最愛−優恋歌−
章−優恋慕− 3
月曜日と火曜日は匠からなんの音沙汰もなく、優歌はほっとしたような物足りないような矛盾した気持ちを抱いた。こっちから電話やメールはしづらい。まず用件がない。ましてや、こんなふうにもやもやした状態では匠にどう接していいかわからない。
いちばんの相談相手である優美が、結婚に反対している、もしくはよく思っていないとなると相談もできない。優美自身の口からあんなことを聞かされれば尚更。
真由に相談すれば、ちゃんと訊きなさいよと云われそうだ。そうできるならこんなに不安になったり沈んだりすることはないのに。
「優歌、今日の夜、お父さんが上戸さんを連れてくるんですって」
優歌が昼食のあと片づけをしていると、淳介との電話を終わった佐織がそう知らせた。
「そう?」
「……どうかした?」
佐織は優歌の曖昧な返事に気づいて、手にしていた湯呑みをダイニングテーブルに置いた。気遣わしげに優歌を見つめる。
「ううん」
「結婚、迷ってるの?」
「そうじゃなくて……」
優歌は佐織の質問を即座に否定した。迷っているのは結婚じゃない。そう思いきれる自分を突飛に感じた。優歌をためらわせているのは、迷いではなく不安で、まさにその不安を匠に悟られるかもしれないこと。あまつさえ、匠の本心と優美の反応に惑わされそうな気配。
「ちょっと緊張しそうだなって思って」
「ゆっくりやっていけばいいのよ。上戸さんもそうかもしれないでしょ? 結婚が決まったとたんに続けてあなたを誘いだしたこと、上戸さんて積極的だったんだわって思ったんだけど、そういうことじゃなくて、まずは慣れてほしかったんじゃないかしら。優歌はどっちかというと上戸さんを避けてたでしょ。まぁ上戸さんの雰囲気じゃ、そうなるのもわからなくはないけど」
佐織に云われて、優歌は匠の真意に気づかされた。たしかにあの三日間で急速に近づいた。よくよく考えると、究極の社交辞令だとしたら、匠がそんな努力をする必要はないはずだ。むしろ、断ってほしければ優歌のことなんて放っておいたほうが得策だろう。
「そうなんだ……」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
つかえが下りて、優歌の口もとに笑みが浮かんだ。佐織は首をかしげて湯呑みを口につける。その佐織を見て今度は違うことが気になりだした。
佐織が断言するほど、露骨に自分は匠を避けていたらしい。匠自身が優歌に嫌われていると思っていたし、優美も苦手にしていたことを知っていて、もしかしたら淳介も。それなら余計に疑問だ。
「どうしてお父さんは“わたしと上戸さん”だったのかな」
「お母さんが推したことでもあるのよ」
優歌はびっくり眼で佐織を見つめた。
「どういうこと?」
「じれったいから」
短い返事はまったく意味不明で優歌は眉をひそめた。
「意味がわからないよ」
「まあね、お母さんもあなたと同じくらい婚約成立に驚いてるけど」
自分が推したわりに無責任な発言だ。
「お母さん……どうしてお姉ちゃんよりわたしが先なの?」
佐織は一瞬、答えに躊躇した。
「そういう問題じゃないわ。タイミングなんだから」
佐織がためらったのは日曜日の云い争いと関係がある気がしたけれど、優歌は聞いていないことになっている手前、訊くに訊けない。
佐織は気持ちを切り替えるように軽く首を振った。
「第一ね、優美は自分から動くタイプだけど、優歌は逆に尻込みしちゃうじゃない。一人前の仕事もできない、結婚もできないじゃ情けないし」
酷い云い様だ。反論できないところが佐織の云う以上に情けない。優歌は大きくため息をついた。
「上戸さんもタイミングって云ってた」
優歌がつぶやくと、佐織は晴れやかな顔になった。
「そうでしょう。上戸さんもいい年だし、優歌がいろいろやりだすまえがいちばんいいかと思ったの」
それは単なる優歌の婿探しではなく、優歌と匠ありきで始まって、そのうえずいぶん以前から考えていたようなニュアンスを感じた。
「いろいろって?」
「んー……仕事とか……」
佐織は云い難そうにして曖昧に濁した。
「……もしかして、お母さんたちが就職斡旋しなくなったのって、そのときから上戸さんとのこと決めてたから?」
「だってほら、仕事始めてすぐに結婚しちゃったら、名前が変わって職場に気を遣うでしょう? 学生のうちであれば問題なかったんだけど、生憎、上戸さんは卒業まで中国赴任中だったし」
優歌の意思をまったく無視してまるで子供扱いだ。早いうちにだれかに預けてしまえと売られた気分になるのは大げさだろうか。もともと頼りなく思われて、実際そうだけれど、かといって白羽の矢がなぜ匠に立ったのだろう。さっきは逸らされてしまったけれど、家に来る独身族は匠ばかりではない。
「とにかく、いまはこうなってるわけだし、いいじゃない」
佐織はこの話題は打ちきりと云わんばかりに立ちあがった。煮えきれないまま放りだされた気分だ。
それから、さぁ今日の夕食はなんにしようかしら、と昼ご飯を食べたばかりだというのにもう夕ご飯のメニューを考え始めた。
専業主婦って、頭の中は食に関することで大半を占められているような気がする。
自分がだらだらしていることを棚に上げ、優歌はそんなことを思った。
淳介は七時過ぎに帰ってきた。匠を伴ってきたのは当然ながら、めずらしく優美も一緒だ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
優歌が出迎えると、淳介と優美が声をそろえて答え、匠は小さくうなずいた。優美がいつもどおり答えてくれたことに安堵しながら、三人を先に通そうと脇に避けた。淳介たちの後ろを行く匠が優歌の前で立ち止まる。
「かわりない?」
「はい」
どういう意味なのか、たぶん英語で云うなら“How are you?”というところだろうと見当をつけて優歌はうなずいた。
「上戸さんは?」
それならお返しもしないと失礼だ。そう思って優歌は問いかけてみた。返事の変わりに匠は小さく片側の口端を上げる。匠との間の不安はほぼ解消されて普通にできた。その安心が、匠を見上げる優歌を笑顔にした。
匠は少し目を細めて、それから首をちょっとだけ傾けると優歌の背中を軽く押してリビングへと促した。
匠と佐織が挨拶を交わしたあと、そろってダイニングのテーブルについた。リビングではなくダイニングでの食事というのが、いままでの部下というだけの付き合いと違っていて親しげだ。
しばらくは優歌と佐織をそっちのけで会社の話題になった。そうなると、優美がちょっとうらやましい。
「本部長、式のことですが」
「ああ、その話も詰めないとな」
匠が切りだすと淳介もうなずいた。
「会社関係のこともありますので段取りは本部長を頼ることになりますが、費用についてはすべて僕が引き受けます」
「しかし、持ちかけたのは――」
「そうしていただかないと、親に放蕩者呼ばわりされてしまいますので」
淳介をさえぎって匠が冗談交じりに云うと、淳介は渋々ながらも了承した。
匠の雰囲気から入籍だけで簡単に終わると思っていただけに、優歌は戸惑って、隣に座った匠からその向こうにいる淳介に視線を移した。
「そんなに大げさになるの?」
「けじめだ。業平商事は身内の慶事を歓迎する会社なんでな」
身内というのがどういうことかはわからないけれど、淳介が云うのはつまり、上層部の人たちも呼ぶということだろうか。優歌は気が重くなった。
「優歌、結婚するからには、そういうお付き合いも覚悟できてないとおかしいよ?」
優歌の正面から優美が現実を突きつけた。どこか突き放したように聞こえる。
「……うん」
これが優歌でなくて優美だったら、なんの憂いも問題もなくこなすに違いない。
「ゆっくりでいい」
「はい」
匠が声をかけ、優歌は返事をしたもののますます憂うつになった。付き合いのこととは別に釈然としない何かが気にかかる。
「身内の慶事って云えば、営業部とグループ交際やってた今期の新人女子社員てみんなカップルになっちゃったのよね。今週は社内中その話題で持ちきり。金城さんと仲村さん、片づいちゃったし。上戸さん、営業課の成宮さんと竹野内さんは知ってる? 上戸さんが中国に行ってる間にウチに来るようになったんだけど」
「中国に行ってる間にいろいろあったらしいな。もちろん知ってる」
「その二人も。どうしてわたしはスルーで新人社員になるのかな。上戸さんもスルーして優歌だし」
おどけた優美のセリフに匠は小さく笑った。
四対四のグループ交際はこの半年、淳介の前でもオープンに語られていた。土曜日のデートのとき、金城が同棲まで発展したことを匠が教えてくれたけれど、四組全員がカップル成立したとまでは知らなかった。男女の付き合いに疎い優歌は、グループ交際ってそんなにうまくいくものなんだ、とへんに感心して淳介の部下四人を思い浮かべた。
が、のん気でいられたのもそこまでだった。優美はグループ交際の話だけに止まらず、すまして爆弾を落とした。
「あ、でも上戸さんの場合はお父さんの命令だから。金城さんたちの場合とは違うかな」
その瞬間に空気が凍りついた気がして、優歌は身を縮めた。何気なく口にしたのかわざとなのか、優美の意図はその表情からも口調からもわからない。
「優美ちゃん、命令じゃない。きっかけを作ってもらったんだ」
優美の発言をどうとったのか、あまり喋らないくせに匠はいかにも雄弁だ。張り詰めた空気がわずかに緩んだ。
優美は不自然なくらいにっこりして匠に向かった。
「きっかけかぁ。そういうのって逃しちゃうと取り返しつかないんだよね。上戸さんはそれでも頑張るほう?」
「どうだろうな。だめとわかってても納得するまで頑張れるってのは、理想じゃあるかもしれない。もしかしたら取り戻せるという可能性はゼロばかりじゃない」
「そう? じゃ、頑張ろうかな」
「何かあるのか?」
優美の答えに淳介が眉をひそめて口を挟んだ。
「ないことのほうがめずらしくない?」
優美は質問で返した。
たしかに優歌だってきっかけを逃したことはある。それこそ、うじうじした性格だけに優美より盛りだくさんだ。
わたしも何か頑張らなくちゃ。
優歌は気が沈みながら、漠然と内心でつぶやいた。
気まずさが簡単に消滅することはなく、それをもたらした優美自らが会社内の差し障りのない話題に戻したことで、やっと和やかになっていった。
談笑が続くなか、匠は九時過ぎになって腰をあげた。
ちょっとした波乱はあっても、優歌は時間を短く感じた。デートのときもそうだけれど、匠といると会話が少ないくせにそう思ってしまう。
「ここでいい。まだ寒い」
匠は見送りについて来た優歌を玄関の戸口で引き止めた。
「はい」
「土曜日は空いてる?」
「はい」
「じゃ、またドライヴだ。連絡する」
「はい」
「はい、ばっかりだな」
匠は何を思ったのか、ちょっと首をひねると軽くうなずいて出ていった。
せめてと優歌は玄関の外側に出た。戸を閉めかけたとたん、いきなり逆に動いた。手を挟みそうになり、避けたせいでよろけた。悲鳴をあげる間もなく、だれかが通り抜けたのに驚いた。
お姉ちゃん……?
「上戸さん!」
優美が匠を呼び止めた。
優歌は無意識で玄関の灯りがなるべく当たらない陰に移動した。
上戸は石が敷き詰められた玄関アプローチの先で立ち止まった。見ていたら視線を感づかれそうで優歌はうつむく。
「上戸さんはいいの?!」
「いきなり、なんの話だ?」
優美の叫ぶような問いかけにも、匠は至って冷静に答えた。
「結婚の話。お父さんが無理強い――」
「優美ちゃん、違う。云っただろ、きっかけだ」
「じゃ、優歌じゃなくてわたしでも受けてくれたんだよね? 優歌は上戸さんのこと避けてたけど、わたしはずっと上戸さんのことが好きだった」
「優美ちゃん――」
「やっと上戸さんが帰ってきていまからって思ってたのに、どうして優歌が出てくるのかわからない。わたしのほうが上戸さんのこと好きなんだよ? まだ会社に結婚が知れてるわけじゃないし、取り返せるよね? 仕事のことを考えてもわたしのほうが絶対フォローでき――」
「優美ちゃん、優美ちゃんにそういう気持ちがあるとは知らなくて悪かったと思う。けど違うと云ったはずだ。おれは気が乗らなければ、優美ちゃんのお父さんからたとえ命令されたとしても受けることはない。おれと優歌ちゃんが決めたんだ」
互いに相手をさえぎりながら続けられた会話に、優歌は身をすくめた。
淡々とした匠の答えに優美は黙りこんでいる。
優美の中に、上戸に対するそんな想いがあるとはまったく気づかなかった。優美は優歌がいるのはわかっているはずだ。それでも告白したのは優歌に対する意思表示としか考えられない。
優美に結婚する話をしたときにどこかしっくりしなかった理由。それは、真由や立花が口にした『おめでとう』がなかったことだと気づいた。
聞かなければよかった。
まだ逃げ癖の抜けない優歌はそう後悔した。
「わかった」
しばらくして優美は無表情な声で返事をした。
優美が戻って来るとわかると優歌はますます身を縮める。優美は優歌に見向きもせず家の中に入っていった。戸は開けっ放しだ。
「優歌」
いつからいるとわかっていたのか、案の定、匠が呼びかけた。足音が近づいてくる。
「……はい」
「おれは優歌とのことを断るつもりはない」
匠は一メートルくらいの距離を置いて立ち止まると、きっぱりと云いきった。
優歌はためらいがちに顔を上げた。まっすぐに見下ろしてくる眼差しは、オレンジ色の外灯のせいか深く温かく見えた。自分でも戸惑うくらい、匠の宣言に安堵している。
「はい」
「大丈夫か?」
「はい、頑張ります」
優歌の『はい』はだんだんと元気になっていく。
「はい、ばっかりだな」
また匠は同じことをつぶやいた。今度は可笑しそうに。
「早く戻って。風邪をひかれたら困る」
「はい……おやすみなさい」
「おやすみ」
匠が見守るなか、優歌は家の中に戻った。
優美の気持ちを考えるときっと簡単なことではない。それなのに、自分でも不思議なくらい、結婚話を取り消そうという気持ちは湧かない。
優美に対する後ろめたさは否めなくて、それは優歌の自分勝手なわがままなのせいかもしれない。
潔く譲ってしまえば簡単にすむのだろう。けれど。
嫌だ。
ただ、そう思った。
玄関の戸から手を離したとたんにふと気づいた。
――優歌。
その音は好き。