなんとかなるだろ」
 優歌は笑った。匠が問うように首を傾ける。

「匠さんでよかった」
「何が?」
「わたしなら考えるほうが先になって不安ばっかりで動けなくなるけど、匠さんはまず動きますよね? そういうためらわないところ、やっぱり心強いです。だから結婚するの、匠さんでよかったって思って」
「買い被りすぎだ。これでも臆病なんだ」
「そうですか?」
 問い直すと、匠は口を歪めて笑って見せた。
 くしゅ。
 不意に優歌がくしゃみをすると、匠が寄りかかった窓枠から躰を起こした。
「まだ夜は少し冷えるな。今日は朝早かったし、風邪をひくまえにそろそろ寝たほうがいい」
「はい」
「おれは親父たちと式の打合わせやってくる。寝込みを襲うつもりはないし、余計なこと考えないで寝ること。いいな?」
「なんだか子供に云ってるみたいですね」
 ちょっと不満ぽく云ったけれど、匠は否定するわけでもなく、ただおもしろがった表情を見せて部屋を出ていった。

 優歌は明日の準備をやったりと寝る支度をした。布団の中に潜りこむと匠の云うとおり、朝早かったことと、気を遣ったこともあって疲れていたのだろう、優歌はすぐにうとうとしだした。
 何より、匠の言葉があったせいかもしれない。匠は要所要所で緊張を解いてくれる。
 さっきも、はじめてのキスのときも、今日この家に入るまえの指輪も、結婚を決めた日も、それから…………。


 匠が部屋に戻ったのはそれから一時間後、十一時を過ぎていた。
 薄暗い照明のなか、優歌の規則正しい息遣いが聞こえる。横向きに丸くなった優歌は自分と比べると、ずいぶんと小さい。
 かがんでその横顔をしばらく見つめていると、場所を(わきま)えず、自分が口にした保証を放棄したくなる。それを振り払うように息をついた。
 迷うのは弱いからじゃない。ただ――。
 匠は手の甲でそっと優歌のくちびるに触れてから隣の布団に入った。

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