ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第6章 Broken Side

4.ドールの涙

 梅雨に入って、しとしとというよりもじめじめとした雨がうっとうしい。加納家の敷地を囲む壁が見え始めると、運転手の松田に聞こえないよう、千雪は密かにため息をついた。
 昼間もそうだが、夜になると所々にある外灯が、ダイヤモンドのように光る雨粒と相まってロートアイアンの柵を優雅に浮かびあがらせている。
 建留と普通に出会って、普通に恋い合っていたら――もしくはそれ以前に、出会うこともなくて一方的な片想いであったら、この優雅さに千雪は素直に憧れたかもしれない。
 ここに帰ってこなければならない。そんないまは毎日が苦痛だ。いっそのこと、出かけないほうがらくじゃないかとさえ思う。
 この十日ほど、大学に行けばほぼ毎日のように外食して、千雪は家に帰るのを先延ばしにしている。それに付き合う栞里はさすがに不審に思い始めた。建留の帰りが遅いから、とごまかしているが限度はある。
 期限付きの結婚という話をすれば、同情は避けられず、その裏返しで惨めな気分にさせられるかと思うと、それは千雪にとっていちばんありがたくない感情だ。身の程知らず、その言葉をすっかり見逃していた自分がだれよりもいまは大嫌いだ。だれにも関心なんて持たれなくていい。

 車庫に車がおさまると、松田が後部座席のドアを開けるまえに千雪はさっと降りた。
「松田さん、ありがとう」
「千雪さん、傘を」
「大丈夫」
 松田が引きとめるのをさえぎると、千雪はバッグを雨からかばうように小脇に抱えて玄関へと駆けだした。
 およそ二カ月まえは、こんなふうに走ることも咳をすることも痛みを伴っていた。いまはなんともなく、ろっ骨は治っている。肩の脱臼はまだリハビリ中だが、無理な運動を避ければ日常生活は問題ない。
 玄関に入ったと同時に、奥からやってくる建留が目に入った。今日は早く帰っていたようだ。
 建留が遅いというのは、実質的には嘘でもなんでもない。やはり、ロンドンから帰ってよけいに忙しくなっている。旭人によれば、成果を上げたぶんだけ、さらに枢要(すうよう)な仕事を任せられているらしい。おまけに、海外事業部というせいだろう、勤務時間がフレックスだ。

「なんでこんなに遅い?」
「こんなに、ってまだ九時だけど。もっと遅く帰る子もいるよ」
「千雪のことを話してる。ほかのだれかがどうだろうとどうでもいい」
 建留はにべもなく、千雪の主張を退けた。以前には聞くことのなかった、苛立った云い方だ。
 千雪はそっぽを向いて靴を脱ぎ、廊下に上がった。
「ちゃんと加納家に帰るんだし、それでいいよね」
 すれ違いざま、建留が右腕を取った。瞬間的に千雪は首をすくめ、躰をこわばらせる。すると、建留はぱっと手を離した。
「千雪」
 それは怪訝な、いや、どうかすると怖れが潜んでいるような懸念を抱いた声だ。思わず見上げると、建留は瞳を陰らせ、痛みを堪えていそうにわずかに顔を歪めている。
「なんともない。一カ月固定されてたし、そのあともへんに動かしたり当たったりしないように気を遣ってたから癖みたいなもの」
 建留は転落事故を心底から自分のせいだと思っている。千雪がそう云うと、建留は首をかすかに傾けた。
「癖?」
 そのしぐさどおり、発せられたたった一単語は問い返すように聞こえて、どこかふたりの考える位置が咬み合っていない気がした。千雪は肩をそびやかす。
「リハビリも慣れてきたし、痛くはないから」
 建留は奇妙な気配で黙りこんだ。実際は一瞬で、そう感じたのは千雪の気のせいかもしれない。
「髪が濡れてる。風呂に入ったほうが――」
「風邪なんて、そんな簡単に引くほど弱くない」

 建留の機先を制すると、千雪は階段へと向かう。その矢先、茅乃の姿が目についた。いつからいたのだろう。つぶさに観察するような眼差しは嫌いだ。
「ただいま」
 本当はそんな挨拶言葉さえも云いたくない。
「おかえりなさい。今度は夜遊び? お里が知れるわね」
「おばあさま」
「一カ月後にはパーティが控えてるのよ。粗相のないようにしてちょうだい」
 建留の呼びかけを一目して退けた茅乃は、云い捨ててリビングに消えた。
「もうパーティなんて出ない。どういう目に遭うかわかってるから」
 建留に背中を向けたまま、千雪はすべてを蹴散らすように云い放つ。

 建留は引きとめなかった。それは皮肉にも、千雪が傷ついていることを知っているからに違いない。
 今度は――と、茅乃がそう云ったのは、“お里が知れる”前科が千雪にあるからだ。
 退院した翌日、『退院おめでとう』というおざなりの祝い言葉の次に、『手段を選ばず男の同情を引くなんて血筋かしら』と、茅乃は麻耶のことをほのめかしたのか、千雪にそう云った。
 一週間ちょっとまえ、二十一日の建留の誕生日には、夕食に呼ばれた瑠依が甲斐甲斐しく茅乃に付き添っていた。食後、取り分けられたケーキを配ろうとすれば、瑠依ちゃんの役目だから、と千雪はあからさまに茅乃から部外者扱いをされた。
 建留はすぐさま、おれはいらない、とはね除けたあと、仕事を口実にしてちょっと手伝ってほしいと云って千雪を連れだした。茅乃に云われたことがずっと頭にあって、同情を引くことは絶対にしたくなかったから逃げないつもりだったのだが、建留の強引さは千雪にとって救いだった。
 けれど、やはり千雪は建留の同情を引いて映るのだろう。茅乃の千雪を見る目はだんだんと冷酷になっていく。
 ことごとく茅乃は千雪を傷つけようとしている。意志を持って――そんなふうに感じている。
 階段を上ると、千雪は建留の部屋に入った。
 千雪を独りにしたことを後悔している建留は、退院後、もとの部屋に戻ることを許さなかった。それで建留の気がすむのなら――というのは建て前で千雪の本音は浅ましい。同情を嫌いながら利用していることは否めない。
 あきらめの悪い本音とは裏腹に、同じベッドに眠っても、たった十センチというふたりのすき間はまるで穴が開いているように冷たい風を感じる。
 不愉快さを抱えて連絡もせずにただ待ち、遅くても千雪が帰ってくるとわかって、建留ももう気はすんだはずだ。

 入浴をすませて、千雪は建留の部屋ではなく自分の部屋に戻った。
 喚起もしているし、ふとんも定期的に手入れされているから問題なく心地いい。ただし、身体的にというだけであって、心境は六月の雨空のように重苦しい。
 明日の準備をするのに、大学のテキストやら身の回り品を取りにいこうと内ドアから建留の部屋に入った。
 机に着いていた建留は振り返って、千雪の姿を追う。さながら、人からレオパード化している。テーブルに置いたテキストをひと纏めにして抱えこんだとたん。
「何してる」
 牙を剥いたような声が飛んできた。

「わたしの部屋に戻るだけ。夜中に逃亡なんてしない。怖かったり痛かったり、好きじゃないし……わかってると思うけど」
「千雪」
「何?」
「おれは当てにならない?」
 そう問いかけてくる建留の心中はまったく見えない。ただ、本当に云いたいことは違うのではないかと思った。
「当てにしていいなら……今日、栞里が云ってた。商事に就職したいんだって。コネ入社できるんでしょ?」
 建留が真剣に訊ねていることをわかっていながら、千雪はあえて自分のことから逸らした。
 不機嫌になって苛立つかと思ったのに、建留は笑った。皮肉っぽい笑い方ではなく、皮肉そのものの笑い方だった。
「二年したら、おれたちはどうする?」
 話はもとに戻されたのか逸らされたのか、建留は自分のことまで千雪にゆだねるという、他人事のような訊き方をした。
「わたしは出ていく」
「わかった」
 歪んだ笑みを浮かべたまま、あっさりと、そして素っ気なく、建留は答えた。

 建留の変化は薄々感じている。
 千雪に対してとかだれかに対してとかいう限定的なものではなく、建留はパーフェクトであることに背中を向け始めている。そんな印象を受ける。伴って、近づきにくい気配を身に纏った。毛を逆立てて襲いかかろうとしているわけでも息を潜めて警戒しているわけでもなく、顎をすっと持ちあげるという排撃性と気高さとどちらだろうという紙一重の様で、心を動かすことなくただ眺めている。
 千雪に、と限定すれば気配りは欠かさず、むしろ、良くも悪くもずっと建留の視界に入っている感じだ。
 ふたりの部屋を往復すること三回、その間、椅子の背にのけ反るように背中をもたれて、建留は千雪を追っていた。
 変わったから、と、それが嫌いになるきっかけにできたらいい。そう思うほど、好きという気持ちは千雪のなかから消えても変わってもくれない。
 ふとんのなかでため息をついた。そうしても心のリセットができないほど吐息はおぼつかない。呼吸がふるえているのは気のせいだ。千雪は自分に云い聞かせた。笑うことも泣くことも制御できると思ってきたのに、ふとした瞬間にたまらず泣いてしまうことがある。建留のまえで泣いたときから。
 普通が普通じゃなくなる。そんな予感は的中して、いま、いろんな意味でそうなった。

 照明を消そうと、千雪は寝そべったままベッドヘッドに左手を伸ばした。すると、ドアの開閉音が聞こえ、手を引っこめて起きあがろうとした。それより早く、ふとんがはぐられる。
 状況を把握するまえに千雪の膝の裏をすくいあげながら、建留が乱暴にベッドにのってきた。ベッドがひどく揺れて、思うように抵抗もできないうちにフレアパンツとショーツが一緒に取り除かれてしまう。脚が広げられると、建留はその間におさまった。
「建留!」
「ヘンに動くな」
 いまの千雪を縛るには効果的な言葉だ。肩に痛みはなくても、気をつけるようにドクターからは云われていて、自分でも窮屈なほど気をつけている。そうしたくなるくらいの激痛だった。
「建留、こんなことしても意味ない!」
 千雪の訴えを無視するつもりなのか、ただ黙らせるためか、建留は身をかがめてきたと思うとくちびるを合わせた。Aラインのパジャマの下に手が潜りこんで胸をそれぞれに強くつかむ。

 荒っぽいキスも、懲らしめるような手の動きも、応えちゃいけないと思う千雪にとっては理性を保つための救いになった。
 ただ、二カ月の間ずっと触れられていなくても躰は建留を記憶している。日本とロンドンという離れ離れだったときもそうだった。
 思考と切り離されて躰はきっと応じている。建留が千雪の領域を侵してきても痛みも引きつった感じもなかった。
 部屋のなかは、建留のこもった呼吸と、建留の律動にいざなわれて漏れる千雪の吐息、そして、蜜を弾いているようなかすかな音がはびこっている。それらは不協和音を奏でていて耳障りでしかない。
 何かに突き動かされるようにしていた建留がふと静止した。しばらく無音が続いて、千雪は目をゆっくりと開いていく。連動するように建留が上体をかがめてくる。

「千雪は精巧にできたリアルドールだな。感情は欠けていても、セックスするにはなんの問題もない」
 嘲るように聞こえた。そして、建留はとどめを刺すように嗤う。
「けど、おれ用として与えられたリアルドールだ。リサイクル品を買うなんていうバカな奴はいない」
 込みあげてくる熱の塊を、千雪はくちびるを咬んで飲み下した。
 建留の痕跡が刻まれて忘れることのできない躰が厭(いと)わしい。けれど、けっして心と躰は切り離されていない。ほんの少しまえまで心地よかった音がいま耳障りになったのは、躰よりも心が応えたがっていて、それを認めたくないからだ。建留はその心を否定した。
 放して。そう云うこともかなわないまま、建留は再び律動を始めた。咬みしめたくちびるが息をせき止めきれないほど、激しく突かれて、それは建留の果てがまもなく訪れることを知らせている。
 このまま……?
「た、つ……るっ、んっ……ひ、に……をっ」
「おれ、の、しるし、だ」
 建留は途切れ途切れに吐いた。抑制した唸り声が真上で漏れた一瞬後。
 だめっ――それが声になる暇もなく。
 体内の最奥で建留のモノが痙攣する。ホテルですごした蜜月のとき以来の、くすぐられるような感覚が千雪の躰をふるわせた。

 慾を吐き尽くして、建留は千雪の首もとと腰の下に腕を潜りこませながら伸しかかってきた。耳もとに届く荒い呼吸に合わせて、タフな躰が繰り返し千雪をベッドに押さえつける。
 抱いてほしい、そんな気持ちは掻き消せなくて、挙げ句の果てに、自分に呆れて、背中を向けられたようなさみしさと、区切られた時間があることの苦しさが相まって、傷みが目の隅からこぼれ落ちる。

 建留が呻いた。
「意味のないことはないんだ。おれにとって」
 くぐもった声は自分は人間だと訴えている。そんなことは、わかっている。
 千雪を抱きしめる腕は、ひどい言葉とは裏腹に、千雪がドールじゃないと認めている。
 けれど。

 ドール同士のふたりは、最初から引き裂くために結婚させられた。
 本物のドールのように感情が欠けていたらよかった。

 ドールハウスに温もりは似合わない。

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