ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第6章 Broken Side

1.スノーフィル

 美容室“スノーフィル”は予約してくる客がほとんどで、ばたばたと戸惑うことなくいつもの一日を終えた。六時を超えて予約最後の客を送りだすと、麻耶は、あとは自分だけで間に合うからと、雇っている唯一の美容師を早めに帰した。
 開店当初からいる三十歳の彼女、石田春美(いしだはるみ)には子供がいて、まだ小さいからと麻耶はいろいろと融通を図っている。そんな気遣いの効力か、トラブルを聞いたことはないし、久しぶりに見てもうまくやっている。
 千雪はほっとすると同時に、ふたりが冗談を云い合ったり、阿吽(あうん)の呼吸で相手のフォローに当たったり、そんな光景を見ると妬(ねた)ましくなるときがある。

 麻耶の居場所がわかってまもなく、何か美容室の手伝いができたらと思い、朝食の席で口にしたときのへまをやらかした感はいまでも尾を引いている。
 大学が決まって何もやることがなかったし、結婚を許されたことで少しは麻耶のことも許容されたと勘違いしていたかもしれない。結婚式というプチセレモニーから三日後、およそデリカシーに欠けた発言を浴びせられたというのに、千雪は茅乃に関してもまるっきり油断していた。
 滋が唸ったのに対して――それは了承と受けとれるような気配で、けれど、茅乃はうんともすんとも発しない。無言の抗議に、浅木が作ってくれた千雪の大好物、焼きトマト入りのスクランブルエッグも味が感じられないほど食欲は一気に失せた。逃げなかっただけ、きっとましだ。
 それから、表立っては麻耶を訪問できなくなり、ましてや、茅乃を欺(あざむ)くわけにもいかない気がして、結局、美容室に行ったのはその日だけで、次に訪れるまでに二カ月くらいかかった。それも、建留が天気の話をするように何気なく、お母さんは元気でやってるのか、と訊ねてこなかったら、もっと長い期間、行くことはなかっただろう。
 朝食での出来事は建留も同席していたのだから茅乃の様子は承知していたはずが、千雪がそこまで深刻に考えているとは思わなかったらしい。建留のなんともいえないしかめた顔は明確に憶えている。それほど、拘(こだわ)るなんらかがあると思えた。
 それ以来、建留の配慮のもと、こうやって麻耶に会いにくるようになった。今日は昭和の日で、朝から出かけると云って建留から連れだされたのだが、その実、建留は仕事に行って千雪は実家に――実家と呼ぶほど懐かしさを感じるわけでもないが、須藤家にやってきた。
 麻耶に会えるのに会えない、そんなもどかしさが千雪には付き纏っている。春美がうらやましくなるのは、だからだろう。二十歳をすぎても親離れできていない。建留を頼っていることもそうだが、自分で立っていたつもりが、思いのほか、当てにばかりしていると気づいて心もとなくなる。

 美容室の掃除を手伝ってから、キッチンでコーヒーを用意していると、ちょうど建留からメールの着信があった。
『三十分したらそっち行く』
 端的なメールも、「うん」とだけ返す千雪のほうが、悪い意味で建留よりもうわてだ。『気をつけてね』というデコメ絵文字を付け足したぶん、千雪らしくない、と建留がおもしろがってくれればいいと思いながら送信した。
「建留さんから?」
 いつの間にか店から続きの住まいへと来ていた麻耶が訊ねた。千雪が携帯電話から顔を上げて「あ、うん」と返事をすると、麻耶は首をひねるようにしながら笑う。
「何? どうかした?」
「千雪がうれしそうにしてるから、そんなメッセージでもあったのかと思って」
 そう云われて、千雪は俄(にわか)に焦った気分で顔を引きしめた。そうすること自体緩んでいた証拠で、たったあれだけのメールに、と決まりが悪い。加えて、ロンドンから電話やメールがあるたびに千雪はどんな顔をしていたのだろう、と心配になる。時差の関係上、連絡は夕食の前後にくることが多く、加納家の面々のまえでもそうしていたかもしれないと思い至って、いまさら冷や汗を掻いた。
「なんでもない。お父さん、まだ帰ってこないね」
 千雪は何気なさを装って話を逸らした。麻耶は、千雪をからかってのことか、それとも芳明を思ってのことか、可笑しそうに口もとを緩めた。
「いいこと、でしょ」
「飲んでるかも、って心配はない?」
 キッチンのテーブルに着いた麻耶にコーヒーを渡すと、千雪も椅子を引いて座った。ほとんど立ちっぱなしでいたからほっとする。
「お神酒(みき)だって口にしないんだから大丈夫。いまは誘惑に負けることを怖がってるから」

 入院中の芳明は、幻覚や幻聴という禁断症状から手がつけられないくらい凶暴だったこともあるという。ずっと付き添っていた麻耶の心労は相当なものだったに違いない。それでも、麻耶は芳明を見棄てることなく支えている。
 麻耶のそんな献身が功を奏したのか、芳明は徐々に改善して、退院後は美容室の雑用を請け負っている。あまつさえ入院したことで芳明は人付き合いを覚えたらしく、今日はそこで知り合った友人に会うといって外出している。
 それが千雪の来る日に重なってしまったのはおそらく偶然ではない。
 会えるのに会えない。その理由はもう一つあって、それは千雪が芳明に会いたくないせいだ。そんな気持ちを口にした憶えはないが、最初に来た日、顔に表れたのか態度に表れたのか、芳明は千雪の拒絶を悟っているのだと思う。会うとしても、すれ違い程度に、ほんのちょっとの時間しか顔を合わせていることはない。

 千雪はコーヒーを飲んで何も応えなかった。すると。
「無理することないわ。お父さんだってわかってるから」
 哀しそうでもなく責めるでもなく、麻耶は微笑んだ。
 千雪は自分を子供っぽいと感じて、内心でため息をついた。
 芳明は変わっていない、と突っぱねるには旗色(はたいろ)が悪い。飲んだくれの芳明ばかり記憶にあるけれど、その頃は想像もつかなかったほど、いまはこぎれいにしているし、確かに千雪の気持ちを配慮しているのだ。頭ではわかっている。今度会うときは、と千雪もひとまず思うのだが、いざ会うとかまえた気持ちが顔を出す。

「お店は順調?」
 千雪は、今度は露骨に話題を変えた。麻耶はやっぱり微笑んで、話を戻すことなく「順調よ」と応じた。
「すごく儲(もう)かってるってことはないけど、おじいちゃんがいろいろ考えてくれたから」
 そのとおり、不動産業という職業柄、滋は手を尽くしてくれて、23区を離れてはいるが駐車場付きで表通りに面しているし、駅は近くだし、建物もちょっとした王宮を思わせる変わった外観で人目を引く。美容室の名前は千雪の名から考えられたもので、スノーといえば白雪姫、白雪姫といえばお城、とそんな連想ゲームが成り立ったらしい。
「それならよかった」
「少しずつだけど、おじいちゃんに返済するぶんも貯めているんだから、千雪が気に病むことないわ」
 うん、とうなずきかけると、千雪の携帯電話が着信音を立てた。建留だ。

「建留? どうかした?」
 メールを交わしたばかりでかかった電話はあまりよくないことのような気がして、千雪の応答は自然と問うような呼びかけになった。
『ってことは、千雪のほうは何もないってことだ』
 咬み合っているようで咬み合わない答えが返ってくる。からかっているというには少しイントネーションが違うように感じた。
「建留、わからないんだけど」
『わからないでいい。あんまり悠長にやってられないみたいだ。千雪……』
 建留は呼びかけたまま、そのさきを半端に放りだす。
「何?」
 駅構内にいるのか多少ざわつきが感じとれるなか、沈黙に痺れを切らして再び千雪が問いかけると、ため息の返事が届いた。それから、二回めの吐息は同じ呼吸音でも笑ったような雰囲気を感じた。
『いや。あと二十分で着く』


 七時間近になって美容室に着いた建留は、千雪を目にするとくちびるをわずかに緩めるという至って普段どおりのしぐさをした。
 何かあったのか、何もなかったのか、少しも判別がつかない。
「お世話になりました」
 挨拶とか躰の具合を訊ねるとか、心配ごと、あるいは困っていることはないかとか、麻耶とひととおり話を交わしたあと、建留はうなずくようにしながら、帰る合図になっている言葉を発した。
 ロンドンに行くまえも帰ったいまも、その言葉を聞くと、居場所を鮮明に示されているように感じて、千雪はいつもくすぐったいような気持ちにさせられる。久しぶりの感覚が甦ったいま、抱きつきたいという千雪がおよそしそうにない衝動に駆られるほど胸の奥が疼いた。
 一方で麻耶は、決まり文句に「お世話をかけたのはこっちよ」と可笑しそうに応じた。
「千雪のおかげで仕事はらくになってるんだから」
 それが本当かどうかは別として、ふたりのこんな会話はいつも千雪を居心地よくさせる。

 麻耶に見送られて外に出ると、正面の歩道に人影を捉えた。距離が縮まるまでもなく、千雪はそれが芳明だと察する。すると、建留は手のひらを当てて千雪の背中を支えた。そうされなければ、千雪は一歩退いていた。
 ――と、そう気づいたとたん、千雪はいまになって自分がそんな条件的な反射をしていると知った。芳明のことはいつも遠巻きに見ていた。そのことは癖になって身についているのかもしれない。芳明が千雪の拒絶に気づくはずだ。
 この一年、建留がいない間、須藤家に行くとしても大学の帰り道に顔を見せる程度だったから、芳明とは会うこともなかった。それ以前は、帰るときに鉢合わせするという状況にも出くわしたことがある。建留は千雪よりも早く癖を知っていて、いま背中を支えているのだろうか。

「こんばんは。いま帰りか」
 芳明は、千雪から建留へ、建留から千雪へと目を移しながら声をかけた。
 千雪がうなずいている間に、建留が「こんばんは」と挨拶を返した。建留は芳明のことを嫌っているようだったが、少なくともいまはそんな気配など微塵(みじん)も覗かせない。
「躰はいかがですか」
「このとおり、なんともない。ありがとう。長いことロンドンに行っていた君のほうこそ、どうなんだ?」
「このとおり、なんともありませんよ」
 建留が同じように返事をすると、芳明はつくづくといったふうにうなずいた。もう一つ、ありがとうという言葉を付け加えなかったぶんだけ、建留がまだ受け入れていない証拠のように思えた。
「うらやましいよ。気をつけて」
 芳明は応答を待たず、玄関先にいる麻耶のところへと行く。千雪に限らず建留からも拒まれていることを知っているかのようで、千雪は思わずその背中を追った。

 芳明のことは小さい人だと思っていたが、いまはもっと小さく感じる。実際は、痩せてはいても千雪よりも二十センチ近く背が高い。
 身なりを整えた芳明は、過去を知らなければその辺りにいる、例えば栞里の父親となんらかわらない。むしろ、どこにでもいるサラリーマンよりもこざっぱり見えるかもしれない。しわだらけの服を着て、アルコールの匂いをぷんぷんさせていた頃には思いもしなかった雰囲気だ。
 小さく見えるのは芳明の内向的な人格がそうしているのだろうし、それをカバーするためにアルコールでごまかし、きっとそれがエスカレートしていったのだ。アルコールという鎧(よろい)がなくなって、さらに小さくなったけれど、少なくとも“父です”と紹介するのを嫌がるほどのみすぼらしい気配は消えた。
 芳明を追った視線は自ずと麻耶と合う。何もかもをわかって、大丈夫、という励ましが見えた。

「行こう」
 建留は振り返って「失礼します」と両親に軽く一礼すると、千雪の背中を押しながら駐車場に止めっぱなしにしていた車に向かった。

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