最愛−優恋歌−

章−純恋歌− 4


 その後、もらった名刺は優歌のお守りになった。そう簡単に勇気が持てる機会はなく、ただ心強い。
 ふと気づけば、優歌は上戸のことを考えている。
 淳介が仕事の話をすれば聞き耳を立て、部下たちを連れてくれば苦手な接待を頑張ってみた。何が知りたいのか自分でもよくわからない。淳介が連れて来ることのない限り、上戸とはもう会うことはなくて、意味のない衝動だ。どうしてこんなに気になるんだろう。
 あれから一カ月、五月の終わりは暖かいというよりは暑くなってきた。

「ただいま」
 優歌は靴を脱ぎながら学校から帰ったことを知らせた。が、今日は佐織の返事がない。
「お母さん?」
「あ、こっちよ。おかえりなさい」
 いつもいるリビングからではなく、佐織たちの部屋からこもった声がした。
 奥の和室とは廊下を挟んで反対側にあるドアを開けると、口を開けたトランクケースが目についた。
「どうしたの?」
「お父さんが急な出張なの。家に戻る時間もないらしくって。病院までお祖母ちゃんを迎えにいかなくちゃならないんだけど、優美はまだ帰ってこないし、ちょっと待ってもらわなくちゃ……」
 父方の祖母は隣町に住んでいて、二カ月前に転んで足を骨折した。いまは週二回のペースでリハビリの病院に通っていて、佐織がその送迎をしている。
「タクシーでいいんだったら、わたしがお父さんのとこに持ってってもいいよ?」
 佐織がため息混じりでつぶやくのを見て、つい優歌の口が出しゃばった。
 佐織は驚いた顔をしながらも期待に満ちた眼差しを向けた。
「ほんと?」
「うん、それくらい大丈夫」
「助かるわ」
 ちょっぴり後悔しないでもなかったけれど、佐織がほっと喜んでいるのを見ると役に立てることへの充足感があって、優歌は云ってよかったと思った。

 一時間後の夕方六時、優歌は一カ月ぶりに業平商事の前に来た。タクシーを降りると運転手がトランクケースをおろしてくれた。
 淳介に到着したことを知らせようと連絡してみると、携帯はすぐに留守番電話に切り替わった。そこではたと気づいた。緊急である以上、淳介はバタバタしているに違いなく、電話を取る暇もないのかもしれない。
 どうしよう。
 長めのふわふわしたチュニックとトレンカレギンスという格好に、馬鹿でかいアルミのトランクケースでは極めて不釣り合いで、そのアンバランスさが人目を引いている。
 だんだんと勇気がしぼんだ。今更、帰るわけにもいかない。
 だめ! こんなときこそ勇気ださなくちゃ……。あ……。
 優歌はふと思いついた。
 でも……。
 思いつきは即実行とはいかず、携帯を持った手がためらいに揺れる。迷いながらも優歌は電話帳マークのボタンを押した。電話をかけることはないと思ってもお守りがわりにと、登録していた上戸の番号を画面に呼びだした。
 いったんやめようと閉じかけたとき、上戸の笑った顔を思いだした。気づいたら画面に『呼出中』の表示が出ていた。頭より指のほうが勇気あるんだ。優歌はそんな馬鹿みたいなことを思った。画面はすぐに『通話中』に変わり、優歌は慌てて携帯を耳に当てた。

『……上戸です』
 一カ月ぶりに聞いた声は優歌を必要以上にどきどきさせた。携帯を耳から離すと、あの時みたいにぷっつり切りそうになった。
『……もしもし?』
 かすかに上戸の声が漏れ、優歌は同じ失態をしてはいけないと気づいた。
「もしもし……あの……」
『優歌ちゃん?』
 どう切りだしたらいいのか、優歌がためらっているうちに上戸は云い当てた。
「はい」
『どうした?』
「あの……父が出張しなくちゃいけなくて、その……母のかわりに――」
『ああ、わかった。どこにいる?』
 優歌のしどろもどろな説明はさえぎられた。上戸は事情を素早く察したようだ。
「会社の前にいます」
『すぐ行くよ。待ってて』
 優歌の返事も待たずに電話は切れた。
 待っている間、心臓が破裂しそうなくらいに激しく収縮と拡張を繰り返した。
 まもなく、上戸は会社の玄関に現れ、初対面のときと同じようにモデルになれそうなほどスマートな歩き方で近づいてきた。
「こ、こんにちは」
 上ずった声に優歌は恥ずかしくなった。上戸は気にしていないようで、無表情に近い顔のままうなずいた。
「優歌ちゃん、顔色が悪くないか?」
「あ……いえ、緊張してて……」
 そう答えると、上戸の表情が少し硬くなった気がした。
「あ……心配かけてすみません。大したことないんです。……慣れないことをすると極度に緊張してしまうから……」
「おれだから、ってわけじゃ……」
 上戸は最後まで云わずに言葉を濁した。
「え?」
 優歌は問い返したけれど、上戸は肩をすくめて聞き流し、これ? とトランクを指差しながら軽々と持ちあげた。
「帰りはどうする?」
 辺りをちらりと見回してから上戸は訊ねた。まもなく太陽が沈み、通りは外灯のともる時間帯に入っている。
「あ、電車で――」
「送っていくよ。とりあえず、こっち来て」
 断る間もなく、上戸はトランクを持って会社の玄関に向かった。コンパスの差のせいか、歩くのが早くて優歌は小走りであとをついていった。
 待合ブースに入った上戸は、自動販売機からオレンジジュースを取りだして優歌に渡した。このまえ優歌が飲んでいたのを覚えているんだろうか。同じものだ。
「仕事を片づけてくるから、ここでちょっと待ってて」
 有無を云わさず、上戸は強引に云い残して背中を向けた。

 優歌は混乱してしまい、とりあえず云われたとおりに空いた席に座った。一方的すぎてしばらく頭が回らなかったものの、周囲の様子を窺っているとだんだんと平静に戻った。
 いまの時間帯は、会社の中に入っていく人よりは出ていく人のほうが多い。だれもと親しいのかと思うくらい、お疲れさまです、という言葉が賑やかに飛び交っている。
 そういえば、淳介は業平商事のことをフレンドリーな会社だと云っていた。仕事についてはそれなりにベストを要求されるけれど、“社員は家族”というのがモットーらしい。
 金曜日ともあって、これからお楽しみの予定があるのか、OLたちの表情は華やかだ。
 優美のことを大人っぽいと思っていたけれど、OLたちはそのもう一歩先を進んでいる感じだ。見た目ではなくて、内部から滲みでている自分への自信まで見える。
 それに比べてわたしは……。
 上戸からすれば手のかかる高校生にしか見えなくて。そのとおり高校生だけれど、優歌がそれ以上に厄介な性格をしていることは間違いない。
 送っていくって……。
 挨拶さえまともにできないのに、またいらない面倒をかけそうな気がした。
 優歌はバッグから手帳とボールペンを取りだした。
 自動販売機の前でしばらく迷い、無難に微糖の缶コーヒーを選んだ。それを手帳から切り取ったメモの重石(おもし)にして、優歌は業平商事をあとにした。



 予定外の電話に時間を取られ、匠が一階フロアの待合ブースに行ったのは三〇分後だった。
 そこに優歌の姿はなく、かわりに缶コーヒーとその下のメモを見つけた。
『上戸さんへ。先に帰ります。ありがとうございました。お疲れさまです。優歌』
 汗をかいた缶コーヒーと少し滲んだ文字が、あれからすぐに優歌が帰ったことを示している。
 匠はため息をつき、しばらく顔をしかめて立ち尽くした。
「上戸、めずらしく早く出たと思えば、まだこんなとこにいたのか」
 匠は悠長に声をかけた金城を振り向いた。
「息抜きだ。やっぱ仕事に戻る」
「はっ。なんでも適当にやってたおまえが、ここまで仕事好きになるとは思わなかったな」
「どういう意味だ。そうしちゃいけないことを適当にやってきたつもりはない」
「まあな。それより、これから営業部の飲み会だし、どうせなら来ないか? おまえ誘えっていう女、多いぜ?」
「面倒だ」
「“タラシの上戸くん”とは思えない発言だな」
 大学時代を知っている金城は、事あるごとにそう云って匠をからかう。
「そういつまでもバカやってるわけにはいかないし、まず、おまえに云われたくないね。早く行けよ」
 匠は目を細めて()なした。
「はいはい。じゃな」
 金城は軽く手を上げて立ち去った。
 やっぱ……。
 匠は内心で迷うようにつぶやき、もう一度ため息をついてから待合ブースを出た。



「ただいまぁ」
 玄関の戸を開けて、優歌は声をかけながら靴を脱いだ。リビングに入ると、電話中の佐織が優歌をちらりと見やり、何か云いたそうにしている。
「あ、いま帰ってきました。……はい、ちょっとお待ちくださいね」
 佐織は送話口を手でふさいで、そのまま優歌に受話器を差し向けた。
「え?」
 優歌はどきりとして目を丸くした。
「上戸さんよ。優歌が帰り着いたか心配してくださってるの」
 優歌が電話を取るのをためらっていると、佐織が、早く、とせっついた。
 正直に云えば、業平を出てくるときは迷惑かけないようにこれでいいと思っていたのに、電車に乗ってから黙って出てきたことをちょっと後悔した。
「はい……優歌です」
『無事に着いたようでよかった。コーヒー、ありがとう』
 上戸はどう思っているのか、声を聞く限りでは怒っているふうでもなく、無表情に聞こえた。
「いえ。あ、あの……すみませんでした。黙って帰っちゃ――」
『もういい。怖がらせたとしたら悪かった。じゃ』
 上戸は優歌に最後まで云わせなかった。そのうえで上戸の云ったことは、愛想を尽かしたようなセリフに聞こえた。
「いえ――」
 優歌が違うと訂正できないうちに電話はぷっつりと切られた。
 その瞬間、本当に後悔した。


 せっかくの偶然を台無しにして、今度こそもう会えなくなった。
 そう思っていた矢先、淳介が上戸を家に連れてきた。
 急な出張の日からちょうど一週間たった金曜日。季節は夏へと移行しようとしていた頃。例のごとく、淳介から部下を二人連れて帰るという連絡があった。いつも淳介は、連れてくるのが“だれ”とは云わない。
 接待を頑張るのはやめたのに、生憎(あいにく)と優美は七時という時間になっても帰宅せず、優歌が佐織を手伝う羽目になったその日。
 会えたからといって、何をしようとかこれを云わなくちゃとか、そういう考えがあったわけではない。
 優歌は淳介の後ろからLDKのリビングへ入ってきた上戸をびっくり眼で迎えた。

「こ……。こんばんは」
 また声がひっくり返りそうになって、いったん言葉を切り、優歌は云い直した。上戸は少し目を細めると、うなずいて答えた。
 そのあとを金城がいつものように手を上げてやって来た。
「こんばんは、優歌ちゃん」
「金城さん、こんばんは」
「これ、このまえロスに出張行ったときのお土産。優美ちゃんはいないようだし、早いもん勝ちで好きなほう取ればいい」
「ありがとう!」
 金城さんの温かい声にはいつもほっとする。眼鏡の奥の眼差しはいつもおもしろがっていて、それでも不愉快ではない。
 優歌がうれしそうに笑って見上げると、金城の大きな手が頭の上に(かぶ)さった。揺さぶられたとたん。
「金城さん、だめ! 眩暈(めまい)がしそう」
「優歌ちゃんは三半規管、狂ってるからな」
 金城は可笑しそうにして優歌の頭から手を離すと、リビングのソファに向かった。
「わかってるなら……」
 優歌は云いかけて途切れさせた。金城の背を追った優歌の目が、すでに淳介と対面してソファに座っている上戸の目と合ってしまった。
 それはなんとなく気まずくなるような眼差しに感じて、優歌は笑みを引っこめた。
「優歌、ほら手伝って」
「う、うん」
 佐織に声をかけられ、優歌は外すに外せなかった視線を逸らした。血が逆流しているんじゃないかと疑うほど気分が悪い。

 キッチンカウンターに用意されたお盆を取って、優歌はリビングに持っていった。お湯呑みを取る手は自分でも馬鹿に思えるくらい震えている。
「いいよ。おれがやるから」
 見かねた上戸は素っ気なく云うと、優歌の手からお湯呑みを取りあげようとした。追い払うような云い方にびくっと(おのの)いた手が震え、上戸の手とぶつかった。あっと思ったときはすでに遅く、上戸の手に熱いお茶がかかった。
「優歌!」
「……ちっ」
 優歌を制した淳介の声と、上戸の小さな舌打ちが重なった。
「ごめ――」
「おい、佐織、タオル濡らしてきてくれ!」
 あわてて佐織を呼ぶ淳介の声が、謝ろうとした優歌をさえぎった。
「あらまあ! 上戸さん、こっちに来たほうが早いわ。優歌!」
 キッチンから覗いて状況を把握した佐織は、おろおろした優歌を呼んだ。
「う、うん。上戸さん、こっちへ……」
「優歌ちゃん、気にすることはない。いまのは上戸が悪い」
 金城のなぐさめもろくに耳に入らず、上戸をキッチンに案内した。
「水出しっぱなしでしばらく冷やしておくのよ」
 優歌たちと入れ替わりに佐織は台拭きをもってリビングへ行った。
「上戸さん、手を……」
 泣きそうになるのを堪えて上戸を促した。
「大したことない。金城の云うとおりだ。おれが悪い」
 そう云って、上戸はうつむいた優歌の頭上でため息を漏らした。
 呆れたに違いなく。
 それから上戸は淳介が連れてくる部下のなかで苦手な部類の人になった。それまでの人と違ったのは苦手だと割りきれないまま、ずっと肩の力が抜けなかったこと。



 高校を卒業して、短大生になって、優歌も少しくらいは積極的な性格に発展した。
 やっぱりあの名刺がお守りになっていて、どんなときでも云うべきことを云えたときは、云ってよかったと思える反応が返ってくる。そう学んできた。
 それでも上戸と接するのは苦手なままだ。
 お茶を出す佐織を手伝ったり、たまに食事の席に同席したりして、他愛ない会話をすることはあった。短大はどう? と訊かれたり、お仕事忙しいですか、と訊ねたりする。大抵(たいてい)は上戸から声をかけられて優歌が答えて問い返すという、まるで義理のような言葉を交わした。
 優美は予定どおり業平商事の社員となった。部署は違うけれど上戸とはだんだんと砕けるくらい親しくなったのに、優歌はずっと緊張しっぱなしのままでいた。
 一年前、小売事業部門から金属事業部門に異動した上戸は中国へ赴任して、先週のはじめに本社へと復帰したばかりだ。この一年のブランクがさらに緊張度を増している。
 いつも臆している優歌と、いつも静かな上戸の会話が弾むということはない。
 淳介が云うには仕事上では問題なく雄弁らしいのに、いったん仕事を離れると言葉少なになるのだろうか。その無口さは整った顔立ちのせいで余計に冷ややかさを強調している。

 そう。上戸は静かというよりは冷たいほど、優歌には素っ気ない。
 そんなわたしたちが結婚?

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