最愛−優恋歌−

章−優恋慕− 4


 優歌は匠が帰ったあとすぐに二階に上がると、優美の部屋に向かい、ドアをノックしてみた。いるはずなのに反応はない。
「お姉ちゃん、入るよ?」
 ちょっと待ってみたけれど返事も拒絶もなく、優歌はドアを開けて部屋を覗きこんだ。優美は机についてパソコンに向かっている。優歌は中に入ってドアを閉めた。
「お姉ちゃん、ごめ――」
「謝んなくていいんだよ」
 優美はパソコンに向かったまま素っ気なくさえぎった。
「でも――」
「わかんない? 同情されるのはまっぴら。そんなつもりで告白したわけじゃない。上戸さんにも優歌にも知っててほしいから。後悔したくないだけだし。結果ははっきりしてるのかもしれないけど、素直にお祝いする気持ちにはなれない。ごめんね、優歌」
 優美の口調は『ごめんね』という意味と程遠い。そのうえ、『かもしれない』という言葉は優美が希望を捨てていないことを示している。
 好きという気持ちがある優美と、なんとなくという曖昧な優歌。優美からすれば腹立たしいだけだ。それでも罵倒(ばとう)するでも責めるでもない。やっぱり優美にはかなわない。
「ありがとう、お姉ちゃん……」
 優歌はつぶやいて優美の部屋を出た。


 結婚の話から一カ月近く、四月も半ばを過ぎて温かくなった。優美とはぎくしゃくした関係が続いている。何かあるわけでもなく、話しかけたときにちゃんと答えてくれることがあれば、まったく突き放すこともあって、優歌は戸惑ってばかりいる。
 佐織は優美自身から告白のことを聞かされたようだ。そのうち優美も解決できるわよ、と極めて安直に励まされた。
 優美が優歌より格段に自己啓発力を持っていることはたしかだ。
 それに比べて、優歌は優美の気持ちにまったく気づかないほど鈍感で、かといって立場保守したいがために身を引こうという殊勝な気持ちもない。優歌は自分が厄介な欠陥人間のような気がした。
 淳介はそういうことを知ってか知らずか、勝手に式の日取りを決めた。いちおうは相談という形で持ちかけてきたけれど、その実、自分だけすっかりその気だ。匠を婿養子にする算段かと思いきや、そこまでする気はまったくないようで、とどのつまり、やっぱり優歌を売り払いたんだろうかと真面目に疑心暗鬼になった。
 返品される要素ばかりなのに。


「お父さんが教会で式挙げるんだったら、バタバタになるけど六月がいいんじゃないかって云ってて……幸せになれるようにって……」
 海沿いにある遊歩道を歩きながら優歌が伝えると、匠は息を漏らした。
「本部長は意外にロマンティストだな」
 ため息かと思ったのにその声は可笑しそうで、漏れたのは息ではなくて笑い声だった。見上げるとかすかに口の端があがっている。
「意外にって、お父さんとお母さんは大恋愛なんです。社内恋愛」
「噂には聞いてる」
「そうですか?」
「業平は社内恋愛とか身内恋愛が多いらしい」
「身内恋愛ってなんですか?」
「例えばおれと優歌もそれに当てはまる」
 優歌は思わず立ち止まった。

 わたしと上戸さんて恋愛なんだろうか。お父さんが云いだして、お父さんが結婚式の日を決めて。
 お見合いみたいな状況から信じられないくらい近づいた優歌と匠。
 休みの日になると、ふたりの時間が都合つけばこんなふうに会って、散歩じみたりショッピングをしたり、まるで普通の恋人みたいにしている。正確に云えば、家事手伝いの優歌は都合なんてどうにもなるわけで、およそ匠の都合だ。
『優歌ちゃん』から『優歌』に呼び方が変わったときは驚いたけれど、それよりうれしかった。
 伴って匠のことをだんだんと好きになっていく。けれど、それが恋とか愛とかいう感情なのかはよくわからない。

「余計なこと云ったようだ。深く考えなくていい。行こう、腹減った」
 匠はかすかに首を傾けてから先立って歩きだした。三歩くらい出だしが遅れたうえ、コンパスの差から、優歌は小走りになった。追いつくなり、匠の左手の小指をつかむ。
 水族館デートのとき以来、優歌から手を繋ぐときはいつもこうだ。そうすると、匠はいつも可笑しそうな眼差しで優歌を見下ろす。
 その表情は好き。
「腹減ったってまだ十一時だし、さっきアメリカンドッグ食べましたよ?」
 そうからかってみたら、匠はかすかに笑みを浮かべただけで肩をすくめた。それを見て優歌は首をかしげた。
 もしかして。困惑したわたしの気を紛らそうとして気遣ってくれた?
 そう考えて、これまでの苦手だった頃のことを思い返してみた。冷たいと思いこんでマイナス方向にばかり捉えていたけれど、優歌が推し量っていた匠の気持ちと、実際に匠が思っていたことは、まったくずれていたのかもしれない。

「式は六月で問題ない」
「はい。雨降って地固まるって云うし、六月の結婚は雨降っても晴れても幸せになれそう」
 優歌の陽気な声に対して、匠は小さくうなった。
「どうかしました?」
「それ、悪いことが前提のたとえだ」
 匠の声は不快そうで、思わず優歌が見上げると顎のラインが強張って見えた。不用意な自分が情けなく、匠の手をつかんでいた手を緩めた。
「ごめ――」
「ああ、違う。たしかにおれたちはいい関係とは云えなかったから、あながち間違いじゃない」
 匠は離しかけた優歌の手を逆に握り返しながら謝罪をさえぎった。
「……上戸さんは、わたしが上戸さんを嫌ってるって思ってたんですよね。わたしも……上戸さんに嫌われてるって思ってました」
 今度は逆に匠が立ち止まった。
「おれが嫌ってるって? 優歌を?」
 けっして質問ではなく、念を押すような云い方は、匠がそうは思っていなかったことを示している。
「わたし、こんなだからうんざりさせちゃうこと多いし、上戸さんも……いつも云い方が冷たくて……金城さんたちと話してるときは普通だから……。あ、いまは違いますけど」
「……おれは……」
 匠は云いかけて口をつぐんだ。(おもむろ)に歩きだし、優歌も続く。
「云い方がきついのは悪いと思ってる。気をつける」
 その声は後悔混じりだ。
 一方で優歌は、ずっと気にかかっていた問題が解決してまた匠に近づけた気がした。
 迷ったけれど云ってよかった。またちょっとした勇気が湧いてくる。
 わたしも“上戸さん”から昇格していいかな……。
「た……匠さんはそのままで大丈夫です」
 ちょっとつかえてしまったけれど、匠がそれに驚いたのかどうか、ましてや優歌みたいにうれしいなんて思ったのかどうかはわからない。至って普通にしている。かえって反応されるほうが居心地悪いかもしれない。
「わたしがおろおろしちゃうぶん、た、匠さんがどんと落ち着いてくれてたら安心できそうです。攻撃受けても、匠さんは一言でノックアウトしちゃいそうだから」
『匠』という音が繰り返すうちに滑らかになった。預けていた手を優歌が握り返すと、匠はふっと笑った。
「そこまで頼ってもらえるんだったら応えないとな」
「はい!」
 笑いながら見上げた匠はふと目を細めた。何か云いたそうな表情。時折、そんな表情が優歌に注がれる。
 ヒールを履いても優歌より頭一つぶん背の高い匠は、足を止めて身をかがめた。
「いい?」
 ほんの間近で訊ねられた。端整な顔は近くで見ても粗がない。答えを待っているふうではなく、焦った優歌が顔を火照(ほて)らせて目を伏せたのと、匠が距離を詰めたのは同時だった。
 ふわりと触れたくちびるは見た目より、大きくて柔らかい。
 そう感じるのが精一杯で、どう応じていいのかもわからずに、胸の下で心臓が窮屈そうに暴れている。
 吸盤みたいに離れがたそうにしながら匠のくちびるが遠ざかる。伴って優歌のくちびるがかすかに開き、匠はもう一度、ちょっとだけ触れた。
「力、入ってる」
 からかいながら匠が優歌の手を握りしめた。
 匠は気持ちをほぐそうとしてくれたのに、カチカチになった手はなかなか緩まず、優歌はうつむけた顔を上げられない。どう振る舞っていいのか、内心であたふたしているうちに、頭上から息が漏れた。匠がはじめて家にやって来た日と同じ、呆れたため息。そう気づいて、後ずさりしようとしたとたん、逆に匠の右腕が優歌を引き寄せた。
 驚いた優歌は躰を強張(こわば)らせて、繋いだままの固まった左手をさらに握りしめた。耳もとに自分の鼓動とは別のリズムを刻む音が届く。優歌よりは落ち着いているけれど、耳に触れる匠の鼓動も早いんじゃないかと思った。躰から硬さが抜け、言葉よりもそのしぐさが優歌を癒した。優歌の手が緩む。

「優歌、マンション買おうかと思ってる」
 匠は腕を解くと、とうとつに云った。恥ずかしいのも忘れて、びっくり眼で優歌は見上げた。
「そうなんですか?」
「中国赴任でアパートを引き払って社員寮にとりあえず移ってたけど、アパートとか社宅よりもどうせなら定住地を見つけたほうがいいだろ。転勤があっても拠点がこっちであることにはかわりない。式まで忙しくなるけど……一緒に選ぶだろ?」
「はい。わたしも仕事探します」
「なんで?」
 匠は怪訝(けげん)そうに眉をひそめた。なんとなく不満そうな口調だ。
「え、マンションて高いですよね?」
「安くはないけど買える程度の稼ぎはある。中国行きと引き換えに昇格してるし、赴任中は会社持ちでほとんど使ってない。いままでもあまり使う暇なかった。優歌が稼いでくる必要はない」
 匠はつっけんどんで、ほんのちょっとまえだったら()じ気づくような云い方が、いまの優歌にはなんともなく聞こえる。優歌は匠の言葉にふと思い当たって笑みを浮かべた。
「あ、金城さんが云ってました。匠さん、仕事の鬼だって」
「鬼というほど執着してるわけじゃない」
「はい。でもほんとに仕事しなくていいですか?」
「やってみたいって云うんなら止めないけど、無理してほしくない」
「……躰のことですか?」
 そう訊き返すと匠はかすかに首をひねった。
「お父さんたちが心配するほど弱くはないんですけど……。今時、家事手伝いなんて一人前じゃない感じがして気が引けます。短大の就職率、下げちゃったし」
「そういうのを気にするような短大じゃなかったと思うけどな。お嬢さま学校なんだろ?」
「でも、やる人はちゃんとやってるんです」
「優歌もやりたいことが見つかったらやればいい」
「はい」
 優歌がうなずくと匠も合わせてうなずいた。
「ゴールデンウィーク、結婚の報告兼ねて実家に行くからそのあと――」
「匠さん、わたしも一緒に行かなくていいですか? お父さんも挨拶を気にしてたし……」
 匠をさえぎって優歌が覗きこむと、驚きから迷ったような瞳に変わった。
「実家は田舎だ。こっちと違ってガサツに感じるだろうし、気を遣うだろ」
「ううん。結納とか省いちゃうのはいいけど、結婚式で初対面ていうのもおかしいし。匠さんが過ごしてたところ、見てみたいです。わたしは知られてるのにずるいでしょ?」
 匠の口もとが可笑しそうに(ゆが)んだ。
「わかった。休み前にマンションの下見して、帰ってから決められれば日程的にベストだな」

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