ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第1章 BAD or LUCK?

4.加納家の人々

 頼りない自分を追い払うように千雪は頭を振った。すると、頭が鈍くもずきんと疼く。建留にはとっさに否定したが、腕にも痛みが残る。我慢できないほどではないから、数日もすれば治るだろう。
 千雪は下着も用意されているのだろうかと室内のドアを開けてみた。そこはウォークインクローゼットになっていて、建留の部屋に隣接した壁半分を占めている。当面ということだろう、なかはすかすかだった。とはいえ、十着はありそうで、学校に通うときは制服だから、ここにいるのが麻耶の退院までと考えると充分間に合う。下の部分に備えつけられている引き出しを開けると、ちゃんと下着もあった。
 どうりで持ち物を学校のものだけと限定したはずだ。それにしても、麻耶が滋に連絡したのは今日だと云っていたのに準備万端で、もしかしたら即座に整えてくれるほど受け入れられているというしるしかもしれない。そんな期待が安堵感とともに生まれた。

 浴室は脱衣所まで含めると、アパートにある千雪の部屋くらい広い。シャワーでいいと思っていたのに、なかに入れば、パールホワイトの浴槽にはお湯が溜まっていて、かさが増している。床と壁は本物なのか、オレンジ系の色を基調にしたマーブル模様で優雅だ。
 千雪には明らかに不相応で、せめて躰を清潔にしたいと、右肘をかばいながらも必要以上に力を入れて洗った。使い勝手がわからなくて、シャワーを水のまま頭から被ったときは濡れ鼠(ねずみ)のような情けない気分になった。浴槽のお湯は蛇口もないのにどうやって止めるのだろうと焦っていると、溢れるまえに独りでに止まる。そんなシステムも知らない自分をひどくみすぼらしく感じた。

「夕食は七時だ」
 髪まで乾かしたあと浴室から出たとたん、いきなり傍から声がして、千雪は大げさすぎるほどびくっと飛びあがった。
 声とは反対方向に二歩くらい下がったすえ、躰がわずかにのけ反ると、すかさず建留の手が伸びてきた。タオルを持った左手はしっかり胸に引き寄せていたせいか、建留がつかんだのは、よろけた反動で浮いた右腕だった。少しねじれたと思ったとたん、ぴりっとした痛みが走る。
「千雪?」
 痛いと云ったわけでもなく悲鳴をあげたわけでもないのに、異変を察したらしい。建留は探るように問いかけた。が、直後には「大丈夫か」と訊ね直して、千雪がうなずくとすぐに手を離した。
「驚かせて悪かった。明日、学校は何時に行けばいい?」
 建留は意外にも謝罪を口にすると、あっさりと話題を変えた。
「八時」
 うなずいた建留は「朝は送っていく」と云い、それから話をもとに戻した。
「夕食まで一時間ある。みんなそろうから紹介はそのときにと思ってる。家のなかを案内してほしいなら――」
「宿題あるから」
 首を横に振りながら、千雪は建留をさえぎった。
「……わかった。あとで迎えにくる」
 一瞬、黙りこんだあと、建留はそう云って背中を向けた。

 少し建留の雰囲気は軟化して見えて、それなのに千雪の云い方はつっけんどんで怒らせたかもしれない。申しでてくれたのだからお礼くらい云うべきだった。けれど、呼びとめるのもためらわれてそうすることはかなわず、建留が奥の部屋に入るとそっとため息を漏らして、千雪は部屋に戻った。
 どうしたんだろう。
 千雪は自分でも自分らしくないと思う。
 髪と目と、人と違うからという理由だけで囃(はや)されたり、目をつけられたすえ嫌がらせをされたりしたことがある。仲のいい子がいても助けてくれるとは限らず、逃げるかやり返すかの選択肢しかないと知ったのは小学五年生のときだ。どっちも選んだことがあるし、疾(やま)しいなんて思ったこともない。
 そんなふうに相応の状況によって辛辣(しんらつ)になるときを除いて、概(おおむ)ね千雪は物静かだと思われている。目立ちたくなくて、はしゃいだりふざけたりは一切しないから冷めてるという印象が根強く、そもそも近づきになる人は稀少だ。
 建留は、髪にも目にも関心を寄せたものの、それだけで、千雪を傷つけたわけじゃない。冷たいというのではなく冷めた云い方をするけれど、心が凍っているわけでもない。むしろ、雰囲気を変える建留を見ていると、いろんなことを考えている人なんじゃないか――そう思うのに、千雪はかまえたような態度しかとれない。

 部屋に行くと、荷物は入浴中に部屋に運びこまれていたようで、千雪は勉強道具を出して机に着いた。花の彫り物があるクラシカルな机は、状況が違えばわくわくしそうなほど可愛いくても、千雪の気分は晴れない。建留には宿題があると云って、そのとおり勉強しなければいけないのにまったく捗(はかど)らなかった。
 壁に掛かった時計を何度も見ながらすごして、七時まであと十分になったところで千雪は廊下に出た。部屋のなかもそうだったが、廊下は人感知センサーが設置されているみたいだ。歩くと自動的にさきの照明がついて明るくなった。試しに階段のほうへ歩いてみると、その都度さきの照明がともる。舞台の主役みたいな気分になる。子供っぽいと思いながらも千雪はもとの場所に戻るまで楽しんだ。
 部屋のまえで待っているとまもなく、階段のほうから足音が聞こえてくる。建留だろうかと思って見ていると、現れたのは知らない人――男だった。一瞬、数時間まえに逆戻りして、実家にいると勘違いするくらい動悸がした。
 千雪が目を丸くするのと同様、足を止めた男も目を見開いた。建留よりは少し若い。そう判断がついたとたん、弟がいると聞いたことを思いだした。屋内を犯罪者がのさばるほど、加納家の警備が手薄なはずがない。そう信じた。

「へぇ」
 近寄ってきての第一声はそれだった。
 デニムパンツにTシャツというラフな恰好と顔つきを見ると、二十一歳の大学生という見目がぴったりくる。建留の面影が見えなくもないけれど、目は少し大きめ、くちびるは微妙に厚く、建留よりは断然甘さがあって人懐(ひとなつ)っこい印象を受ける。
 それでも、大きく一歩を踏みだせばぶつかりそうなくらい間近に来られると、千雪は無意識で壁に背中をつけて、少しでも距離を保とうとした。
「きみが須藤千雪? 千雪、でいいよな。おれは加納旭人、きみの従兄だってさ」
 旭人は砕けた調子で、他人事のように自己紹介をした。
 もしかして、千雪がそうだったように旭人は今日、会ったこともない従妹がいると知ったのだろうか。それなら、建留はどうだったのだろう。
「……こんばんは。邪魔になるかもしれないけど、たぶん一週間くらいで――」
「一週間?」
 旭人は可笑しそうに首をかしげた。
「……何?」
「んー、せっかくならずっといればいいのにって思ってさ」
 旭人はおもしろがった声で云い、それから不思議そうな面持ちになって、つと千雪に手を伸ばしてきた。
 胸もとに触れそうになった寸前、千雪は左の耳で奥のドアが開く音を聞きつける。
「旭人、帰っ――」
 反射的に千雪が駆けだすのとどっちが早かったのか、建留の声は途切れた。ふたりの間はそう距離があるわけではなく、勢いのあまり、体当たりしそうになったところを建留が抱きとめた。
「旭人、何をした」
 険しい声が飛んだ。

 建留の問いかけに返答はなく、千雪の背後はだれもいないかのようにしんと静まった。
 鼓動が二つ、躰の接点から共鳴してやけに耳につく。意識してしまうと、親密といえる近さに戸惑って、千雪は建留に寄りかかっていた躰をぱっと起こした。しっかり支えていた腕は意外にもするりと簡単に落ちる。思わず見上げると、建留が同じように見下ろしていて、千雪は居心地の悪さにすぐに目を逸らす。
 三人ともが様々な意味合いで面食らっているんじゃないかという、不自然な時間がすぎた。
「へぇ」
 やがて旭人はなんともいえないニュアンスで相づちを打った。からかっているとも取れるし、嘲(あざけ)っているとも取れる。
「旭人」
 ため息混じりの声がたしなめるように廊下に響く。同じように、背中からも大げさなため息が届いた。
「何もしてない。髪がきれいだからさ、思わず触りたくなったってだけだ」
 足音が聞こえ、やがて千雪の横を通ると――
「脅かしてるつもりなかった。悪かったな」
 旭人が傍を通り抜けざま謝罪を口にした。率直さに心なしか千雪もほっとする。
「びっくりしただけ。大丈夫」
 この家に世話になるのだから、心証を悪くはしたくない。そんな気持ちも手伝って、千雪が応えると、すでに、建留の隣にある自分の部屋のドアを開けていた旭人は立ち止まって振り向いた。首をかしげながら可笑しそうに笑う。
「また下でな」
 千雪はこっくりとうなずいた。

 ドアが閉まると、三人のときとは別の気まずさがはびこる。
 躰を離したものの、右手がまだ建留の左腕をつかんだままだと気づいた。
「ごめんなさい」
 手を離すと、建留は気にしているふうではなく、ちょっとだけ首をひねって「行こう」と歩きだした。
「家のなかに犯罪者がいることはない。いまのは弟の旭人だ」
「わかってる。自己紹介してくれたから」
 建留は後ろを来る千雪を振り向いた。
 顔を上げると、ちょっと細めた目が千雪を見下ろした。建留は何か云いたそうに見えたが、結局はそのまま直って階段に向かった。

 階段をおりてほぼ正面にある部屋に入ると、そこは食堂専用の部屋だった。
 十人は優に座れそうな長テーブルが真ん中にあり、食器が並べられている。暖色の照明がぴかぴかの食器に反射して宝石みたいに輝く。品が感じられて、自分には向いていないと身に沁みるようで帰りたくなる。せめてものなぐさめで、ナイフとかフォークではなくお箸が並んでいることにほっとした。
 建留の後ろから顔を覗かせて奥まで見渡すと、千雪たちが一番乗りのようで、だれもいない。左右にドアがあり、右の玄関側のほうから声が漏れてくる。
「こっちだろう」
 建留は声がするほうへ行き、ドアを開けた。
 リビングだろうが、例えばちょっとした美術館とか、イベント館のホールのように呆れるほど広い空間があった。最初に目に入ったテレビは、広い部屋だから大きすぎるという感覚はないけれど、それでも千雪が見たことがないくらい大きい。
 そのテレビを囲むように、これまたばかに大きいソファ群がリビングの中央を陣取っている。そこには悠然とくつろいだ姿がいくつか見受けられたが、千雪を通そうと建留が道を空けたとたん、彼らは背もたれから躰を浮かした。またすぐもとに戻ったけれど、そうしなかったのは祖父の滋だけだ。

「いらっしゃい」
 まず声をかけたのは、三十代半ばだろうかという女性だった。笑った顔は華やかだが、遠慮がちな印象を受けた。歓迎とは云わないまでも、迎え入れる気持ちは感じられる。
「須藤千雪です。お世話になります」
 気後れしながらも、だれともなく加納家の面々に会釈をした。
「母だ」
「華世よ。よろしくね」
 千雪は、建留のあとを継いだ華世をまじまじと見た。建留の年齢を考えると少なくとも四十代のはずだ。繊細に感じさせる美貌は確かに建留に遺伝している。
「建留の父親の孝志だ。きみの伯父になる」
 ため息混じりで『になる』という云い方をされると、なりたくてなったわけじゃないという言葉が付加されているように聞こえる。
 次は、順番からいくと、ソファの真ん中に座り、興味津々で千雪を見つめている女性だが、建留が手で示したのはその奥に座っている女性だった。おそらく滋の妻であり千雪の祖母で、年齢は六十代と見当をつけた。すっと背筋を伸ばした雰囲気は祖母を若く見せる。
「祖母だ」
「茅乃よ」
 麻耶が加納家のことを一切明かさなかった理由はなんだろうと考えている。その要因の一つは、茅乃との不和だろうか。それほど、つんとした、ごくごく端的な自己紹介だった。
 まず気にかかった髪は、白よりも銀に近い色に落ちていて、所々に昔の名残だろうかストロベリーブロンドのような色が混じる。瞳は、千雪のところからは判別がつかなくて、隣に座る滋と大して変わらないように見えた。

 そして、最後の紹介になった女性が立ちあがった。
 ふわふわとルーズにカールした肩までの髪型がぴったりという、うらやましくなる顔立ちだ。綺麗だが、その言葉よりも可愛いというほうが合っていて、だれからも無条件で愛されるタイプに思えた。
 建留と年はあまりかわらなさそうだが、姉妹がいるとは云わなかった。どういう人なのだろうと千雪が思っていると――
「わたしは小泉瑠依よ。父は業平不動産のいまの社長。加納のおじいさまのあとを継いでから、家族ぐるみのお付き合いなの」
 瑠依は自ら関係を話してくれた。
「お付き合い、じゃなくて、家族じゃないかってくらいずうずうしいけどな」
 横槍を入れたのは旭人だ。千雪の後ろから現れた。
「加納家のほうが居心地いいから」
 瑠依は惚(とぼ)けた様で目をくるりとさせる。
「千雪さん、洋服、見た? 建留に云われて今日、急いで選んできたんだけど。千雪さんの雰囲気だと、ちょっと大人っぽかったかな。建留の従妹だからって勝手に想像してたの。でも、高校生の頃って背伸びしたがるし、ちょうどいいわよね」
 どう? と云うように瑠依は首をかしげて見せた。
「あ、まだよく見てなくて。でも、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 そして、瑠依はとうとつに近寄ってきた。
「すごくきれいな髪ね。どこでカラーしてるの? 目はカラーコンタクト?」
 まじまじといったふうに瑠依は千雪の顔辺りを見回した。
「あ――」
「ほら、夕飯だわ。瑠依ちゃん、わたしを案内してちょうだい」
 千雪が応えようとした矢先、茅乃が口を挟んだ。

 瑠依は千雪の背後に目を向け、軽やかに食器の音が立つ食堂を見やった。
「あ、ほんと。じゃあ、おばあさま、行きましょ」
 ソファに戻った瑠依は茅乃が立つのを待って、食堂へとお供をする。
「今日はお刺身こんにゃくがあるの。瑠依ちゃんも好きだったわよね」
「そうなの。うれしい。お味噌で食べるのって特に好き」
「わたしもよ。浅木さん、ゆず味噌もつくってみたらしいわ……」
 千雪の傍を通るときも、茅乃は目を合わせることなく、お喋りをしながら瑠依を伴って通りすぎる。
 茅乃の瑠依に対する扱いは実の孫よりも孫らしく見え、瑠依もまたその役割にぴったりの振る舞いをしている。
 初対面だから、千雪にとってそうであるように、茅乃の扱いが他人同然でもしかたがない。
 ただ、祖母がいちばんの千雪の理解者になってくれるのではないかと思っていただけに、虚しいような思いがした。
 瑠依たちがいなくなると、目のやり場に困るような気配を感じた。
 息が詰まりそうで何気なく隣を見上げると、建留は一点を見つめていて、その表情はこわばっている。視線をたどるとそのさきには滋がいる。その滋は、建留から千雪へと目を転じる。
「行きなさい。遠慮することはない」
「行こう」
 滋に次いで建留が促した。

 その後の夕食は、どれも美味しいけれど、とても“いける”とはいかなかった。
 会話はあっても千雪は入りこめなかったし、かといって、学校のことを訊かれてもぶつ切りの答えで終わってしまう。
 隣にいる建留が、醤油がほしいと思えば取ってくれたりと、気をまわしてくれて食べるのに戸惑うことはなかったものの、居心地の悪さに我慢できなくなり、だれにともなく「ごめんなさい」と唐突(とうとつ)につぶやいて席を立った。
 帰りたい。
 部屋に戻ったとたん、無意識に口をついて出た。
 加納家はまったくの他人ではないのに、独りということがいやにクローズアップした。



 部屋に引きあげるまえ、建留は滋から応接間に呼ばれ、千雪のことに関して心積もりを聞かされた。
 あの父親のもとにいることは、けして最良とは思えない。
 今日のことはそれどころか確かに最悪だった。間に合わなかったらと思うとぞっとする。千雪が従妹でなくても、だ。
 千雪は最悪の事態を避けたというのに、怯(おび)えたすえ、突飛な反応をする。
 親がいると云えるのかどうかわからないような家に残すよりも、ここにいたほうがいい。
 ただし、それと、いま聞かされたことは別次元のことで、納得のいくものではない。
「意味がわかりませんね」
「建留」
 滋が呼びとめるも、建留はめずらしく苛立ちという感情に任せ、無視して応接間を出た。

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