最愛−優恋歌−
章−優恋慕− 1
「そうか。よかった、よかった。母さんに報告してこよう。しばらくふたりで話したらいい。久しぶりに会ったことだし、積もる話もあるだろう」
淳介は満足至極に何度もうなずいて徐に立ちあがると、優歌たちを残して和室を後にした。
積もる話……って。
優歌は途方にくれた。話題を探すのさえたいへんだというのに。
淳介の背を縋るように追った優歌は、目のやり場に困ってしまう。そのすえ、視線をそのままにして、源氏物語をモチーフとした襖の絵を馬鹿みたいに見つめた。
ずっと着物でいる苦しさと、へんに沈黙した和室の重厚感に押し潰されそうだ。
気絶できるなら気絶してこの場を逃れたい。呼吸さえ覚束なくなるほど気は張り詰めている。
この場を凌げるような話題を探すのに、優歌の思考力は空回りして役に立たない。絶好の題材である“卒業”のことさえ思い浮かばないでいた。
優歌が無駄に足掻いているなか、さきに口を開いたのは匠だった。
「立場を考えて、ああ答えてしまったけど、優歌ちゃんから断ってくれても、おれはかまわない」
どういう思考回路をたどったのか、淳介からなぜ結婚という形で身売りをさせられるのかがわからなければ、ゆっくりと切りだした匠が云う立場も優歌にはまったくわからない。
ただ、断ってくれてもかまわない、という曖昧な言葉に傷ついた。優歌は襖から目を離してうつむくと、くちびるが白くなるくらいに強くかんだ。
「誤解しないでほしい。どうでもいいと思ってるんじゃないし、断るように仕向けてるわけでもなくて、むしろ、結婚から始まる関係でもいいんじゃないかと思ってる。けど、おれは嫌われてるようだし」
優歌はその言葉に驚いて顔をあげた。匠はまっすぐにこっちを向いていて、ごくごく真剣に続ける。
「だから、無理強いは――」
「違います! 嫌いじゃありません!」
優歌は自分で云ってびっくりした。まるではじめて会ったときの感覚が繰り返されている。
表情に乏しい匠もさすがに驚いたようで、目をほんの少し見開いて言葉を切った。あの時と同じ笑みが匠の口もとに還る。
「なら……優歌ちゃんに特別好きな奴がいなければ、これからおれと始めてみないか?」
柔らかくなった匠の表情に断る理由なんて見いだせない。
はじめて会ってまもない頃、苦手な人はたくさんいたのに、匠を苦手の部類に入れた瞬間、ほかの人と違ったところはもう一つあった。
悲しい、と思ったこと。
自分のことなのに、その意味がいまでも優歌はわからない。
いまわかったのは、匠が冷たく見えてもけっして冷たいわけではなく、いまみたいに実直であること。
「はい!」
思考回路が筋の通った結論を見いだすまえに、優歌の口から返事が飛びだした。恥ずかしいくらい張りきった声で、熱が出たみたいに躰中を駆け廻る血液の温度が上がった。
匠は小さく笑みを零した。
「じゃ、これからよろしく」
座卓越しに伸びてきた匠の手は大きくてきれいで、戸惑ったけれど、優歌も手を伸ばした。
四年前に優歌の頬を包んだ手がそうだったように、匠の手はいまも温かく優歌の手をつかむ。
匠に対する苦手意識を払拭したのは、その瞬間の匠自身の温かい手だった。
結婚が決まった昨日、出張中だった姉の優美はまだ婚約のことを知らないはずだ。昨日の夜遅く、優美は卒業祝いの電話をくれたけれど、優歌は混乱していたし、事が事だけに対面して伝えたいと思った。
金曜日はいつも遅くなるのに今日は六時半と、優美はいつもより早めに帰ってきた。優美はリビングに寄ることなく、まっすぐ自分の部屋に向かう。優歌はあとを追って二階にあがるとドアをノックした。
いいよ、と云う軽快な声が聞こえる。
「おかえり。早かったんだね」
部屋に入ると、優美は上着を脱いでいるところだった。ベッドの傍にボストンバッグと仕事用のトートバッグがある。業平に入社して丸三年になる優美は仕事への自信が出てきたようで、いつも充実感にあふれている。
それに比べて優歌は就職活動もすることなく短大を卒業したいま、怠惰な生活が始まった。
業平を受けてみればという父の助言は就職活動まえの段階で蹴った。優美はいま証明されているように期待に応えられる資質を充分に持っているけれど、消極的な優歌には荷が重すぎる。業平での活躍はまず見込めないし、それどころか淳介の顔に泥を塗ってしまいそうだ。
いざ優歌が普通に就職活動をするときになって、両親がともに家のことをやっててくれればいいと云いだした。
優歌はもともと仕事をするということに積極的ではなく、つい両親の言葉に乗って家事手伝いなんていう、どうでもいい立場に甘んじた。もとい、積極的になれることが優歌にあるのかすら怪しい。
そういうなかで、いつ淳介は優歌と匠の結婚ということを考え始めたのだろう。
「うん……ちょっとね」
さっきの軽快さはどこへやら、そう答えた優美はいつもの率直さが消えて、めずらしく何かをためらった様子だ。優歌が問いかけるように顔を傾けると、優美は答える気がなさそうに首をすくめた。
「お姉ちゃん、あのね……」
戸惑いがちに云いだして、優歌はいったん言葉を切った。
「どうしたの、相談事?」
「ううん、そうじゃなくて……えっと、わたし、上戸さんと結婚することになったの!」
優美はスーツの上着をハンガーにかけていた手を止めた。
「もう決めたの?」
「うん!」
優歌は云ってしまうとほっとして、優美の質問に大きくうなずいた。
「そっか」
優美は微笑んで相づちを打った。それからハンガーラックに上着を吊るすと、今度はベッド脇にかがんでボストンバッグを開けた。
優美のあまりの反応のなさに、優歌は首をひねった。
「お姉ちゃん……もしかして知ってた?」
「帰ってくるまえにお父さんのところに顔を出したから」
「あ、そうなんだ。驚くのを見たかったのに」
「驚いてるよ。優歌は上戸さんのことが苦手だと思ってたから」
「うん。そうなんだけど、昨日はなんとなく、上戸さんとならって思った」
優美はベッドの上にボストンバックから取りだした荷物を広げてしまうと、ゆっくり立ちあがって優歌を向いた。
「なんとなく? 優歌らしいね。じゃ、着替えるから出てってくれる?」
「……うん。いまから上戸さんに会いにいくの。食事しようって」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
優美が優歌に向けた微笑みはどこかぎこちなく見えた。それは予測していた反応とは違っていて、優歌は何かが足りない感じがした。
匠と約束した七時半まであと十分というときに業平商事に着いた。外はすっかり暗い。それでも業平商事が面した通りは、会社に帰る人、会社から帰る人がまだ多くいる。見上げた業平商事のビルも、灯りの漏れる窓がいくつもある。
匠に云われたとおり、優歌は業平ビルの中に入ると待合ブースの椅子に座って待った。観葉植物が囲っているだけで仕切りのない待合ブースは、玄関先からその正面奥のエスカレーターまでほとんどを見渡せる。
優美のことが気にかかって、優歌は何気なくここまでやって来たけれど、懐かしい光景だと感慨にふけったのもつかの間、エスカレーターの上に人が現れるたびに鼓動がびくんと震え、いまになって現実が迫る。昨日いきなりでふたりの関係は婚約に発展したわけで、だんだんと優歌は落ち着きなくそわそわしだした。
食事をするのは匠が云いだしたことだ。短大卒業の話からお祝いをしようと、昨日の帰り際に誘われて、優歌は結婚を承諾した勢いのままにうなずいた。
さすがに今日は、あの日みたいにメモを残して帰るわけにはいかない。そう思ったら、自然といまだに財布の中に潜んでいる名刺のことが脳裡に浮かんだ。もらった日のお礼を云った瞬間と同じように、昨日の笑顔というには控えめすぎる笑った顔がまた見られるのなら、逃げるよりは落ち着かなくてもどきどきしているほうがいい。
受付の上にある時計が七時三〇分を差し、それからエスカレーターと時計を交互に見ていると三十五分になって匠が現れた。
黒いダレスバッグを片手にグリーン系の黒っぽいスーツという格好は、シャープな印象を与える端整な顔立ちと背の高さが相俟って目立っている。
苦手ながらもつい見てしまう。これまでもそういうことが多かった。最初に会ったときもそうで、怖さと見紛うような印象を受けるのに、それを圧倒する匠自身のオーラみたいなものに引き寄せられたのかもしれない。それほど、同じビジネスマンたちの中にいても、ほかに紛らせない存在感がある。
優歌は待合ブースからちょっと出てみた。同時に匠の視線が優歌に向いた。エスカレーターから降りて、まっすぐに優歌のところへとやって来る。
「終わりました?」
「ああ。待たせた」
「まだ五分しか過ぎてませんよ。お疲れさまでした」
大きすぎず細くない切れ長の目を少し狭めて、匠はふっとかすかに笑みを漏らした。
よかった。
柔らかくなった匠の表情は昨日から持続している。来て早々、笑った顔が見られると優歌はうれしくなった。
「コート着て。外は寒い」
匠は優歌が腕にかけているイエローグリーンの薄手のコートを指差した。
コートを着ている間、匠にじっと見られているのがわかり、優歌は焦ってしまってちょっと手間取った。
「匠!」
優歌がカールした長い髪をコートから払うように出したその時、女性の声が匠の名を呼んだ。匠が声のしたほうを振り向くと、その脇から女性が小走りに近づいてくるのが目に入る。
その女性が、職場見学のときに匠の前にいた女性であることはすぐにわかった。
顔を覚えられない優歌が覚えているほど、立花はすこぶる美人だった。あれから四年近くたつけれど、ますますきれいさに磨きがかかっている。大人で、優歌にない女性としての艶があり、顔を縁取るボブヘアがまえよりもっと活動的に見えて際やかだ。
「いま帰り?」
「ああ」
「食事でも、と思ったけど……先約あるみたいね」
立花は云いかけて、明らかに匠の“連れ”という距離にいる優歌にちらりと目を向けた。
「あ……こんばんは」
立花が覚えているかどうかもわからないまま、優歌は戸惑いながら会釈した。立花は優歌を上から下まで見てから、ふと思い当たったような表情をした。
「あ! もしかして、じゃなくてもしかしなくても本部長の娘さんね! えっと……」
「優歌ちゃん」
立花が思いだせずにいると、匠が云い添えた。
「そうそう! ……え、もしかして付き合ってるの?!」
立花から頓狂な声で訊ねられ、優歌は困惑に顔を火照らせた。
「結婚する」
匠の一言に立花の表情は驚きに止まり、優歌は気後れを感じ、その場に微妙な空気が漂った。
「……結婚? 匠が? 優歌ちゃんと?」
今度の繰り返し問う立花の云い方は、驚くよりは疑うような口調だ。
「ああ」
駄目押しの問いかけに匠は気に障ったような声で肯定した。
匠がどう答えるのだろうと思っていた優歌は、立花が疑念を抱いていることを気にするよりも、そのまえのストレートな返事に安堵した。
結婚という約束をしたにもかかわらず位置は不安定だ。建て前だけがしっかりしていて、ふたりのそれぞれの気持ちは置いてけぼりのような感覚がある。
ふたりの結婚の経緯が、今時の世間の発展の仕方と逆行しているのは確かなこと。
結婚から始まる未来にあるのはなんだろう。一抹の不安……じゃなく、いま始まったばかりで不安だらけだ。
「……そうなんだ」
立花はうなずきながら匠を物云いたげに見て、それから視線を優歌に移した。
「おめでとう。優歌ちゃん、匠みたいな男はなかなかいないし、うまいことやったわね」
お礼を云う間もなく、どう捉えていいのか、立花は優歌が素直に喜べないようなことを口にした。
「立花」
「あ、そっか。うまいことやったのは匠もだよね」
立花は自分を諌めた匠に向かい、性懲りもなく付け加えた。
優歌は困惑しながら隣に立つ匠を見上げた。そこには目を細めて怖いくらいの表情があった。
立花は悪びれていないどころか、おどけたように笑う。
「ごめん。匠が結婚するとか思ってなかったし、ちょっとからかっただけ。とにかく、おめでとう。中国の話を聞きたかったんだけどデートってことなら邪魔しちゃ悪いし、食事はまた今度ね!」
そう云って立花は玄関口に向かった。
「立花は昔から知ってる奴で遠慮がないんだ。悪かった」
「謝ることないですよ? それより、おめでとうって云われてびっくりしました」
「びっくり?」
匠は優歌の言葉尻を聞き留め、コートを着るときに預かっていたバッグを渡しながら訊ねた。
「……うれしい感じです」
少しためらってから優歌が云い直すと、さっきから不機嫌そうだった匠の表情が柔らかく戻った。