ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第2章 迷子のドール

3.条件

 それからまもなくの夕食は、ショッキングな出来事が二日も続いてもともと食欲がないのに、輪をかけて今朝と同じ息の詰まるような食事だった。
 二階には浴室もパウダールームもあるから、顔を合わせるのが食事のときだけでいいというのはせめてもの救いだ。
 千雪は建留に勧められるまま、いちばんに入浴をすませて部屋に戻るとベッドに腰かけた。新しい湿布を貼るだけのことに手間取って苛々する。けれど、苛々の本当の原因は環境の変化のせいだとわかっている。
 麻耶と連絡が取れない以上、生活していくには当面、加納家に世話になるしかないのだ。ただし、麻耶が望んでいるという“なじむ”など想像できない。
 麻耶はこの家になじめなかったという。それは、加納家の面々を見ているとわかるような気がした。どんなに生活に困っていても笑顔の多かった麻耶、こんなに優雅にすごしていても笑い声とは縁がなさそうな彼ら、二つの場景はまったく対照的だ。
 自分がなじめなかったくせに、麻耶はなぜこんなふうに千雪のまえからいなくなる必要があったのだろう。病院での会話を思い返しても、そこまでの意思を理解できる材料はない。

 しばらく考えこみ、ふと、まさか――という考えがよぎったとき、ドアがノックされた。
 千雪が返事をすると、建留が室内に入ってきた。いまのところ、千雪を訪ねてくるのは建留とヘルパーの浅井しかいない。
「湿布――」
「お母さんはほんとに大丈夫なの?」
 建留をさえぎると、何か考慮した眼差しが向かってくる。急所を突かれたように固まって見えた。すぐに答えのないことが答えのような気がして、再び千雪が口を開きかけると、建留はため息をついて制した。
「大丈夫だ。じいさんの云うことを信用していい。一週間もすれば退院できるって状態だ」
 建留の説明は麻耶が云っていたことと一致する。
 建留は嘘を吐かない。本能という極めて曖昧なものを根拠にして千雪はそう思ったかもしれない。
 ほんの傍に来た建留を見上げた。
「退院したら?」
「療養を兼ねて入院は長引かせるつもりらしい。そのあともじいさんがフォローするし、お母さんのことは心配ない」
「お母さん、ここに住んじゃだめなの? どうせ援助するなら――」
「そうするには条件がつく」
 今度は建留が最後まで云わせなかった。
「条件?」
「きみの母親だけなら受け入れる」

 わかるだろう? とその問いかけは省略したかわりに、建留はわずかに首をひねる。そのとおり、ちょっと考えればわかることだった。いまの建留の口ぶりは、母親なら、けれど、父親は――そんな滋の意思だけではなく、建留自身の意思も潜んでいるような気がした。
 そんな条件がつくのなら、麻耶自らがほのめかしていたように、ここで一緒に暮らすことは叶わない。麻耶はどんなにがらくたな人間でも、芳明を見捨てることはしないだろう。だから麻耶のことが好きで、だから芳明が嫌いだ。

「アル中は薬物中毒と同じだ。治すには時間がかかるし、完治するには、酒を飲まないっていう強い意志が必要になる。一滴でも酒を口にしたら元の木阿弥(もくあみ)だ。厳密にいえば、完治というのはないかもしれない。死ぬまで誘惑と闘い続けることになる。治療はフォローする。けど、そこまでだ」
 建留からは毛嫌いしているというのが滲みでていている。
「まえにお父さんとお母さんに会ったことあるの?」
「お父さんとは昨日がはじめてだ。お母さんとは、おれが憶えているかぎりで小学生のときに一度会ったことがある」
 建留は話を切りあげたがっている。そう感じた。千雪の面倒は見ても、ほかの家族と同様、麻耶のことには触れたくないのだ。
 千雪が同居することに積極的なのは滋だけだろう。麻耶を加納家の人間と位置づけるのも。芳明のことは排除するのに、会ったこともない千雪を自分の孫というだけで滋は迎え入れた。それだけ麻耶のことを配慮した気持ちがあるからのはずだ。
 建留はすぐ傍で腰を落とした。これまでと逆転して建留のほうが千雪を見上げてくる。

「湿布、自分でできたらしいな。テープはぐしゃぐしゃになってるけど。包帯してやる」
 建留は手を出して催促した。
 千雪は脇に置いていたネット包帯を渡す。何気ない動作のはずが、手が触れたとたん、びくっと反応してしまった。素早く引っこめた――つもりが、千雪の左手首が建留の手につかまった。
「……触られるのが怖いのか?」
 そう訊ねる建留自身のほうが怖い気がした。
「怖く、ない。ただの条件反射」
「何が条件だ?」
 なんのためか建留はしつこく、まるで云いがかりといった質問を返す。
 怖いという言葉がなぜ出てくるのかよくわからない。実際に千雪が感じているのは当惑だ。鼓動が自分勝手に驚いてしまった。
「……じゃあ、ただの反射」
 建留が滋に対して不満を示したのと同じくらい、千雪はつっけんどんに切り返した。

 見下ろした目が狭(せば)まったのは気に喰わないという気持ちの表れだと思ったのに、直後には、片方だけ口角を上げて、呆れたのかおもしろがったのか、皮肉っぽくはあったけれど笑みを浮かべた。
 昨日、千雪に指図するときは従って当然という云い方だったし、あの野蛮という言葉がぴったりくる男を追い払う建留は尊大に見えた。出だしが異常なことを差し引いても、淡々としていそうな印象を受けた。
 けれど、昨日もそうだったが、癪に障るといったささやかな千雪の抵抗は笑ってすまされた。拍子抜けしたうえ、すぐに消えてしまうと、物足りなさが残る。

「手、伸ばして」
 建留は云いながらネット包帯を千雪の右手にくぐらせる。
 湿布がよれないように、建留の手のひらがネットの下に潜ってくる。建留の指は、そう細いわけでもないのにすらりとしてきれいな手だ。千雪の腕を軽々とつかめるくらいに大きい。不必要なくらい意識して、建留の手のひらにどきどきした脈が触れているんじゃないかと思う。終わるまでのほんのちょっとの時間、建留の手から自分の腕を引っこ抜きたい気持ちをどうにか堪えた。
「……ありがとう」
「ドクターに診せたときも“反射”してた」
「……え?」
 建留は腰を落としたまま、じっと千雪を見つめる。見下ろされる側はずっと損だと思ってきたけれど、下から見上げられるのも視線を避けるのが難しくて困る。千雪が短く問い返しただけで沈黙してしまったから、見つめ合ったまま目を逸らすにも逸らせない。そもそも、建留は質問を投げたわけではなく、だから、何を応えればいいのかがわからない。
 やがて、気がすんだのか建留は首をひねって立ちあがる。千雪は気づかれないように息をついた。

「学校は明日まで送迎する。明後日は土曜日だし、おれも休みだからこの辺りを案内するつもりだ。買い物も連れていく。洋服とか、足りないものをリストアップしておくといい」
「わたしのもの、全部捨てられたの?」
「そのまま保管されてるだろう」
 学校に必要なものだけと建留が指示したのは、当面の措置だからと思っていた。けれど、ずっととなると、その意味は違ってくる。
「わたしの服とか持ち物は安っぽくて加納家に合わない?」
「頭はまわるらしい。けど、幼稚な考え方だ。きみが加納家にいて気まずい思いをしなくてすむようにしてる。そう善意に解釈はできないのか。この点はじいさんの意向に賛成だ」
 反論できないような云い分だ。建留が説得術に長(た)けているのか、千雪が指摘されたとおり幼稚なのか。
「おじいちゃんが云ってた最低限の教育って何? 高校を出たら働いて――」
「慶永(けいえい)大に進学だ。おれも行ったし、旭人は在学中だ」
 建留が云った大学は全国的に有名で人気のある私立校だ。一瞬、千雪の学力を知ってわざと大学まで指名したのかと勘繰った。あいにくなのはどっちなのか、少なくとも千雪はこういうことで見栄(みえ)を張るような、くだらないプライドは持ち合わせていない。
「わたしには無理。大学受験するつもりなかったし」
「クラスで成績はだいたい何番めだ?」
「十番行かないくらい」
「桟田(さんだ)高校でそれくらいなら伸びる余地はある。家庭教師をつけるか――」
「いらない!」
 千雪はとっさに建留の提案をはね除けた。口を一文字に結んで主張を示す。
 この家は窮屈で、そのうえ時間をだれかに拘束されるなんてまっぴらだ。
「どうする?」
「自分でやるし、受かりそうなところしか受けない。じゃなきゃ就職するっておじいちゃんに云って」
「……それでいいと云われたとしても、あくまで目指すのは慶永だ。それが守れるんなら、じいさんと交渉してやる」
 建留は、どうする? と今度はわずかに顎をしゃくるというしぐさで問いかけてきた。
 ひるがえすことのできない云い方だ。千雪はためらいがちにうなずいた。
 すると、建留もうなずく。なんとなく譲歩できるところまでそうしようとしていることが伝わってくる。
「何か訊きたいこと云いたいことあったら、おれが聞く。今日みたいに、独りで立ち往生する必要はない。連絡なしで予定外の行動をとったことも、予定外のことでどうしようもなくなったのに電話してこなかったことも、これでもかなり腹が立ってるんだ」
 その言葉に、千雪はあらためて建留を見上げる。そうしても何が見えるわけでもなかったが、建留が本音を云っていることは感じられた。

 千雪はうつむいた。
 迎えの約束を無視した千雪が最終的にアパートにいるだろうことは、建留ならすぐに見当をつけられただろうが、一瞬でも困惑させたのには違いない。
 それに、電話しなかったのは、独りぼっちで取り残されたのではなく迎えにきてくれる人がいると信じたかったからだ。千雪はいまになって自分の心情に気づく。
「ありがとう……」
「建留、でいい」
 ためらっていると、察した建留が促した。千雪は小さくうなずく。
「仕事を犠牲にしてるのにごめんなさい」
「“会長”直々の呼びだしだ。仕事は犠牲になっていない」
「ありがとう……建留」
 もう一度お礼を云ってみると、建留は肩をそびやかして、それから部屋を出ていった。
 建留が千雪を気遣ってくれるのは、滋の命令だということはなんとなくわかる。建留は単純に従っているわけではなくて、喰ってかかるところもあった。それは、単に命令に従っているわけではないことの証明のような気がしている。いや、そう思いたがっているのだろう。
 千雪が当てにできるのはもう建留だけだった。

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