最愛−優恋歌−
章−純恋歌− 2
「じゃ、行こう」
上戸が呼びかけ、元気に答えたのはまたもや真由で、優歌はうなずくだけの返事でついていった。
中に入ると奥のほうに二階までのエスカレーターがあった。そこへ向かう人の流れに沿わず、上戸は左の受付を通り過ぎて、その奥にあるエレベーターへと向かった。
案内されたのは三階の営業部フロアだ。エレベーターを降りた場所から左右と正面に廊下が交差している。廊下の両脇にたくさんのブースがあって、あちこちから活気に満ちた声が聞こえた。見える範囲では専属名を記したプレートごとに間仕切りがあるだけで、完全に孤立した部屋はない。
普段とまったく違う世界に優歌は圧倒された。同じように感じた真由は思わず、すごーい、と漏らした。二人はびっくり眼で顔を見合わせる。
「社会勉強って云うんであれば、営業部がいちばん学べるだろう。企業が企業として成り立つには営業と、なんであれ、扱う商品がどれだけ信用を得るかにかかっている。営業に限っては人間関係が絡んでくるし、電話の応対とか観ていれば話し方とか、これからさき役に立つかもしれない。普通の生活の中でも接するのは親しい人ばかりじゃないから」
上戸は廊下を歩きながらアドバイスした。
「上戸、中国から電話があった。新商品の件で趙さんがデザインをちょっと変更できないかって」
「わかった」
金城は椅子に座ったまま、“物流班”というプレートがある仕切りからのけ反るように顔を出して、上戸を呼び止めた。眼鏡越しの視線が背後に控えた優歌たちに移る。
「お、優歌ちゃん、いらっしゃい。上戸ははじめてだろ? 素っ気ない奴だし、苛めるようだったらおれんとこ逃げてきていいからな」
金城はいつものヴィブラートの効いた魅惑の声でふざけた。家に来る人の中で、金城は苦手じゃない人の一人だ。からかわれると少しだけ優歌の肩から力が抜けた。
「金城、脅すなよ」
優歌が答えるまえに上戸が口を挟んだ。釘を刺された金城は笑いながら肩をすくめると、軽く手を上げて引っこんだ。
上戸は、こっち、と云いながら奥に進んで、プレートに“通販事業班”と記されたブースに入った。デスクが片側十台くらいで向かい合わせにあり、半分くらいの席が空いている。営業というからには外回りもあるのだろう。
「職場見学に来た水辺さんと西尾さんだ」
「よろしくお願いします!」
上戸に紹介されて優歌と真由は一礼した。
「お、よろしく」
「わお、可愛いわね」
居合わせた人たちから、それぞれに気さくな声が返ってきた。
「気ぃ抜くなよ。学校に報告されるらしいし、業平の評判を落とすような仕事ぶりは控えることだ」
「ラジャ。鬼班長の仰せのままに!」
上戸が忠告すると、おちゃらけた返事が返ってきた。上戸は呆れたようなため息を漏らし、かすかに肩をすくめて優歌たちに向かった。
「先に電話するから、ちょっと待ってて」
「あ、大丈夫です。もともと仕事の邪魔はしないように云われてます。お仕事ぶりを見せてもらうだけでいいんです」
真由がすかさず答えると、上戸は小さくうなずいてデスクについた。
上戸のデスクの上はノートパソコンが一台あって、その周りは見分けがつくのかと思うくらいに資料で溢れている。
受話器を取りあげた上戸は日本語ではなく、おそらくは中国語で呼びかけた。ちょっと間があって、今度は日本語に切り替わった。上戸は電話しながらパソコンを弄りだした。
パソコンの画面をちらりと覗いてみると、家具らしい立体画像が角度を変えつつ、くるくると回っている。それがデザイン画に変わったりして、きびきびした声のやり取りが続いた。時折、中国語が出てきたものの、概ね、相手とは日本語で通じるようだ。
「なんだかすごい。あんまり関心なかったけど、こんなところで働けたら仕事してるって実感あるかも」
真由はわくわくした声で、電話の邪魔にならないように囁いた。
上戸をはじめとして、電話の相手と話す声や内部間で飛び交う声が途切れることはなく、営業部のフロアは覇気がある。
優歌は真由と逆に、自分にはできそうもないと慄いてしまったけれど、自信に溢れた彼らには憧れを抱いた。
電話してから十分くらいたっただろうか、上戸は受話器を置いた。
「どう? 何か質問ある?」
上戸は振り返ると、優歌を見上げて訊ねた。
明らかに上戸は優歌を指名したわけで、ここでないと云ったら、優歌の評価がますます下がりそうな雰囲気だ。それを気にするまでもなく、出だしから優歌の評価はマイナスで、自分では這いあがれそうにない。
「……中国との電話……日本語でいいんですね?」
やっと出た優歌の質問は安易なものだった。
上戸は馬鹿にするふうでもなくうなずいたけれど、上戸の正面にいた女性がくすっと笑みを漏らした。胸にかかる髪はクルリと巻かれていて、どこか可愛いという雰囲気を持ったきれいな人だ。
「高校生ってさすがに質問も可愛いわね。ていうか、本部長のお嬢さんだから、なのかな。なんだか世間知らずっぽく見え――」
「立花」
上戸が制した。
女性の声に蔑視は見えなかったけれど、冷や汗が出るくらいに優歌は恥ずかしくなった。
「ごめん。嫌味じゃなくて、純粋でうらやましいって思っただけ。ごめんね」
立花と呼ばれた女性は、最初に上戸に謝ったと思ったら、あとには優歌に対して率直に謝った。
上戸が呼び捨てであれば、立花が敬語を使うこともなく、ということは二人ともおそらく同じ年なんだろう。上戸がそうであるように、立花もまた颯爽としている。
「いえ」
優歌はかすかに笑いながら答えたものの、自分でも情けないくらい小さな声だ。
「優歌ちゃん、じゃ、答えだ。向こうが日本語を使うのはこっちが客という立場だから。まあ英語圏になると、どっちの立場でも英語ってことになる場合が多い」
上戸はごく真剣に答えてくれた。そのことで優歌の気が少し緩んだ。
「上戸さん、英語も使えるんですか?」
「ああ」
上戸は当然のように答え、今度は真由を向いて、どう? と促した。
「こういう家具のデザインまで上戸さんが考えるんですか?」
真由がした質問は優歌より質問らしい質問だ。上戸はかすかに笑みを見せた。
それを目にしただけでまた気がふさぐ。だれのせいでもないのになんだか惨めになってしまう。優歌の悪い癖だ。
「おれの感性ってわけじゃない。市場調査をやって、相応の意見を収集してそれに見合ったものを考慮した結果だ」
「どれくらいで商品になるんですか?」
「発案から時間かかっても半年内。流行を追うとなれば、もっと短期間でやらなければ意味がない。因みに、いま西尾さんと優歌ちゃんが見たのは新商品で、企業秘密の段階だから口外しないこと。四カ月後のカタログに載ったら問題ない」
「わぁ。そういうのってうれしいかも。カタログ見るのが楽しみ」
上戸の生真面目な警告のなかにおどけたような口調を聞き取った真由は、親しくなれるチャンスとばかりにすかさずはしゃいで応じた。こういう真由を見習いたいといつも思っているけれど、打たれ弱い優歌には到底無理だ。
「楽しみにしてくれるんなら、カタログ送るよ。ここ、座って」
上戸がちょっと可笑しそうに応えた。二人は勧められるまま、上戸が空いたデスクから持ってきた椅子に座った。
それからは専ら上戸を中心に仕事ぶりを見学した。
眺めているなかで、上戸の斜め向かいに位置する男性社員が電話相手に向かってひたすら謝罪しているのが目に留まる。かかわりたくないと思うほどトラブル処理の応対はたいへんそうだ。それでも根気強い説得がやがて客を軟化させたらしく、電話を切るとホッとした表情とともにやりきったという達成感が見えた。
上戸が云ったように基本は人と人で、心底からの誠意という努力如何でどうとでも変えられるのかもしれない。
優歌は上戸へ視線を戻した。優歌はさっきから、周りを見回しながらもつい上戸へと視線を戻すということを繰り返している。
滑らかにパソコンのキーボードを打つ手が、男っぽく骨張って大きいけれどなんだろう、月並みに表現するときれいだ。優歌の手が、意思とは関係ないところでピクリと動いた。
その手から上にたどっていくと、ふと上戸の目が優歌に向く。優歌は慌てふためいてそっぽを向いた。火照った耳を隠したくなるのをやっとで堪えた。上戸からどう思われただろうかと考えたのはもう少しあとで、優歌は独り顔を赤らめた。
一時間という社会勉強が短いのか長いのか、すべてを知るにはまったく不足した時間でも、優歌には長く感じられる。たぶん周りからは、ぼんやりしていると思われているだろう。どうしよう、というのがいつも気持ちの大半を占めていて、ちゃんと考えているわけでもなく、ぼんやりに見られても文句は云えない。
それに比べて真由は積極的に立ち回り、上戸がコピーしようと立ちあがれば、わたしがやります、と率先して手伝っている。先生から手伝えとは云われていないけれど、いいところなしで優歌はずっとグズグズしていた。
おまけに伝言ゲームみたいに、“本部長の娘さん”を訪ねてひっきりなしにだれかがやってくる。
優歌はその度に、しどろもどろになって挨拶を返した。顔を上げることすら苦痛な優歌は、相手の名前どころか顔さえもまったく覚えられない。
上戸がその都度追い払ってくれたけれど、途中で気づいた。
挨拶さえろくにできていない自分は、父親である淳介の顔を潰しているのかもしれないということ。
その淳介は終わる頃にようやくやって来た。ほっとして泣きそうになったのを笑ってごまかした。
「優歌、どうだ?」
「うん。ちゃんとしてもらったよ。先生にいい報告ができそう。ね?」
優歌は真由を向いて首をかしげた。真由は同意してうなずくのと一緒に、ありがとうございました、と淳介へ向かってお礼を云った。
「相変わらず、真由ちゃんは元気だな。役に立てたのならよかった。優歌、顔色があまりよくないな」
「……なんともないよ。人より顔色が悪いのはいつものことだから」
情けなくて、なぜか恥ずかしくて、笑い返す顔が引きつった。自分でもそれがわかって淳介から目を逸らした。
その視線の先で、上戸の目と合ってしまった。それはなんでも見透かすような眼差しで、優歌はバツの悪さに躰がカッとした。