ミスターパーフェクトは恋に無力
第1部 PrimDoll
第6章 Broken Side
2.パーフェクトの理由
千雪を助手席まで促すと、建留はダレスバッグを後部座席に放りこむように置き、運転席に乗りこんだ。
「仕事、終わった?」
「終わりはない。ひと区切りはついたけど」
めずらしく絡むような云い方だった。千雪は運転席を覗きこむように顔を傾けた。
「……建留?」
千雪のほうを向いた建留は、頭を下げかけてすぐ引き返した。同時にため息が漏れる。
「八つ当たりしてるかもしれない。腹へってるせいだな」
無言の問いにそう答えた建留は自嘲っぽく笑って、「夕食のまえにちょっと寄り道だ」と、エンジンをかけながら矛盾したことを云う。
「わたしはコーヒー飲んだし、あとでも大丈夫だけど、さきに食べたほうがよくない? 明日も休みだから遅くなっても平気」
「時間がないんだ」
建留はシフトチェンジをすると車をスタートさせた。見送る麻耶たちに手を振るとすぐ車は通りに出る。
「時間がないって何が?」
「当面、営業時間の問題だ。八時に終わるから」
建留の言葉はいちいち別の意味を含んでいるように聞こえる。やはり、二回めの電話からどこかおかしい。
「何かあったの?」
「何かを被(こうむ)るまえに方をつける。そう云っただろう。まずは、おれたちのことからだ。とりあえず、いまから行くところに何があるのか楽しみにしておけばいい」
素直に楽しみにするには建留の様子に危うさを感じて、あまつさえ、それが千雪に伝染して邪魔をする。それに、話す気はないというのがあからさまに伝わってきて、千雪はこっそりため息をついた。
沈黙したドライブのさなか、ふと耳になじんだ音に気づいた。なじんでいるから気づかなかったのだろうが、このところ千雪が気に入って聴いているバンドの曲が車のなかで流れていた。
「CDに落としたの?」
「春休みの間中、ロンドンで散々聴かされてたし、ないと耳がさみしいみたいだ」
千雪がCDを持ちこまないかぎり音が鳴ることもなかったのに――とそう突っこむのはやめておいた。建留も少なからず千雪に影響されているのだと思うと、ほっとするようなうれしさが込みあげる。
「夏にツアーあるって」
建留はちらっと千雪を見やる。
「行きたいのか」
「一回くらい、そういうの行ってみたい。建留は? 行ったことある?」
「ないな」
「やっぱり、建留は勉強と仕事ばっかり。興味なさそうだし、それなのに……」
一度やめた突っこみを云いそうになって、千雪は中途半端に口を閉じた。
「それなのに、なんだ?」
「べつになんでも……」
千雪は云いかけてまたやめた。車が地下の駐車場に入っていくが、そのまえにちらりと見えた社名は業平不動産だったような気がする。
「建留、まだ仕事?」
云った傍からこれかと、千雪は半ば呆れて無駄な質問をした。建留が仕事の間、地下駐車場で待つなんて、芳明と顔を合わせているのと同じくらい息苦しい。
「違う」
「だって、ここ会社のマークあった。本社じゃないみたいだけど」
「マンションギャラリーだ。いま新築中の物件がいくつか見られる」
「やっぱり仕事……」
「違うって云ってる」
建留はきっぱりと云い、空いたスペースに駐車すると躰ごと千雪へと向いた。
「千雪、加納家を出ようと思う」
唐突すぎて、千雪はぽかんと建留を見つめる。
「……え?」
「出るからには、住む場所を探さないと。業平不動産の物件に限られるけど、それくらいは譲歩できるだろう?」
呆気にとられた千雪に「降りて」と云った建留自身がさっさと車を降りた。
餌を待つ猫のように建留の姿を追う。そうしているうちに助手席のドアが開いた。腕が取られ、やっと千雪は気を取り直して車外に足をおろす。腕を引っ張られるようにして車を出ると、千雪は建留を見上げた。
運転席から助手席へと車をまわってくる様子が邪魔者を蹴散らすようであれば、車を出るよう促すしぐさも強引だった。警戒心をレオパードさながら丸出しにしていて、いまの建留は出会った日の雰囲気を彷彿させる。以前もいまも警戒心は千雪にではなく、特にいまは千雪は建留のテリトリーに含まれていて、その外側に向かっているというのはわかる。
いつでも反撃に出るといった、ぴりぴりと逆立てている毛をどうやって撫でよう。何かしらあったというのはわかっていて、まずそれを追究してみようと「建留」と呼びかけてみた。
建留はほんの少し首をかしげる。わずかなすき間を縫って心底に届いたような、耳を傾ける気配を纏った。
「何かあるんだったら――」
話して――そう云いかけた千雪の言葉は、首をさらに傾けて顔を近づけてきた建留が呑みこんだ。咬みつくようにしたくちびるの間から舌を出して、建留は千雪の口のなかにねじこんできた。背中が車に押しつけられ、車体の硬さと冷たさに呻いた声は建留がすくう。
建留の攻撃心はどこに向かっているのか。八つ当たりだと口にしたことを思えば、少なくとも千雪に非はないはずで、文字どおり歯を喰いしばって抗議を示した。それでもかまわず、建留の舌は頬とくちびるの裏側を這う。無理強いしたキスのわりに、乞うように熱っぽい。
その熱に負けそうになる寸前、地下駐車場にいきなり笑い声が響いた。千雪はびくっと躰が揺れるくらい驚いて、建留もまた素早く顔を上げた。
場所をわきまえないキスをやらかし、建留は自分をどう思ったのだろう。
「千雪のせいだ」
建留は少年っぽく人に責任をなすりつけてそっぽを向いた。やはりめずらしく、行こうと促すことも手を取ることもなく、建留は千雪を置いて歩きだした。その背中はふたりを隔てているように見えて、千雪を不安にさせる。
「建留!」
呼びとめたい、そんな気持ちが露骨に出ていたかもしれない。すぐさま建留は足を止め、三メートルさきで振り向いた。
しばらく、寄せつけないといったような刺を纏ったまま建留は千雪を見つめていたが、やがてため息をつきながら首を振ると薄らと笑った。
「自分のバカさかげんにうんざりしてるだけだ」
「わたしには話せないこと?」
「千雪に話さなくちゃいけないこと、だ。勇気を掻き集めてる」
それが仕事に対する発言ならすんなり納得できる。自信満々でやっているわけではなく、建留は努力の塊だ。けれど、千雪に対してならその発言は建留らしくない。強引に進めることのほうが多くて、気を配ることはあっても、ためらう建留を見たことはない。
“何かあった”ことに千雪が深く関連していることは確かになった。
「わたしは……不安にならなくちゃいけない?」
「そんな必要はない。……そう願ってる」
付け足した言葉が深刻なことだと告げているようで、千雪は目を伏せた。すると、足音が近づいてくる。
「おれは千雪に媚(こび)を売るためにいろいろやってるわけじゃない」
なぜ建留が千雪に媚びる必要があるのかという、そもそもの出発点がさっぱりわからない。千雪は顔を上げた。建留の口もとがわずかに弧を描いたが、ふざけているのでもからかっているのでもない。どこか思いつめたような瞳に映る印象とはちぐはぐに見えた。
口を開きかけると、さっき笑い声をあげたカップル――もしくは夫婦だろう、足音とともに姿が現れて、千雪は口を噤んだ。
「行こう。あと三十分だ」
建留は、今度はちゃんと千雪の手を取って出入り口に向かった。
一階に出ると、当然、建留の素性は知れていて、受付にいた二人の女性に親しげに迎えられた。あくまでそれは建留に対してだ。『お噂はかねがね』という最初の言葉を裏づけるように、三人が仕事に関する世間話みたいなものをしている間、千雪にはちらちらと好奇心たっぷりの目が向けられた。怪訝さとか反感とかいう負の感情がないぶん、ましだろうか。
館内には、説明やら相談やらそれぞれにコーナーがあったが、そういった面倒な前置きも付き添いもなく、ふたりは気ままに上階のコンセプトルームを見てまわった。
閉店間際で客は少ないから遠慮がいらなくて、モデルとして置かれたソファに座ってみたり、ドアを片っ端から開けたり、千雪は好き勝手に振る舞う。建留が、モデルルームの仕様を見るよりも、千雪を眺めやっていることには気づかなかった。
いちばん上から順番に下ってくる途中、そのフロアの一つの部屋をこれまでになくじっくりと見ている千雪を、建留はリビングの真ん中に立って窺う。
「気に入った?」
「上にあった、だだっ広い部屋よりすごくマシ」
ストレートに気に入っていることを示さない千雪の返答は建留を笑わせた。
「加納家のほうがもっと広いはずだけどな。狭いって云うかと思ってた」
「加納の家は使わない部屋のほうが多いし、普通に家とは思えない感じ。家のほうが主人で、人間はオマケみたいな」
建留は笑いだした。そんなに千雪の発言は可笑しかったのだろうかと思うほど笑いこけている。
「建留」
千雪は咎めた声で呼びつつも、建留から猛獣の気配が消えてほっとした。建留は含み笑いで締め括る。
「いや、確かにそのとおりだって思ったんだ。あの家はいつも冷めた目で人間を見つめている雰囲気がある。加納の家はだれよりも千雪と波長が合ってる気がする」
「わたしは全然合ってるとは思わない。ドールっていう共通ワードがあるだけ」
「なら、家を出ることにも賛成?」
家を出るということは、きっと不穏が生じているということ。実行したらそれが大きくなりそうで、延(ひ)いては建留と引き裂かれるようなことに及びそうな気がする。
加納の家は苦手でも、千雪は建留と一緒にいられるのならどんなことでも我慢できる。須藤家を訪れることさえためらっているように。
けれど、それを建留に伝えるには、千雪が拗ねた性格すぎた。
「……出られるんだったら……」
千雪がぼかして答えると、建留はやれやれという呆れた様で、なお且つおもしろがった面持ちで首をひねった。
「家のこと、ほかに要望とか譲れないところは?」
「キッチンは隠れる感じじゃなくて、リビングが見えるほうがいい。譲れないのは、こんなふうにリビングが真ん中にあって、どの部屋もリビングを通らないとだめっていうところ。あとは、朝日が入って南向きの明るい家」
「贅沢だな」
建留は可笑しそうにして、「いい感じだ」と賛同した。
家を出るのがいつになるのか、具体的なことは聞かなかったが、出るという建留の意志は固まっているようだ。
帰りに寄ったレストランは、オフィス街から少し離れたビルの十階にあった。この景色はどう思うかと訊かれて見渡した窓の外は、ネオンサインがうるさすぎず、適度に灯りが広がっていて落ち着く感じだ。千雪がきれいだと答えると、建留は、一室確保しておく、と告げたから、この辺りを購入するつもりなのだと察した。
そのときの千雪には単純にわくわくした気持ちがあったものの、家に帰り着く頃には現実的な弊害が浮かびあがってきて、心地いい酔いさえ冷めてくる気がした。
茅乃にはどこに出かけるにも、外出先を気にしている嫌いがある。千雪だけでなくだれに対してもまるで監視下に置いていて、それだけに家を出ることは許しそうにない。
「家のこと、すぐ話すの?」
まもなく家に着いて車庫から出ると、思いきって訊いてみた。外灯のなか、すぐ近くに立っていても建留の表情はあやふやで、聞こえた吐息が笑ったのかため息かは判断がつかない。
「そんなことで不安にさせるって情けないな」
「おばあちゃんがわたしを嫌いなのはどうして?」
一見、繋がっていない会話でも建留には通じているはずだ。
「千雪を嫌っているわけじゃない」
「じゃあ、お母さんを嫌っている理由は?」
「お母さんを嫌っているわけでもない」
それならどこに疎んじられる理由があるのだろう。だれにでもそんな態度なら建留の云い分もすんなりうなずける。けれど、少なくとも瑠依にはそうじゃない。
こんなふうに話してくれないから不安になるのに。
怒ってしまうのは贅沢かもしれない。そう思いながらも、拗ねた気分で正面に立った建留を避けるように歩きだした。とたん。
「千雪!」
五センチのヒールのバランスが崩れてよろけ、建留が素早く腕を取った。ぴりっとした痛みが足首に走る。
「酒を飲んでるから気をつけろ」
「飲ませてるのは建留!」
責任を押しつけると、今度は建留の顔がすぐ上にあって、笑ったのがわかった。
「おれのせい? キスとお酒でお相子だな」
キスはまるっきり濡れ衣だ、という反論を千雪がするまえに、建留は腕を放したかわりに手を取って、行こう、と歩きだした。
お酒を飲むのを建留のせいにするのは真っ当なはずだ。
誕生日が来て、お祝いだと建留からワインを勧められたときはためらった。ためらうというのは控えめな云い方で、千雪の心情としては拒絶といったほうが当たっている。芳明のことがあるからだ。
建留はそんな千雪の反応を察して、もしくはとっくに予感していて、自分の限度を知っておけば怖がることはないと諭したすえ、ワインを口に含んで千雪のくちびるをふさいだ。そんなキスに簡単に口説(くど)かれて、千雪もお酒を飲むことへの抵抗はそう感じなくなっている。ただし、安心できる場所でしか飲まない。
今日は建留と一緒だから安心しきって、カクテルを二杯めの半分くらいまで飲んでいる。ジュースみたいで、そんなに酔っていないつもりでも、強いからと建留が云ったとおり、通常どおりとはいかないかもしれない。
玄関に入って靴を脱ぎそろえたとき、静かな足音が聞こえた。
茅乃だ、と思ったとおり。
「建留、おかえりなさい」
と、千雪をそっちのけにして茅乃が呼びかけた。
「ただいま戻りました」
もう十時をすぎていて、いつもなら床に就いている時間というのにそれでも茅乃は起きている。そのことが千雪に嫌な予感を呼び寄せる。
「千雪さん」
と、茅乃の目がきっと向き、そして“おかえりなさい”もなく。
「わたしを騙(だま)して実家にいるというのはどういうことかしら」
問いかけつつも答えを期待しているふうではなく、ただ咎めるためだけの言葉に思えた。
「おばあさま、それは僕が――」
「建留。あなた、いくらおじいさまの財産を受けとるためとはいえ」
「おばあさま」
建留がさえぎるも――
「この子のわがままをきくことはないのよ。おべっかを使うこともないわ。結婚は成立しているわけだし、四年――いまとなってはあと二年だけど、あなたは待てばいいだけなんだから」
茅乃は千雪を見据えて躊躇することなく、それどころか、そう宣告するために計略を巡らしていたかのように云いきった。
その意味を千雪が一瞬にして理解できたかというとそうではない。眠りかけの思考のように、むしろ意味もなく頭のなかを巡っている。はじめてお酒を飲んだ日、頭がふわふわして、日常から隔離されたような感覚があった。それと同じで、茅乃の言葉はお酒がもたらした幻聴ではないかとさえ思う。
「いまここで云うこと、ですか」
建留はわずかに語気を強めた。
「建留、それなら応接室にいらっしゃい。あなたの結婚はわたしのためにあるんだから。わたしの望みを叶える。あなた、そう云ったわよね。これからのことをそろそろ話すべきだわ。あなたには待たせてる人がいるんだから」
「どうしたんだ、玄関先で」
茅乃がちょうど云い終えたとき、滋の声が割りこんだ。その云いぶりからすると、話し声は届いても中身までは聞きとれなかったようだ。
「なんでもないわ。建留に用事があるだけ」
茅乃はすっと方向転換して千雪たちに背中を向けた。その後ろ姿は、建留が当然ついてくると確信しているように見えた。
「千雪」
建留が呼ぶ。けれど、目を合わせるかわりに千雪はうつむいた。
「あとで説明する。そうさせてくれ」
そう云った声は抑制されていて建留の感情は見えない。
その言葉に期待を抱いたのか、それとも、暗に茅乃が云ったことへの肯定を示されて落胆を覚えたのか、千雪は自分でもわからない。
混乱が全身に伝わって、そこに根付いたかのごとく動かない足は、建留の手が背中に添うことで追い立てられるように一歩を踏みだした。
急ぎ足で建留の手を逃れ、駆けだしたいのを堪えながら、千雪は二階へと向かう。
「おじいさん、話があります。のちほど時間をください」
背中から通り抜けてくる建留の声は硬く険しい。
滋が「わかった」と返事をするまでに不自然な間があれば、その声は怪訝さに満ちていた。
千雪は滋のまえを無言で通りすぎる。視線を感じるも、見向きもせず歩いた。ふとしたときにヒールでつまずいた際の痛みが足首に走るが、それも無視して階段を上った。
建留は嘘吐きだ。
千雪も麻耶も、はっきり茅乃に嫌われている。
媚を売る。建留は否定形だったけれど、似たようなことを茅乃が口にして、なぜ段階を超えていきなり結婚だったのか、合点がいくような気がした。
習慣のまま建留の部屋に入ったとたん、千雪は立ち尽くす。
あたりまえにある――ミニテーブルの上にのった大学のテキストや、ドレッサーにあるメイク道具がばかばかしいくらい滑稽に並んでいた。
身動き一つできないまま、千雪の思考はろくに働かず、ただこれまでの時間がぐるぐると脳裡で早送りされている。
好きと伝えられなくても、愛していると云われなくても、贅沢な時間だと感じていた。それが、パーフェクターだからこそ成り立っていたのなら――そう考えると自分がひどく愚かしく思えた。
建留は千雪にどんな云い訳をするつもりだろう。
何を聞いてもきっと千雪は受け入れられない。息が詰まりそうなほど苦しくて、鼓動は律動を拒んでいるかのように痛む。
どれくらいその場に呪縛されていたのか、千雪を動かしたのは携帯電話の着信音だった。
バッグのなかから取りだした携帯電話の画面を見ると、瑠依からだった。何かが引っかかって、いまいちばん相手にしたくないかもしれない、と千雪は思う。
なんの用だろう。頭がうまくまわっていない千雪は、無視するという簡単なことさえ思いつかないで通話マークを押した。
『千雪ちゃん?』
「はい。……こんばんは」
軽快な声に挨拶言葉を返したとたん、友人でも身内でもないのに電話がかかってくる時間にしては遅すぎると気づいた。ましてや、瑠依が千雪に電話してくること自体めずらしい。
そう気がまわると千雪は身構えた。察するに、千雪にとってはバッドタイミングでも、瑠依にとってはグッドタイミングかもしれない。
『今日の夕方、吉祥寺(きちじょうじ)の駅前を通ったの』
どういう意図か、瑠依はいったんそこで言葉を切った。千雪はみぞおちにひんやりとした感触を覚えながら、瑠依には驚きを悟られたくなくて息を呑むのをどうにか堪えた。何気なく切り返すことはかなわず。
『お友だちが住んでて遊びにいったんだけど。お母さんの美容室のまえ通るでしょ。千雪ちゃん、いなかった?』
あちこちでせき止められていた痞えが融けだしている。そんな感覚がした。
「……いたけど」
『わたし、朝、そっちに行ったの。建留がいるかと思って。そしたら建留は千雪ちゃんと出かけたっていうから。でも建留はいないみたいだし、だから千雪ちゃんを送っていっただけなのかなと思って、また加納の家を訪ねたんだけど』
茅乃が得た情報の出処(でどころ)は瑠依だったのだ。
けれど、それだけではどこかすっきりしない。茅乃の雰囲気を見れば、いまやいまやと千雪への不満をぶちまける機会を狙っていたのは明らかだ。きっと、須藤家に行ったことが逆鱗(げきりん)に触れた原因のすべてじゃない。
第一、瑠依は建留の車を知っている。それが駐車場にあったことも見ているはずだ。たとえ建留がいないとしても、家に帰るのなら車を置いていくわけがないと、普通ならそう判断する。
「建留に用なら電話するように伝えます。じゃ――」
『千雪ちゃん』
電話を切ろうとしたのにさえぎられた。電話越しに瑠依の薄らとした笑い声が届く。
『建留はね、おばあさまの人形よ。おばあさまの意に沿って動く人形。だから、パーフェクトなの。建留はやさしいでしょ。千雪ちゃんは勘違いしたかもしれないけど、忘れちゃダメなのは、だれにでもやさしいということ。それでもいいから、わたしは建留が欲しい。建留が欲しいなら、おばあさまに気に入られなくちゃ手に入らないわ』
茅乃の意に沿う。建留がそうしているのは認めざるを得ない。
茅乃に気に入られた瑠依は、ひょっとしたら、ロンドンへ行ったことも、OLIVAでの鉢合わせも、嗾けられたことなのかもしれない。少なくとも、OLIVAでの一件は、千雪がそこに行くことを茅乃は知っていた。それなら、今日のことにしろ、偶然ではない。
茅乃が結婚を認めていたのは、さっきほのめかされたことを考えれば、財産のためにすぎない。千雪を巡ってなんらかの条件が建留に提示されたのだ。
「わたしは気に入られたいとか思わないから」
強がりじゃない。加納家に来たときの第一印象どおり、千雪がここになじめることはない。建留と結婚してからも変わることはなかった。努力するというような熱心さを千雪は持ち合わせていない。あるがままを受け入れたほうがらくだから。夢が醒(さ)めてしまったいまのような苦さなんていらない。
『そう? じゃあ、遠慮なく建留はもらってあげる。二年まえ、おばあさまのほうから約束してくださったわ。念のためにいえば、再婚でもまったく気にしてないの。千雪ちゃん、幸せそうだったし、それって建留が申し分のない旦那さまになれるってことだわ。パパもね、加納家のステータスが手に入るならそれでいいらしいから。じゃあまたね』
幸せそうだった――すでにそれは過去の話だと瑠依は決めつけた。そのとおり、玄関に入るまで、拗ねていてもそれは甘えで、あまつさえ、ふたりで暮らす、そんな未来さえ見ていたのに、それらはもうすりガラスの向こうにある時間のように感じた。