ミスターパーフェクトは恋に無力
第1部 PrimDoll
第6章 Broken Side
3.ドールの涙
これから、どんな顔をしてここにいられるだろう。
そう考えたら、ここには――ほかならともかく、建留の部屋にはいられないと思った。
くるりと躰の向きを変えたとき、廊下側のドアが開く。つい目を向けてしまったそこには建留がいた。
目を逸らす寸前に千雪の脳裡にとどまった建留は、手負い猪(ておいじし)みたいに警戒と迎撃心を抱えつつ、孤影を纏って見えた。
――違う。不条理にダメージを与えられたのは千雪のほうだ。少なくとも、建留は知っていて、千雪は知らなかった。ふわふわのクッションだと思っていた場所は氷晶(ひょうしょう)の集まった雲にすぎなくて、いつの間にか夢を見て乱暴に叩き起こされて地上に堕ちた。
「千雪、聞いてほしい」
「聞かなくてもだいたいわかったから。瑠依さん、建留に用事があるみたい」
千雪はふたりの部屋を繋ぐ内ドアへと向かった。すると、二歩めで荒っぽく腕が取られる。
「聞いたのか」
「……何を?」
試すような質問には質問で返した。口調と同じで眼差しも鋭く変えている。
「瑠依からなら、おれは用事がない。夕方……千雪にメールしたあと、電話があった」
「……それなら、わたしが実家にいるってことを、おばあちゃんが知ってるってことも知ってたの?」
建留の顔を、苦虫を咬み潰したような表情がよぎる。
メールのあとの電話で建留の様子がおかしかったのは、瑠依から電話があったせいなのだ。
「千雪――」
「そうやって建留は何もわたしに教えない。隠し事ばっかり。わたしに関係することならちゃんと話してほしかった。わたしだけバカみたい!」
「おれはバカにしてない」
建留はどこか躰に痛みを感じるかのように顔を歪めながら、即座に弁明した。
「それなら、四年てなんのこと? 結婚に期限があるなんて、わたしは聞いてない」
「そうだ。千雪とおれの間には、聞いてるか、聞いていないかという違いしかない。最初から、おれにとっても結婚に期限はない」
「建留は嘘吐き」
千雪は建留の手から腕を引っこ抜いた。
「嘘じゃない」
「結婚を代償にしたメリットは何? わたしを嫌いなのに、おばあちゃんが結婚を認めたのはそれが理由でしょ?」
「メリットは、じいさんの保有株をすべておれが相続する権利だ」
「……どれくらいあるの?」
「二億株。いまの時価総額で二千億になる」
一瞬、淀んだ感情を忘れ去るほど千雪は呆気にとられた。それがあったら何がどこまでできるのか想像もつかない額だ。それを事もなげに口にしてしまう建留は、やはり千雪とは思考のベースも次元が違う。それに、茅乃が納得したこともうなずける気がした。
「おばあちゃんが望んだこと? 建留が望んだこと?」
「おれは、じいさんも加納家も当てにしてるつもりはない」
建留が云いきったところで千雪は少しもうれしくない。なぜなら。
「建留はおばあちゃんの人形だって。瑠依さんが云ってた」
建留のたったいまの発言はそれを裏づけた。建留は茅乃の意向で千雪と結婚したのだ。
建留は肯定も否定もせずにじっと千雪を見つめている。なんの感情もなく、かと思うと、目を逸らしてまたすぐに戻し、皮肉めいた笑みを漏らす。なんに対してか、あるいはだれに対してか、苛立たしそうな雰囲気だ。
「云い訳をするなら、結婚を最初に提案したのはじいさんだ。ばあさんじゃない」
「なぜ、おじいちゃんはわたしを条件にしたの?」
「ばあさんを説得するためだ。じいさんは、実質的に千雪を加納家の人間にしたがっていた」
滋と茅乃の意思が働いて成り立った結婚。それは、スープをゼラチンで固めたアスピックのように、見た目はお洒落でも詰まらなくて味気ない。
「……御方になるって云って結婚したのは同情?」
そう訊ねた直後、それは否定してほしいという千雪の願望にほかならないと気づいた。完璧に振る舞う建留の答えは見当がつく。あきらめきれない自分が自分を惨めな気分にさせた。
「もういい」
建留が何も云いださないうちに千雪はさえぎって、躰の向きを変えた。
すると、再び腕が取られる。
「千雪、家を出よう」
「あと二年だけ?」
建留はやりきれないように顔を背けた。「確かに、おれはばあさんの人形なんだろうな」とつぶやくように云ったあと、千雪に目を戻して射貫くような眼差しを向けた。
「けど、結婚に関してはおれの意思でもあった」
「“でも”あった?」
「いま、正直に云ってる。結婚することに、それぞれ思惑があったのは否定しない。おれは最善策をとったつもりだった。けど……千雪に話すのをためらった時点で、それは最善策じゃなかったんだろう」
「おばあちゃんがわたしを嫌ってる理由は何?」
話してくれたら――そう思ったのに。
「理由がなんだろうと、こうなったいま、千雪がよけいなことを知る必要性はない。知っても変わることはないから」
それは茅乃をかばっているように聞こえた。建留に云わせれば、茅乃は千雪を嫌っているわけではなく、それでも邪険に扱われているという矛盾。すなわち、理由は理不尽だということになる。
「建留は、正直に何も云ってない。やっぱり嘘と隠し事」
「隠し事はあっても嘘は吐いていない」
お父さんは病気なの。そう云われながらやってきて、学校から帰ったときにたまに『おかえり』と芳明から声をかけられると、ちょっと良くなっているのかもしれないと千雪は期待した。けれど、それはエンドレステープと一緒で、ループ上をぐるぐるまわっているだけだった。
建留は隙がなくて、だからこそ、雰囲気を変えることにどこか本心を隠している気がしていた。それでも信じたのは好きという気持ちのせいだろうか。ここで建留を信じて、もしまたループ上にいると気づいたら、本当にドールみたいに中身が空っぽになりそうな気がする。
その怖さを振り払うように、精いっぱいの虚勢を張って千雪はつんと顎を上げた。
「あと二年必要なら、そうしてあげる」
「放棄する」
建留は千雪の言葉に被せながら云いきった。
「なんのこと――」
「相続権を放棄する。おれは終わりにはしない。やり直させてくれ」
信じたい気持ちが強ければ強いほど怖くなる。
「もういい!」
千雪は建留の手を振り払う。が、今度は簡単にいかず、建留は口調と一緒で断固として千雪の腕を放さない。
「放して」
建留は微動だにしない。
「この部屋にもういたくなんかない。放して!」
睨み合いのような間を置いて、建留の手が離れた。
千雪はその瞬間、放してほしくなかったという、自分の踏ん切りの悪さを知った。自分の意思では足が動かなかった。千雪を追いだしたのは、好きという未練を見抜くような建留の眼差しだった。
風呂に入って寝る支度をして、ベッドに入っても眠れそうになかった。
痛いほど躰を洗っても、建留に抱かれた記憶は躰から消えてくれなくて、目をつむっても、建留のシニカルな笑い方は脳裡から消えてくれない。
結婚して一年、ふたりで眠ることがあたりまえになって、そのあとの一年の半分以上は独りで眠ったけれど、千雪は意識しないまま建留のベッドとその薫りになじんでいた。いまは他人のベッドに潜りこんだかのように心地が悪い。
これから二年、こんなに近くにいて耐えられるのか心もとなくなる。けれど、千雪のせいで建留に相続権を放棄させるなんてしたくない。
姿を見たらきっと苦しくなる。いっそのこと離れていたほうがましな気がする――とそう思ったところで、ふと千雪はベッドの上に起きあがった。
離れて暮らせばいい。
良案だと思えた。同時に、だれかに鼓動を牛耳られたように胸の奥がきゅっと痛む。
それを押しやって、千雪はパジャマから外出着に着替えた。実行に移すまで、みんなが寝静まってからという体裁をつけて、あきらめが悪くぐずぐずしていた。
ようやく思いきれたのは日付が変わった一時すぎで、千雪はバッグを覗いて須藤家の鍵が入っているのを確認すると、そのバッグだけを持ってそっと部屋を出た。だだっ広い家は薄気味悪いくらいしんと静まっている。
不必要に音を立てないため、ドアは最後まで閉めずに部屋をあとにした。
階段まで、千雪の動きに反応してスポットライトが次々と案内してくれる。その灯りが部屋のなかへと漏れるはずはないが、だれかを起こしてしまいそうで、せめてと呼吸を止めながら千雪は進んだ。
やっと階段の縁まで来て、呼吸ができそうだと思ったそのとき――奥のほうが明るくなるのを目の隅で感知した。ハッと息を呑みながら顔を向けると、どちらが早かったのか――
「千雪」
建留が半ば叫ぶように千雪を呼んだ。
一方で、振り向き方が中途半端だったせいで、軽く挫(くじ)いていた足首がぴりっと痛み、千雪はバランスを崩した。階段側に躰がかしいで、とっさに躰を支えようとした足がまた痛み、堪えきれなかった。恐怖に息を詰め、千雪はぎゅっと目をつむる。
「千雪!」
うるさいくらいの叫び声が廊下を突き抜ける。
刹那、千雪の躰は浮いた。
躰を丸めたのは本能だろうが、最初の一撃は肩の骨が折れたんじゃないかと思うほどひどく、それからも階段の縁が躰を何度も打つ。幸いしたのは、横向きに落ちたことと、踊り場のある階段で、高さがそれほどなかったことだろう。
躰が踊り場に受けとめられたなか、床から振動が伝わってくる。横向きに倒れたまま、ゆっくり目を開いた。
「千雪!」
声と同時に、上側になった左の頬が温かくくるまれる。
躰のあちこちが疼いて、それ以上、動くのも声を出すのも怖い。
「千雪」
「なんだ。どうしたんだ」
建留の声に重なり、もっと上のほうから孝志の声がする。
「千雪、息をしろ」
そう云われて、自分が息を止めたままだと気づく。命令口調のなかに懇願を感じて、応じなければと思う。千雪はゆっくりと息を吐いた。脇腹が少し痛んで呻く。
「どうした!?」
階段の上から、驚愕した孝志の声が届いた。続いて、「なんだよ」という旭人の声と「あなた?」と問うような華世の声がする。
それらをさえぎるように「救急車を呼んでくれ」と建留が訴えた。
「どこが痛む?」
千雪に向き直った建留は囁くような声で問いかけた。
「わから……ない。全部……」
千雪の痛みが伝染したように建留が呻く。
「大丈夫だ。息してる」
それは自分に云い聞かせているようだった。
千雪は肩の激痛で動けず、建留もまた動かさないほうがいいと判断し、華世が持ってきたブランケットを千雪の躰にかけて救急車の到着を待った。
救急車が来るまでも、運ばれるときも、傍にいてもなんにもならないのに、建留は千雪の手を握ってそうしていた。
その実、建留が傍にいること、それがなんにもなっていないと云いきるにはおぼつかない。加納家で千雪が気を張らなくていい相手はやはり建留だけで、起きだしてきた滋と茅乃をなだめすかして遠ざけてくれたときはほっとした。
そんな安心以上に、認めたくないほど心底では傍にいてくれることがひどくうれしくて、だから、そんな自分にひどく落胆する。やっぱり離れるならいまそうするべきだと決心する。
病院へ行くと、CT検査をしたすえ、右側の肩関節脱臼(だっきゅう)とろっ骨にひび、ほぼ全身に軽度から中度の打撲(だぼく)、そして、こうなった大本の足首を捻挫(ねんざ)していることがわかった。
肩の脱臼は、軽く麻酔のかかった状態で整復され、それから固定された。ろっ骨をカバーするのに胸の下にもバンドを巻かれ、足首には冷感湿布を当てられている。あとは自然治癒を待つしかない。安静状態を維持するのに三日間だけ入院することになった。
鎮静剤を打たれて肩の脱臼も治って、激痛からは逃れたものの、上半身が固められて不自由な感じがした。
車椅子に乗って用意された病室に行くと、建留に抱えあげられてベッドに横になった。建留は、症状や完治までの経過など、医者への質問をするくらいであとは黙りがちだ。
千雪はずっと付き添っている建留を見上げた。
「もう大丈夫」
看護師が出ていってから、暗に帰っていいとほのめかすと、無口なことと連動して無にした顔にちらりとなんらかの表情がよぎった。機嫌を損ねたようだ、と思ったとおり。
「ふざけるな」
仏頂面な答えが返ってきた。それから何を思ったのか、顔をうつむけて大きく息をつくと、建留は再び顔を上げる。
「怒ってるわけじゃない。心配してるんだ。あと二時間もすると夜が明けるし、今日は泊まっていく」
建留は弁明すると、千雪のベッドより奥にあるソファを指差した。
ここは個室といっても特別な部類に入るだろう。病室らしいのはこの機能的なリクライニングベッドだけで、全体的にちょっとしたホテル並みの内装になっている。
「重病じゃないけど」
「パジャマ姿でタクシーに乗れってことか」
パジャマよりはトレーニングウェアといっても通じる恰好で、タクシーに乗っても支障があるとは思えない。わざとそんなふうに云ったのか、千雪は現状を忘れて、笑うまではしなかったものの可笑しくなる。
けれど、建留の次のひと言でまた現実に戻された。
「出ていくつもりだったのか?」
「……あと二年、離婚しないといいだけだし。おばあちゃんが云ったこと、そんなふうに聞こえたから。加納家は嫌い」
「だから家を出ようと云ってる」
建留はあきらめたわけではないらしく、また話を蒸し返した。
その話は終わったこと。千雪はそう訴えるかわりに何も応えなかった。
ふたりで暮らし始めたら、たったいま笑わされそうになったように、きっとまた千雪は建留を信じたくなって、そして勘違いしてしまう。
建留は小さく息をつき、ベッドの足もとのほうをまわってソファに近づくと、どさりと腰をおろした。
「死んだかと思った。そうじゃなくてよかったってほっとしてる。痛い目に遭わせて悪かった」
千雪がソファのほうに顔を向けると、建留は本気で自分のせいだと思っているらしい面持ちだった。どんな気持ちからそうなるのだろう。それも、完璧さゆえのやさしさからくるのか。いや、それは本当のやさしさではなく、ただの配慮だ。
「建留のせいにしたってなんにもならないから」
千雪はぷいと顔を反対に向けると目を閉じた。
「出ていかせない」
唐突でこわばった言葉は、断固として聞こえた。
思わず千雪が顔を向けたときは、建留はソファに寝転がっているところで、その表情から意思を読みとることはかなわなかった。
眠いという感覚はなく、逆にこれからのことを考えて眠れないかと思っていたのに、鎮静剤が効いたのか、千雪はいつの間にか熟睡していた。
朝になったことも気づかず、早朝、看護師が定期的な巡回でやってきたときも夢うつつで応じた。はっきりと起きたのは十一時直前で、食べそこなった朝食がそのまま横の棚にのっていた。
病室にはだれもいなくて、首を巡らしてソファを見ると、ブランケットは畳まれて隅のほうにある。
千雪が感じたのはさみしさなのか安堵なのか。感情を閉めだすように千雪は目を閉じた。そうしたこと自体、自分で認めたくない気持ちが潜んでいるという証明だ。
ずっと仰向きのままでいた千雪は少し身じろぎをしてみた。さっき首を動かしたときも本調子じゃないと感じていたが、動いたとたん、あちこちがまるで機械のように軋んで痛みに襲われた。呻き声が我慢できなかった。
それから息をひそめるようにして疼痛(とうつう)が治まるのを待つ。その間、普通に動けるようになるのだろうかと疑った。本当は何かしらの異常があって入院させられているのかもしれない。そんな不安を抱えた矢先、病室のスライドドアが開いた。
「建留、わたし、ちゃんと動ける?」
その姿を把握したか否かのうちに、とっさに訊ねると、建留は一瞬戸惑ったように立ち止まり、そしておもむろにベッドに近づいた。
「痛むのか? 全身打撲してるんだ。動きづらいとは思うけど良くなる。千雪が心配するような後遺症はない。肩の脱臼は気をつけないと癖になるかもしれないけど」
建留は千雪の不安を的確に察していた。
力尽きたようにうなずくと、建留の服が違っていることに気づいた。着替えに帰ったのか持ってきてもらったのか、Tシャツにカーゴパンツという、パジャマには到底見えない恰好だった。
「千雪、大丈夫か」
それは滋の声だった。建留の陰になって見えなかったが、建留がベッドの反対側へまわると滋の姿が現れた。小難しい顔をしてベッドの脇に立つ。
「心配かけてごめんなさい」
昨夜、滋は倒れている千雪を見て何を思ったのか、叱るような声音で建留に状況の説明を迫っていた。建留は手短に事故の状況だけ説明してあしらっていたが、滋が声を荒げたのは心配したせいだとわかっている。
「無事ならいい」
建留が持ってきた椅子に腰かけると、滋は何か云いたそうにしながら難解だといった様で建留を見やる。そして、千雪に戻った。
「出ていくつもりだったらしいな」
おもむろに切りだした滋はいまにもため息をつきそうな気配だ。千雪は滋と反対側に戻った建留を見上げた。責めていると悟ったようで――
「手段は選ばない」
建留はしゃあしゃあと云いきった。
いずれにしろ、出ていけばすぐにわかることであり、無論、滋がそのまま千雪のことを放置することはないだろうし、どうせなら話をつけるのも早いほうがいい。昨日、夜中にパジャマ姿ではなかったことを考慮すれば、滋にも見当はついているかもしれない。
「……結婚して、おじいちゃんの望みは叶ったんだし、もう充分でしょ。なぜ、結婚までしなくちゃいけなかったのか全然わからないけど、もうわからなくてもいい」
千雪が投げやりに云うと、滋はしかめ面で首を横に振った。
「出ていくことはならん」
「お母さんのところに帰るだけ。おじいちゃんにもだれにも反論できない場所だから」
きっぱり正当性を主張したにもかかわらず、滋は険しさを崩さない。建留は口を出すふうではなく見守っている。
やがて、滋はまたちらりと建留を見やる。アイコンタクトを取っているようにも見える。滋は何か意を決したように息をついて、千雪に向かい、口を開いた。
「千雪、出ていくなら条件がつく」
「……何?」
「私の株の相続権を建留からおまえに移行する」
突拍子もないことに、千雪はまたもや呆気にとられた。ゼロがいくつあるのかわからない桁(けた)が浮かび、思うように動かないことも忘れて、ぱっと首をまわして建留を振り向く。
「気をつけろ。ヘンに痛める」
千雪が顔をしかめたことに気づいて、建留はすかさず忠告した。わざわざそんなことをしてしまった理由はわかっているだろうに、建留はそこを避けている。
昨夜、階段の踊り場に倒れているとき、茅乃の顔は見ていない。何を思ったのかはわからないし、想像もしたくない。それくらい、できるだけ遠ざけたいと思っているのに。
「ますますおばあちゃんに恨まれるし、そんなの、わたしには必要ない!」
「出ていかないんだな?」
「それとこれとは別。放棄できるから。建留はそう云ってた」
建留はあくまで引き留めるつもりだろうか。
なんのために?
その理由を一つも挙げられないうちに、建留は何かを振り払うように首をひねると千雪を見据えた。
「なら、出ていくための条件がもう一つある」
「何?」
「須藤家への援助をやめる。つまり、即、美容室は手放すことになる」
手段は選ばない。建留は非情にも千雪に突きつけた。
「建留はそんなことしない」
千雪は云ってしまってから自分で無防備すぎる答えだと思った。建留を嫌いになろうとしても嫌えない、そんな気持ちを曝している。それなのに。
「切り捨てることは簡単なんだ。そうだろ。現に、千雪はこの三年を捨てようとしてる」
建留はまるで気づいていないふうで、ぶっきらぼうに責めた。咬みつくような云い方で、あまつさえ、瞳にはこれまでにない頑固さのようなものが現れて、警戒でも敵対でもなく、突き除けるような気配を宿している。建留がそんなふうに千雪に向かったことはない。
簡単に切り捨てられないから離れようとしているのに。
「出ていくんなら、どっちか一つ選べばいい。将来、株を売り払えば、美容室なんてすぐ手に入る。売らなくても年一回、八億の配当金が入ってくる。それで充分だろう」
千雪は信じられない気持ちで建留を見上げた。気配りを欠かさない建留が滋をまえにして、平気で滋がいないという将来を口にした。
建留は何を試しているのだろう。もしくは、千雪が絶対に二つの条件を呑むはずがないと確信している。
建留がそんな提示をしてまで何を得たいのか。あと二年間、結婚を履行すると云っているのにそれだけの保証では足りなくて、茅乃の人形として滋の財産を確実に手に入れようとしているのなら狡猾(こうかつ)だ。
「どうして……そういうことするの?」
訊こうとして訊いたわけじゃない。思わず飛びだした言葉は、建留をかたくなにさせた気がした。さっきよりもさらに距離を置くような眼差しになった。
「別居はしない。それだけだ」
建留はぴしゃりと締め括った。その宣告は眼差しとは正反対の意で、千雪はますますわからなくなる。
「建留」
それまで見守っていた滋が戒めるような響きで建留を呼んだ。
「なんです?」
建留の云い方は絡むようだ。
滋は憮然(ぶぜん)として首を振りながらため息をつくと、建留では埒(らち)が明かないと思ったのか千雪へと視線を向けた。
「千雪、知ってのとおり、おまえたちの結婚は私が提案したことだ。私と茅乃の間にはいろいろあってな――」
「その話はいい」
建留は鋭くさえぎった。
滋はお手上げといったふうにため息をつき、「よけいなことを云うつもりはない」と建留を諭すと、また千雪に向かって続けた。
「茅乃の言動についてはすまないと思っている。私のせいだ。おまえたちの結婚に関して茅乃の意を汲もうとしたことは否定できないが、おまえについては、加納家にいて気兼ねさせたくないという考えがあってのことだ。そうなればいいと思いながらも、おまえたちに無理強いさせるつもりはなかった。建留が承知したときは、いい方向に向かうと思ったんだが……。私の考えに振りまわされることはない」
あらためて滋の口から聞かされると、絵空事のような結婚だったと思い知らされた。もう振り返らないほうがいい。千雪は自分に云い聞かせた。つらくなるから――そんな理由さえ消したいくらい苦しい。
滋は千雪の返事を待っているようだったが、しばらく沈黙が続くとあきらめたように吐息を漏らす。
「建留を悪く思うな。建留は――」
「よけいなことです」
建留はまたもや滋をさえぎった。
「建留、おまえはまだまだ若輩者だ。大人になれ。私も人のことは云えんがな」
滋はやるかたなく肩をそびやかすと、おもむろに立ちあがった。
「まだ二年ある。うまくいくことを願っている」
その言葉を残して滋は出ていった。
まだ二年――それはどうとでも取れる。前向きに受けとれば、二年の間にうまくいくよう、ということだろうが、二年をとにかく乗りきればいい、とも取れる。
前向きに。自分はまた未練でしかない言葉を使っている。
建留が窓際に行き、ソファに腰掛けたのを目の隅に捉えた。
ふたりきりの病室は、何か口にしたとたん、そのわずかな振動でぺちゃんこに潰れそうなくらい、ぎりぎりで周りの壁に支えられている。そんな気配に満ちた。
それから小一時間、無言の空気を振り払ったのは昼食の配膳だった。
建留からリクライニングベッドを起こしてもらって、なかなか食の進まない昼食をすませて間もなく、食事のトレイを戻しにいったかわりに、建留は麻耶を連れてきた。
「千雪、大丈夫なの」
病室に入るなり、心配してのことだろう、いきなり責めた声が降りかかった。
麻耶が来るとは思っていなかったが、母親に報告しないのもおかしなことになる。建留が連絡したのだろうが、連絡すれば麻耶が飛んでこないはずはない。それを千雪に黙っているなんてどういうつもりだろう。何も結論づけていない、重大なことがあるのに。
「ちょっと痛いけど大丈夫」
正直に云ったほうがいいと思って答えると、麻耶は胸を撫でおろしたように息をついた。
「階段から落ちたって聞いたけど、どうしたの? 千雪はどんなことでも慎重なはずなのに」
そのとおりだ。けれど、建留に対してだけは慎重になれなかった。
麻耶は理由までは聞いていないらしく、千雪は建留に目を向けた。何を云ってもかまわない、千雪次第だ――とそう云っていそうな瞳に合った。二者択一の条件がちらつく。
「お酒……飲んでて酔っぱらってたかも。足を挫いてたし、ちょっと踏み外したみたい」
千雪は結局どちらも選択しなかった。それ以前に、選択肢は千雪にとって論外だ。
「夜中に?」
「今日も休みだし、遅くまで起きててもいいでしょ」
「おれが悪いんです。ついていればよかった」
建留はすかさず口を挟んだ。麻耶は首を横に振り、やっとひと息ついたふうに微笑んだ。
「間が悪いことはあるわよね。電話を受けたときは一瞬、何かトラブルでもあったのかと心配してしまったわ。でもケガしたのは夜中だから、トラブルの相手は建留さんしかいないはず。そう考えたら、ふたりに限ってひどいけんかなんてしないだろうって思ってはいたの。明日には退院できるってことだし、よかったわ」
「うん」
「千雪。お母さんが来ている間に、おれは食堂で食べてくる。ベッドはこのままで大丈夫か」
「うん」
うなずき返した建留は「ごゆっくり」と、千雪が二つの条件をともに選択しないと確信したのか、千雪と麻耶を残して出ていった。
「千雪、今日のことは問題ないとして、困ったことがあったら云っていいのよ。あなたはなんでも我慢してしまうから。建留さんが二重人格じゃないかぎり、困っても建留さんで充分なんでしょうけど」
麻耶は肩をすくめておどけた。今回のことで麻耶が千雪の云い訳を疑っていないことだけははっきりして安堵した。
「うん。お母さん、美容室は?」
「大丈夫よ。お父さんと石田さんがいるし、ちゃんと時間を見計らって来たから」
「お父さんと石田さんて、うまくいってる?」
「まったく、ね。不思議よね。一つのことがうまくいくと、次々にうまく繋がっていくんだわ」
「経営もうまくいってるんだよね」
「昨日も訊かなかった? 大丈夫」
うまくいっていることをそこで絶やしたら、きっと今度はうまくいかないことばかり繋がっていくのだろう。千雪が相続の権利を受けとるとして、再び店を持ったとき、同じようにうまくいくとは限らない。何より、滋の死を待つようなことはしたくない。
建留が食事から戻って間もなく、麻耶は明日の退院まえにもう一度来ると云って帰っていった。
麻耶を送ったあと、再び建留は病室に戻ってきた。
「建留」
近づいてきた建留はベッドの脇に立った。千雪を見下ろした眼差しは、どことなくかまえている。
「何?」
「お母さんには云わないでくれるよね。四年で結婚が終わるってことも、条件のことも。ちゃんと加納家にいるから」
「終わらない」
それがなんのフィルターもない言葉だったらいいのに。
「……なんでだ」
建留が見たこともない苦々しさで顔を歪める。ベッドに腰をおろして、建留は気遣うようにしながら千雪を肩に引き寄せた。
「おれがやってることは……泣かせるためじゃないんだ」
呻くような声がそう云うまで、千雪は自分が泣いていることに気づかなかった。