ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第2章 迷子のドール

2.権利

 建留は、加納家が何かの折に世話になるという整形外科に千雪を連れていった。
 受付時間ぎりぎりに間に合って、レントゲンを撮ったり、少し腫れた部分を圧迫されたりと診てもらった結果、軽い捻挫(ねんざ)と診断された。完治までには一カ月くらいかかるというが、ネット包帯で湿布を固定してもらい、あとはなるべく動かさないようにと云われただけですんだ。
 ほっとしたのはつかの間、建留の、帰るぞ、という言葉を聞いたとたん、憂うつと説明できないわだかまりがぶり返した。
 建留の車のなかは音楽もラジオもなく無音で、エンジン音もバスに慣れた千雪からは考えられないくらい静かだ。旭人はもう少しお喋りに乗りそうだが、建留は心(しん)から億劫(おっくう)そうだ。千雪が最初に持ったそんな印象を証明するように建留は喋らず、千雪までが押し黙っているから車内はむっつりとした気配に満ちた。

「居心地は悪いかもしれない。けど、千雪にはここにいる権利がある。だれにも気兼ねすることはない」
 加納家の敷地に車を止め、エンジンを切るなり建留は云った。
 昨日、麻耶から千雪の権利を取りあげていると聞かされたばかりだ。なぜふたりともが同じことを千雪に云うのだろう。
「わたしの権利って何?」
 車のドアを開けかけていた建留の手が止まって、千雪を振り向いた。しばらくじっと千雪を見たあと、建留は口を開いた。
「……加納家の人間であることだ」
「でも、……」
 云いかけてやめ、千雪は車を降りた。
「千雪」
 続いて降りた建留が呼びとめるも、千雪は振り向くことなく歩く。アプローチの途中で建留が追いついてきた。

「千雪の鍵だ」
 建留は手を差しだした。千雪が足を止めると建留も立ち止まる。建留の手にあるのはアパートの鍵とはまったく形状が違う。USBメモリのような形をした鍵だ。一個だけボタンがついている。
「これが鍵?」
「ああ。何もしなくていい。鞄のなかに入れていても大丈夫だ。玄関に近づくと開くから。試してみる?」
 千雪はしばらくしたのち、うなずいた。気が進まないのは、アパートで何度も鍵を試したことを思いだしたからだ。
「行っていい。かなり近づかないと開かないから」
 建留を残して千雪は玄関に向かった。かなり、というのは大げさでもなんでもなく、玄関のまえに立つまで反応しなかった。鈍く解錠される音が鳴る。ちょっとためらってから取っ手を握ると、想像していたより意外に軽くスライドした。
 千雪は手軽さに感心するよりも、扉が開いたことに安堵した。
「なかに入ってドアを閉めると自動的に鍵がかかる。鍵はなくさないようにしろ」
 建留はそう忠告して、千雪の背中を押す。

 閉めだされた経験をすると、勝手に出入りできる場所があることにひどく安心する。鍵一つで建留は千雪の気分を少し浮上させた。建留は何も知らなくて、だからただの偶然だろうけれど、ずるいと思った。
 ありがとう――そう云いたかったのに云えなかった。

 部屋に行くと、千雪はあらためて室内を一巡した。
 昨日ここに来たときは、麻耶が退院するまでの緊急避難だと思っていた。麻耶が加納家に行くよう云ったことは、退院してからのことだと思っていた。
 麻耶たちはどこに行ったのだろう。
 行くところはある――建留は千雪に云って、鍵ももらったしそのとおりだが、帰る場所とは違う。
 麻耶が何をしたか、あるいは麻耶と何があったのか、加納家の人と麻耶の間になんらかの深刻なわだかまりがあるのは確かだ。麻耶がこれまで加納家のことをひと言も話さなかったこと、加納家の人が麻耶のことをひと言も訊ねなかったこと。それらが証明している。昨夜も今朝も、一度も彼らの口から麻耶の名は出なかった。
 そんなことを考えていると、建留がもたらした鍵の効力はすぐに切れてしまった。
 千雪には不似合いな部屋を眺めているうちにドアがノックされる。「はい」と応じると、すぐ傍のドアが開いた。建留だった。

 制服から着替えてもいなければ、鞄も持ったままという千雪を見て、建留は睨むように目を細める。
「どうした」
 顔に浮かぶ険しさと違って、声は穏やかに聞こえる。
 千雪は返事のかわりに曖昧に首を横に振った。
「下に行く。説明してもらいたいだろう?」
「聞いても戻れないってわかってるから」
 千雪はどっちつかずの返事をして建留から目を背けた。
「置き去りにされたわけじゃない。行こう」
 建留は左の肩にかけた鞄を奪うと床に放った。左手をつかむと、部屋から強引に千雪を連れだす。滋とはじめて対面した応接間に引っ張られていった。
 なかに入れば、昨日と同じ位置で滋が待っていた。

「座りなさい」
 やはり昨日と同じ指示があって、ひょっとしてここでは滋が許可するまで座ってはいけないのだろうかと思った。
 昨日と違うのは、建留の座り方が少しだけ乱暴に見えたことだ。
「思い立ったが吉日、ですか」
 おまけに口調もつっけんどんに聞こえた。
「強引だったことは認める。だが、麻耶の意向でもあるのだ」
 滋は渋々といった云い方をして深く息をついた。
「いくらそうだとしても、自分で生活すらできない高校生に強(し)いることじゃない。こんな形でなくても援助のやり方ならほかにもある」
「麻耶が聞かんのだ」
 滋は険しい声で云い、「千雪」と建留から千雪へと目を転じた。
「麻耶は違う病院に移って治療を受けている。心配はいらない。至れり尽くせりの病院を用意した。あの男も入院させている」
 麻耶の名を口にするときと違い、『あの男』には侮蔑のような不快感が見えた。
「……入院?」
「アルコール中毒の治療だ。専門の病院に入れた。しばらく離れれば……」
 千雪の疑問に答えたあと、滋は云いかけてやめた。
「お母さんの病院はどこですか」
「千雪、おまえが加納家になじむこと、それが麻耶の希望だ。それまで居所は教えられん。ここでは金の心配をすることもなく、おまえは何不自由なくすごせる」
 それが権利?
 権利と麻耶と会えないこと、千雪がその二つを引き換えにできると思っているとしたら、到底、自分が加納家になじむなんて考えられない。
「わたしは……」
 思いがけず声がふるえていることに気づいて、千雪はいったん言葉を切った。のどの奥から込みあげそうな塊(かたまり)を呑み下し、千雪は再び口を開いた。
「わたしは権利なんていらない」
 千雪の宣言はやけに応接間の空気に染みこんだ。拒絶という意思もなければ、小癪(こしゃく)だという苛立ちもなく、然るべきものとして受けとめられたような気配だ。
「千雪、私はおまえの可能性を広げたいと思っているだけだ」
 滋は諭した口調で云い、千雪を見据えながら続けた。
「麻耶には基礎となる道標さえ立ててやれなかった。その結果がいまだ。あの男と……」

 滋が悔やんだすえ、はがゆさを含んで尻切れトンボにした言葉はなんだろう。
 結婚しなければ。もしくは、もっと遡(さかのぼ)って、出会わなければ。そんな言葉がしっくりくる。そのまえに滋が云いかけて発しなかった言葉も、照らし合わせれば見当がつきそうな気がした。

 滋は気分を入れ替えるかのように首を横に振った。
「麻耶もわかっているからこそ、私に連絡をくれたのだ。付き合う人間によって環境はまったく違ってくる。自ずと自分のレベルに見合った人間が寄ってくるからだ。ならば、自分のレベルを上げることで付き合う人間も変わるだろう。千雪、おまえには加納の人間として、最低限の教育を受けさせる」
「お父さんは最低限未満?」
 麻耶が芳明と出会わなかったら千雪は生まれていない。それをまったく度外視して、どうして結婚なんかしたのだろうという疑問は千雪にもある。芳明は嫌いだ。働かないくせにお酒ばかり飲んで、麻耶を大事にしない。お父さんなんて出ていけばいいという気持ちはいつもあったのに、いまの云い方は自分でも思いがけないほど反抗的で、まるで滋の揚げ足を取った。
「わたしはお父さんの子だし、おんなじ――」
「おまえは私の孫だ」
 滋は、それしか事実はないと云わんばかりに千雪をさえぎった。
 他人としか思えない加納家で、滋は居場所を保証してくれると心強く思っていいのか、自分の半分が否定されたと取るべきなのか、千雪には判断がつかない。
「千雪、私は七十になる。そう時間が残っているわけではない。せいぜい、おまえの前途をお膳立てすることしかできんのだ。この家で遠慮する必要はない。困ったことがあれば私でも建留でもいい。相談に乗る」
 滋は建留を見やり、無言で返事を求める。
「何度も云われなくてもわかってる。千雪、行こう」
 それまで黙って立ち会っていた建留は刃向かうような様で云い、千雪を連れて応接間を引きあげた。

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