最愛−優恋歌−

章−純恋歌− 3


「上戸くん、ありがとう、助かったよ」
「いえ。これといって何をしたわけでもありませんから」
 上戸は淳介に淡々と答えた。同時に、真由が優歌の腕をつついて合図した。
「上戸さん、ありがとうございました。わたしたちはこれで」
「ありがとうございました」
 真由のあとに続いて優歌がお礼を云うと、上戸からは、お疲れ、と声をかけられた。新鮮な響きだけれど、本当に疲れた。
「みんな、邪魔したな。ありがとう」
 淳介がブースにいる全員に向かって声をかけ、重ねて優歌たちもお礼を云って通販事業班をあとにした。淳介は下まで送ると申し出たけれど、大丈夫だからと断ってエレベーターまえで別れた。これ以上に“本部長の娘さん”というプレッシャーは不要だ。
 優歌が安心したのもつかの間、エレベーターはそれほど振動もなく、しかもたった二階分の移動なのに、下におりる感覚が気分を悪くさせた。

「真由、ごめん。ちょっと休んでっていい?」
 冷や汗をかきながら、優歌は人目につかないところを素早く探した。真由の返事を待たずに、エレベーターのすぐ横に階段を見つけると、二段目に座りこんで壁にもたれた。
「優歌、大丈夫?」
「平気。ちょっとした貧血みたいなもの。慣れないとこだったから……ごめんね」
 優歌は目をつむってうつむいたまま、覗きこむ真由に謝った。
「謝んなくてもいいよ。良くなるまで休んでいいから。何かジュース買ってくるよ。わたしも緊張してたのかな。喉がからからになってる」
 返事をするのも億劫(おっくう)で優歌はうなずいた。エレベーターの反対側にある待合ブースへと向かう真由をちょっとだけ見送り、優歌はうずくまるように顔を膝に伏せた。

 今日は何かと落ちこむ日だ。人見知りが激しくて、臆病で、弱くて。人並み以下も以下。なんの取り柄もない。
 いつもと同じだよ。
 優歌はなぐさめになっていないなぐさめを内心でつぶやいた。

「大丈夫か」
 低くてよく通る声がいきなり頭上から降ってきた。びっくりしたあまり、うさぎが跳ねるように優歌は立ちあがった。とたんに、くらっとして躰が揺れる。
「座って」
 命令するような声音と同時に、優歌は腕をつかまれて座らせられた。
「頭、伏せたほうがいい」
 自分でするより早く、上戸の手のひらが優歌の頬を包んでうつむけた。
 同級生の男の子だったら絶対にしないこと。
 気分が悪いより、見惚(みと)れた手に触れられたことにドキドキした。心なしかひんやりした頬が熱を持ったように熱くなった。上戸に気づかれないかと焦ったあまり、隠したい気持ちとは逆行して鼓動が激しくなる。
「医務室、連れて行こうか」
「いえ――!」
 あわてて顔を起こしたとたん、優歌は言葉を切らした。あまりに近くにあった上戸の顔をびっくり眼で見つめた。
 核家族四人の生活のなか、男といえば淳介のみ。同級生の男の子と話すのでさえ戸惑いがちなのに、こんな大人の男の人を、しかもこんなに間近で見つめるなんて論外のこと。もちろん家に来る淳介の部下ともこれほど近づくことはない。
 思わず顔を引いたら、同時に上戸の手が離れた。上戸が優歌の急ぎ足の鼓動に気づいたのかどうかはわからない。
 優歌は気分が悪いのも忘れて、とにかくこの場を(しの)げる言葉を探した。
「……大丈夫です。いつものことで……すぐ治ります。緊張しすぎたから……」
 優歌が断り文句を並べているうちに、上戸の表情が少し強張(こわば)った気がした。
 何かまずいことを云ったんだろうか……。

「上戸さん!」
 真由が戻ってきて驚いた声で上戸の名を呼ぶと、真由に向いた上戸の横顔が緩んだように感じた。
「社内に医務室あるけど、優歌ちゃんは大丈夫って云ってる。西尾さん、どうかな」
「あ、いつものことだから大丈夫ですよ。ね、優歌。あ、これ、オレンジジュースでいい?」
 真由はパックに入ったオレンジジュースを差しだした。
「うん、ありがとう」
 パックを受け取りながら、優歌は表情を隠してプラスティックスマイルを浮かべた。

 いつものこと。
 自分で云うのと人が云うのではまったく違う。もちろん、真由は侮蔑しているわけでもなく、嫌味を云っているわけでもない。ただ勝手に、バカみたいに自分が情けなくなった。
 早く帰りたい。
 逃げることへのやましさはとっくに失くしている。伴ってプライドなんてないはずなのに、いまはとてつもなく惨めだ。

 皮肉にも落ちこんだことが、優歌の気分の悪さを払拭(ふっしょく)した。
「もう大丈夫みたい」
「そう?」
「うん」
「それ飲むついでに、待合ブースでもうちょっと休んでいけばいい」
 上戸は優歌が持ったジュースを指差した。はい、と答えて立ちあがろうとすると、上戸は優歌の肘を軽く支えながら一緒に立ちあがった。
 人の流れを横切って待合ブースに入った。そこは当然ながらビジネスマンが多く、女子高生の優歌たちには好奇の目が向いた。普通なら尻込みしてしまうところでも、上戸が案内してくれたぶん心置きなく一つのテーブルを占領できた。
「これから学校へ戻る?」
「いいえ。このまま帰っていいことになってます」
 真由が答えると上戸はうなずいた。
「じゃあゆっくりしていけばいい。また具合が悪くなったら遠慮しないで電話してくれ」
 そう云いながら上戸はシャツの胸ポケットからカードケースを取って、その中から出した小さい紙を優歌に差しだした。
『班長』という肩書きのついた上戸の名刺で、そこには直通の電話番号が載っている。
 もしものときでも、ここにはお父さんがいるのに。
 疑問に思うのと同時に、めったにないどころか記憶にない優歌のポジティブ精神が現れた。
「じゃ、気をつけて」
 優歌と真由を交互に見て、そういうと上戸は背を向けた。優歌は考えなしで、その背を追うように立ちあがった。

「あ、上戸さん!」
 自分で呼び止めておいて優歌はびっくりした。焦るあまり、声が大きくなったのだ。
 目の端で周囲にいる人から注目されていることを(とら)えた。その視線を受けとめるのが怖くて、優歌は目を()らすことなく、立ち止まった上戸をまっすぐに見た。
「お世話かけてすみません。ありがとうございました」
 ちゃんと云わなくちゃ、と思った言葉は意外にもすんなり優歌の口から出た。
 上戸が片方だけくちびるをつりあげた。それは優歌に向けられたはじめての笑顔で、また具合が悪くなりそうなくらいに鼓動がざわついた。
 上戸はちょっとうなずいて背中を向けた。
 優歌は力尽きたように椅子にすとんと座った。
 恥ずかしい、よりも。云ってよかった。
 いつもおどおどしている優歌が、はじめて勇気を出せた瞬間かもしれない。

「なんだか大人の世界だよね」
「うん」
「上戸さん見てたら、そこらへんの男子じゃ物足りないよ」
「うん」
「あの落ち着いてる感じがたまんない」
「うん」
「優歌、『うん』のほかに云うことないの?」
「うん」
「優歌、聞いてないでしょ」
「うん」
 たったいまの出来事にぼんやりしていた優歌は、真由が頬をつねるまで自分が空返事をしていたことさえ気づかなかった。
「もう、優歌! 全然わたしの話聞いてないんだから!」
「あ……ごめん」
 優歌が手を合わせて謝ると、真由は、もういいよ、と小さく肩をすくめた。
「上戸さん、何しに降りてきたんだろうね」
 上戸が帰った方向に目をやりながら真由は口にした。
「え?」
「だって。出かけるんじゃなくて、また上に戻ってたし」
 そう云われれば、上戸はさっき突然に現れたんだった。その理由を考えても優歌にわかるわけはなく首をかしげた。
 やがて真由は手に持った名刺を指差して、いいな、とつぶやいた。
「いいなって、きっと電話することないよ」
「じゃ、ちょうだい」
「だめ!」
 真由は即答で拒絶した優歌をびっくり眼で見つめた。驚いたのは優歌自身も同じで、尚且つ、真由が冗談で云ったらしいと気づくと、取り繕う言葉を探した。
「あ、記念だよ。わたし、さっきみたいに云えたの、はじめてだから、持ってたらまた勇気出せるかなって……」
「ふーん、そっか」
 真由はニヤついている。
「何?」
「なぁんでも」
 真由の返事は明らかに何か云い含んでいたけれど、優歌がまた訊き返したところで答えてはくれなかった。


 その日、帰ってきた淳介に営業本部長という立場をはじめて訊ねてみた。優歌が興味を持ったことにうれしそうにして淳介は説明してくれた。
 興味があるのは、おそらく淳介が思っているだろうところとずれいている。知りたいのは上戸匠のこと。たぶん。
 淳介にはちょっと悪い気がしながら、優歌は熱心に聞いた。
 優歌はアルバイトもしたことがなく会社の組織構図はまったく見当もつかないけれど、業平商事の営業部は大まかにいえば企画課と営業課に分かれていて、淳介はその先頭に立っているとわかった。企画課は開発を手がけ、営業課はそれを売りこむ。それぞれに部門、その下に班と組織化されている。
 つまりは上戸も金城も、専属は違えど班長という同じ役職を持ち、同等の立場のはずだ。それなのに金城と違って上戸は家に来たことがない。
「上戸さんと金城さんて、年は同じくらい?」
「彼らは同期だ。大学を出てから四年目に入った。班長という辞令も出て、これからが力の発揮どころという時期だな。どっちも優秀な社員だ。期待に応えてくれるだろう」
 淳介は満足げに答えた。
 淳介が声をかけていないのか、上戸が断っているのか、家に来ない理由はなんだろう。淳介の口調から差別は(うかが)えない。
 そういうことを訊くのもへんな気がして、結局、優歌は訊ねなかった。
「優歌、今日はどうだった?」
 姉の優美がリビングに入ってきた。

 大学生の優美は毎日のように、サークルだの友だちと約束だのと云っては夜遅く帰ってくる。早いのは淳介が部下を連れて来る日だ。佐織からの連絡を受けると、その時間までには帰宅している。つまりはどうとでもなる遊び事が多いということ。独りであっても平気な優歌とは正反対に優美は社交的だ。
「うん、ちゃんと終わったよ」
「そっか。頑張ったね」
 優美はいつまでも優歌を幼い子供みたいに扱う。いまの云い方はまさにそうで、それでも抗議できないほど、いつまでも頼りないことは優歌も自覚している。
 優美はその名のとおり、やさしくてきれいだ。そのうえ、知的さと行動力と、余すところなく備えている。
 優美が早い者勝ちでほとんどいいところを持って生まれて、優歌はその残り物で生まれてきたんじゃないかと疑うこともある。躰も弱ければ意思も弱く、怖がりで卑屈な気持ちだけが一人前だ。
 比べられていることに気づくたびに、孤軍奮闘する気にもなれなくて、まず落ちこむ。
 かといって、優美を(ねた)んでいるわけではない。かえって、こんないじけた妹の面倒をうるさがることもなくみてくれるような優美が大好きだし、自慢でもある。
 優美は四回生で、就職を決める時期に入っているというのに、あたふた走り回ることもない。この就職難の時世に苦労するまでもなく、すでに淳介の会社での採用が有望なようだ。
 そのせいで、優歌は業平商事の様子を根掘り葉掘り優美から訊かれたけれど、答えられることは少ない。

「お父さんの会社ってホントに世界と繋がってた。上戸さん、中国語が(しゃべ)れてすごいなって思ってたら、英語までスラスラだった。メールも英文だったし。中国語は片言って云ってたけど、それでもすごいよね?」
「ぷっ。優歌ってば上戸さんのことばっかりだね」
 優美は可笑しそうにして、優歌が意識していなかったことを指摘した。にこにこして聞いていた淳介がへんな顔をして自分を見やると、優歌は当惑した。
 淳介と話しているときは何かと金城を引き合いに出して紛らせていたのに、いつも相談に乗ってもらっている優美にはつい油断したようだ。
「あ……だって上戸さんにいろいろ教えてもらったから」
 優歌は急いで弁明した。

 焦る理由なんて自分でもわからない。
 はっきりしているのは上戸を知りたいということ。

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