最愛−優恋歌−

章−優恋慕− 2


 業平を出てから電車で移動すると、ふたりは駅から近いイタリア料理専門のレストランに入った。店内は暖色の照明で落ち着いた雰囲気だ。予約していたらしく、匠が名乗ると給仕がテーブルに案内した。
 匠が料理まで予約していたと知ると、優歌はほっとした。男の人と二人きりで食事という経験がないことに、今更になって気づいた。
 ここに来てからまた優歌の緊張は復活していて、メニューを見せられたところで決められなかったかもしれない。友だちならいつものことと割りきってくれるけれど、匠は苛々(いらいら)してしまうだろう。
「緊張してる?」
 匠が不意に声をかけた。そわそわと周りを見回していた優歌は顔が赤くなった気がした。幸いにも照明の色がそれを隠した。
「……はい」
「ありがとう」
 その言葉はどこかずれていて、優歌は思わず伏せていた目を上げた。匠は至って真面目な顔だ。
「……あの……」
 戸惑った優歌に匠はうなずいてみせた。
「正直に云ってくれたほうがいいんだ。結婚は決めたけど、おれたちはお互いに知らないことのほうが多い。我慢してしまうとすれ違うこともあるから、つまらないと思うことでもできる限り話してほしい」
 それはもったいないくらい誠実に優歌の中へと浸透した。声はいつもと変わらず淡々としているのに、匠の手と同じくらい温かく聞こえた。
「はい!」
 勢いこんだ返事に匠が笑みを浮かべた。
「まずは卒業おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
 お祝いの乾杯から始まった食事は、お世辞にも会話が弾むとはいえないけれど、居心地自体は悪くなかった。悪くないという云い方は控えめかもしれない。食事が終わる頃になって気づいたのは、匠が食べる速さを合わせてくれたこと。優歌が無理することはなかった。

 帰り道、駅から水辺家まで歩いて送る間も、匠の歩調は優歌のペースに合わせるようにゆっくりしている。九時をとっくに過ぎて人通りはあまりなく、足音を立てるにもちょっと気が引けるくらい静かだ。黙りがちで歩きながら、ふと匠の左手が目に入った。
「明日、昼から出かけないか?」
「え?」
 馬鹿げた衝動に駆られたときの不意打ちで、優歌は必要以上にびっくりした声を出した。匠が半歩後ろを歩く優歌を見下ろした。外灯が影を作ってその表情はよく見えない。
「午前中は仕事に出るけど、昼からは休み取れるし」
 匠は問いかけるように首をひねった。
「……わたしは仕事してませんから……」
「じゃ、電話入れてから迎えにいく」
 優歌が回りくどい返事をしても、匠は気にしていないようだ。云ってしまってからもっとはっきり伝えなくちゃと焦っただけに、優歌はほっとした。



 次の日、土曜日は昼食の準備を手伝っているときに匠から電話があった。
『車でもいい?』
「……いいですよ?」
 一時に行くと云ったあと、とうとつに訊ねた匠の口調はなぜか気遣うように聞こえ、優歌は疑問符の付いた返事をした。
『いや、車酔いするんならと思ったんだ』
「え?」
『金城が三半規管弱いって云ってた気がするし』
 躰は弱くても三半規管が弱いという心当たりはない。優歌はどうしてそんなふうに考えたんだろうかと急いで思い廻った。程なく金城を思い浮かべてみて気づいた。
「あ、大丈夫です。あれは金城さんがいつもふざけるから止める口実にしていただけで……」
 ずっとまえのことをよく覚えているなと思いつつ、優歌は云い訳をした。
『そういうことか。じゃ、あとで』
 匠は電話の向こうで呆れたようにため息をつくと、電話は端的にすまされて切れた。
「上戸さん?」
 優歌が携帯を閉じると、リビングで雑誌を見ていた優美が顔を上げて訊ねた。
「うん。車で出かけるんだって」
「そ」
 優美は短く相づちを打った。愛想なく聞こえる。昨日、匠と食事をして帰ったあと優美に声をかけたけれど、そのときからなんとなく話ができない感じだ。
 相談したいことも話したいこともあるのに。
「お姉ちゃん、どうかした?」
「優歌はお気楽でいいなって思って」
 そう云われればぐうの音も出ない。いつもなら笑い飛ばせるセリフも、いまの優美の声には(とげ)を感じた。
 何かあったんだろうか。
 そう思いながら携帯をダイニングテーブルに置いて、優歌はまたキッチンに入った。
 佐織はさっきの短いやりとりを聞いていたようで、何か云いたげに優歌を見たけれど、結局は云わないまま料理に取りかかった。優美がすぐそこにいる以上、むやみに佐織に訊くわけにもいかず、優歌は気落ちした。
 昼食になると優美は普段に戻っていて、出張の話題が上り、専ら、淳介を相手におもしろ可笑しく話した。その様子から少なくとも出張で何かあったわけではないらしい。
 だれだって、そうそういつもポジティブでいられるわけはなくて、いままでも優美が不機嫌なときはあった。
 別に急ぐことでもなく、優歌は機会をあらためることにした。


 匠は時間どおりにやって来た。
 玄関を開けると、優歌の()いた鼓動は驚きが加わってリズムを乱す。
 いつもスーツ姿の匠は、砕けてもジャケットを脱ぐくらいだ。今日のジーンズにTシャツ、そしてカジュアルなジャケットという格好は想像したこともなかった。それどころか、てっきりスーツで来るとイメージしていた。考えてみれば家にいるときにスーツなわけはない。ラフな姿も様になっていて、自分の平凡な容姿と比べた優歌は気後れしてしまった。気にしてもどうしようもないことであり、とにかくスーツよりは近づきやすい雰囲気で、優歌でも釣り合って見えるかもしれない。

 匠は家に寄ることなく、玄関先で両親に挨拶をすませただけで優歌を連れだした。
 門の前には光沢を放つブルーグレーの車が止まっている。
「上戸さん、車持ってたんですか?」
「レンタル。実家のほうと違って東京じゃ、買うほど車は必要じゃないから」
「上戸さんの実家って、福岡ですよね?」
「ああ」
「わたし、明太子好きなんです」
 優歌が云うと匠は息を漏らした。
「それは催促なのか?」
「いえ、そうじゃなくって……」
 見上げた匠はおもしろがるような眼差しで見下ろしている。ひょっとしてさっきは吹きだしたんだろうか。優歌が困ったように首をかしげると匠が背中を軽く押した。
「乗って。行こう」
 触れられることに慣れていない優歌は、さりげないしぐさにもどきどきして、匠がドアを開けてくれた助手席に乗りこんだ。
 いざ車に乗ると、本当にふたりきりという空間に気づいて、昨日のレストランよりもあわてた。けれど、車を出してまもなく、ドライヴは好きかという匠の質問から始まって、好き嫌いの話をしているうちに沈黙も気にならなくなっていった。

 一時間もすると道沿いに海が見え始める。それからまもなく、匠は広い駐車場に車を乗り入れた。敷地内にある建物の前に、巨大なイルカのオブジェが見るまでもなく目に入った。匠が連れて来たのは水族館だ。
「水族館て久しぶりです。すごく立派になってますね」
 チケットを出して奥に行くと、入り口のアーケードは水槽になっていて、頭の上を魚が泳いでいる。天井を振り仰いだ優歌が少し視線をおろすと匠の目と合った。
「おれのほうがもっと久しぶりだ。小学生んとき以来だからな」
「……上戸さんて……」
 優歌は云いかけてやめた。訊こうとしたことは不躾(ぶしつけ)な質問だと気づいた。
「何?」
「いえ。大したことじゃなくて……へんなこと云いそうになりました」
「昨日、つまらないことでも話してくれって頼んだばかりなんだけどな」
 匠はしかめた声で、いまにもため息をつきそうだ。
「……あの……いままでデートでこういうとこに来なかったのかなって思っただけです。上戸さんてモテそうだし、お父さんが急に云いだして……中国から帰ったばかりだとしても、よく……その……いま彼女がいなかったなと思って……っていうのは真由の意見……です」
 優歌が云い訳っぽく付け加えると、匠は一転して可笑しそうにした。
「こういうのはタイミングらしいからな」
「タイミング?」
「知ってるかな。金城、彼女と同棲始めるらしい」
「ホントに?!」
「社内間でグループ交際やってたけど、そのうちの一人と。今日、彼女が引っ越してるんじゃないかな。金城はすぐ結婚するつもりらしい」
「そうなんですね。グループ交際のことは聞いてたけど、その中に特定の彼女がいるってことは知らなかったからびっくりです」
「“彼女”になったのは一週間前だってさ」
 優歌は目を丸くして匠を見上げた。匠は首をちょっと傾けた。
「タイミング、だろ? まぁ、おれたちのほうがもっと驚かれるのは間違いない」
 匠のちょっとおどけた感じにびっくりしながら、何気なく出た『おれたち』という言葉の響きをうれしいと思った。そして、その“うれしい”という気持ちに優歌は戸惑う。

「真由も驚いてました」
「西尾さんはどうしてる?」
「真由は大学に行ってます。わたしと違って上昇志向百パーセントだから」
「優歌ちゃんと西尾さんて正反対って感じがするけど、相変わらず仲がいいんだな」
「真由はずばずば云ってくれるから、わたしはかえってラクなんです。真由のほうはわたしにイライラしてるかもしれないけど」
「かもしれないってことは、西尾さんがそんな態度は見せてないってことだろ? ずばずば云うっていうなら、そういうイライラとかも我慢することはないだろうし、つまりはお互いにうまくいってるってことだ」
 匠が指摘すると、優歌は真由とのことをいろいろ考え廻ってみた。高校卒業と同時に会う時間は極端に少なくなったけれど、自然と離れてしまった友だちがいるなかで、真由とは互いの連絡が途切れることはない。
「……上戸さんに云われて、真由のこと、もっと好きになりました」
 見上げた匠は口の端で小さく笑った。
「デートに関しては、いままでこういうところが好きそうな、もしくは似合う子がいなかったせいかもしれない」
「……どういう意味ですか」
 優歌が思わず訊いてしまうと、匠は答える気がなさそうにかすかに首を動かした。

 ちらりと見回した館内では親子連れ、つまり子供が目立つ。優歌が子供っぽいということだろうか。
 そう考えると、匠がどれくらいの女性たちと付き合ってきたのか気になってしまった。優歌はこういうことになるまで近づけなかったけれど、絶対に放っておかれるタイプじゃない。あの立花という女性は食事しようって云っていた。立花の容姿を思い浮かべたとたんに落ちこんだ。
「こういうデートらしいデートははじめてかもしれない」
 館内を歩きながら、しばらくして匠が云った。変わらず曖昧な云い方だ。
 家に来る淳介の部下たちは上司の前というのに、遠慮なく彼女の話題で盛りあがる。匠に関してそう云った話は人伝(ひとづて)でも聞いたことがない。けれど常識で考えればはじめてのはずはない。
 それなのに『はじめて』という言葉に、ちょっとだけ優歌の気分は浮上した。並行して、匠の言動でいちいちうれしいと感じたり、反対に落ちこんだりするのがどうしてなのかわからずに、自分を持て余した。最初に会ったときからそうだ。
 最大の理由は自分にまったく自信がないせいだろうか。変わらず人見知りはしても、どうにか相手を不快にさせない程度には克服した。成長はちょっとずつしかできなくても止まっているわけではないはずだ。それでも自信には程遠くて人の意見に左右されやすい。
 気づかれない程度にため息をついたその時、優歌は下半身に軽く体当たりされた。よろけたはずみに目の前の匠の腕をつかんだ。足もとを見下ろすと小さな男の子が頭を()いている。
「すみません」
 母親が男の子を捕まえて優歌に謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
 優歌が答えると、母親は男の子にもごめんなさいと謝らせて連れていった。
「大丈夫か?」
「全然平気です。脚だったから転びそうになっただけで……」
 ふと、腕につかまったままであることが気になって優歌は手を離した。匠はうなずいてまた歩きだす。

 半歩前を行く匠の左手は空いていて……。
 匠のことはずっと苦手だったのに、いまは信じられないほど親密な距離にいる。その手を見ているうち、昨日の帰り道のときと同じように自分が自分をそそのかした。
 たまには勇気の延長で積極的になっても……。
 ためらったせいで優歌がつかんだのは匠の小指だ。握ってしまってから、自分でもちょっと間抜けだったかもしれないと思った。
 匠が立ち止まって優歌を見下ろした。
「なんでこういう握り方なんだ?」
 暗がりで匠の表情はよく見えないものの、おもしろがっていそうな声に聞こえる。
 優歌は素早く理由を考え廻らせたすえ、すぐ先にある巨大水槽の中を優雅に泳いでいるエイが目に入った。
「……あの……海のエイちゃん見てたら、なんとなく長い尻尾をつかみたいなって思って……」
「海のエイちゃん?」
 今度ははっきり可笑しそうな声が訊ね返した。
「お父さんが陸の永ちゃんファンなんです」
 優歌がそう答えると、匠はこもった音を短く漏らした。
「そういや、本部長に聴けって勧められたことがある。優歌ちゃんて意外におもしろいな」
「どこか抜けてるだけです。上戸さん、きっとわたしと結婚したらたいへんですよ」
「お互いさまだ」
 冗談なのか真剣なのかわからなかったけれど、とりあえず手が振りほどかれることもなく、優歌の肩から力が抜けた。互いがお喋りではなく、そのぶん手を繋いでいることで緊張ぎみの沈黙も和らいだ。



 次の日、日曜日も午後から匠に誘われて、淳介と佐織はうれしそうに優歌を送りだした。
 さすがに会うのが三日も続くと、いや、結婚が決まった日を入れると四日続けて匠に会ったことになるけれど、ふたりでいることに馴染んできた。かまえた気持ちが払拭された気がする。
 昨日の好き嫌いの話から絵を見ることが共通して好きだということがわかり、美術館へ行った。
 鑑賞しながらたまに感想を云い合っているうちに、ふたりとも好みとする絵に偏りがなく、その時の感性に頼っているという共通点も発見した。全部ではなくても、好きな絵が同じだと安心度が増す。
 夕食まで一緒にして、家に帰ったのは九時を過ぎた。
 優歌は車を降りると、玄関に向かおうとした匠を引き止めた。九時というのは二十才を過ぎたいま、けっして遅い時間ではなく、わざわざ挨拶する必要はない。
「上戸さん、ここでいいです。明日は仕事ですよね。また昨日みたいにお父さんが引き止めたら帰れなくなります」
 昨日は車だったからこそお酒は勧めなかったものの、匠は淳介から二時間も引き止められて、家を出たのは十一時を過ぎていた。
「けど――」
「もう学生じゃないですよ」
 からかうように優歌が云うと、外灯の下で匠は肩をすくめた。
「じゃ、行って。入るまで見てる」
「はい。じゃあ、また」
「ああ」
 後ろ姿を見られているかと思うと、優歌は歩き方を意識してしまって転びそうになった。玄関の戸まで来て後ろを振り向くと、云ったとおり門柱の間で見守っていた匠が軽く手を上げた。
 優歌も手を振り返し、家の中に入って戸を閉めた。
 とたん、リビングからこもった、それでいて大きな声が聞こえてきた。穏やかな感じではない。優歌はパンプスを脱いでそっと上がってみた。

『…………もう決まったことだ』
『いまの時代に信じられない』
『優歌も上戸くんも気持ちが固まって――』
『優歌はともかく、お父さんから頼まれて上戸さんが断れるわけないじゃない?』
『上戸くんはそういう――』
『お母さんだって酷いよ。わたしがどう思うかわかってたよね?!』
『優美……』

 三人の会話――というよりは云い争いに一瞬、優歌は立ちすくんだ。すぐに聞かなかったことにしたほうがいいと思った。優歌はいったん玄関に戻り、そっと戸を開けて外を覗いた。匠の車がないことを確認すると、安堵の息を吐いた。それから優歌はわざと音を立てて玄関を閉めた。
「ただいまぁ」
 優歌は心持ち声を大きくした。リビングの声は止んでいる。優歌がリビングのドアにたどり着くまえに優美が中から出てきて、そっぽを向いたまま二階へと階段を上がっていった。
「お姉ちゃん、ただいま!」
 返ってきたのはむっつりした小さな声だった。優歌はそれだけでも良しとした。
 リビングに入ると、なんとなくばつの悪そうな両親の顔に合う。優歌は気づかないふりをして、匠と美術館で観賞した絵のことを掻い(つま)んで話した。そのうちに落ち着いたらしい両親は逆に根掘り葉掘り訊いてきた。さすがに閉口して、優歌は明日の朝の準備を理由になんとか質問攻めから逃れた。
 あとは寝るだけと部屋に入ると、透視できるわけもないのに、優歌と優美の部屋を隔てた壁を見つめた。下にいる間、隣の部屋から優美が出てくることはなかった。優歌はベッドに腰かけて肩を落とした。
 リビングでのことは否定しようもなく、自分と匠のこと。
 断れるわけない。
 たしかにそう。
 淳介は上司で匠は部下。あのとき、匠が云った『立場』はそういうことだったのだ。
 今更になって思い当たるってわたしはやっぱり配慮がなさすぎる。
 断ってくれてもかまわない。
 匠はそのあとフォローしたけれど、あれは究極の社交辞令で本当は断ってほしかったのかもしれない。せっかく近づけたと思ったこの数日間が、全部ふりだしに戻った気がした。
 いや、それ以下だ。
 うつむいて、見るともなしに見ていた自分の手の甲に雫が落ちた。
 わたし……どうして泣いているんだろう。

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