ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第1章 BAD or LUCK?

3.背中は嫌い

 ついてこいと無言で云い渡す背中を追って外に出ると、スターグレーサファイアの色をした車がいちばんに目に入って、次にその脇に立つ二人の男性に気づいた。千雪を襲った男はどこにも見当たらず、それならば、話はつけられた、らしい。
 二人の男性はどちらもスーツ姿で、そのうちの三十代くらいかと思うほうが近寄ってくる。無表情ながらも丁寧に千雪に向かって一礼をすると、「頼む」と云う建留の手から紙袋を預かって車に戻った。もう一人の男性のほうはさらにひとまわり年がいっていそうで、四十代に見える。こっちから近づくのを待って、千雪へとうなずくように軽く会釈した。
「常井文孝(ふみたか)です。加納家の顧問弁護士をしています」
 弁護士という職業の人に会ったことはないけれど、スーツの襟にはテレビドラマで見たことのある記章がつけられていて、千雪は妙に納得した。ほんの数十分まえ、突然現れて玄関でなされた常井と建留の会話が、他人行儀でありつつ互いに遠慮がないということにも合点がいく。
「須藤千雪です」
「存じています。加納会長がお待ちかねですよ。お困りのことがあれば、遠慮なくおっしゃっていただければと思います」
 常井は、胸ポケットから取りだしたカードサイズのケースから一枚の紙を引きだして千雪に渡した。見てみると名刺だった。麻耶が店で作ってもらったという名刺を見たことがあるが、その薄っぺらさと違い、型押しがあって上等に感じた。
「はい。ありがとうございます」
 常井の口調は穏やかで、建留と話すより気がらくだ。千雪が会釈をすると、常井は笑みを浮かべてうなずいた。

「常井さん、あとはお任せします」
 挨拶が終わるのを待ちくたびれていたかのように建留は口を挟み、常井が「承知しました」と答えるか否かのうちに千雪の背中に手を当てた。
 すると、躰がびくっとふるえた。触られることに慣れていないせいか、ただ嫌な残像の影響で怖いと感じたせいか。
 千雪の反応は伝わったようで、建留の手はすぐ離れた。もしくは、ただ促すためだけだったのかもしれない。荷物を預かった男性が車の後部座席のドアを開けると、千雪に向かい、どうぞと云うかわりに手のひらをすっと車内に向かって流した。
「乗って」
 ためらった千雪を建留が背後から促す。「じいさん専属の運転手、松田だ」と建留は付け加えた。
 千雪は小さくうなずいて車に乗りこんだ。建留はそれを見届けてから反対側にまわり、千雪の隣に乗った。
 車内のインテリアは所々木目調だったり、シートの感触もバスとは全然違っていたりといかにも贅沢なつくりがわかる。建留との間には間仕切りをするようにアームレストがあって、千雪は適度な距離感が確保されて少しほっとした。
 従兄と主張されても、感覚は他人にすぎない。気持ちの大半を占めるのは、見知らぬところへ連れていかれる不安だ。車が動きだしたときは、やっぱり行かないと云いだしそうになったし、走行中は、止めてと何度も口をついて出そうになった。
 加納会長、つまり千雪の祖父だろうが、本当に待ちかねているのだろうか。

「おじいちゃんはいくつ?」
「七十になる。おれは二十四だ」
 建留は千雪が訊こうと思っていたことを先回りした。
「一緒に住んでる? ほかにだれがいるの?」
「一緒に住んでる。じいさん以下、三世代六人だ。二十一の弟が一人いる」

 せめて妹か姉なら安心できただろうに。そう思いながら千雪は内心でため息をついた。
 ほかにもいろいろ訊きたいことはあるが、だれかに――運転手の松田に筒抜けになることを思うと話しにくい。迷っているうちに建留の携帯電話が鳴りだした。
 それから、建留が相手を取っ替え引っ替えしながら携帯電話で仕事の話をしていた間、千雪は独り悶々(もんもん)としていた。沈黙よりは、一方通行のお喋りという雑音があるだけ、いくらかましなのかもしれない。
 首都高速を抜けて明らかに高級な家が並ぶ通りに入ったときは、家を出てから三十分くらいたっていた。モチーフはバラだろうか、花柄という凝ったロートアイアンのフェンスが見えるとまもなくスピードが落ちた。同じアイアン製の門扉のまえに行くと、自動で扉が開き、車は敷地内へと進む。家のまえに広く設けられた駐車場に車は止められる。

 ドアを開けるのに手間取っているうちに松田がやってきて、外から開けてくれた。
「こっちだ」
 千雪がお礼を口にするより早く、建留が命令した。
「荷物を――」
「松田が運ぶ」
 最後まで云わないうちに建留は千雪の意思をはね除けた。千雪は開いたままの口を閉じた。

 この人は常にこういった云い方しかしないのだろうか。そんな苛立ちは言葉にしなくても眼差しが伝えていたかもしれない。建留は云いたいことがあるなら云えばいいというような雰囲気で千雪を見つめる。
 意地でも云わない。そんな気持ちのもと、千雪がじっと見返していると、建留は無言で背中を向けた。
 広い背中は隙だらけに見えるのに、いざ立ち向かっても、さっきのひと言のように簡単にはね除けられるような気がした。
 背中は嫌い。
 千雪は小さくつぶやいた。
 駐車場のスペースから玄関へ、なだらかな勾配(こうばい)で弧を描くアプローチを建留はさっさと歩いていく。
 アパートを出るときの建留は、千雪のことを気にしながらさきを行っていたようだったのに、もう加納家まで来たのだからと、きっと当然ついてくるものと思っている。実際は、千雪の足取りは重たく、ともすれば止まりそうなくらいゆっくりしていて、ふたりの距離はだんだんと開いていくばかりだ。
 友だちの家を訪ねたこともあるが、こんなに大きな家はこれまでなかった。知識はなくても、費用に糸目が付けられていないことは見当がつく。知らない人ばかりの場所に放られるというだけでも萎縮してしまうのに、よけいに場違いだと見せつけた。
 千雪は、せめてここに来るまえにもう一度、麻耶に確かめるべきだったと後悔した。千雪も麻耶も携帯電話を持たないから、すぐには話もできない。

「千雪。――でいいだろう?」
 辛抱強く玄関のまえで待っていた建留は、カメよりも遅く、のろのろとやってきた千雪に呼びかけ、取って付けたように訊ねた。
 千雪は曖昧に首をかしげて答えなかった。それが気に入らないようで、建留は眉をひそめる。
「挨拶くらいはできるな」
 声は平坦だが、返事をしなかったことへの嫌味に聞こえた。
「あなたはうちに来て、入っていいかとは訊かなかったし、挨拶もしなかったし、名前も云わなかった」
 千雪は顎をつんと上げて、ずけずけと挑んだ。
 家を出るまえのように威嚇してみせるかと思ったのに、建留は意外にも笑った。素直におもしろがった笑い方ではなく、くちびるを歪めるというどこか皮肉っぽい表情だが、千雪が拍子抜けするくらい雰囲気がやわらいだように感じた。
「それくらい強気なら大丈夫だろう」
 何が、とは云わなかったが、建留が何かを気にかけていることはわかった。

 千雪の背丈の倍くらい高いスライドドアが開くと、アパートの玄関スペースと段違いに広い三和土(たたき)があった。さきに行けという素振りで建留が顎をしゃくり、千雪はなかに進んだ。奥から足音が聞こえたかと思うと、エプロンをした女性が早足で出てくる。麻耶と同じ年くらいだろうか、彼女はにっこりと千雪に笑顔を向けた。
「こんにちは、千雪さんですね。旦那さまがお待ちです」
「こんにちは」
 旦那さまという、どこか他人行儀な云い方に戸惑っていると――
「家政婦の浅木(あさぎ)さんだ。住み込みで世話してもらってる」
 建留が紹介して、千雪も納得がいく。
 これだけ大きな財産があれば、家政婦がいるのも当然だ。笑顔を向けられて、歓迎してくれる人もいると千雪が安心したのもつかの間だった。礼儀の行き届いた家政婦なら、そんな対応はあたりまえにすぎない。
 浅木はスリッパを出してくれたあと、出てきた部屋に引っこみ、千雪はまた建留についていった。玄関から長く伸びる廊下をまっすぐ進んで、建留は突き当たりの二つドアのうち、右側のドアをノックした。
「入れ」
 唸るような声が応じた。
 建留は「失礼します」とさきに入ると、ドアを支えて千雪を招いた。

「連れてきましたよ」
 建留が千雪の正面から躰をずらすと、ただ一人、ソファに気難しく構えている人が見えた。この人が、加納滋――千雪の祖父なのだ。
 短めにカットした髪は左寄りに分け目があって撫でつけられ、一重なのか奥二重なのか鋭く見える眼光、くちびるは建留と同じで薄めで歪んでいる。太ってはいないがどっかりといった印象を与えられる。全体的に四角いイメージで、いかにも周囲に影響を与えそうな風格だ。
 本当に快く引き受けてくれたのか、無遠慮に千雪を見る眼差しは、品定めしているかのように見えた。
 あんな家でもやっぱり帰りたい。
 後ずさりしたい気持ちに負けそうになったとき――。
「麻耶の云うとおり、そっくりだ。千雪、座りなさい」
 麻耶とそっくりだと云っているのか、その声音には大歓迎とまではいかなくても、なんらかの郷愁を感じた。例えばそれが麻耶への愛情なら、少しは居心地がよくなりそうなのに、命令口調を聞くかぎり“おじいちゃん”という親近感は生まれそうにない。
「はい」
 千雪の返事はつぶやくように小さく、自分で自分を心細くさせた。
「私は加納滋だ。麻耶の父親であり、千雪、おまえの祖父になる」
 滋が自分のことを云いだすと、ついさっき建留に挨拶のことを云われたと思いだして、千雪は慌てて口を開いた。
「こんにちは。須藤千雪です。おじゃまします」
 何が気に入らないのか、滋はわずかに顔をしかめた。
「畏(かしこ)まらなくていい。麻耶は、加納家が性(しょう)に合わず家を出たが、おまえにはなじんでほしい。何も心配することはない」
「……はい」
「建留、部屋に案内してやってくれ」
「わかりました」
「頼むぞ」
 滋は念を押し、建留は音が立つほどのため息をついて「はい」と応じた。

 早く対面が終わったことにはほっとしたが、快くないのは建留なのだと明示されたようで、千雪は不安じみた痞えを覚えた。
 建留が二階に上がって案内したのは、階段口から右に廊下を折れ、左側にあるドアを数えて三番めの部屋だった。
 なかに入ると、まるでこれまでと縁のない雰囲気に迎えられた。欧州風のドールハウスのひと部屋をそのまま再現したような洋室だ。いや、この家自体がドールハウスそのものだと云っていい。
「きみの母親が使っていた部屋だ。おれの部屋は隣」
 建留は、階段からすれば奥のほうを指差した。
 麻耶が使っていたと聞かされてもぴんと来ないし、すぐさまなじめるわけでもない。さっきの建留のため息と一緒で、歓迎されているとも感じない。ただ、汚れていると感じる躰でこの部屋に居座るのは何かを穢(けが)すようで、そうはしたくない気がした。

「お風呂、使わせてもらえる?」
 そう云うと、何か思い当たったように建留は千雪の顔に目を留め、それから下におろしてひととおり躰を巡って戻ってきた。あの男のねっとりした視線のような嫌悪感は湧かないが、同級生の男の子たちの眼差しとは違っている気がした。何か感情が動いているのに抑制している、そんな気配を感じる。千雪が単に意識しすぎているせいか。
 建留はふと窓際のほうから、入り口近くでとどまっている千雪に近寄ってきた。思わず、一歩下がる。すると、建留は何かを思案するようにかすかに目を細めて、中途半端な位置で立ち止まった。
「どこかケガしてないか」
「え?」
「あの男にケガさせられてないか」
 建留が云い直すと、考えもしないで千雪は首を横に振った。
 建留は煩(わずら)わしいとか面倒だとか思っていて、一刻も早く千雪の世話から手を引きたがっているかと思っていたから、こんなふうに気を遣われるのは不意打ちだった。

 建留は小さくため息をついて首をひねる。そして。
「服はそこに用意されてる。全部、千雪のだ。好きに使っていい」
 と、クローゼットだろうか、室内にあるドアを指差した。
「ありがとう」
「風呂は階段の横だ。すぐわかる。洗濯するのはふた付きのかごが置いてあるからそれに入れて、あとは適当に使ってかまわない。なんでもそろってるはずだ。おれは部屋にいるから何かあったら来るといい」
 素直に口にした感謝の言葉は素通りされ、建留はそう云うと部屋を出ていった。
 とたん、心細くなったのはなぜだろう。独りには慣れているのに。

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