ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第1章 BAD or LUCK?

1.突飛な知らせ

 母の須藤麻耶(まや)が倒れるまで、千雪は自分に母方の親戚がいることをまったく知らなかった。
 幼き頃に麻耶から聞かされたのか、いつしか千雪が自分で勝手に境遇を想像してつくりあげていたのかはわからない。物心がついたときは、祖父母は亡くなっているもの、親戚はいないか、もしくは付き合いが疎遠になっているもの、そんなふうに思いこんでいた。
 父の芳明(よしあき)も似たような感じだ。麻耶は自分のことを差し置いて、芳明のことをよく天涯孤独だと云った。
 実際のところ、麻耶は親戚どころか親兄弟とも健在だから自分の境遇を差し置いても当然だろうけれど、千雪からは矛盾して聞こえたものだ。
 一方で、芳明は天涯孤独を自己志願しているのではないかというほど、親兄弟がいるのにまったく付き合いを断っている。
 だから、両親が将来いなくなったら一人っ子の千雪こそが天涯孤独になるのだと、少しずつ覚悟を築いていた。
 金持ちとはいかないまでも普通に暮らしていける家庭なら、千雪もそこまで考えることはなかったかもしれない。
 けれど、芳明は人付き合いを苦手としているらしく、仕事が長続きしない。そもそも芳明は親兄弟とさえ疎遠になるくらいだから、他人となればますますそうなるというのもうなずける。
 そんな芳明がどうやって麻耶と結婚できたのか、どうして結婚したのか。麻耶はいつだったか、似た者同士だから、とそんな言葉で片づけた。

 芳明がふらふらしている一方で、麻耶は美容師として長く勤めている。いつか自分の美容院を持ちたいと口癖のように云う。手に職を持つ強みで給料が高いのかと思っていたけれど、けっして高くないと知ったのは高校二年生の終わりだった。
 千雪が高校にあがった頃から、芳明はお酒を過剰に飲むようになった。お酒に飲まれるという言葉を聞いたことがあるけれど、芳明はそれなんじゃないかと思う。麻耶が止めると、暴力は振るわないまでも暴言を吐く。ただ、それは麻耶に対してというよりは、芳明自身に向かっていた気がする。殺してくれ、とか、死なせてくれ、とか。そんなことを口にするのは芳明の弱さを証明していた。そういったことを冷静に見つめている一方で、酒の力を借りて、いつその負がさらに負にひるがえって暴力に発展するのか、千雪はびくびくと見守っていた。
 そんななか、芳明宛てのおかしな電話が増えた。その会話から、やがて千雪はお金の話だと気づいた。
 酒を買うためだったのか、生活のためだったのか、いずれにしろ高校に通うことを千雪が後ろめたく感じるほど、須藤家の経済状況は冷え冷えとしていった。それでも麻耶は高校くらい卒業するべきだと云い張る。
 おかしな電話は、最初は丁寧だった物云いがだんだんと乱暴になって、高校三年になった四月には、芳明が切っても切っても呼びだし音が鳴り続けるようになった。芳明はアルコール中毒じゃないかと思うくらいますます酒にのめった。

 荒(すさ)んでいく千雪の環境が一変したのは五月のこと。発端はゴールデンウィークの最中だった。
 夜、夕食を取っているとどうにも麻耶の言動がおかしい。
 連休なんだし、友だちと遊びには行かないの――と何度も同じことを訊ねる。かと思うと、無表情で無心におかずのひと品だけを口に運ぶ。お母さん? と呼びかけても答えない。直感が働いて、千雪は躰の内部からひやりとするほど恐怖感を覚えた。
 芳明は飲んだくれて当てにならず、麻耶のバッグを覗いて財布のなかにお金が入っていることを確認すると、タクシーを呼んだ。
 運転手からどこに行くか訊かれてはじめて、休日だから救急を受けつける病院しか選択肢がないと気づいた。幸い、運転手が親切で、率先して比較的近くにある大学病院へと運んでくれた。救急車という手段があったのに、無意識にそれを除外していたのは、そんな大事じゃないと信じたくなかったせいかもしれない。
 実際、小さな血栓(けっせん)が脳で詰まるという一過性の脳虚血発作ですんだものの、症状を見逃していたら果てに脳梗塞(のうこうそく)を引き起こして、麻耶は、あるいは命を落とすということになっていた。
 そうはならなかったのに、結局、それがきっかけで千雪は麻耶とは離れ離れになった。

    *

 すぐに麻耶の症状は改善して、三日め。ゴールデンウィークも明けた日、千雪は学校帰りに病室を訪れた。同じ病室にいる人と挨拶言葉を交わしながら、いちばん奥で待ちかねたように身をのりだしている麻耶のところへと進んだ。
「お母さん、どう?」
「問題ないわよ。一週間後には退院できるって」
 麻耶は首をかしげ、顔をふわりと縁取る髪を揺らした。
 麻耶の髪は、千雪のくすんだゴールド色より濃いアッシュブラウンだ。それでも地毛だということを考えれば日本人離れしている。美容師という職業柄、そんなプライドがあるのか、入院中のいまも髪はくるくるときれいにカールさせている。その変わらない日課をこなしている麻耶を見て、千雪はほっと胸を撫でおろした。
「よかった。仕事は?」
 ベッドの脇に置いた椅子に腰かけながら訊ねた。何気ない質問のはずが、麻耶はすぐに答えない。千雪が顔を上げると、どことなく曖昧な微笑みに合う。
「……ぼちぼちやっていくわよ」
「お母さん?」
 千雪が怪訝(けげん)にしていることを知っているだろうに麻耶は黙りこんでしまい、千雪の頭上を越えて窓の外へと目を向けた。五月の晴れ晴れとした空とか、病院の敷地内にあるちょっとした公園とか、そんな景色ではなく、そこにスクリーンでもあるかのように遥か遠くの記憶を眺めている。

 千雪はなんだろうと思い巡った。そして、一つだけ、麻耶が憂(うれ)う理由を思いついた。
「お母さん、お金はある? 退院のときは入院費、払わなくちゃいけないんだよね? お父さんに訊いてもわからないって云うし」
 千雪はできるだけ陽気に云ってみた。それなのに努力は報われず、麻耶はため息をついた。
「そんな心配をさせるなんて」
 そのつぶやきは、千雪に対してではなく麻耶自身に向かっていた。
「お母さ――」
「千雪」
 さえぎった声は断固として聞こえた。
「何?」
「千雪はおじいさんのところに行きなさい」
 窺(うかが)うように問いかけた千雪への答えは、まったくぴんとこない命令だった。
「え?」
「あなたのおじいさんよ。いままで云わなかったけど、あなたにはおじいさんもいとこもいるの」
 すぐには理解できないほど突飛な知らせだった。
「……でも……お母さんは?」
「わたしにはお父さんがいるから無理よ」
「だったら――」
「千雪、聞いてちょうだい。おじいさんは加納滋っていって、業平不動産のもと社長だし、いまも役員をしてるから、経済的になんの心配もないの。業平の名前はテレビとか、聞いたことあるでしょ」
「わたしは……」
 麻耶がいても芳明がいたらだめで、麻耶がいなくても千雪だけなら大丈夫――麻耶の『無理』という言葉に集約された基準がよくわからない。

 業平の名は、麻耶が云ったとおり、社会に出ていない千雪でも知っているくらい大きな企業の名だ。その重要ポストに祖父がいると聞かされても、祖父が生存していること自体が理解を超えていて、千雪は途方にくれる。ただ、生活環境がまるで変わってしまうのは想像するにたやすい。

「わたしは邪魔なの? 負担になるから?」
「誤解しないでちょうだい。その逆よ。わたしはあなたから権利を取りあげてる。だから、戻してあげるだけ」
 やはり意味はわからない。麻耶は肝心なことを隠している。そう思っても、隠そうとするのは話したくないということであり、千雪はあえて訊ねることはせずにしばらく考えこんだ。
 血が繋がっているとはいえ、顔も知らないのでは他人とかわらない。そこに行くのが一時期ならまだしも、麻耶の云い方では、どう穿(うが)っても“しばらく”という極めて期限のない曖昧さが窺える。
「わたし、高校やめても全然かまわない。働くよ。権利とか、訳わかんないのはいらないし」
「千雪、あなたはまだ高校生だから価値がわからないのも当然だと思う。でも、わからないからこそ、いまはお母さんの云うことを聞いてちょうだい。世間のことがわかるようになってから判断してもけっして遅くないわ。今回のことで気づいたのよ。お母さんにもしものことがあったら、千雪が頼れるところがなくなるって。千雪を独りぼっちにするような後悔はしたくないの。今日、連絡を取ったらおじいさんは快く引き受けてくれたのよ。心配しないで。よくしてくれるから」
「もしも、って、お母さんはもう大丈夫なんだし――」
「いまは大丈夫だけど再発はあり得るわ。だから薬にお世話になるの。千雪、お願いだから――」
「帰るよ。お父さんがごはん待ってるから」
 今度さえぎったのは千雪のほうで、さっと椅子から立ちあがった。
「千雪」
「また来る」

 働きづめだった麻耶にやっとゆっくりする時間ができたと、入院という事態になってもほっとする面はあったのに、それはいらない考えを巡らす時間も与えていたようだ。
 祖父のところに行くという突拍子もない勧めもさることながら、千雪は祖父やいとこが存在すること自体に戸惑いしかない。
 あるのは血の繋がりだけであり、見知らぬ家に行かされるくらいなら独りでいるほうがましだ。いまの芳明とふたりきりという時間さえ、親子でありながら千雪は窮屈な気がしているのに。
 さっきの様子では麻耶が固く決意していることが見て取れた。けれど、千雪が加納家に行くとしても、それで麻耶と芳明がらくになるかといえば、芳明の現状を見るかぎり拓(ひら)けた展望はない。
 このところ、芳明はあの電話に出ることがなくなって、家のなかは無駄に呼びだし音ばかりが鳴り響く。病院とか、友だちとか、そんな電話だったらと思うと麻耶がいないいまは千雪が受話器を取らざるを得ない。そうすると、怖がらせるためにかけているとしか思えない怒鳴り声がいきなり千雪の耳に届く。
 銀行とか、もっと普通に借りるところはあったはずなのに、いつか芳明は乗せられたんだと麻耶に弁明していた。
 芳明は、人付き合いが嫌いなくせに酒を出してくれる店だけは好んで行く。そもそもが麻耶と芳明は、小さなバーでホステスと客という形で出会ったという。麻耶が十九歳、芳明が二十歳のときだ。麻耶は美容師になるのに専門学校へ行くためのお金を貯めていたらしい。
 けれど、千雪に祖父がいるというからには麻耶にとっては父親になるはずで、それがお金持ちの家ならなぜ麻耶は自分で資金を稼がなければならなかったのだろう。いま千雪が受け入れられるということは、麻耶のほうが加納家を嫌っていたのだろうか。
 千雪がどんなに考えたところで、いままで親戚がいることを知らされなかった理由はわかるはずもない。

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