最愛−優恋歌−
章−優恋慕− 5
式が六月二〇日の土曜日に決まると、匠の休日はふたりそろっての結婚準備という予定で埋まってしまった。
限られた時間のなかで五月連休の初日、九時の飛行機で福岡に向かった。一泊二日という、強行ともいえる匠の里帰りだ。
福岡空港でちょっと早い昼食をすませて、それから電車を乗り継いで移動した。連休中とあって混みあっている。
「指定席、休み直前でよく取れましたね? 飛行機も」
「本当を云うと、結婚を決めてから優歌を連れて帰ろうとは思って、最初から二人分予約してた」
優歌は目を丸くして隣に座った匠を見上げた。
「ホントですか?」
「ああ」
「よかった。匠さん、あんまり乗り気じゃなかったから、わたしのこと恥ずかしくて会わせたくないのかなって、ちょっと思ってました」
「恥ずかしいってなんだ?」
匠は顔をしかめた。会わせるつもりだったことを聞かされ、うれしくてほっとしたあまり、優歌は余計なことを云ったようだ。
「あ……わたし、人との付き合い方が下手だから……それに、立花さんやお姉ちゃんみたいに美人じゃないし」
優歌がわざと拗ねたように付け加えると、匠からしかめ面が消えた。
「自分がどう見えるか、自分ではわからないからな」
「え?」
優歌は問い返したけれど、匠は答えなかった。
「人付き合いは優歌のペースでやっていけばいい。問題ない」
「はい」
自分から申し出ておきながら、匠の実家へ行くのは優歌にとってかなりのプレッシャーになっている。匠はそれを、たったいまの簡潔な一言でらくにした。匠がいてくれればどんな不安も落ち着いて向かえそうな気がしている。
「匠さんもあんなふうに話しますか?」
あたりまえだけれど、電車内は東京とアクセントの違う言葉が飛び交っている。
「あんまり帰ることはないけど、やっぱり帰って来ると自然とこっちの言葉に戻るな」
「わたし、匠さんはずっと東京の人だと思ってたんです」
「大学から上京したし、優歌に会った頃は東京の生活も馴染んでた」
優歌は匠と合っているとき、たまにある国際電話を思いだした。英語も中国語も流暢に聞こえる。
「匠さんてイントネーションの使い分けが上手ですよね。こっちの言葉、早口に聞こえるのは気のせい?」
そう訊ねると、匠は優歌を見下ろして口もとにかすかに笑みを浮かべた。
「たぶん、優歌がのんびりしすぎだ」
「……酷いです」
少しむくれると匠が息を漏らした。静かに笑う匠の顔は柔らかくて好きだ。
電車から見える景色は街中になったり、長閑な田んぼの風景になったりを繰り返して目的の駅に着いた。降りる人が多くて、想像していたほど田舎じゃないようだ。
タクシーで通リ抜ける道は車が多かったけれど、途中から横道に逸れると静かな雰囲気になった。やがて、石の塀に囲まれた門の前にタクシーが止まった。
玄関へと続くアプローチを目でたどっていくと、和風の水辺家とは対照的に洋風の洗練された家がある。それは想像と違って大きすぎた。匠の家柄がどうなのか、訊きそびれてそのままにしたすえ、優歌は勝手にイメージを作って聞いた気になっていたのだけれど。
「匠さん……家、立派すぎませんか」
優歌がおずおずと云うと、匠は小さく笑みを漏らした。
「こっちは東京と比べたら、半値くらいで建つよ」
それでも周りを見渡してみたら、どこよりも大きい。並ではないのはたしかだ。
「お父さん、何をされてるんですか?」
「医者だ。病院を持ってる」
「大きい?」
「“総合”じゃないけど、それなりに」
優歌は不安になってため息を吐きそうになった。
「田舎って云うから農家かと思ってました。お兄さんが後継ぎだって云ってたし……」
優歌の声には戸惑いに混じって、なんとなくがっかりした響きもある。
「もしかして畑仕事とか、飼育とか期待してたのか?」
「やったことないからお手伝いしたいなと思って、苺でも牛でもいいようにジャージ持ってきたんですけど」
匠は、優歌が地元の特産物を調べていたらしいと気づきつつ、一瞬、優歌と牛が格闘しているシーンを想像した。明らかに勝敗は目に見えている。
「優歌にはどっちも無理な気がするけどな」
「だから、そんなに弱くありません」
おもしろがっている匠に抗議した優歌は口を尖らせた。匠は素早く顔を下ろして、そのくちびるに触れた。
「匠さん!」
優歌は悲鳴に近い声で咎めた。
はじめてのキスから、匠はこうやって不意打ちでくちびるに触れてくる。かまえなくていいキスは緊張する暇がなくて、優歌にはちょうどいい。あの日はあとになってまた恥ずかしくなった。間近で、匠と段違いに自信のない顔を見られたこと。けれど、回数が増えるごとに気にならなくなって、だんだんとキスが好きになって、ただうれしくて。
けれど、いまは匠の実家の目の前だ。さすがに優歌は時と場合と場所を考えた。
「優歌、手を出して」
「手?」
匠は悪びれることもなく、いきなり突飛な催促をした。優歌が右手を出すと、左手だ、と云いながら匠はジャケットのポケットから小さな箱を出した。目の前で箱が開くと太陽の光がきらりと反射する。一粒のダイヤモンドと脇石に優歌の誕生石、ブルートパーズをあしらった、どう見てもエンゲージリングだ。びっくりしているうちに、匠が優歌の左手を取って薬指にリングを通した。
「……匠さん?」
「どう?」
こんな儀式的なことは頭になかっただけに、優歌の瞳が潤んだ。
「すごくきれい」
「仲村と彼女がちょうど指輪の話をしてて気づいた。勝手にどうかと思ったけど」
「ううん。うれしい。ありがとう、匠さん」
見上げた優歌の潤んだ瞳が煌めいて、匠はまた短くキスをおろした。
「緊張しないでいい。おれの親も本部長たちと変わらない」
「はい」
優歌がこっくりうなずくと匠は二人分の荷物を抱えた。優歌は小指をつかめないかわりに匠の腰辺りのジャケットをつかむ。匠がそれに気づいて可笑しそうに優歌を振り向くと緊張が解けた。
ドアホンを押すと応答も待たずに匠は玄関を開けた。廊下の奥からパタパタとスリッパの音が近づいてくる。中に入って優歌が匠の横に並んだのと、スリッパの主が玄関まで来たのは同時だった。
「匠! おかえり。優歌さん、いらっしゃい」
「は、はじめまして。お世話になります」
声がちょっと裏返って優歌は顔を赤くした。
「遠慮せんでね。紹介は向こうであらためましょう」
匠の母親は柔らかくそう云って上がるように促した。
通されたリビングはコーヒーの香りが立ちこめている。キッチンと繋がっていて、そこには二〇代後半くらいの女性がいた。
女性は髪をひっつめたせいか、きれいな顔立ちと相俟ってきりりとした印象を受ける。優歌とは正反対のイメージだ。なんとなく優美の雰囲気に似ていて優歌はほっとする。優歌たちを認めると、歓迎が目に見えるほどその口もとが広がった。
「杏奈、今日は世話になる」
「匠、おかえり。ゆっくりしてって。優歌さんも」
優歌はてっきり匠の兄嫁だと思っていたのに、匠が気安く『杏奈』と呼び、そして呼び捨てられるという関係がよくわからなくて頭が混乱した。姉妹はいなかったはずだ。
「匠、こっち来て早く紹介せんか」
太い声が匠を呼んだ。おそらく匠の父親だ。がっしりした体格で貫禄充分の雰囲気だ。
「わかってる。優歌、来て」
リビングのソファまで行くと、匠が優歌の背中をそっと支えた。それだけで耳まで届く鼓動が沈静化した。
「結婚することになった水辺優歌さんだ」
「水辺優歌です。不束ですがよろしくお願いします」
「まあ、今時、古風な云い方ね。匠の母、清美です」
「こっちが父の健史、兄の祐、そして祐の奥さん、杏奈だ」
祐が、よろしく、と声をかける横で健史がうなずいた。杏奈が空いた側の二人掛けのソファを指差して座るように勧めた。
「匠がやっと落ち着いたみたいでほっとしたよ。みんな、大歓迎してるから遠慮なくね。優歌ちゃん、でいいかな?」
「……はい」
杏奈のざっくばらんさにほっとしながらも、優歌が戸惑って返事すると、杏奈は何か思い当たったような表情になった。
「あ、匠から聞いてない? 匠と私、高校のときの同級生なんだよ。よくつるんでて、ここに遊びにきたとき、祐に一目惚れしちゃったんだけど」
「杏奈、やめろよ。普通、恥ずかしいだろ」
祐が口を挟んでたしなめた。
「いいじゃない。ホントのことなんだし。ね、お義母さん」
「勝手にやってちょうだい」
清美は呆れたように云ったけれど、笑みを浮かべている健史を見ても、義理という関係を通り越してうらやましいくらい仲良く感じた。
「あ、それからもう一人、大事な坊ちゃんがいるんだけど、いま昼寝しちゃってるから起きたら紹介するね」
杏奈は茶目っ気たっぷりに二階を指差した。医者の家と聞けば、気取った人柄を想像したけれど、匠の家族はそれを裏切った。清美も気さくであれば、同居している匠の兄夫婦からも言葉どおりの歓迎が見えた。
健史はあまり喋らないけれど、臆しながらも優歌が質問に受け答えしたりと話の中に加わっていると、その表情がだんだんと穏やかになっていった。社交的な祐と正反対の、健史の無口さは匠が受け継いでいるようで、そこにルーツを感じてなんだか優歌はうれしくなった。
「あ、匠、今日の夕方からうちでパーティだよ。予定、何も入れてないよね?」
「ああ。一泊だし、予定は立ててないけどなんだ、パーティって?」
「披露宴、東京まで行けん人もいるやん? 優歌ちゃんを連れてくるって云うし、だから浩輔たちを呼んじゃった」
「あんま、プレッシャーかけんなよな」
匠はため息混じりに漏らした。金城たちとよりもまたちょっと砕けた言葉遣いだ。
「あら、何か都合の悪いことでもある?」
「ない。そういう意味じゃない」
「へぇ。相変わらずね。堅物すぎて優歌ちゃんが逃げなきゃいいけど――」
「ストップ。それ以上云ったらパーティはすっぽかすぞ」
匠は顔どころか声までしかめて杏奈をさえぎった。
「はいはい」
専ら杏奈に主導され、賑やかに団欒は続いた。部屋に案内されたのは到着後、一時間くらいしてからだ。
用意された一階の和室に入って優歌ははじめて置かれた状況を知った。結婚が決まっている以上、同じ部屋であることは自然なことかもしれない。
立ち尽くした優歌は、せめて案内してくれた杏奈が自分の困惑を察していないことを祈った。
「ヘンな気を回さなくていい。ここでどうこうするつもりはないから」
一方で見逃さなかった匠は安心させるように云った。
どうこう、って何? 考えることに抵抗して、一瞬ぽけっと惚けた優歌を見下ろした匠は素早く顔をおろした。
「こういうことくらいは遠慮しないけど」
匠は云い添えた。その屈託のなさが、優歌の緊張を解いた。
「匠さんが……キス魔って知りませんでした」
「知らないことばかり、だろ?」
「そんなことありません。大事なところはわかってきてる気がします」
優歌がきっぱり云うと、匠はかすかに目を細めた。
「窮屈な気がしたら云ってほしい。その辺のホテルを探してもいいから」
「大丈――」
「――夫って云うのは夜まで待ったほうがいい」
優歌をさえぎり、匠はふざけた様子で肩をすくめながらあとを継いだ。
匠は荷物を置いてすぐ、優歌を散歩へと誘った。
匠が通ったという小学校が二〇分くらい歩いたところにあり、校庭に入ってふたりはブランコでゆっくりした。優歌はブランコに乗って、匠はその支柱に寄りかかった。
校庭は開放されていて、休みにもかかわらず子供たちが走り回っている。古びた校舎はこの季節の気温と一緒で温かく感じた。
「匠さんて、小学校の頃は悪さん坊でした? それともいまみたいな感じ?」
「いまみたい、ってどう見える?」
逆に問い返されて優歌は困ったように眉間にしわを寄せた。
「んーっと……なんだか匠さん、云ったら怒っちゃいそうだし、やめておきます」
ためらったすえ、優歌が答えないと、匠はため息を吐くように笑った。
「賢明だ。小学校の頃は何も考えてなかったからな。ガキ大将っぽかったかもしれない」
「それから?」
「高校まではかなり硬派だった。大学でその反動出たけど」
「え?」
「大学時代は模範的とはとてもいえない時期だ。反省していまに至ってる」
匠はあんまり云いたくなさそうにして肩をそびやかした。
「じゃあ、また反動出ますか?」
模範的じゃないというからにはよくないことだろうと見当はつく。その中身がわからないまま訊ねてみると、匠はふっと笑みを見せた。
「ない。おれの性に合わないとわかったから」
きっぱりとした返事は匠のまっすぐさを表していて、優歌は安心を覚える。
「気になる? サイズ合わない?」
「え?」
とうとつな質問に目を見開くと、匠は優歌の左手を指差した。優歌はリングをはめてからというもの、気づくと触っている。優歌ははにかんだ表情で笑った。
「ぴったりです。よくわかりましたね?」
「優美ちゃんに訊いた」
「お姉ちゃん?」
優歌は目を丸くした。思い当たる節はある。優美が最近にしてはめずらしく優歌の部屋にやってきて、もう使わないからサイズが合うならあげるよ、とファッションリングをはめさせた。結局はワンサイズくらい大きくてもらわなかったのだけれど。
あの告白以来、たまに家に寄る匠と優美が接するところは何度か見てきた。ふたりは至って以前と変わらなくて、そうできる優美は尊敬に値する。匠にどういう算段があるのか、優歌と優美の関係を気にしていることは知っているけれど、普通の感覚ならありえない経路だろう。
匠は鷹揚な様で首をかすかに傾けた。
「抵抗あるなら、そのままネックレスのトップにすればいいって店員が云ってたな」
「抵抗っていうよりこういうのは慣れなくて、失くしそうだし、傷つけちゃいうのも嫌だから帰ったらそうします」
「失くしたら大騒ぎになりそうだな」
匠はおもしろがった口調だ。
「怒りますか?」
「いまは怒らないって云っておく。まだ優歌を完璧につかんでるわけじゃないから」
「じゃ、つかまれないように頑張ります」
「頑張ることが違わないか?」
匠はおどけた優歌を見下ろして顔をしかめた。優歌が笑い声をあげると匠の表情も緩んで口もとが歪んだ。
しばらく校庭で遊ぶ子供たちを眺めてからふたりは小学校を出た。
いまだに優歌と匠の間で会話が弾むということはないけれど、沈黙は気まずくない。匠の小指を握っているぶん、むしろ、だんだんと心地よくなっていく。
まるで手と手が無言の会話をしているみたいに温かい。