ミスターパーフェクトは恋に無力

序章 最後にキスを

1.サイン

 住み慣れた部屋をひととおり見渡した。
 薄いブルーとクリーム色のストライプ模様をした壁のクロス、洋室にお似合いのヨーロッパアンティーク調の白いチェストに机に本棚。反対側の壁につけられた、二人でも余裕で眠れるほど広いベッドには、パステル系パープルのベッドカバーがかけられている。大きな観音開きの窓は南向きで、天気がよければ明るさには事欠かない。
 この部屋は、五年まえまでは縁もなければ、縁があるとも思わなかった場所だ。
 よそよそしい歓迎が見えていたのに、いざ離れると、行かないでと引きとめられている気がする。
 もしくは――引きとめられたいのかもしれない。
 いい思い出なんて一つもなくて、憂うつばかりが詰まっているのに――ううん、違う。幸せだと感じていた時期は確かにあって、だからいい思い出がないなどと云ったら嘘吐きだと嗤(わら)われる。それでも――

 ばかなことを考えている。
 自分を叱責した。
 くちびるを咬んで、それから気持ちを切り替えるように、部屋の角に置いた姿見に向かった。
 奥二重の目は大きいだけで可愛いとは云いにくく、くちびるは桜色をしているけれど薄めだ。合格点なのはちょっとつんとして見える鼻だろうか。額にかかる前髪は眉の上で切りそろえ、胸下までの長い髪は寝ぐせさえもはね除けてしまう頑固なストレートだ。それでも重たく感じないのは生まれつきで髪の色が薄いせいだ。
 両親とも生粋の日本人だが、茶髪以上に明るい色――建留に云わせるとシャンパンゴールドの色をしている。祖母がそうだったという。母はもう少し濃い。髪の色と相まって、膝上十センチのミニワンピースは春という季節に似合う淡い黄緑色で、頼りない躰つきをよけいにかぼそく見せた。
 リアルドールだな。
 加納建留(かのうたつる)はそう云う。シニカルに嗤って。
 ドールみたいに可愛くも綺麗でもないのに、何を見てそう思うのか。それはたぶん、欠けた感情のせい。
 鏡に映る表情は自分で見ても静止していると感じる。皮肉にも、漏らしたため息がかろうじて呼吸する生き物であることを保証する。

「千雪(ちゆき)」
 姿見から離れて机に向かおうとした矢先、突然、呼びかけられた。ドアの開く音にも気づかず、千雪はびくっとして振り向く。
 そこには建留がドアを支えて立っていた。千雪より優に頭一つぶんは背が高く、それだけでも存在感はあるのに、気品のある見目(みめ)が拍車をかける。二十八歳という年齢にすぎるくらいの強硬な内面が躰全体から滲(にじ)みでていて、ほぼ毎日、顔を合わせているのにもかかわらず千雪を気後れさせる。
 そんな距離感が取り払われた時間もあったのに――とそこまで考えて千雪は過去にこだわる自分に呆れる。また気を取り直さなければならなくなった。
「いいか」
 建留はいつものように淡々と手短に声をかけた。
「うん」
 うなずきながら千雪もまた端的な返事をした。机に置いたショルダーバッグを取ると肩にかけてドアに向かった。
 その間、建留の目は千雪を追う。ここに来てすぐの頃はそんな建留に戸惑っていた。けれど、そうするのは建留の癖みたいなものだ。独りが好きで、だからこそ、だれかいるとつい監視してしまう。猫のように、というと可愛すぎるから、それよりは、まさに群れをなさない豹(レオパード)のようにと云ったほうがしっくりくる。

 建留が支えてくれているドアを通り抜けて階段のおり口に向かう。美術品のように装飾された手すりに手をかけ、幅の広い階段をおり始めた。二歩めで、後ろからついてきていた建留が横に追いついて、そして二段だけ追い越した。そこからさきは足取りがゆっくりとなる。
 建留のずるいやさしさだ。
 平気で人を裏切るくせに、残酷にもそれを見せつけるくせに、心底から嫌いにさせなくする。
 たとえ責任感からくるとしても、建留は千雪が現実からいなくなることを望んでいるわけではけっしてないと無言で教える。また階段を落ちることになったら、いまの状況ではひょっとしたら、道連れにするかもしれないのに。

 踊り場を折り返して一階におりると玄関とは反対側に向かい、応接室へと建留が導く。ドアのまえに立って建留がノックをすると、「入れ」というしわがれた声が応じた。
 ドアが開かれ、正面の奥にある一面窓からローズガーデンが見える。三月も終わり、いまは白いジャクリーヌ・デュ・プレが咲き始め、ピンクのミニバラ、ピーチプリンセスと相性よく庭園を華やかにして、応接室の堅苦しさを和らげている。朝日のさすこの部屋から南側のリビングまでとガーデンは広く、専門の庭師が定期的に手入れをする。薔薇がメインではあるけれどそれに限らず、年中、花が絶えることはない。
 建留が一歩なかへと進む。後ろに控えた千雪からは、ちょうど広い背中の陰になって声の主が見えることはなかったものの、その顔が厳(いか)めしく歪(ゆが)んでいるのは容易に想像できる。正味四年ほど同じ屋根の下ですごしてきたというのに、この家と同じようにその筆頭者にも心底からはなじめていない。
 できれば顔を合わせたくない。その心の内を読みとったように、ソファまで行くと建留が躰の向きを変えた。その意地悪のおかげで、建留の祖父、滋(しげる)の目とまともに合ってしまう。その隣には加納家の顧問弁護士である常井(つねい)が付き添っている。
 怖(お)じ気づいたことを悟られたくない。そんな気持ちから千雪に身についたのは、つんと顎を上げるしぐさだ。

「座りなさい」
 貫録(かんろく)という言葉が似合う声に従って、千雪は滋の斜め向かいに腰をおろした。それを待って、建留が少し間を空けて隣に座る。
 薄っぺらな紙が二枚、滋との間にあるテーブルに広げてあった。真ん中に置いた紙が常井の手によって、すっと千雪たちのほうに押しやられてくる。
 その紙――離婚届に書かれた千雪と建留の名が真っ先に目に入った。そして二枚め、離婚届に付随した書類が千雪のみに向けられる。
「千雪」
 滋は絶対命令を発するときの声音で名を呼んだ。千雪は反射的に躰をこわばらせる。
「はい」
「このさきも“加納”を名乗りなさい」
 千雪と建留が離婚するに当たって、滋はこれまで千雪に対しては小言を口にすることも、注文をつけることもなく、いささか拍子抜けしていた。それが最後にこんな口出しをされるとは思ってもみなかった。
「でも……」
 千雪はおずおずと建留の顔を窺(うかが)った。
「そうすればいい。千雪が嫌じゃないなら」
 建留がずるいのは、部屋を出たときのような振る舞いだけではなく、こんな云い方もそうだ。反抗心が疼(うず)く。もしくは、子供っぽく拗(す)ねたくなる。
「でなければ破り捨てる。証人になるのも断る。それがどういうことかわかるな」
 千雪がすぐに応えないでいると、痺(しび)れを切らしたように滋が脅しをかけた。

 ただ、そうした滋がこの離婚に乗り気じゃないことははっきりした。
 そもそもは、加納家のなかに千雪と建留の結婚を歓迎している人なんていない。離婚の証人なんていくらでもなり手がいるだろうが、加納家の筆頭者である滋の息がかかるとなれば易々(やすやす)と挙手するわけにはいかない。
 世界に名を馳(は)せる商社、業平(なりひら)商事の傘下にある業平不動産は、加納家が初代代表として起ちあがった会社だ。業平商事の創設者である加藤(かとう)家と縁故関係にあるゆえのことだ。
 滋は業平不動産の前社長であり現会長で、なお且つ大株主でもある。現在の社長、小泉(こいずみ)は加藤家からすると赤の他人だがやり手で、建留の父親、孝志(たかし)は副社長という地に甘んじている。孝志は加納家の返り咲きを狙っていて、大株主である滋の機嫌を損ねたくないだろう。
 けれど、この結婚を千雪が大学を卒業するまでと区切ったのは滋自身だ。だから、この期(ご)に及んでなぜ反対のような云い方をするのかという疑問が湧く。

「はい。加納を名乗ります」
 もともと千雪は旧姓の“須藤(すどう)”に愛着はない。
 滋は至当だといわんばかりに重々しくうなずいた。
「こちらが協議書です。おふたりとも、いま一度お目を通しのうえ署名をお願いします」
 常井が事務的に云い、テーブルの端に置いたペンを建留に手渡した。建留は書類を見ることもなく、そして、ためらいもなく署名の欄を自分の名で埋める。
 建留からペンを受けとった千雪もまた書類の文字を見る気にもなれず、名を書き始めた。加納千雪――四年の間にすっかり書き慣れたはずが、手がふるえて建留のようにスムーズにはいかず、記した字はわずかにいびつになった。婚姻届を出すときもそうだった。けれど、抱えた気持ちはまったく違っている。
 愚かしいだけだった自分を思いだして、千雪はそっとくちびるを咬んだ。
 三枚めの、婚姻時の姓を名乗るためだと説明された届出書に印鑑を押してしまうと、滋から長引きそうなため息が漏れだした。それをさえぎったのは建留だ。腿の上に腕を預けるという恰好でまえのめりにしていた躰を起こす。
「もういいですね」
 まるで仕事の契約を交わしたあとのように建留は平坦な声で云った。千雪のほうを向くと「行こう」と促して立ちあがる。これで終わりだと思いながら、千雪は悟られない程度の息をついて建留に倣(なら)った。ふるえたため息はなんのせいか自分でもよくわからない。
「おじいちゃん、お世話になりました」
 深々と一礼をすると、滋は「ん」と唸(うな)るように応じた。

 建留が支えているドアから千雪はさきに応接室を出た。
「リビングに寄っていくだろう?」
 ドアを閉めた建留は千雪をじっと見据えた。訊ねているというよりは諭(さと)しているようだ。いつまで千雪のことを高校生扱いする気だろう。
「わたしは……そんなにお母さんと似てる?」
 子供扱いしないでと遠回しに云うと、建留は睨んでいるのかと見まがうほど目を細めた。
「そう思われたら傷つくのか」
「……そんな意味で云ったんじゃない。どんなに嫌われてても、どんなに苦手でも、わたしは挨拶ができないような子供って時代はとっくに卒業したの」
 千雪の意地をあしらうように、建留はおなじみの皮肉っぽい顔で笑った。
「それなら行こう」
 建留は先立っていく。建留の背中を見上げることは好きじゃなくて 、千雪は目を伏せてついていった。

 玄関の手前にあるLDKの部屋に入ると、応接室のときと同じように建留がふいに躰の向きを変える。
 五対(ごつい)の目が一斉にこっちを向く。無関心な義理の弟である旭人(あさと)、義理の母の華世(はなよ)は気を遣っているだけ、祖母の茅乃(かやの)と孝志、そして、当然のようにこのなかに居座る、小泉瑠依(るい)もいつもに違(たが)わず冷ややかだ。いや、もしかしたら、いま彼らの心中(しんちゅう)の大半を占めているのは安堵かもしれない。

「千雪を送ってくる」
 ここまで来て挨拶もさせてくれないのだろうか、建留が不穏な空気をものともせず口火を切った。それがどういうつもりにせよ、やはり子供扱いされているように感じて、それに対抗するように千雪は一歩を踏みだした。
「迷惑をかけまし――」
「よけいなことは云わなくていい」
 にべもなく端的にさえぎったのはほかでもない建留だ。一人前だと思っていない証拠で、あまつさえ、千雪に簡単に打撃を与える。そのショックを隠すように挨拶に紛らせて頭を下げた。
「お世話になりました」
 顔を上げると同時に口を開いたのは茅乃だった。
「健闘を祈ってるわ」
 棒読みのようなセリフだ。それはけっして好意的な意味じゃない。加納家に迷惑をかけるようなことはするなという警告なのだ。
「ありがとうございます」
 素直に応じると、瑠依のくすくす笑いがやけに大きく聞こえた。いい気味という千雪への当てつけというよりは、たぶんこの離婚がうれしくてたまらないのだろう。
「心配事は常井に相談しなさい」
 やはり孝志は遠回しに加納家と係わるなと伝えてくる。
「はい。ありがとうございます」
 瑠依からはくすくす笑いで充分だし、旭人から何か聞けるとは思っていない。建留もそう判断したのか踵(きびす)を返す。
「気をつけてね」
 かばってはくれなくても邪険にはけしてならない華世が声をかけた。
 千雪は再び会釈をしてから、建留についてリビングをあとにした。

 千雪が靴を履いて建留が玄関に置いたキャリーケースをつかんだところで、リビングの戸が開いて瑠依が出てきた。挑(いど)むような視線が千雪へ向かってきたそのとき、もう一人、旭人が現れてかったるそうに壁に背中を預ける。旭人は明らかにこの構図を興じている。
 瑠依は建留に視線を戻し、綺麗というよりは非の打ち所なく可愛いという顔を華やかにした。
「建留、今夜、食事に連れていってくれない?」
「用事がある」
 一瞬、なんともいえない空気が漂う。それを蹴散らしたのは旭人だ。
「瑠依さん、残念だったね。なんならおれが相手しようか」
 瑠依の当然といった自信もさることながら、建留はだれに対してもそうであるように無頓着で、旭人に至ってはその場その場の気分によった発言しかしない。
「わたしは建留に云ってるの」
「じゃあ、おれが義姉さんを送っていこうか」
 旭人は千雪たちのほうに視線を転じてきた。
 旭人の気まぐれ発言にはいつも呆気にとられる。
 建留と旭人、どちらにしても千雪にとっては苦痛にしかならない。いっそのこと、タクシーで出ていったほうがいいのに、建留がへんに責任を全(まっと)うしたがったのだ。
 旭人は千雪から建留へと視線を移す。すると、旭人はくちびるを歪めて肩をすくめ、躰を起こして廊下を奥へと行った。
 兄弟でどんな無言の会話を交わしたのか、旭人を追いやった建留を見上げると、顎のシャープなラインが象徴するように、いつものごとくきっとした雰囲気しかわからない。
「とにかく無理だ」
「いいわよ。いくらでも時間はあるんだから。じゃあ、千雪さん、ごきげんよう」
 建留の素っ気なさに少しも懲(こ)りていないどころか、『いくらでも』は建留に対してではなく千雪へと向けて強調されたように感じた。
「千雪」
「うん」
 建留に促されて返事をしたあと、千雪は瑠依に向かい、うなずくようなちょっとした一礼をして加納家を出た。

 建留はすたすたとさきを歩いて千雪を置いていく。すでに車庫から出されていた建留の車、インペリアルブルーのBMWの後部座席にキャリーケースを載せると、千雪が助手席にたどり着くのとほぼ同時に建留が来てドアを開けた。千雪は礼も云わずに乗りこみ、ドアは無言で閉められる。建留はフロントをまわって運転席におさまった。
 エンジンがかかってパーキングブレーキが解除された。が、すぐに出発はせず、なんだろうと千雪は運転席を見上げた。そうしたとたん真正面を向いたままの建留は車を発進させた。ちょっとした時間の空白は気のせいだったのだろうか。建留は千雪を気にしているふうでもなく、左右の往来を確認して加納家の敷地内をあとにした。

 千雪はちらりと後ろを振り向く。どうしてだろう、そうした気持ちは未練とは少し違っていて、はっきりしない。
 敷地を囲む塀は、一五四センチしかない千雪でも余裕で顔を出せるくらいの高さだ。加納家の二階の部分は障害なくよく見える。タイル調の外壁は濃いブラウンで、高級感に溢れたモダンな洋風の家だ。
 最初に来た日、ずいぶん場違いに思った。その印象は間違っていなかったようで、やっぱり千雪はここを出ていくことになった。たぶん、二度と来ることはないだろう。

NEXTDOOR