ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第1章 BAD or LUCK?

2.BADシーン

 どう解決しようもないことに気を取られている間に、千雪は病院から電車とバスを乗り継いで無意識に自宅近くの停留所で降りていた。にぎやかなところを挙げればスーパーとコンビニくらいという、ありふれた住宅地を進みながら千雪はため息をつく。
 まもなく、淡いブルー色をした壁のアパートが見えた。両親が結婚してからずっと住み続けているアパートだ。築二十年を優に超えているらしいが、家主が小まめな人なのか、数年越しに外壁は塗装がし直されて外見がみすぼらしいことはない。
 二階への階段は外側にあるのだが、その踊り場の下をくぐり一階の隅にあるドアのまえに立った。ドアベルを押しても芳明が反応するかどうかは当てにならない。千雪はバッグから鍵を取りだしてドアノブの鍵穴に差しこんだ。
「ただいま」
 ドアを開けると芳明がいつも履くくたくたの靴があって、いちおう声をかけてみた。答えたのは、ドアを隔てた向こうからの唸るようなひと声だった。また飲んでいるのだろうか。
 千雪はため息をつきながら、背後でドアが自然に閉まるのに任せて靴を脱いだ――と、脱ぎきれないうちに金属製の玄関ドアが乱暴な音を立てる。
 びくっと肩を揺らした千雪は、状況がわからないまま振り向く間もなく背中をどんと突かれた。躰をねじっている不自然な態勢で上がり口に倒れこみ、ダイニングと玄関の仕切りとなるドアが目のまえに迫った。
「おらぁ、須藤さんよぉ出てこいやぁ」
 煽(あお)りたてる声と、ドアに側頭部をぶつけて床に倒れこんだ千雪の悲鳴が重なった。

「出ていけっ」
 芳明は千雪の悲鳴が聞こえなかったのか、顔も見せずに奥から怒鳴る。
 逃げるべきだと思ってそうしようとしても、すぐには躰が動いてくれなかった。下側になった右肘をしたたかに打ち、ちょっと動かしたとたん痛みと区別がつかないほど痺(しび)れて千雪は呻(うめ)いた。
「貸したものを返してもらったら出ていくんだがなぁ」
 脅しと興じる気持ちが半々といった声が、狭い玄関口をいっぱいにした。
「借りた二十万なら返した」
「須藤さん、借りた金には利息っていうもんがつくんだよ」
「もう倍は返してる! 出ていけ!」
「何おっしゃってるんですかぁ。返してもらったのは利息でしょうが。元本、今日払ってもらわねぇとまた利息つきますよ。おら、さっさとくれやぁ」
 薄気味悪くやんわりとしたり荒げたり、調子を変える声と、空威張(からいば)りした芳明のわめき声という応酬のなか、千雪は恐怖心で身をすくめながらも上体を起こした。男のほうは見ないようにして、痺れた腕をかばいつつ少しずつお尻をずらしてドアに寄る。

 何を間違って芳明はこんな柄の悪い男にお金を借りたりしたのだろう。芳明にはがっかりさせられるばかりだ。
 小学二年生のとき、“せいかつ”の授業で“働く人”というテーマがあったが、いろんな時間に働いている人がいるんだよ、と話し始めた先生から、『須藤さんのお父さんがお仕事に出かける時間は何時ですか』と、父親は働いているものとして先生に質問されたときは戸惑った。答えられないでいると、『もしかしたら出かける時間が違うのね』と勝手に決めつけて、『皆さん、そんな仕事もあるんですよ』とクラスメートたちに向かって説明した。
 授業の流れで休み時間、先生を交えて友だちと父親の仕事の話をした。ちょうど芳明は仕事をしていないときで、嘘を――先生が勝手につくりあげたものだが――そのままにしておきたくなくて、千雪は父がずっと家にいると話したらだれもが首をかしげていた。
 いま思えば、先生の目に浮かんだのは同情だっただろう。友だちの目にあったのは理解できないといった奇怪さと困惑だ。母親ではなく父親が家庭を支えることのほうがあたりまえなのだと、あのとき千雪は知った。

「おっと姉ちゃん、じっとしてな」
 千雪がドアノブに手をかけたとたん、表向きなだめた声で呼びとめられる。『姉ちゃん』を性別に変換すれば、対象はこの家に千雪しかいない。
 玄関先は、男と二人きりの密室という危険地帯と化した。
 じっとかまえた躰がこわばった。男の命令をきいたわけではなく萎縮(いしゅく)したのだ。
 それまで玄関先でとどまっていた男が、土足でつかつかと上がってきた。目のまえで足は止まり、男がかがんだとたん、煙草の臭いが漂ってきた。目を伏せたなか、視界に男の手が侵入してきて、次の瞬間には骨に喰いこんでいるんじゃないかと思うほど顎を強くつかまれた。ぐいっと顔を仰向けられる。
 目を合わすべきじゃないとわかっているのに、千雪はついそうしてしまった。すると、男は好奇な目つきに変え、めずらしい生き物でも見るように千雪を頭から脚まで眺めまわした。

 こういった反応ははじめてじゃない。千雪は、顔つきは生粋(きっすい)の日本人なのだが、色素が薄く、髪と同様に瞳も日本人らしい黒眼をしていない。日本人でも真っ黒というわけではなく、よく見たら茶色がかっているが、千雪の場合、よく見なくても砂色に透きとおっている。
 高校生にもなると、髪を染めていたり、カラーコンタクトをしていたりという子がいないわけではない。千雪に特別な関心がなければ、おおよその人がそういうお洒落をしているのだと勝手に認識する。

 目のまえの男は何を考えているのか、“おおよそ”のうちに入らないのかもしれない。気持ち悪いほどじろじろと千雪を見る。
 二十代後半だろう、口ひげを生やして四角い縁なしの眼鏡をかけ、くちびるの薄さが薄情さを示す。痩(や)せた体型がなおさらぎすぎすした印象に拍車をかけて千雪を怖がらせた。やがて、男の顔つきは目を細めた険しさから、何か思惑でもありそうな、にやついた表情に変わった。
「おらぁ、須藤さん。金で払えねぇっつうんならお嬢さんで払ってもらうか」
 男の口から失笑が漏れる。高校生でもそれがどういう意味かはわかった。
「出ていけっ」
 芳明の一点張りの怒鳴り声と同時に、千雪はとっさに顎をつかむ手を振り払った。自由になったと思ったのもつかの間、次の瞬間には顎ではなく首根っこをつかまれて、その勢いで背後のドアに背中がぶつかった。苦しくて男の手を払おうとしたが、めいっぱいの力で千雪を押さえつけているからびくともしない。
「お父さんっ」
 助けを求めるも、呻き声程度の音にしかならない。痛いというよりも、気道に障(さわ)っていて苦しくてたまらない。
 男の関心は芳明から千雪へと移っている。ほんの傍(そば)で、煙草の臭いを纏(まと)う、下卑(げび)た笑い声が立つ。
 男の手が制服越しに胸をつかんだ。
「お父さんっ」
 千雪は苦しさを押しのけて叫んだ。
「出ていけっ」
 そう云うばかりで芳明が出てくる気配はない。

「とんだ親父だな。娘がどうなろうと知ったこっちゃない、ってさ。なかなかの玉だ。ガキっぽいがそれがいいっていう奴らもいる。高く売ってやるから安心しな。まずはお試しだ。ここで犯してやるか。セーフクっつうのはそそるよなぁ」
 目のまえで舌なめずりをしそうに顔がにたにたと歪(ゆが)む。
 顔を逸(そ)らすにも自由が利かない。ただ、胃の辺りから恐怖が凝(こ)り固まって定着していく。手が胸を離れてほっとしたものの、移動しただけで、男の手はブレザーのボタンにかかった。
「きれいな目してんなぁ。コンタクトじゃないらしい。髪も地毛か。色、白いし、躰はどうなんだろうなぁ」
「やだっ」
 ブレザーのボタンが外されたのと同時に、胸もとのブラウスをつかんだ男の手が勢いよくおりてボタンが引きちぎられた。逃れようと躰をよじりながら蹴散(けち)らそうとしたのに、男は敏捷(びんしょう)に動いて脚の間におさまり、千雪の脚はそれぞれに男の折り曲げた膝頭で押さえつけられた。
「お父さんっ」
 男が云うまでもなく、芳明にはとっくに幻滅している。けれど、現状を幻滅ですませて受け入れられるかというのは事情によりけりで、いまはまったく受け入れられることじゃない。
「へぇ、やっぱ、きれーな色してんなぁ」
 そう云う男の手がブラジャーの下に忍びこんでくる。胸をじかにわしづかみしたあと、手の甲でブラジャーをずらした。
「いやっ」
「おっぱいもいい。桜色じゃねぇか。こっちはどうだ」
 含み笑いをした男はスカートの下に手を潜らせた。
 ショーツの上を指先が這うと寒気がして、千雪の躰がぶるぶるとふるえだす。ショックで意識がかすみそうになる。このまま、男の思うがままになるのなら、いっそのこと意識は手放したほうがらくだとも考えた。
 けれど、男の手がショーツの縁にかかったとき、一瞬にして現実逃避した考えは散った。
「やっ、いや、いやっ。お父さんっ助けてっ」

 我慢できない!
 それなのに、いくら叫んだところで男には無効力だ。首根っこを圧迫する手も、腿を押さえつける脚も、はね除けようとしてもびくともしない。男の力と自分の力にはこんなにも差があるのか。そんな無力さをいっぱいに感じさせ、男は容赦なく手をショーツのなかに入れて、千雪の絶望に追い打ちをかけた。
「ぃやっ、やめてっ」
 のどもとをつかまれた苦しさを押しのけて、千雪は精いっぱいで仰向きながら金切り声をあげた。
「うるせぇ」
 どすの利いた声が一喝(いっかつ)した。
 不快な息づかいがほんの間近に迫った刹那(せつな)。
 男が侵入したときと同じ音がうるさく響いた。
 吐き気さえ感じていた千雪には何事かと確認する余裕はなく、ただ、男の息づかいが遠のいたことだけ理解した。
「なんだ、てめ――」
 わめいた声は途切れ、同時に千雪の躰は解放された。目に入ったのは、頭をドアに向けた恰好で玄関先に倒れて呻く男の姿と、それとは別人の、はっきり男とわかる、そびえるような長い脚だった。

 きれいに光っている革靴が玄関先へと少し向きを変えた。
「連れだしてください。脅してやればいい」
「脅す? 忠告、の間違いでは」
 低音だが若い声に続いて、少し年のいった声が離れたところから呆れたように応じる。
「どっちでもいい。とにかくその男をお願いします」
 若い声の主の吐き捨てるような云い方は、「建留さん」と名を呼ぶだけの声にたしなめられた。短いため息が聞きとれる。
「わかりました。丁重に解決してもらえますか。こっちはおれに任せてほしい。早く話がついても、おれが呼ぶまで外で待っていてくれませんか」
「承知しました」
 年のいった男は若い男の品行をたしなめたわりに、柄の悪い男の首根っこをつかんで引き起こす様は乱暴に見えた。若い男の陰になって、よく容姿を見ることはかなわない。
 茶色い革靴は千雪の正面を向いた。その向こうで、ずるずると男の躰が引きずられたあと、玄関のドアが閉まって上がり口は薄暗くなる。
 また男と――さっきとは別の男だが男には変わりなく、ふたりきりになったことに気づいて、千雪は自分で自分の躰を抱きしめながら、そうすれば男を追い払えるかのようにしっかり目をつむって身を縮めた。実質的には背中のドアの向こうには芳明がいる。ただし、もはや千雪にとって、芳明はいようがいまいがなんの意味もなさない。

 うつむけた頭のさきでこつこつと少しこもった音がした。続いて動く気配がしたと思うと、すぐ傍から声がした。
「須藤千雪」
 千雪のフルネームが唱えられた。冷めた声だったが問うように聞こえ、千雪は小さくうなずいた。怖いと思う一方で、ついさっきの冷静な会話はどこか品格を備えていて、そのことが安全だと保証するように感じられて、わずかだけ千雪を平静に戻す。
「だれもいないのか」
 千雪は首を横に振った。ため息が千雪の長い髪のさきをかすかに揺らす。
「どっちなんだ」
「……お父さん……」
 つぶやいた声は届いたのか、応える声はない。
「わかった」
 息をするのがつらいほど沈黙したなか、やっと応じた声は何をわかったというのだろう。若い声は続いた。
「着替えてこい。それと、学校に必要なものを全部バッグか何かに詰めるんだ」
 そうしなければならない意味がわからなくて、千雪はうつむけた顔を上げながら、閉じていた目をゆっくり開く。すると、視界に男の手が入ってきて、千雪はびくっとしながら躰ごと向きを変えて逃げた。といっても、男の正面を避けただけで、手は簡単に届く距離だ。ただ、いつまでたっても千雪に触れることはない。

 おずおずと千雪は振り向いてみた。まともに男――おそらくはさっきの会話から名を建留というのであろう人と目が合う。連れの男性と話すときの丁寧さにも千雪に対しても、喋り方には横柄さが表れていたから、若いといっても二十代後半だと思っていた。実際に雰囲気を見ると想像よりも少し若い。
 わずかに上がった目尻はラインを引いたようにすっと切れていて、鼻は特徴が挙げられないくらい形がいい。一文字型のくちびるは薄いほうだろうか。ショートカットの髪は少しウエーブがかかっていて、甘さとクールさを兼ねている。それらが合わさると、横柄さと違い、無関心に近いすげなさが見えて不思議な印象を受ける。
 千雪がそんな観察をする一方で、対する瞳もつぶさに千雪を見回している。下卑た男と対照的に、その眼差しは千雪への性的な興味はなさそうにしている。が、いったん目につくと気になるのはだれもがそうであるように、目のまえの男もそうだった。

「目は本物?」
 うなずくと、「髪も?」と建留は続けた。
「遺伝です」
 いちばん手っ取り早い解決のひと言を口にすると、建留は首をひねった。驚きよりはどこか納得したような気配を感じる。
 なんだろう。千雪が疑問に思っていると――
「着替え、自分で行けるだろ」
 建留は顎をしゃくってドアの向こうを示した。
 ほんの少しの間、千雪は自分に起きたことを忘れていたかもしれない。建留の言葉にはっとさせられて状況が還(かえ)った。千雪は金縛りに遭ったように建留から目が離せないままうなずいた。
 ドアにもたれた背中を起こすと、建留が立ちあがる。ドアを開けた建留は遠慮もなく、その向こうのダイニングキッチンに入っていった。千雪はよろよろと立ってそのあとに続くと、脇目も振らずダイニングの奥の左側にある自分の部屋に向かった。芳明がどこにいるのか、こんな恰好で対面したくなかった。

 部屋の戸をぴしっと閉めると、千雪は隅っこに行って壁にへばりつくように座りこんだ。着替えるよりもあの男の痕跡を洗い流したい。けれど、もう一人、家のなかには見知らぬ男がいて、そうするには無防備すぎるとわかっている。
 千雪は芳明たちの部屋を仕切る壁を見つめた。音を消すほど分厚くはないのに、壁の向こう側はわずかに声がするだけで静かだ。何を話しているのだろう。声はこもって聞こえ、それが建留の声とは判別できても、なんと云っているのかまでは聞きとれない。
 芳明はあの下卑た男のときとは違い、声を荒げることもなく喋っている様子もない。もしかしたら知り合いだろうか。
 やがて、隣の部屋で戸が閉まる音がした。足音はいったんダイニングを出たようだが、すぐに戻ってきて千雪の部屋のまえで止まる。息を呑んでかまえていると戸がノックされた。ますます息が詰まって縮こまった。

 そして、何分くらいたっただろう、「開けるからな」という言葉と同時に戸が開いた。つい、そこを見やってしまうと、建留は眉をひそめて千雪を見返した。その右手には、玄関に置きっぱなしだった千雪のバッグが握られている。
「着替えは?」
「……あなたが帰ったら――」
「帰るときはきみも一緒だ」
 建留は千雪をさえぎって理解できないことを淡々と告げた。
 会ったばかりで、まだ名は半分しかわからず、素性はさらに不明だ。そんな相手にいそいそとついていくほど、千雪は愚かに見えているのだろうか。乱暴な男がどういった類(たぐ)いの男なのか、おおよそのことは見当がつく。そんな人を怖(おそ)れもせずに追い払える立場のほうがよっぽどわからない。人は見かけに“よる”とは限らないのだ。
「云ってることがわから――」
「きみの母親から頼まれたことだ。聞いてないのか」
 お母さん?
 千雪の口は云いかけたまま、ぽかんとして時間を止めている。そのかわり、頭はフル回転した。
 これまでに味わったことのない怖さに、すっかりどこかに押しやられていたが、病院で麻耶が云ったことに少なからず動揺していたことを思いだす。だからこそ、周りに注意を払えず、男に気づかなくてさっきのようなことになったのだ。

 千雪はいったん口を閉じて、覚悟を決めるように一度こくんと息を呑む。
「あなたは……だれ?」
「加納建留。きみの、従兄だ」
 加納――やはり、麻耶の口から今日はじめて聞かされた名だった。
「……聞いたけど、わたしは知らない人になんてついていかない」
「他人じゃない。血は繋がってる」
「だからって知らない人ってことはかわらない。加納っておじいちゃんがいるっていうことは聞いたけど、建留なんて名前聞いてないし、そういう従兄がいるとしても、それがあなただって証拠はないから」
 それまで傍観者のように冷めてみえた建留が、わずかに気色(けしき)ばんだ気がした。
 しばらくそんな雰囲気を発散して建留は入り口に突っ立っていたが、やがて部屋のなかに一歩踏みだした。反射的に身を縮めた千雪の正面に来ると、建留はおもむろに腰を落とした。
 やや上からの視線は睨(にら)んでいるのかというくらい、しっかりと千雪を見据える。
「頭がいいのか悪いのか、どっちだ。さっきみたいな目にまた遭いたいのか」
 その発言を境に、どちらも譲らないといった沈黙がはびこった。
 声音からは怒った色は見えない。さっきみたいな目に遭いたいとだれが思うだろう。ただ、ここでついていったら千雪の普通が普通じゃなくなることはなんとなく予感した。

 痺れを切らしたのは建留のほうがさきだった。もしくは、無駄な時間に見切りをつけただけなのか。
 建留は勝手に千雪の机を探りだす。小学生になるときに買ってもらった、一万円ぽっきりの小さな机は手狭すぎて、教科書や辞書を並べておくだけで半分のスペースが費やされる。教科書を積みあげた建留は、千雪のスクールバッグをまたもや勝手に開けて次々にしまっていく。
 半ば呆然と、半ば唖然として千雪が見守るなか、押し入れや、タンスがわりのチェストや収納ケースをひととおりチェックすると、建留は予備の制服とか体操服とか、自分が最初に指図したとおり学校に行くのに必要なもののみ選択して机の上に放った。
「三分たったら戻ってくる。着替えてなかったらおれが着替えさせてやる」
 建留は脅し文句を吐いたあと、スクールバッグを持って部屋を出ていった。

 ぴしゃりと戸が閉まってから三分のうち一分くらいは、逃げるのを忘れてすくんでいるうさぎみたいに固まっていたかもしれない。着替えなくて困らせてやろうとか、着替えている途中で戸を開けてきまり悪くさせてやろうとか、一瞬そんな企みがよぎったが、むしろそうしたら自分のほうがばつが悪い思いをさせられるだけだ。
 そんなふうに無謀なことを考えるのも、いろんなことが一度に身に降りかかって混乱しているせいだろう。
 それに、感覚も鈍っている。千雪はチェストを開けるときになって肘を強打したことを思いだした。引きだすのに力を入れると、ぴりっとした感覚が走る。そう自覚すると、側頭部の痛みまでもがぶり返す。手を当ててみれば、少しふくれているように感じた。
 体育は休むべきか、明日のことを早々と考えながら肘の痛みを我慢してチェストを開けた。とたん、千雪は小さく息をつく。何を着たらいいのか迷った。実際は、迷うほど持っているわけでもないからすぐに、春の進級時に買ってもらったばかりのショートパンツと薄手のニットチュニックという、お気に入りの恰好に決めた。
 着替え始めると、やはり痛む右腕が扱いにくい。伴って、ブレザーやひどいことになっているブラウスを目にしたら、ムカムカした嫌悪感が甦(よみがえ)ってきた。ブレザーは幸いにして無傷だが、ブラウスはボタンが飛んだだけではなくて生地が裂けている。
 触られたものを、自分の躰を含めて全部、洗ってしまいたい。そんなヒステリックな気持ちが湧いた。

 ドアが開いたのは完全に着替え終わったときで、三分はとっくにすぎていた気がした。
 建留の目が千雪の頭の天辺(てっぺん)から足の爪先までおりて顔に戻ってくる。よくある恰好だが、合格なのか不合格なのか、淡白な気配とは違って、少なくともまったく関心がないといったふうではない。とはいえ、本当にあの加納家に連れていかれるのなら、家風に相応か否かという関心があっても当然のことだ。不安が増していく。
 建留は再びずかずかと入ってくると、どこからか調達してきた紙袋に、机の上に放った制服からいま脱いだものまで、まとめて無造作に入れた。
「行こう」
 たったそれだけのひと言に脅迫を感じるのは気のせいか、建留はじろりと千雪を見やった。
 加納家に行くだけではなく、違うことを決断させられているように感じて、千雪が返事をするまで少し時間が要った。
 後押ししたのは頭の鈍痛と肘の疼きだ。さっきみたいなことは嫌だと悲鳴をあげている。
 麻耶が退院するまで――そう決めて千雪はうなずいた。

「“行ってきます”とか云わないのか」
 ダイニングと玄関を仕切るドアを越えたところで建留が振り向き、奥の芳明がいるであろう部屋を顎で示した。
「酔っ払ってるから、云ってもお父さんは憶えてない」
 建留がまたじっと千雪を見つめる。何か云いたそうでもなく、言葉を探しているわけでもない。獰猛(どうもう)な獣が毛を逆立てていそうな気配を感じた。
 威嚇(いかく)のためだけという猫の毛なら問題なくても、ヤマアラシのような針毛かもしれないから触れないほうがいい。攻撃してくることはないだろうし、千雪は建留から目を離すことなく鎮(しず)まるのを待った。
「時間のロスだな」
 何をどう処理したのか、建留は出し抜けにくるりと背中を向けた。

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