ミスターパーフェクトは恋に無力
第1部 PrimDoll
第3章 Risky charm
1.カノジョ
夕食を終えたあと部屋に戻って机に向かっていると、ドアがノックされた。二秒ほど待ってドアが開く。
“だめ”とか“待って”とか、断りの返事をしないかぎり、ドアが開けられるのはこの家の慣例だろうか。いないふりはできない。
建留と同じように、旭人はためらうこともなく千雪の部屋にずかずかと入ってきた。
何を云う間もなく、千雪の机の横につけられたもう一つの机に本が数冊重ねて置かれた。よく見ると、問題集という文字が目につく。
「さっき云ってた慶永が出してる受験生用の問題集だ。癖とかつかめたら少しはラクかもな」
旭人は机から椅子を引きだして座った。
「ありがとう」
「わからないとこは?」
「ここ」
千雪は躰ごと椅子をわずかに引きながら、問題集を差しだした。すると、旭人は目を細めて首をひねった。
「それ、癖?」
「……何が?」
旭人は首をかしげた千雪をじっと見つめていたが、やがて戯(たわむ)れてくる猫のような表情になった。
「まあいいけど」
中途半端に放りだされたが、探究心、もしくは執着心が不足しているのか、そうするのは旭人の常だ。
旭人は問題集を持って、千雪が赤丸した部分を眺め始めた。
七月の後半から夏休みという千雪よりひと足遅れて、旭人は一週間まえ、八月に入ってから休みになった。それから、昼夜関係なく、気まぐれに勉強の様子を窺いにくる。
建留より年齢も近いし、気取っていないぶん、旭人とは話しやすい。何より食事のときの気まずさを緩和してくれるという、千雪にとっては貴重な助っ人だ。
ここに来た当初、七時と決まった夕食時に建留がいたのは気配りの一端だったらしく、一週間もそうすると、平日は一緒に食事できることのほうが少なくなった。朝は七時半に家を出て、帰りは八時というのが平均的だ。
「千雪、数学ってさ、やっぱ苦手?」
「平面はいいけど立体になるとだめかも。頭のなかでイメージするのとか苦手」
「なるほど」
納得したような口ぶりで云ったあと、「女ってそういう奴多いよな」と付け加えた。
思わず千雪が目を上げると、旭人は問うように首をかしげた。
「旭人くん、カノジョがいるの?」
「特定の奴はいないけど」
「……不特定のカノジョがいる?」
旭人は吹いた。
「おもしろい考え方すると思うけど、国語の読解力は零点。いまの場合、読みとるべきなのは、カノジョじゃなくて友だちはいるってこと」
立体ベクトルは苦手だが、旭人の周りに男女問わず人が寄りついて有向線分があちこちを向いているだろうことは想像するのにたやすい。人当たりはよさそうだし、人の意向をいちいち気にするふうでもなく、人付き合いに関して心労とは無縁に見える。
一方で、建留はどうなのだろうと考えてみた。旭人と違って物静かだが、おとなしいのではけっしてなく、びくともしない意思をいつも密かに主張している。黙して従わせる感じだ。隣に立つのはすこぶるつきの大人な女性が似合う。そうでなければ、きっと建留には太刀打ちできない。
と、そこまで考え至って、なぜか千雪はため息がつきたくなった。けれど、そうしたら幸せが逃げていくという麻耶の言葉を思いだして呑みこんだ。
「建留はいるの?」
かわりに口から飛びだした疑問は赤裸(せきら)で、唐突に聞こえるだろう。心のなかに引っこめたくなった。
「へぇ。気になるんだ」
旭人の『へぇ』はいつも思惑ありげだ。感心しているのでも皮肉でもなく、ただ興じている。
「……ついでに訊いてみただけ」
千雪は触れられたくないところを掌握された気がして、笑顔でごまかした。旭人が持った問題集を指差す。
「わかるなら、教えてほしいんだけど」
「現役の慶永大生がわからないとか情けないって思うだろ? 兄さんより冴えてるって自信はある」
旭人はきっぱり云いきった。冗談めかしながらも、本気が覗く。
この三カ月の間に、どういうわけか加納兄弟の関係はどこか不自然だと感じてきていて、千雪は確かめたくなった。
「旭人くんて、建留にライバル意識持ってる? 仲がいいのか悪いのか、よくわからない。わたしは独りっ子だから、兄弟の感覚自体がよくわからないけど」
「微妙に違う解釈だな。まあ単純に云えば、あんまり周りが比べるからさ、そういう意識が根づいたかもしれない。兄さんはずるいんだよな」
「ずるい?」
「思ったことない?」
千雪は考え巡るまでもなく、むしろ建留に対していつも思うことだ。
「ある」
即答すると旭人はおもしろがって笑う。
「意気投合だ。一度くらいぎゃふんと云わせてやるってチャレンジ、したくない?」
千雪は宙を見て考えるふりをしたあと。
「したい、かも」
答えると旭人は声を出して笑いだした。
そんなに愉快なんだろうかと旭人のほうを向いた千雪は、目の隅でノックもなしにドアの開くのを捉えた。
ぱっと顔を向け、異変に気づいた旭人が千雪の視線を追ったのと同時に建留が入ってきた。ビジネスバッグを持ったままで、通りがかったついでに寄った、というところだろう。
「何してるんだ」
建留の問いかけはだれに向かっているのか、声が刺々(とげとげ)しい。
「兄さんの代行だよ。夏休みに入ったから時間潰し。千雪に――というよりは、じいさんに協力してやってるんだ。おれの後輩になってもらいたいみたいだからさ」
旭人は証拠だと云わんばかりに問題集を掲げた。
建留は、旭人には応えず、千雪を一瞥(いちべつ)したあと踵を返した。
「建留、わからないところがあるの。あとでいい?」
千雪は考えるより早く口走っていた。
躰を斜め向けて振り向いた建留は、「ああ」とだけ云って部屋を出ていった。
千雪はほっと控えめに息をつく。
それに比べて、あからさまにため息をついた旭人は――
「教えてやろうか」
なんのことか、出し抜けに申し出た。
「教えるって?」
「兄さん、カノジョいるんだ。今度の日曜日、パーティに来るよ。楽しみだな」
旭人は心底からそう思っているように最後のひと言をつぶやいた。
兄のカノジョが来るだけのことに何を楽しむつもりか考える間もなく、ただ旭人の発言は千雪にとって爆弾が破裂したようなものだった。
建留のことが気になる。そんな心底で燻(くすぶ)っていたものがなんなのか、無理やり掻きだされて、千雪は経験のない感情に戸惑う。
建留にカノジョがいるのか、はじめに訊いたのは千雪だ。それなのに、聞きたくなかった、と思った。ごまかすために口にした時点でごまかしにならなくて、あまつさえ、無意識に訊ねたということがもう自分をもごまかせない。
旭人は本人を差し置いてそれを見抜いていたのかもしれない。
「ショック?」
覗きこんできた旭人は、揶揄(やゆ)した目で千雪を眺めた。ただ無神経なのか、人を愚弄することが好きなのか、何か考えてのことなのか、判別がつかない。
「……びっくりしただけ」
千雪が答えると。
「なかなか、だな。おもしろくなりそうだ」
旭人は気味悪いほど口を歪めたが、おもしろがった様子もそこまでだった。「じゃ、一問だけ」と、旭人は勝手に話題にひと区切りをつけると、手にしていた問題集を千雪の机に置いた。
「立体で考えるって難しいし、それならベクトルは暗記で勝負。理屈じゃなくて性質を憶えておけばいい」
ベクトルの問題を説いたあと、「あとは兄さんに任せるよ」と旭人はあっけらかんと出ていった。いや、客観的に見てべつに大したことがあったわけではない。千雪が勝手にざわついているだけだ。
旭人が説明してくれたことをすぐに試してみれば勉強も身にもつくんだろうが、よけいなことが邪魔をする。
千雪は気を紛らわせようと携帯電話を手に取った。呼びだし音が四回繰り返したあと、電話は通じた。
「お母さん? わたし、千雪」
『わざわざ云わなくても千雪だってわかるわよ』
麻耶の笑い声が聞こえると、元気なのだと安心する。千雪もちょっとだけ笑った。
麻耶は本当に大丈夫なのか。千雪がそう訊ねてから三日後、与えてもらったばかりの携帯電話に着信があった。だれにも番号は知らせていなくて、ちょうど建留が傍にいたときだったから問うように見ると、『出ればいい』と建留はひと言だけ云って、千雪はそうしてみた。それが麻耶だった。
『声を聞くだけでも安心はできるだろう?』
電話が終わってまもなくの建留の発言は、同意を求めるよりは答えを欲しがっているようだった。
千雪は建留が取り計らってくれたのだと察した。建留が何を考えているかは少しもわからないけれど、千雪のために気をまわして考えてくれているのはわかる。
「躰は大丈夫?」
定番になっている質問をすると、ささやかな笑い声が届く。
『お母さんはもうすっかりいいわよ。心配しないで。おじいさんから聞いてる? 来月から、お店を始めることにしたわ』
「え? 聞いてないよ」
『今日、決めた話だから初耳でもおかしくはないわね。おじいさんもお母さんから報告できるように気を利かせてくれたのかもしれないし。おじいさんから資金を借りて、美容室を開くのよ。迷ったけど、お父さんも退院したら一緒にやっていってくれるんじゃないかと思うわ』
芳明に関して、麻耶の云うことはまったく楽観的見解に思える。千雪が黙りこむと、『だらしないお父さんでごめんね』と、麻耶はすまなそうに窺う。
「お母さんが謝ることじゃない。わたしも元気にしてる。勉強は好きじゃないけど。じゃあ――」
『千雪』
麻耶は電話を切りあげようとする千雪を呼びとめた。
「何?」
『パーティあるって云ってたでしょ。おじいさん経由でスタイリストさんと連絡を取り合って、千雪のことを伝えてるの。うまく活かしてくれると思うわ。気が重いかも知れないけど、勉強ばっかりみたいだし、気分転換も兼ねて着飾ってもらったらいいのよ』
電話を切ると、幸せが逃げるとかどうでもよくなって千雪は深くため息を漏らした。
電話をしても結局は、別の“よけいなこと”が増えただけだった。
店を持つという麻耶の念願が叶ったことはうれしい。けれど、おめでとうは云えなかった。
声は聞けても、麻耶は居場所を明かさないから会えることはない。だから、最初の一度を除いて、千雪からどこにいるのか訊ねることはしない。
そんな千雪を置き去りにして、両親は自分たちだけで生活圏をつくりあげているということに理不尽さを感じた。あるいは、除け者にされているような感覚さえする。そこに千雪が帰る場所はあるのだろうか。
明日が地球滅亡の日と云われたくらい、勉強する気力はなくなった。加納家にふさわしくなってどうしろというのだろう。
やる気がなくなったまま、ベッドに仰向けに寝転がって栞里とメールアプリで会話をしていると、ドアがノックされた。応えないでいると勝手にドアが開く。
気づかないふりをするには無理がある。ただ、それで建留が不機嫌になろうが、いまはすべてに反抗したい気分だった。
足音がベッドまで近づいても反応しないでいると、メールの途中で携帯電話が取りあげられた。
風呂上がりで、Tシャツにハーフパンツという、スーツ姿に比べたら極めて気さくな恰好の建留を見上げた。
きつく光らせた瞳に合うと、千雪はぱっと目を伏せた。そこに見えた不機嫌さに怯んだわけではない。ある種、条件反射だ。意識してしまわないよう、千雪は自分の気持ちを奥底に押しこんだ。
「自分で勉強するって云ったのはだれだ。携帯は取りあげてもいいんだ。学校は禁止なんだからな?」
こんなところで都合よく学校の規則を持ちだすなんて隙がなさすぎる。建留は余裕綽々で、あくせく奥底に片想いをしまおうとする自分をばかみたいだと千雪は思う。
「今日はもう寝る。やる気ないときに勉強したってGood for nothing――なんの役にも立たない、だよね?」
「そういう英語は憶えるわけだ」
「栞里が英会話で習って気に入ってるってだけ。十回も云われたら憶えるよ」
「全部十回ずつ繰り返してやったら憶えるんだな」
「今日はとにかく終わりにするの」
まるで揚げ足を取る建留に、千雪は目を合わせないまま主張をした。
「早くても十時まで、朝は遅くても五時から勉強をやる。そう決めたはずだ。たとえ一日でも、自分を甘やかすぶん目標は遠くなる」
建留は正当な意見を押しつけてくる。
「云うのは簡単じゃない? 建留はそうできてたの?」
「高校一年から二年、千雪と比べるなら、おれはその三倍は勉強に時間を費やしてた」
「その頃のわたしを知らないくせに。量より質って云うよ」
「質は量に伴う」
建留は即座に反論した。
同級生の男子はどうやったって女子との応酬では敵うことはないのに、六つも年が違ってくると、こうもやりこめられるものだろうか。
千雪はきっとして伏せた目を上げた。
「息抜きしたっていいでしょ。建留だって息抜きしてる」
千雪の声から何かを聞きとったらしく、建留は目を細めた。
「……どういう意味なんだ?」
「夜遅くなるのは仕事だって思ってた」
云おうかどうか、心では迷っていたのに口が勝手に喋った。
「仕事だ」
にべもないひと言が返ってくる。
建留の目は逸れることもなく、嘘を吐いているとは思えない。それよりも、嘘じゃない、と千雪が思いたがっているとしたらどうかしている。そんなことを思っても、何かが生まれるわけでも変わるわけでもない。こんなモヤモヤした気持ちがなんの役に立つのかもさっぱりだ。
理不尽であろうが、旭人を恨みたくなる。
「パーティ、どれくらいの人が来るの?」
いきなり話題を変えたせいか、建留が答えるまでに時間がかかった。
「広間に入るくらいだ」
「そういう答えじゃわからない。わたしはパーティとか経験ないし、出なくていいんなら――」
「なんのためのパーティか知ってるだろう。加納家は全員参加だ。瑠依がいろいろ教えるだろうし、何かあればおれがエスコートする」
この時季のパーティは、びっくりするほど加納家にやってくるお中元のお礼という意味合いで開催されるという。建留によると気取ったものではないらしいが、普通にパーティをやらない家庭で育った千雪には、パーティという言葉を聞くだけで気取っていると思う。
麻耶は気分転換にと云ったが、気が重いという気持ちのほうが勝っている。勉強しているほうがましだ。
救いは、建留が云ったように瑠依がいることだ。瑠依は何かと千雪の世話を買って出てくれるから心強い。パーティにはどういう服が適当なのかもわからない。そんな千雪に付き合って、見立ててくれた。
加えて、建留がフォローすると云ってくれると安心する。おざなりやなぐさめで建留は言葉を口にしない。さっきの仕事という云い分が嘘か本当かはわからなくても、千雪に被害が及ぶか否か、ということについて千雪に嘘を吐くことはない。この場合、被害というには少し逸れているのだが、千雪が憂うつにしていることは建留も知っている。
寝転がっていた千雪は躰を起こして、ベッドの上に座った。
「ほんと?」
「ああ。それで、息抜きと夜遅くなることとパーティと、どう関係してる?」
建留から指摘されて、それが全部“カノジョ”に繋がっていることに気づいた。またざわついた感触が甦る。意識するたびに、いまみたいに感じなければならないのだろうか。千雪はやっぱり旭人を恨んだ。
「何も関係ない。もういい」
だめと聞きたくなくて、麻耶に会えるかと問わなくなったように、触れたくないことに自分から触れる必要はなくて、だったらずっと奥底にしまいこんでおくほうがいい。
千雪はベッドからおりると机のところへ行き、広げていた問題集を取って「ここ」と建留に差し向けた。
建留はひと呼吸置いて息をつく。それから近づいてきた。
建留は基本的に人のことには無関心とはいかないまでも、無干渉だ。反応に物足りなさを感じることはあるけれど、いまに限ってはそれに助けられた。
「座れよ」
建留は千雪を促しながら、一時間まえまで旭人が座っていた隣の椅子に座った。
もともと隣に添えたミニデスクは建留が持ちこんだものだ。
家庭教師とまではいかなくても、隣にいるからすぐに質問できて、わからないことがあっても後回しにしなくてすむ。
一つも質問のない日もあるけれど、建留はパソコンや書類を持ちこんで、日付が変わるまでは隣で千雪に付き合っている。
「建留」
問題集を見るのに伏せていた目がつと上がる。その眼差しはまっすぐに射貫く。呼びかけたのは千雪で、この部屋には建留のほかには千雪しかいなくて、そうなるのも当然だが、何を云おうとしているのか自分で混乱するくらい鼓動が痛む。
「なんだ?」
「……お母さん、お店やるって」
建留は推し量るように千雪を見つめる。
「じいさんが資金提供してるし、経営でも道楽でも、思うようにやればいいことだ」
「道楽、って……ここの家の人はみんなそんなふうに思うの?」
蔑(さげす)みに遭ったような気がした。
建留はため息をつきながら首を一度横に振った。
「云い方が悪かった。ラクにやっていけばいいっていう意味だ。千雪と同じで、お母さんにも権利はある」
また権利の話だ。それに。
「お母さんのこと、おばさんとは呼ばないの?」
千雪が麻耶のことを話すのは建留とだけだが、いつもどこか一線引いた印象を受ける。千雪に対してつらく当たることはなく、だから嫌っているのとは違うと思う。それとも、千雪と麻耶のことは別件だと割りきれるほど建留がドライだということだろうか。
「話しただろう。一回しか会ったことがない」
「ここの家ってウチよりぎくしゃくしてる」
「“ここの家”って二回めだ。ここは千雪の家でもある」
「家ってどこも息が詰まる」
投げやりに云うと、千雪は机に向き直った。問題に目を落としたものの、まだ建留の目が千雪に留まっていることを意識する。
「おれも同じだ」
千雪に応えるには不自然に時間が空いて、そのうえ唐突な発言に聞こえた。
ぱっと振り向くと、建留はふっと笑みを浮かべる。素直な笑顔ではなくて、自嘲(じちょう)するようでいてだれかを侮蔑(ぶべつ)しているようにも見える。
「生まれてからずっとここにいるんだから、これがあたりまえじゃないの?」
「おれは、ここで……」
建留は云いかけたまま、いったん口を閉じた。千雪から視線を逸らしたかと思うとすぐに戻ってくる。
「おれは復讐の道具としてここにいるだけだ。望んで加納家にいるわけじゃない。だから、おれが千雪にどうこう云う資格はないのかもしれない」
建留はそう云ってまた笑った。
笑っているのに、建留の顔には影が差す。まるで、目尻は下がっているのに瞳はただ現実を見つめている、そんな道化師のように見えた。
「復讐、って……?」
その言葉はけして穏やかじゃなく、けれど、千雪がそう違和を感じないのは、それだけの秘密が加納家に潜んでいると気取(けど)っているからだろうか。
建留は、勉強しろと口にするかわりに、千雪の手もとのテキストを二回、中指で小突いた。
「大げさな云い方だったな。加納家にいることを望まないとしても、何も不自由してることはない。むしろ、手に入れすぎてるから息苦しい、そんな感じだ」
建留は曖昧な表現に変え、この話はこれで終わりだといわんばかりに肩をそびやかした。
千雪にとっては不完全燃焼だったが、中途半端でも建留が自分について語ってくれたことはうれしかった。いまは、きみ、という最初にあった他人行儀な呼び方はなくなって、いつでも『千雪』と呼ばれることで認知されていることの安堵感がある。そんなふうに建留から与えられるだけでなく、息苦しいと打ち明けた建留にとって、千雪は少なくともその対象ではなく、わずかではあってもなんらかの役に立っている気にさせられた。