ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第3章 Risky charm

2.シナリオの犠牲者

 日曜日、十一時に始まった立食パーティは、最初のうち、千雪だけでなく広間に集(つど)った客たちからもぎこちなさが窺えたが、三十分もたつと肩の力が抜けたような和やかな雰囲気に変わった。
 広間は玄関を入ってすぐ、左の部分を占めている。コの字型をした邸宅の出っ張り部分で、へこんだ部分には、水路があったり、煉瓦ではなく石が使われたりと和のテイストを取り入れた庭園がある。ローズガーデンとは邸宅を挟んで反対側にあり、広間の一面から見渡せて壮観だ。
 広間は靴のまま入れるから外に出るにもたやすい。盆まえという真夏のさなか、暑いのにもかまわず、数人が外を散策中だ。
 そんなふうに和気あいあいとなっても千雪の緊張が抜けない最大の要因は、ずっと滋に付き添っていることに因った。

 だれかが滋に挨拶に来るたびに、孫だ、と云って紹介される。微々たる程度の愛想笑いを返していた千雪だったが、それも十人を超すとさすがにうんざりして笑顔がつくれなくなった。
 集まった面々から肩書きを述べられても、たいそうな地位らしいが、結局のところだれがいちばん偉いのか、千雪には価値がさっぱり理解できない。
 突然に現れた孫を紹介されても驚くことなく接した彼らは、仏頂面の孫に呆れ返っただろう。
 彼らが決まって口にするのは、ミックスか、という疑問だ。髪の色にしろ目の色にしろ、年齢問わず女性たちの間では作り物が横行していて、今時は日本人らしい黒っぽさがなくてもめずらしくないのに、どうかすると無遠慮な目に合う。笑顔をつくるのと一緒で、次第に、混じりけのない日本人だと答えるのも面倒くさくなって、よっぽどミックスだと嘘を吐こうかと投げやりになった。
 第一、祖母が先例としているから見当がつくだろうに、わざわざ訊ねるという心境がわからない。祖母の場合、茶色い瞳はどう穿っても日本人離れはしていないし、髪も年を取って銀色に変わっているぶん、普通と思われているのかもしれない。千雪の場合は髪と目がセットで異質だから、しかたないといえばしかたがない。

 何人に挨拶したのだろう、客は五十人くらいというが、普段はどうしようもないほどの空洞になってしまう広間は程よく満杯になっている。まだ来ていない人がいるのかと思っていると、滋が「千雪」と呼びかけた。
「もう挨拶はすんだ。好きに食べたり、気の合う友人をつくるのもいい。ただし、部屋に引っこんではならん。いいな」
 頃合いを見計らって抜けだそうと思っていた千雪の目論見はすっかり見透かされていた。
「はい」
「建留は……」
 滋は視線をさまよわせながら云いかけて口を噤(つぐ)み、次には顔をしかめた。
 なんだろうと思いつつ滋の視線を追ってみると、見なければよかったという後悔が先立つ。もっとも、滋のさっきの命令からすると、パーティはエスケープできないし、いまでなくてもいずれ千雪の目に入る。何より、千雪自身が建留を探してしまう。そうしたら必然的に隣にいるカノジョも目につく。
 滋に付き添ってそれどころではなかったけれど、千雪がそうしている間、建留はずっとカノジョといたのだろうか。女性がだれなのか、挨拶した憶えがない。
「おじいちゃん、あれはだれ?」
 滋は千雪に目を戻すとふと考えこむようにし、何やら感づいたように再度、建留のほうへ目を向ける。
「業平商事の一社員だ。大学からの友人らしい」
 困ったものだ、と、何を困っているのか滋はため息混じりに漏らした。そうかと思うと、「やっと来る気になったか」とつぶやく。
 何事だろうとまた滋の視線を追うと、建留がこっちに向かってくるのが見えた。カノジョを従えている。

 男性たちのだれもが似たような恰好でいるなか、建留が際立って存在感があると思うのは千雪のひいき目だろうか。近づいてくる様は、獰猛な獣が余裕で適地のなかを闊歩(かっぽ)しているようだ。
 その眼差しは、獲物を目にしているかのように千雪を捕らえている。
 居心地が悪くなって、千雪は目を逸らし、その隣に連れ添う女性を見やった。
 驚いたのはカノジョが、すこぶるつきでも目立つほどでもなく、千雪と変わらないように“普通”だったことだ。想像していた大人な女性でもない。千雪は失礼にも、この女性とカノジョは違うのではないかと思った。
 ただし、建留の横にいて似合わないかというとそうではない。遠目に見たときに感じたこと。カノジョといる建留は微妙に雰囲気が違っている。

「会長、そろいましたか」
「おまえが彼女を連れてきたんでな。これで終わりだ」
 建留に問いに対して、滋は皮肉っぽく返答した。そう感じたのは間違いではなかったらしく、建留は口を歪めて応じる。
 そんな応酬が終わる間合いを計って、彼女は半歩まえに出た。
「加納会長、ずうずうしく建留さんの誘いに甘えました。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。これだけの顔ぶれですから、みなさんが終わられてからと遠慮してしまいました。今日はお世話になります」
 そうして滋に一礼した彼女の姿勢はそつがない。
 それから、彼女は千雪へと目を転じた。にっこりした顔に、千雪のような作り笑いは感じられない。が、ふと、彼女は目を見開いた。
「あら――!」
「沙弓(さゆみ)」
 驚きに満ちた彼女――沙弓が云いかけているのに、建留は唐突に呼びかけた。沙弓は千雪から建留へと視線を転じる。
「よけいなこと?」
「そうだ」
 沙弓はくすくすと笑い、建留はしかめた顔でため息をついた。
 いかにもふたりは親密で、千雪は逃げだしたくなった。
「千雪、恩田(おんだ)沙弓さんだ。沙弓、従妹の須藤千雪だ」
 建留が互いを紹介すると、沙弓は目をくるっとさせて可笑しそうにしながら千雪へと手を差しだした。
「はじめまして、千雪さん。建留とは大学からの友だちなの。よろしくね」
「はじめまして」
 しかたなく沙弓の手に右手を重ねて握手を交わしながら、愛嬌とは程遠い、つんとした口調になった。それにもかまわず――
「千雪さん、すごくゴージャス。遠目からだとカラーしてるのかと思ってたけど、ほんときれいな色。目もガラス――っていうよりは宝石みたいね。うらやましいくらい素敵」
 沙弓は驚くほど屈託なく千雪を褒めたたえた。
 社交辞令とか嫌味のほうがまだましだと思うのは、このさきも沙弓の難点が挙げられそうにないと直感したせいだろうか。
「ありがとうございます」
 きっと千雪の笑顔は引きつっている。建留とは目が合わせられなくて、滋に目を向ければ何か云いたそうな眼差しに合う。ホスト側として礼儀がなっていないとでもいうのだろう。
 どこを見ようもなくて沙弓に目を戻した。

 千雪は彼女をあらためて観察してみる。
 二重の目に少し左右のバランスが悪いくちびる、髪はあごくらいの長さで毛先が緩くカールしながら、ふわりと顔を縁取っている。瑠依のように華やぐものではないけれど、可愛いと感じさせた。
 今日、加納家に来たスタイリストは、確かに千雪をベストな雰囲気にしてくれた。
 トップから左サイドへと編み込みしてカチューシャに見立て、ハーフアップにした部分はルーズなカールで広がる。髪の色が薄くなければうっとうしいと感じるほどボリュームアップしてもらっている。サテンとシフォンを使ったミニワンピースの色はヴァイオレットで、髪の色を引き立て、アメリカンスリーブで露出した肩が華奢(きゃしゃ)に見える。鏡に映った自分を見たときは、ちょっとした自信さえ芽生えた。
 それはつかの間のことで、千雪の変身ぶりを見にきた瑠依を見たとたん、その自信はしぼんでしまった。
 自信が復活したのは、建留がパーティの開始まえに時間だと云って部屋に迎えにきたときだ。いい感じだ、と皮肉っぽくさえ見える笑い方をすると千雪は少しだけ自惚(うぬぼ)れた。
 それなのに、沙弓には勝てない気がする。

「千雪、おれたちと一緒にいるといい」
 きれいですね、とか、素敵ですね、とか、沙弓にかける言葉はどれが適切なのか、探し当てるまえに千雪は不意打ちを喰らった。
 無意識に声を追うと、建留とまともに目が合う。探るように見えて、千雪はそっぽを向いた。
「いい。瑠依さんがいるから」
 素っ気なく聞こえるのもかまわず断ると、建留の反応を見ないうちに千雪は滋のほうを向いた。
「おじいちゃん、もうここはいいの?」
「かまわん。好きにしなさい」
 瑠依を探すとすぐに見つかる。旭人ともう一人、背の高い男性と一緒で、ちょっとためらったものの、建留についていくことを考えたら選択肢は一つしかない。
「建留、従妹が来てるって、それが千雪さんだってこと云わなかったよね」
 どういう意味だろうという発言が背後から届いた。建留は返事をしたのかしなかったのか、声はしなかった。
 何より嫌だと感じたのは、建留が口にした『おれたち』という言葉だ。
 まるで、建留と沙弓が在るべきものとして在るような云い方だ。千雪はふたりにかまってもらえて、喜ばなければならない犬か猫か――そんなふうに感じた。
 ついこの間、千雪の存在が建留の役に立てているかもしれないと思ったことが粉々にされた。
 それに増して、こんなふうに勘違いしたり、人とうまく接せられなかったり、自分の子供っぽさに嫌気がさした。

 瑠依たちに近づいていくと、三人は明らかに親しいとわかった。会話のなかに敬語がない。背の高い男性は、滋に紹介してもらった人に違いないが、千雪の頭のなかには名の一文字すら残っていない。
 入りこむのにためらいがちになって直前で歩くペースが落ちる。すると。
「千雪、来いよ。やっと解放されたみたいだな」
 旭人が逸早く声をかけてくれ、千雪はほっと息をつく。直後には瑠依が手招きをして、それから遅れること一秒後、横顔を向けていた男性が振り向く。
「千雪ちゃん、でいいかな。大叔父にもう一人孫がいたなんて知らなかったな。いろいろ事情はあるみたいだけど、業平一族の仲間入りだ。おめでとう」
 端整な顔立ちをした男性は、日本的な切れ長の目のせいで一見すると冷ややかだが、口調は穏やかに響く。
「業平一族、ですか?」
 千雪は重々しい言葉だと思いながら首をかしげ、一方では、頭のなかで時間の巻き戻しを試みた。大叔父というのは滋のことだろうし、仲間入りだと云うからには加納家と親類なのだ。業平商事の社長と会長は加藤(かとう)という姓だ。その“加藤さん”だっただろうか。
 男性は、「憶えてないみたいだ」と、千雪の戸惑いを見透かしていた。気を悪くしたふうでもなく――
「めずらしい子だな。おれは仲村、仲村貴大(なかむらたかひろ)っていう。よろしく」
 と、貴大は手を出した。
 とたんに一歩下がった千雪は、大きな手を見つめる。単なる握手のはずが、沙弓にしたようには手を伸ばせなかった。

 不思議そうに貴大は顔を傾けると手をおろした。
「やっぱりめずらしいな」
 そう云って笑ってくれたから、千雪もごまかす機会を得られた。
「めずらしい?」
「大抵の女はおれの名前を知るのに躍起(やっき)になってるけどね。おまけに手を差しだしたら、接着剤でも塗ってたのかってくらい離れないんだ。振りほどくのに肘を脱臼(だっきゅう)しそうになったことがある」
 めったに声を出して笑わない千雪だったが、そういう冗談を云う人には見えなくて、そのギャップに小さく吹いた。ばつの悪さが一掃された。
「大げさね」
 瑠依はわざと呆れたように云い、千雪を向いた。
「貴大のお母さんは加藤家の人なの。貴大は将来、業平商事のトップに立つ人だよ」
「冗談だろ」
 貴大は一蹴(いっしゅう)したが、瑠依は真剣な様だ。
「だって、ほかの従兄弟たち、逃げまわってるんでしょ。もったいないよね。年が同じだし、建留とふたり、いいコンビでやっていけるんじゃない?」
「瑠依、業平不動産現社長の娘がそんなことを云っていいのか。小泉派閥(はばつ)で後継者を擁立(ようりつ)するつもりだと見てたけどな」
「瑠依さんが貴大さんと結婚すれば円満確実だ」
「冗談はやめてよ。女を取っ替え引っ替えするような男はお断り」
 貴大が建留と同い年なら大学四年生の瑠依よりも二つ上になるが、瑠依は遠慮も容赦もない。旭人の提案を退けた瑠依の言葉に、貴大は苦笑いをする。
「噂を野放しにすると有罪になるのか?」
「どっちにしろ、わたしは貴大のこと眼中にないの」
 それならだれが眼中にあるのだろう。そう考えてしまうような口ぶりだった。

 千雪はなんとなく建留を探してしまう。いた、と思ったと同時に目が合った。
 部屋の真ん中は長方形の長いブッフェテーブルがある。千雪と建留は、その長い辺の端と端ほどの位置で対面しているのに、建留の目は千雪をしっかり捕らえた。
 タイミングがよすぎて建留から目を逸らすタイミングを失う。傍に立つ人が建留に話しかけていて、建留がその同年代の人に注意を払ったことで千雪は視線から逃れた。
 いまのうちにと瑠依たちへと向き直ろうとした矢先、沙弓が視界に入ったかと思うと、建留の話し相手に笑いかけながら、持っていたグラスを建留に差しだす。会話をしながらさりげなく受けとる建留のしぐさが、やけに親密に見えた。仲のいい顔見知り同士なのか、沙弓が加わって三人で話し始めたとたん、笑い声が聞こえそうな雰囲気になった。
 憂うつどころかふてくされそうな気分で目が離せないでいると、建留が顔の向きを変えかける。それが千雪に向かってくるとは限らないが、とっさに千雪は瑠依へと目を戻した。
 すると、今度は瑠依とものの見事に目が合ってしまう。この場から千雪の気が逸れていたのはわずかだと思うのに、気づかれた、と感じた。

 瑠依は、さっきまで千雪が見ていた方向に目を向けてまた戻した。
「千雪ちゃん、奪ってきちゃったら?」
 可笑しそうにしながら小首をかしげた瑠依は千雪を嗾(けしか)けた。
「おもしろいかもな」
 旭人が口を添える。
 何を、という目的語もなく会話が成立していることに、千雪は内心で慌てふためく。こういうとき、いつも欠点のように云われる、表情が乏しいということは救いになる。
 貴大は飲み物のトレイを持ったスタッフを呼びとめている。気に留めていることがないよう祈った。瑠依と旭人はどことなく取り澄ましていて、建留に直接そういうことを話すとはなんとなく思わないのだが、貴大は意図して云うことはなくても何かの拍子に喋ってしまいそうな気がする。
「瑠依さん、奪うって?」
「建留が気になるんでしょ」
「……そうじゃなくて、旭人くんから建留にはカノジョがいるって聞いてて、でも想像と違ってたから」
 ごまかせただろうか。瑠依は目をくるりとしておもしろがっている。
「千雪ちゃんて、旭人は“旭人くん”なのに、建留は“建留”なのよね。旭人、その差って何?」
「さあ。動物の本能かな。おれの頭の上には要注意っていうフラグが立ってるのかもしれない」
「そうじゃないよ。建留には、建留でいいって云われたから」
 旭人がふざけているのはわかっていても、念のため千雪が云い訳をすると、瑠依は口角を上げた。微笑とは違う、形だけの笑みに見えた。
「建留はやさしいんだよね」
 応えた声は、建留との付き合が長いのだと思わせる口ぶりだ。“だれにでも”という言葉がつきそうに感じたのは勘繰りすぎだろうか。
「建留はやさしい、というよりは、ミスターパーフェクトだな」
 反対を向いていても会話はしっかり聞いていたらしく、貴大はそう云ったあと、「千雪ちゃん、はい。カシスグレープフルーツ」とくすんだピンク色のジュースが入ったグラスを差しだした。
「ありがとう」
「何か食べる? 取ってくるよ」
「ううん。始まるまえに食べたから」
「食べるなって云い渡し? 千雪ちゃんはまだ高校生だし、押しつけることないと思うけどな」
「同じもの食べてるからどっちでも同じ。こぼしてしまうほうが怖いからさきに食べてるほうがいいかも。立食、慣れてなくて」
 周りを見ると、器用にも、片手にグラスとお皿を一緒に持っている人がいる。片手は握手するのに空けていなければならないと教わったけれど、ああいう芸当は千雪にはできそうにない。傍のテーブルに置いて対応すれば簡単にすむことだが。
 ともかく、家人はさきに食事はすませて、基本的にパーティでは手をつけないように云われている。

「貴大、わたしには?」
 瑠依は千雪と貴大のグラスを交互に指差した。
「瑠依はこういう場に慣れてるけど、千雪ちゃんは初心者。その違い。それに、違うのがよかった、とか不要な文句を浴びせられかねない」
「はは。貴大さんの云うとおりだな」
「失礼ね。建留はわたしの好みを憶えててくれるけど。貴大はミスターパーフェクトじゃない」
「ならなくてけっこう。そういうのは窮屈でしょうがない。建留を気の毒に思うな。あちこち神経を尖らせて、なんでもかんでも、百パーセントどころか百二十パーセントを自分に課してる」
「兄さんはそういう性格だし、気の毒とか云ったら的外れだって笑い飛ばされる」
 千雪は三人の会話を聞きながら、なぜか貴大の『窮屈』とか『気の毒』という発言に復讐という言葉を照らし合わせてみた。なんとなく、繋がっている気がする。
「性格で片づけたら、それこそかわいそうだと思うな。建留なりの防御のやり方だ」
「わたしの好みを憶えることで何が防御できるの?」
「瑠依は建留に文句を云わないだろう? そうやって操られている」
 瑠依ははっきりむくれた。それでも、ルーズアップした濃い藍色の髪と大きな目のせいで、キュートな印象になる。髪も瞳も、千雪とは対照的な色でうらやましいと感じた。
「かわいそうなのはわたしでしょ。ね、旭人」
「けど、兄さんが常に本心を明かしていないことは確かだ」
 旭人はちらりと建留がいるほうへと目をやり、瑠依は大げさなしぐさで肩をすくめた。
 そのなか千雪は旭人の言葉を聞いて――
「沙弓さんには本心を云ってそう」
 と、思ったとたん旭人と瑠依の目が千雪のほうに向いて、自分が声にしたのだと気づいた。あまつさえ、無意識に思ったことは、建留が沙弓といて雰囲気を変える理由として的を射た答えだと気づく。
「だね」
 貴大は可笑しそうに相づちを打った。
 すると、瑠依が「だいたいね」と、喰ってかかるような様で貴大に向かった。
「沙弓さんて何者、っていうか、ずうずうしくない? 建留の伝手(つて)で業平入ったって云うじゃない?」
「業平が縁故採用オーケーなのは知ってるだろ。縁故じゃなく知人でもかまわない。けど、伝手があってもそれなりの能力を見いだされなければ採用されない」
「貴大は沙弓さんと同じ営業部だよね。能力あるの?」
「同期のおれが云うことでもない気がするけど、恩田は二年めっていう余裕はあると思うな。瑠依も旭人も、高校とか大学ですごす建留を見たことないからわからないんだろうけど、すましたカッコつけじゃなくやってた。業平一族を離れてるときは建留もらくになれてるんじゃないかと思う」
 瑠依はまた拗(す)ねたふうに貴大を見上げている。それから千雪を見やった。
「千雪ちゃん、奪わない?」
 いきなり瑠依は話をもとに戻した。
「奪う? さっきもそういうこと云ってたな」
 貴大の口出しを耳にしながら、千雪はどう受け流せばいいのか窮(きゅう)する。つい建留を探してしまうと、ちょうど沙弓を伴ってすぐそこまで来ていた。
 五メートルさきにいる建留は、千雪をしっかり捉えていて、目的地がこの場所であることは確かだ。
 千雪の視線を追って後ろを振り向いた瑠依は「あら」とつぶやいて、また千雪に向き直った。
「千雪ちゃん、チャンス到来。貴大もよろしくね」
 と、瑠依は勝手にシナリオを立てたらしく、千雪と貴大に云い渡した。
「よろしくって何を」
「いいから」
 瑠依は独り気をよくしたふうに貴大をいなした。

「貴大、挨拶まわりしなくてもいいのか」
 建留は輪に加わるなり、貴大に意見した。真剣に云っているのではなく、単なる話の糸口だろう。
「本家の従兄たちを差し置いてか」
「気の利かないふりも度を超すと、結局は業平の評判を落とす。それを望んでいるわけじゃないだろう」
「建留、相変わらず堅い話だ」
 貴大に揶揄されても、建留は不快さを見せず、あしらうように肩をそびやかす。
「創業者の加藤業平の言葉を借りれば“社員は家族”だ。一人として路頭に迷わせたくはないだろう」
「大げさだな」
 貴大が一蹴すると、建留は薄く笑った。
「将来の社長がここにふたりいるかもって思うと、脚がふるえそうな気もするけど、それよりは楽しみかも。……あ、瑠依さんには失礼だった? ごめんなさい」
 沙弓は首をかしげて瑠依に微笑を向ける。
 瑠依はつんとあごを上げた。これを敵対心とみなさない人はいないだろう。
 沙弓にしろ、悪意があるのかないのかという微妙な気配が感じとれる。

「建留が業平不動産の社長になっても、わたしは一向にかまわないの。父もね。上層部には上層部の事情がいろいろあるんだから。沙弓さんにはわからないだろうけど」
 瑠依は相容(あいい)れないとばかりに身分の差を強調した。
 沙弓は気にかけるようでもなく、「そうね」とあっさり片方だけ肩をすくめた。
「どんな上層部の事情があるのか知らないけど、仲村くんが、まさか業平の後継者候補だなんて大学時代は知らなかった。建留も云わなかったし。千雪さん、一年まえのこのパーティではじめて知ったのよ。仲村くん、こっそり社員内偵でもやってる?」
 沙弓は千雪に話しかけたかと思うと、貴大に向かっておどけた表情で問いかける。
 貴大は吹くように笑った。
「まさか。色眼鏡で見られたくないし、特別視もいらない。どんなに実力出したって仲村貴大個人として正当に評価されないから。正当に評価されてるとしても、周りの奴は“どうせ”って素直に認めない。そういうのに、ガキの頃からうんざりしてる。恩田、喋ったらクビだ」
「仲村くん、権力を笠に着るのは嫌だってことを云ったんじゃないの? 結局、権力振りかざしてるんだから」
 貴大が生真面目に宣言すると、それがわざとだと見越して沙弓は笑いながら指摘した。
 和やかな会話が交わされる一方で、瑠依はわずかだがむっとした面持ちだ。たやすく沙弓からかわされたことが気に喰わないのだろう。リップでぷるぷるさせたくちびるが開いていくのを見て、千雪はなんとなくかまえた。
「沙弓さんは建留たちとの付き合いは長いけど、知らされていないことが多いみたい。千雪ちゃん、沙弓さんのこと、とても建留のカノジョには見えないって云うけど、どうなのかな」
 瑠依の言葉からは見下したようなニュアンスが聞きとれる。それに増して、発せられた内容に、千雪は信じられない気持ちで瑠依を見つめた。かまえていなかったら、駆けだしていたかもしれない。

 ショックで密かに息を呑むなか、沙弓の目が瑠依から千雪へと移動した。沙弓だけではない、建留も貴大もそうだ。瑠依はにっこりするだけで、千雪の発言を誇張したことは本人がいちばんよくわかっているはずなのに、悪びれることもない。
 想像とは違っていた――と、そうは口にしても悪意ではなかった。けれど、最初に見たとき、建留のカノジョは沙弓ではなく違う人かもしれないと千雪が思ったことは事実で、云っていないとは主張できなかった。
「そうかもね」
 おもしろがった沙弓の受け答えは、この場の気まずさを払ったかもしれないが、千雪はますます居たたまれなくなった。
「貴大」
 建留の声がしたかと思うと、貴大の口から気が抜けたようなため息が漏れる。
「恩田、挨拶まわりするからエスコートしてくれると助かる」
「逆でしょ」
 唐突な貴大の申し出に沙弓は呆れて首を横に振る。それから建留を見上げた。
「早く昇進できるように、お坊ちゃんの相手してくる」
「ああ」
 建留は沙弓に笑みを向けると、送りだすようにうなずいた。

 沙弓は大人だ、と千雪は思った。それに比べて、こんなふうに惨めにならなくちゃならない自分は、どう見えているのだろう。
「瑠依」
 咎めた声が響く。
「建留、もしかして怒ってるの?」
「だれが何を云ったか、は問題じゃない。ただ、云っていいことと悪いことがある。それくらいわかるべきだろう」
 建留の声はけっして怒ってもいないし、不機嫌でもない。
 瑠依の解釈は違うようだ。怒ったと思っているとしても、いま瑠依は怯まず、むしろおもしろがっている。
「怒るなんてめずらしいね。でも建留。わたしは千雪ちゃんの御方(みかた)っていうだけ」
 瑠依の弁解はまた空気を変える。最後の言葉が三人の間でうろうろと淀んでいる、そんな奇妙な雰囲気だ。
「どういうことなんだ?」
 建留が問いただし、千雪は次に何が来るかと再び身構えた。
「千雪ちゃん、建留のことが好きなんだよ。だから応援してあげたいと思って」
 穴があったらそこに閉じこもって二度と出てこない。千雪がそんな気持ちになったのははじめてのことだ。正確に云えば、強制的にそんな気持ちにさせられている。
 建留が千雪のほうを向きかけたとたん、うつむいて視線を避けた。
「瑠依、いまおれが云ったことを全然わかっていない」
「わかってないのは兄さんのほうだな」
「旭人?」
「だれがだれを好きか、なんてけっこう単純にわかるけどね」

 すべてが最悪に思えた。
 とにかくこの場を立ち去りたい。その一心(いっしん)で千雪は身をひるがえした。
 すると、二歩め、すぐ目のまえに滋と茅乃がいるのに気づいた。とっさに頭をよぎったのは、聞かれた、ということ。滋はうろんな眼差しで千雪を窺い、祖母の茅乃は険しく眉間にしわを寄せている。
 思うだけにとどまらず、本当に最悪だった。

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