最愛−優恋歌−
章−純恋歌− 1
承諾するなんて思わなかった。
「うちの娘をもらってくれないか」
純和風な水辺家の奥にある角部屋に通されて、用意された座布団に落ち着いたとたんのいきなりの申し出だったはず。
それなのに上戸匠は表情一つ変えず、真正面の父、淳介に向けていた視線を、その隣に控えた優歌へと移した。
紫檀の座卓はいかにも畏まっていて、住み慣れた優歌でさえ堅苦しい和室だ。
短大卒業式の今日、母の佐織から夜まで着物を脱がないようにと云われ、窮屈な格好のままでいた。卒業祝いのちょっとした食事会で、招待している祖父母に見せるためかと思いきや、淳介が帰ってくるなりこの部屋に呼ばれたのだ。
優歌にも突然の話で、内容が内容だけにいつにも増して部屋の中は重苦しい。息が詰まりそうになるのは、優歌の後ろめたさ、あるいは恥ずかしさなのかもしれない。
まるでお見合いみたいに着物を着ている自分のことを、上戸はなんと思っているのだろう。
顔が赤くなっているのか蒼くなっているのか、自分でもわからないほど優歌は内心で慌てふためいた。
「結婚、ということですか」
不快さもなければ、歓迎もない声音。ただ淡々と状況を確認しているにすぎない。
部屋に面した中庭にはこぢんまりとした庭園がある。外灯が差す夜の薄明かりのなか、その片隅でししおどしの添水の音が甲高く響き、優歌はまさに鹿みたいに慄いた。
「優歌はきみも知ってのとおり、躰が弱くてな。その……きみならと……」
淳介は云い難そうに言葉を濁した。
要するに、躰の弱い優歌は若さだけを武器に売られようとしているのだ。躰が弱いということはかえって若さなんてなんの武器にもならないのに。
それを――。
「いいですよ。段取りはお任せします」
三月の卒業式の日、まるで仕事の契約のように結婚話は成立した。
最初から年の差なんてわかっていたのに、この時、二十才になったばかりの優歌は、やっぱり九才という年の差がどういうことかよくわかっていなかったのかもしれない。
業平商事という日本でも、いや世界でも有数の商社で、現在、営業本部長という役職に就く淳介はよく部下を家に連れて来る。
その中の一人が上戸匠だ。
物心ついたときから、家の中に家族じゃない人がいるのはめずらしいことではない。
佐織はうるさがることもなく、むしろ楽しそうに歓迎する。五才離れた姉の優美は佐織に似て、積極的にもてなしを手伝っているけれど、優歌は人付き合いが苦手で敬遠しがちだ。
躰が弱い、というのはいつも人に気を遣わせてしまって煩わしい。ただこういうときは、疲れたとか、部屋に下がる理由にできて都合がいい。
弱いといっても、何か薬を飲まなくちゃいけないとか、入退院を繰り返しているとか、そういう大げさなものではなくて、単に風邪をひきやすかったり、熱が出やすかったりする程度で、まったく大したことはない。
それを大げさにしているのは、家族をはじめとした優歌を知っている人たちだ。心配してのことであって、やっぱり文句を云えるほど精神的にも体力的にも強いわけではなく、優歌はいつもその待遇を黙ってやりすごしている。
不思議だけれど、優歌が上戸とはじめて会ったのは、家に連れられて来たときではなく淳介の会社でだった。
高校二年になった春、社会勉強として職場見学という課程があった。見学先は各個人で決めてよく、必然的に家族が働く職場を訪問するのが一般的だ。当然、教師に頼めば見学先を用意してくれるけれど、人見知りする優歌は、知らない職場よりも父親の会社のほうが安心できてよかった。
その日の五、六時間目、仲のいい友だちの西尾真由と一緒に業平商事に向かった。いざ会社訪問してみると、記憶にあるよりずっと立派で、優歌は引き返したいくらいに気後れしたことを覚えている。
小さい頃、優歌は佐織に連れられて何度か会社を訪ねたことがある。遊びにでも、ましてや今日みたいに職場見学でもなく、挨拶回りをするためだ。
生まれたときから、風邪をこじらせて高熱を出したり肺炎を起こしたりと、病院に入院することが多かった。大きくなるにつれて躰も強くなり、いまは入院するほど大事に至ることはなくなったけれど、当時は退院するたびに、淳介の上司へお見舞いのお礼と快気報告を兼ねて会社訪問をした。上司がなぜ毎回それだけ気にかけてくれるかというと、佐織もまた業平商事に勤めていたという由縁による。
いちばん最後に訪問した記憶は十年ちょっと前で、幼稚園最後の年だ。
淳介に抱っこされて、専用のデスクの上で落書きした覚えがある。家族四人そろった写真も飾ってあった。
その頃は会社の大きさなど興味の対象外であり、それ以来、ビジネス街と縁がない優歌ははじめて淳介の会社を訪ねたのだ。
「真由、どうしよう。こんなにおっきいって思わなかった」
「う、うん。なんだか場違いな感じ」
会社の玄関先でおのぼりさんみたいに背高のっぽのビルを見上げた優歌は、視線を下げて真由と顔を見合わせた。
目が大きめで童顔に見える優歌と逆に、同じ目の大きさでもきりっとして見える真由はいつもはきはきしているくせに、いまはめずらしく戸惑っているようだ。
ビジネスマンやカチッとした身なりのOLたちは、教師という身近な大人たちともどこか違って堂々としている。制服姿の優歌たちは、いかにも幼くて、すれ違いざまジロジロと眺められた。
「とりあえず……優歌のお父さんに、来たよって連絡してみたら?」
「うん、そうだよね」
そんな簡単なことも思いつかずに怖がった自分をバカみたいに思いながら、優歌は携帯を取りだした。電話は二回のコールで通じた。
「お父さん? いま下に来たんだけど――」
『ああ、悪いけどいま――』
優歌をさえぎるように答えた電話の声は淳介と全然違っている。ここに来てからの不安と驚きのあまり、番号を間違ったのかとパニックに陥った優歌は、相手の云っていることを最後まで聞かずに切ってしまった。
「優歌?」
「……お父さんの声じゃなかった」
泣きそうに云うと、真由は優歌の手から携帯を取りあげた。
「“お父さん”てなってるし、番号は間違ってないみたいだよ。んーっと……お父さんが出られなくて、だれかかわりの人が出てくれたんじゃない?」
真由は履歴を確認して冷静に指摘した。
ちょっと考えればわかることなのに。そう思って情けなくなった。
「……どうしよう。切っちゃった」
「優歌、いいかげん人見知りは克服しないと、これからたいへんだよ?」
真由は呆れたように忠告した。
「わかってる。……またかけてみる」
携帯を戻してもらい、真由から催促の眼差しを受けながらリダイヤルした。どきどきして通じるのを待ったけれど、今度はコールを五回超えても受話器の上がる気配がない。
どうしよう……。仕事中なら余計に長引くコールはまずい。優歌だってそれくらいは判断できる。
携帯を耳から離してボタンを押しかけたところで、淳介の携帯音と同じ音が聞こえた。
顔を上げると、会社の玄関口から男の人が出てきた。呼びだす携帯には出る気配もなく、右手に持ったままだ。すれ違う人が訝しく見ようがおかまいなく、まっすぐに優歌たちのほうへやって来た。
優歌の視線を追った真由が小さく歓声をあげる横で、優歌はすくんでしまい、慄いた拍子に指先がボタンに触れた。とたん、男の人の持った携帯音が止んだ。
「驚かせて悪い。優歌ちゃん?」
本当に悪いと思っているのか、男の人は素っ気なく謝り、確認するように優歌の名前を呼んだ。その目は真由ではなく、まっすぐ優歌に向けられている。耳のすぐ後ろで二つに結んだ長い髪から視線がおりて、色白の、ともすれば蒼白な顔にまた戻った。その視線の動きでさらにどぎまぎした。
真由ではなくわたしを優歌だとわかったということは、父はこの人を家に連れてきたことあるんだろうか。
優歌の呼び方も家に来る人たちと同じように砕けている。
近くに立たれると見上げないといけないくらいに背が高く、顔立ちから全体的にシャープで、瞳も鋭さが目立っている。見た目から判断すれば、うちによく来る金城と同じ年くらいで、そうだとしたら二〇代の半ばだ。一度会ったら、忘れられないような存在感があるのに、優歌は会った覚えがない。
「……はい」
「水辺本部長は急な来客でいま接待中だ。その間、おれが案内するように頼まれてる。営業部企画課の上戸匠だ」
上戸は安心させるためなのか、証拠だと云わんばかりに淳介の携帯をかざした。優歌がうなずいたのを確認すると上戸は真由を向いた。
「きみは西尾さん?」
「はいっ、西尾真由です!」
返事一つするのにもためらいだらけの優歌と違って、真由は元気よく、若干上ずった声で名乗った。
上戸は表情を少し柔らかくして可笑しそうに真由を見ると、また優歌に視線を戻した。たったいまの表情は気のせいだったのかと思うくらい、優歌を見た上戸の顔は無になった。
細めた目で見下ろす眼差しが、上戸を冷たいと優歌に印象づけた。
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