ミスターパーフェクトは恋に無力

序章 最後にキスを

2.ドールのリアル

 正面に向き直ると、建留がちらりと助手席に目を向けてくる。そのしぐさは、関心ではなく条件反射じみたものだろう、建留は何も云わずに視線を戻して車を進めていく。
 建留は人当たりはよくてもお喋(しゃべ)りではなくて、そもそも実のない話はくだらないと切り捨てる人だから、ふたりが離婚したことを思えば千雪と何を話したところで無駄になる。ただ、千雪からしてももう何も話すことはない。カーオーディオから流れる歌と、これが最後かもしれないという見慣れた景色が沈黙を救っている。
 建留に会った当初、車のなかは聞こえるか聞こえないかというエンジン音だけだったけれど、いまは千雪の好んだ気ままな音が流れる。今日もエンジンがかかると音楽が流れるから、独りのときは切っているというわけでもなさそうだ。およそ五年の間に建留が変わったのはそれくらいだろうか。
 いや、肝心なところが変わってしまった。うまくいっていた頃にあった、ずるくない、ただ甘やかすようなやさしさが消えた。
 それを思い返せば、鼓動を止めて本当にドールになりたいと願ってしまいたくなるほど苦しい。千雪は景色に意識を向けてとっさにふたをした。

 これからのことを取り留めなく考えながら、まもなく到着する頃になると、街の雰囲気がすっかり変わるのに伴い、千雪は気づまりになってきた。移動する間の沈黙はいつものことで慣れているはずが、胸のなかで何かが痞(つか)えている。もしかしたら、気づまりではないかもしれない。例えば、憂うつであったり落胆であったり。その大本になる気持ちはなんだろう。やはり、自分でもはっきりと名のつく気持ちを探せない。あんなに嫌いだった加納家を出て、すっきりしたかといえばそうとも云いきれない。
 ただ、別れの時間が迫る。

 千雪の新しい住まいとなるマンションが見えてきた。
 オレンジのレンガ仕立てに、白い縁取りをした緑の切妻(きりづま)屋根と、女性が好みそうに外観はお洒落で、マンション自体が目印になるくらい目立っている。加納家から車で一時間近くかかるが、その距離が近いのか遠いのかはわからない。一週間後に千雪が勤め始める予定の会社、業平不動産サービスが近いことから用意されたマンションであることは確かだ。おまけに、会社が管理するマンションと、千雪の動向までも管理するためだとしたら徹底している。
 建留はマンションまえではなく、近くにある有料駐車場に車を止めた。千雪は建留を覗(のぞ)きこむようにして首をかしげた。
「荷物はキャリーケース一つだけだし、あとはわたし独りでも大丈夫。ありが――」
「ふざけるな」
 云い終わらないうちに建留はたまりかねたような声音でさえぎり、千雪はシートベルトを外しかけていた手を止めた。
 運転席を振り仰ぎ、目を凝らすと建留の横顔はこわばって見えた。

 建留は矛盾している。
 加納家を出るとき瑠依がなした発言は、どうかすれば千雪を侮辱していたと捉えられる。いや、離婚届には署名をしただけでまだ成立したわけではないのだから、少なくとも現況の千雪からすれば、瑠依の仕打ちはそれ以外の何ものでもない。状況判断に長(た)けている建留がそれを察せられないとは思えず、そんなことは無視するくせに、いちいち千雪のすることは見届けようとする。

 建留は口もとを引き締めてじろりといった目を向けてきた。
「建留の好きにすれば」
 抗議してもきかないとわかっているから千雪は投げやりだ。
「鍵は」
「わたしの家なの」
 当然の権利があるかのように差しだされた建留の手を見つめ、千雪はさすがに自己主張をした。何か云われるまえにさっさと車を降りると、勝手にマンションに向かった。まもなくキャリーケースの転がる音がついてくる。
 ついたため息がふるえた。整理していた気持ちがばらばらになって、もう一度最初から組み立てなければならなくなったような感覚だ。
 わたしが平気でいるとでも思っているのだろうか。リアルドールでも、ドールにはない心がリアルに存在しているのに。
 千雪は振り向くことなく、自己主張をするようにヒール音を立てながら歩いた。住み処となる七階建てのワンルームマンションは、建留が使った駐車場から、こぢんまりしたビルを二つ隔てた向こうにある。足音の数は千雪のほうが多くて建留のそれはゆっくりとしたリズムに聞こえるのに、エントランスに着くと、千雪がノンタッチキーでオートロックを解錠するまえに余裕で追いついてきた。
 エントランスからなかに入り、エレベーターのまえで立ち止まり、建留を見上げると千雪は首をかしげた。
「ここで充分だと思うけど。セキュリティがしっかりしてるのは自分の会社のことだし、わかってるよね?」
「おれの会社じゃない」
「じゃあ、おじいちゃんの会社」
「黙って行けよ。おれがもういいと思ったら帰る」
 建留は何様だろうと鼻につく云いぶりで千雪の抵抗を封じた。千雪はため息をつく寸前で建留に背を向ける。

 五階の端の部屋に行ってロックを解除すると、建留のことは気もかけず千雪はなかに入った。玄関を入ると上がり口から短い廊下があって、突き当たりの右側のドアを開けると十四畳のLDKがある。左手の奥が六畳の洋室だ。そのどちらにも跨(また)がってバルコニーがあるから部屋のなかは文句なしに明るい。
 はじめは普通に家族が住めるような広いマンションが宛てがわれそうになったけれど、独りで住むのにはまったく無駄であり、何よりも掃除とか管理がたいへんになる。そう訴えてワンルームにしてもらった。セキュリティは万全だし、友だちが暮らすワンルームと違ってLDKの部屋がつく。広さは充分だ――というよりこれでも広すぎるように感じた。
 バルコニーは防犯をかねて――若干、檻に閉じこめられた感があるものの、優雅な模様をした鋳物(いもの)の格子が高くそびえていてお洒落感はある。もっとも、五階のベランダからだれが侵入してくるのかという、基本的な疑問が浮かんだけれど、あえて口にしなかった。防犯に関して安易に考えていると思われたすえ、本当に監視がつきそうな気がしたからだ。
 離婚の慰謝料の一つだと思うと、住み処を提供してもらうというのは複雑だ。けれど、これから独りで生活していかなければならず、家賃を払わなくていいというのは助かる。千雪は現実問題を優先して甘えてしまった。
 生活に必要な家具や電化製品、そして雑貨物などはすでに運びこまれていて、リビングの隅には千雪の服やらが詰まった段ボールが置かれている。

「どこに置くんだ」
 バッグをキッチンカウンターに置いたとき、建留が声をかけた。見ると、運びこまれただけの白いチェストを指差している。千雪でもどうにか運べるサイズだが、建留は薄手のコートを脱いでいて、すぐに帰る気がないどころか出しゃばる気満々のようだ。
 千雪は少しためらったのち、バルコニーと反対側の壁を示して、もう一つ家具を指差した。
「その横にあのローボードを置きたいの。テレビ台にするから」
「わかった」
 建留は軽々とチェストを抱えて窓際から持ってきた。千雪が一つ一つ段ボールを開けて中身を確認しているうちに、ローボードまで並べた建留はテレビの箱を開けている。雑貨の整理をしながら建留が床に座りこんでテレビの設定をしているのを見て、説明を読めばわかることだろうが、あんなことも独りでしなくちゃいけないのだとあらためて思った。ちょっとした不安がよぎる――と、建留がふと顔を上げた。
「どうしたんだ」
 千雪の顔に何が表れているのか、建留はじっと見つめたあと、いまでもたまに向けるやさしさの滲んだ声で問いかけた。
「なんでもない」
「千雪」
 建留は何かを云いかけたのか、千雪に打ち明けてくれと促したのか、曖昧な声音で名を呼んだ。千雪はわずかに首をかしげる。
「何かあったら連絡していい。遠慮はいらない」
 そうしてほしくないことを建留が義理で口にすることはない。けれど、いまは素直になれない理由がいくつもある。
「それは、もと奥さんだから? 従妹だから?」

 建留は答えるまで、必要以上に時間を置いた。
「選ぶ必要がどこにあるんだ」
 千雪の質問が気に入らなかったのだろう。もしくは、くだらないと思ってか、建留の云い様は投げやりだ。
「……そうだね。何かあったときは常井さんに連絡するよ。建留のお父さんもそう云ってくれた」
「そうじゃなくて――」
 建留は中途半端に言葉を切った。云いたいことを吹っきろうとしているのか、救いようがないと呆れたのか、顔をうつむけて一度首を振り、また千雪のほうを向いた。
「常井でもいい」
「うん」
 おざなりの返事は、建留にはそう聞こえなかったのだろうか。機嫌が悪くなることはなく、建留の関心は千雪から逸れた。

 わだかまりが胸の奥で痞える。それは、ほっとするよりもがっかりしたという気持ちのほうが近い気がするけれど、認めまいという気持ちはもっと強い。千雪は小さく首を振ってそんな気持ちを払った。
 それから、瑠依に云った夜の予定とはなんなのか、建留は時計を気にするふうでもなく、ベッドやソファの位置とか細々としたことまで片づけを手伝った。終わったのは夕方五時をすぎた頃で、段ボール箱を廃棄して戻ってきた建留は室内をひととおり見渡したあと息をついた。

「建留、ありがとう」
「大したことしてない」
 建留の言葉のあと、互いに手を伸ばせば届くふたりの間で息さえも許さないかのように空気が張りつめる。建留の眼差しは淡々としているようでいて、瞳にはなぜか訴えるような気配を感じた。
 息苦しく、建留を見つめていることも苦しくなった頃、その固く結ばれていたくちびるが開いた。
「千雪」
 返事をするまもなく、建留はいったん口を閉じたあと、また開いて。
「最後に」
 一句一句をひどく丁寧に響かせて区切るのはためらいなのか。そして――
「――キスを」
 静かに響いた。
 建留はキスもセックスも、いつも気まぐれで強引で、けれど、その“いつも”もずっとまえのことで、そんなスキンシップの記憶は遥か遠い。
 いま、はじめて――最後の最後で建留は千雪に乞(こ)う。
「建留……?」
「千雪から、だ」
 乞うことも、千雪からということも、それらにどんな意味があるのだろう。

 立ち尽くしていると、建留がめずらしく辛抱強く待っている。その裏返しの気持ちはなんだろう。
 疑問が渦巻くばかりだが、無意識といってもいいうちに千雪は二歩まえに進んだ。爪先立っても背の高い建留のくちびるまでは届かない。そう知っている建留がうつむくようにして顔をおろしてきた。千雪は踵(かかと)を上げる。
 これが最後じゃなかったら千雪が絶対にしないこと。
 触れたくちびるは、その心底と正反対にやわらかくて温かい。

 建留は支えることまで放棄している。千雪は爪先立ちのバランスが取れなくてすぐに踵をおろした。
 引きとめられることもなく、つかの間のキスは建留に何を与えたのか。
「躰には気をつけろ。さっき、おれが云ったことも忘れるな」
 遠回しの“さよなら”のあと、建留はすっと目を背けて千雪に背中を向けた。
 リビングと玄関を仕切るドアが閉まる。そして、玄関ドアが閉じられた音がした。
 さよなら。
 そんな簡単な言葉がのどの奥に痞えたまま、まつ毛に絡(から)んだ雫(しずく)が千雪の視界を滲ませた。

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