ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第2章 迷子のドール

1.独りぼっち

 学校の正門が見えるとまもなく、そこから手前のほうで車は止まった。正門を軸にすると駅とは反対方面の側で、送迎が目立つことなくすんで千雪はほっとした。
「ありがとう」
「何時に終わる?」
 ドアを開けようとすると、ギアをパーキングに切り替えながら建留が問いかけた。
「課外あるから五時」
「ケータイは?」
 うなずいた建留はセンターボックスに置いた携帯電話を取ってから、千雪に目を向ける。ちょっとした近さにいまさら気づいた。慌てた気持ちを隠すようにいったん目を伏せ、それから建留を見て首をかしげた。
「ケータイ?」
「念のため、番号を教えてくれ。帰り、迎えにくる。おれがダメなときは旭人に行かせる」
「持ってないから」
 千雪は首をすくめて、「駅を教えてくれたら電車で帰れるし」と適当にあしらった。
「駅まで来れたとしても、そこからさきはわからないだろう。今日の帰り、ちゃんと教える」
「……わかった。迎えもここでいい?」
「ああ。出るのはちょっと待ってろ」
 何かと思えば、建留は車を降りてフロントをまわりこんで助手席側に来た。一台の車が通りすぎたあと、ドアが開けられた。
「ありがとう。じゃあ」
 左ハンドルだから助手席は道路側になる。気を遣ったのだろう。お礼を云うと――
「いってきます、だろう」
 聞き咎(とが)めた建留は、深く息をついて正した。
「いってきます」
 いってらっしゃいという言葉のかわりに建留はうなずいた。

 車をまわって歩道を歩き始めると、千雪はため息を一つ吐きだした。やっと普通に息ができる。
「千雪」
 十歩も歩かないうちに建留が呼びとめた。近づいてきて、「これ、持ってろ。おれのだ」と千雪に差しだされたのは携帯電話だった。
 千雪は横に首を振りながら、建留を見上げた。
「使い方はわからないし、学校はケータイの持ち込みが禁止されてるの」
「例外もあっていいだろ。サイレントモードにしてるからなんの音も出ない」
 建留は、「これが会社のほうのおれ専用のケータイ番号だ」と画面を見せて云ったあと、電話の受け方とかけ方を教えた。
「何かあれば電話していい。出なくても着信が残るし、あとからかけ直す」
 強引に携帯電話を千雪の手のひらに押しつけると、返す間も与えず、建留はさっさと車に引き返す。運転席に乗りこんでちらりと千雪を向いたあと、建留は車を発進させた。

 千雪はもう加納家に戻るつもりはなかった。そう建留は気づいたから、こんなことをしたのかと勘繰(かんぐ)ってしまう。
 遠ざかる車から、手にした携帯電話へと目を落とし、千雪は再びため息をつくと鞄の奥底にしまった。
 建留は素っ気ない口調ながらも何かと世話をやく。
 無礼だとは思いながらも早めに夕食を切りあげた昨日、ずいぶん時間がたって建留は部屋に現れた。ヘルパーの浅木が洗面道具を一式くれたり、食事の時間など、加納家の決まり事を教えてくれたりしたあとだった。
 千雪がそう云うと、建留はベッドヘッドのスイッチを触って照明の落とし方を説明し、さっきみたいに何かあれば呼んでくれと云っただけで出ていった。
 その後、慣れないベッドと、何よりも環境が変わって緊張していること、それらが相まって寝付くまでには時間がかかった。夜中、部屋のドアが開いたのは何時だっただろう、息を止めているのが限界に近づいた頃、また閉じられた。
 入り口には背中を向けていたし、だれだかはまったくわからなかったけれど、千雪は建留だと直感した。心なしか力強いような気分になって、ようやく眠れた。
 帰りたい、という気持ちが、一週間だから、という気持ちに変わった。
 けれど、それはつかの間だった。
 今朝の食事は、決められた時間に建留が呼びにきて食堂に行った。家族だけの食事というのは、千雪がいるからだろうかと気遣ってしまうくらい、瑠依がいるときよりよそよそしい感じがして好きになれなかった。
 だから、今日は家に帰る、とそう決めた。
 課外は受けずに、まずは麻耶のところに行って、加納家で暮らすのは無理だと訴えるのだ。
 千雪が学校にいないとわかれば家にいると思うだろうし、携帯電話は建留がやってきたときに返せばいい。

「千雪!」
 正門の方向から声がした。うつむき加減だった視線を上げると、仲良くしている同級生の佐田栞里(さたしおり)だった。
「栞里、おはよ」
「おはよ。さっきのだれ? まさかカレシってことはないよね。聞いてないし!」
 栞里は、カレシと云ったら許さないといった気配で千雪を問いつめた。
「違うよ」
「じゃあ、だれなの。ちらっと見えただけだけど、イイ男っぽかったし、車は外車だったよ?」
 栞里は焦れったそうに疑問を並べた。
「教室、行くよ。あの人は、従兄、なんだって」
 千雪が面倒くさそうにしても、栞里に引くつもりは毛頭ないらしく、歩き始めた千雪のまえにまわりこむ。
「……何、他人行儀な云い方だけど?」
「だって、昨日まで名前も存在も知らない他人だったから。お母さんが倒れたって云ったでしょ。ヘンにわたしのこと心配して、お金持ちの親戚を紹介してくれたの。昨日はそこにお世話になってた。でも、わたしには合わないよ。お母さんが帰るまでお世話になるつもりだったけど、やっぱり家に帰る。これでいい?」
 千雪が一気に説明すると、栞里は気圧(けお)されたように顔を引く。
「……ああ、うん……わかった」
 納得したひと言を並べた栞里が、「なんかもったいない感じするけど」とつぶやいたのは無視した。


 いつもと変わらない日課を終えた夕方、課外をエスケープして学校を出ると、まっすぐ病院に向かった。
 病室を訪ねると、麻耶の姿はなかった。ベッドはきれいなシーツに変えられ、ふとんも枕もない。検査とかお手洗いで不在なわけではない。千雪はそうとっさに察した。
 ベッドサイドの収納棚に置いてあった麻耶の私物が一切なくなっている。引き出しを開けてみたが、どの棚も空っぽだった。
「あら、須藤さんの娘さん?」
 振り向くと、麻耶を一度担当してくれた看護師がいた。そのとき話したきりなのに千雪を憶えていたのは、やはりこの髪のせいだろうか。人と違うことが役に立つこともあるのだと、このときはじめて思いながら千雪は看護師に訊ねた。
「お母さん……母は退院したんですか。来週って聞いてたんですけど」
「あら。お母さん、云い忘れたのかしら。午前中に退院されたのよ」
 嫌な予測がついて、千雪はつかの間、呆然となった。
「須藤さん?」
「ありがとうございます」
 不思議そうに呼びかけた看護師に一礼すると、千雪は病院をあとにした。

 おじいさんのところに行きなさい。その言葉がリフレインする。
 急いで――といってもバスに頼るしかなかったが、焦る気持ちは増していくばかりで、バス停に着いて降りるなり、千雪はアパートに向かって駆けだした。
 一夜にしてアパートがなくなるはずはない。
 けれど。
 アパートのドアは、千雪の持っている鍵では開けることがかなわなかった。
 アパート名を確かめたり、部屋番号を確かめたり、無駄だとわかっていながらもそうせずにはいられなかった。何度、鍵を試しても鍵穴には入りもしない。
 いつ――それは昨日の夕方からついさっきまでの時間に限られ、何があったのか――それは引っ越しにほかならず、その二つのことを訊ねるにも千雪がそうできる人はいない。アパートの住人は、会釈する程度の顔見知りはいるけれど、どうかすると、何年もまえから住んでいる気配はあっても見たことがないという人もいる。隅っこの部屋だからよけいだ。そもそもが須藤家は社交的ではなく、両親すら親しい人はいなかったのではないだろうか。
 独りぼっちという思いはもとからあったが、こんなふうに徹底的に感じたことはない。
 いまにも切れそうに繋がっていた須藤家だったけれど、親子という最後の糸は、他人はもちろん、自分たちが離れ離れになってさえも切ることのできないものだと思っていた。
 それをだれが引き裂くのだろう。
 麻耶? それとも。
 置いてきぼりにされて、これからどこに行けばいいんだろう。

 千雪はしばらく頭がまわらなくて途方にくれていた。時間がたつと麻耶が勤める美容室のことを思いだした。少し希望を持って歩きだす。すると、バス停が見えたとたん、足は止まった。
 お金、持ってなかった……。
 現実的な問題に気づいて内心でつぶやく。朝まで持っていた千円ちょっとのお金は、学食代とバス代に使ってしまい、もうバスも乗れないほど残りわずかになっている。念のため、制服のポケットと鞄のなかをすべて探ってみたものの、どこにも転がっていない。
 かわりに、すっかり忘れていた携帯電話を見つけだす。
 当たり散らしたい気持ちが湧く。
 傍を通りすぎる人がちらりと千雪を見やり、不審そうにする。歩道の途中で立ち尽くした千雪はアパートへと引き返した。
 そして、もう一度、と鍵を試したけれどドアは千雪を拒絶した。
 自分がここに本当に住んでいたのか。もしかしたら、学校から帰るまでの間に自分だけパラレルワールドに紛れこんでしまったのかもしれない。そんな非現実的なことを疑ってしまうほど心もとない。

 手にした携帯電話が現実を確かめる術(すべ)になっている。万が一、繋がらないことを考えると――ばかげているが、建留に電話をする気にはなれなかった。
 荷物を抱えた左の腕も痺れてくる。右に抱え直そうとしたとたん、ずきんとした痛みが走る。ふとした拍子に痛むことを忘れていた。今日、学校の養護の先生に診せて、湿布薬を貼ってもらった。鞄を地面におろして、制服の上から触れてみると、腫(は)れているようにも感じる。養護の先生の云うとおり、病院に行くべきなのか。助言してくれる麻耶はいない。
 字も書けるし、ごはんも食べられるから、気づいたときはよくなっていたということになるだろう。
 こんなことも、自分で考えていかなければならない。独りでもやっていけると簡単に覚悟していたけれど、たったこれだけのことにこれほど心細くなることが、もっと千雪を心細くさせた。
 そのまま気力が尽きて突っ立っていると、二階から足音とともに携帯電話のものらしい音楽が流れてくる。アパートの住人でもセールスマンでもだれであっても顔を合わせたくはない。千雪はアパートの壁と塀のすき間に入った。
 本当に千雪にはどこにも行く当てがないのだと身に沁みる。

 頭では結果がわかっているが、千雪は美容室に電話をかけてみた。麻耶も含め四人でやっている美容室だが、幸いにして電話に出たのは知った声だった。オーナーが美容室の名を軽快に口にする。
「須藤です。こんにちは」
『あ、千雪ちゃん?』
「はい。あの、母は来てますか」
『お昼くらいに挨拶に来たわよ。倒れたかと思ったら、やめるなんて。休養して続けてほしいって云ったんだけど、遠くに引っ越すから無理だって。どこに行くの? 教えてくれなかったのよ。千雪ちゃんも転校するの?』
 逆に訊ねられたが、千雪が答えられることはない。
「あ、いえ。ありがとうございました」
 こんなに人は簡単に跡形もなく消えられるものだろうか。
 千雪のものもなくなってしまった。いっそのこと、千雪自身が消えたい。

 通話を断ってしまうと、無性に何かを壊したくなった。生まれも育ちもいい、もしくはよすぎる建留の雰囲気に似合った、上品なメタリックブラウンの携帯電話に当たり散らせば――そんな衝動のもと、目のまえの壁に向かって、千雪は携帯電話を持った手を振りあげた。
「投げたら器物損害罪で逮捕だ」
 淡々とした声が千雪の手を止めた。
「どうせ、行くところないから、ケーサツ行ってちょうどいいかも!」
 建留があまりにも無機質に見え、本気で投げつけるつもりはなかったにもかかわらず、千雪は向こう見ずに歯向かった。
「行くところはあるだろう」
 極めて冷静に云い、建留は携帯電話を戻すよう云うかわりに手を差しだした。その云い方は、行き先が加納家ということを示唆(しさ)する。
「知ってたの?」
「納得したわけじゃない」
 なんのことか云わないでも建留が千雪の疑問を察したのは、それだけで知っていたことを示し、おまけに否定しなかったことが決定づけた。
 違う、はじめから、知らないはずがない。
 ばかみたいに上げたままにしていた手に本気を込めた刹那、素早く千雪の右肘がつかまれた。
「――。痛いっ」
 痛みに息を詰めた一瞬ののち、千雪は悲鳴をあげた。
 手から落ちた携帯電話は、千雪よりもひとまわり大きい手のひらがすくう。同時に、「千雪?」と怪訝にした声が名を呼ぶ。千雪にではなく、何か当てを探して自分に問いかけているようだ。
「千雪、昨日のせいか?」
 建留は考えこむような声音で訊ね、腕をかばうようにして背中を丸めた千雪を覗きこむ。
「……たぶん。学校で湿布してもらったし、すぐ治る――」
「なぜ云わないんだ」
 苛立った声が千雪を責める。
「だから、すぐ治ると思ったから」
「病院に行こう」
「大したことない」
「――のわりに、昨日からずっと痛がっている。少なくとも、診せて具合が悪くなることはない」
「でも、保険証ない」
「あとで持ってくるって云えばいい。緊急だ」
 抵抗は呆気なく退けられた。

 建留は地面に置いた千雪の鞄を持つと、「行こう」と促してさっさと背中を向ける。広い背中を見ていると、ついていく気がますます失せる。動かない千雪に気づいたのか、すぐ建留は足を止め、それから振り向いた。
 古ぼけた街を背景にして立つ姿は、場違いなようでいて、ずるいくらいに溶けこむ器用さを持ち合わせて見えた。
 建留は身動ぎせず、ただ無言で待っている。千雪に行く場所がないと知っているせいで、どうせ来るだろう、と疑っていない。
 意地でも、という気持ちはあるけれど、じっと見つめられて安心するのはなぜだろう。
 千雪が一歩を踏みだすと、建留は即座に背を向けた。それが嫌で、千雪は駆けて建留の横に並んだ。

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