ミスターパーフェクトは恋に無力
第1部 PrimDoll
第5章 Prison Doll
4.秘密の訳
沙弓のため息を右耳で聞きながら、建留と瑠依が店員に案内されてテーブルに着くのを見守った。
店内は、低い間仕切り壁が適度にあるのだが、その席はちょうどその死角に位置して、千雪からは建留の肩から上しか見えなくなる。横顔は角度的に少ししか覗けず、しかもオレンジ系の照明が邪魔して、笑っているのか生真面目な面持ちなのか表情はまったく判別できない。
千雪から見えたのは、華やかに笑っている瑠依だった。
ふと見た腕時計は七時半を指している。仕事が終わってまっすぐここに来たに違いない時間だ。
今日は同期たちが集まって、そこで帰国祝いをしてもらうと云っていたのに。
どんなに云い訳を聞いて納得して疑っていなくても、空港で舐めさせられた感覚は思いだしたくもない。それを、思いだすどころか再び実感しなければならないなんて――躰の内部を無遠慮に侵されてぐちゃぐちゃと掻きまわされている感触がする。
建留が嘘を吐いた、とそんな疑念に千雪は何もかもを失った気にさせられる。独りだったら、空港のときと同じように逃げだしただろう。その気持ちを、くちびるを咬んで堪えた。
「千雪ちゃん、気にすることはないわ」
沙弓が声をかけ、千雪は建留から離せなかった目をやっと引き剥がせた。
気にしていない、とそんな強がりを口にする気にもなれなければ、きっとポーカーフェイスも取り繕えていない。
「建留が仲村くんたちとの約束を蹴って瑠依さんとなんてあり得ないし。よっぽどの理由がなければ、ね」
沙弓は顔をしかめて千雪をなぐさめた。
建留が瑠依と会わなければならない“よっぽどの理由”とはなんだろう。仕事の相談というには、会社の先頭に立つ建留が表とするなら瑠依は裏方になり、畑が違うから無理がある。プライヴェートなことなら――と考えてみても千雪はまったく思いつかない。
「あとで……建留に訊いてみる」
本当にそうするかどうかは別にして、沙弓に気を遣わせたくはなかった。大したことないと装って千雪が首をかしげると、その甲斐あって沙弓はくすっと笑う。
「白状させるには建留をめいっぱい酔っぱらわせるといいかも。まあ、千雪ちゃんには云い訳しちゃうみたいだから、そんな必要はないんだろうけど」
「建留が酔っぱらったところ、見たことないけど、沙弓さんはあるの?」
瑠依のことから話が逸れただけでも千雪には救いだった。沙弓の振った話題に乗ると、沙弓は悪戯(いたずら)っぽく目をくるりとさせた。
「大学生のときにね。とんでもないこと……っていうか、らしくないっていうか。逆に、それが建留らしいんだ、っていまは思うけど、そんなことを聞きだせたわ」
「……沙弓さん、意味が全然わかりません」
すると、沙弓は思わせぶりな眼差しで千雪を見つめ、ふふっとからかった様で笑った。
「じゃあ、建留を酔っぱらわせて、わたしに何をコクったのか聞いてみたらいいわ」
建留はいつもそつなく振る舞うから、だらしなく酔い潰れるところを見てみたい気はするが。
「ロンドンで誕生日が来たから何回か一緒に飲んでみたけど、わたしはお酒に弱いみたいだし、いつもさきに潰れちゃってるから無理な感じ」
「それは残念ね」
少しも残念な様子じゃなく、沙弓は秘密を曝す気はないことを示した。
千雪の気が紛れたのもつかの間、無意識なのか、沙弓が建留たちがいるほうに目を向けたせいで、また数分前の気持ちが甦る。
興じていた沙弓の表情はため息に紛れて消えた。
「わたしが建留のカノジョ役をやってたのは、瑠依さんを牽制(けんせい)するためなの。建留から聞いてる?」
建留と瑠依がどういった雰囲気でいるのか、千雪は振り向きたい気持ちを堪えて、首を横に振った。
「カノジョに見せてるってことは云ってたけど……瑠依さんを牽制するためって?」
「瑠依さんは建留を狙ってたんじゃない? 純粋に好きっていう気持ちなのか、小泉社長の政略なのかはわからないけど。建留はその気になれなかったみたい。もともと……」
沙弓は何かに気を取られたように千雪から目を逸らすと、中途半端に云いかけたまま口を閉じた。
「沙弓さん?」
沙弓の目線はだんだんと上向いているような気がした。千雪は不快な光景が待っているとわかっていながら、おずおずと振り向いた。
スーツジャケットがすぐ傍に見え、それがだれかと確認するのと、その“だれか”が千雪の隣に無理やり座りこんできたのは同時だった。
「やっぱりこっちか」
何と比べて『こっち』なのか、建留はため息混じりにつぶやいた。
「こっち、ってわかってて瑠依さんを連れてきたってわけ?」
千雪が驚いて何も云えないうちに、沙弓が批難ごうごうといった口調で建留に迫った。
「おれが連れてきたわけじゃない」
「どういうこと?」
沙弓が問いつめても、建留は答えずに首を振るだけだ。沙弓は思案していそうに眉間にしわを寄せた。
「……瑠依さんは?」
自分で確かめる勇気がなくて、千雪は建留に問う。
「そこにいるか、帰ったか。どっちかだろ」
建留は無責任に云い放つと、テーブルにのった食べかけのパスタとピザを見比べる。
「いま帰ったわよ。ものすごい勢いで睨まれちゃったわ。視線が槍だったら串刺しって感じ」
沙弓の発言には関心がなさそうに肩をすくめてかわし――
「食べてる途中で悪いけど、一緒に来ないか」
と、建留は千雪の腕を取った。誘う云い方のわりに、こっちには有無を云わせない強制的な声音だ。
「沙弓も来るといい」
そう建留が続けると、沙弓は「わたしはオマケなわけ?」とわざとらしく憤慨しつつ、したり顔で千雪を見やった。
「あっちでおごってもらいましょ」
沙弓はそう云うが早いか、さっそくジャケットとバッグを手に取っている。
あっち、って……。
「建留、どこ?」
千雪は慌てて訊ねた。
「知ってるだろう。おれの帰国祝いだ」
沙弓と違って尻の重い千雪を立たせると、建留はバッグを取って千雪に押しつけた。
「でも建留!」
建留を見上げると、なんの異論がある? といったふうに首が傾いた。
「……会ったことないし」
「貴大とは何度も会ってるだろう。沙弓もいるし、心配ない」
結婚は秘密じゃなくなる。建留はそのことにまったく無頓着な気配で、ただ千雪をなだめた。
お披露目がないことにほっとしながらその実、栞里に指摘されたときから、加納家には、もしくは建留には、そうできない、あるいはしたくない何かしらの理由があるのではないかと疑ってきた。さっき秘密になっていると沙弓に聞かされて、不安は濃くなっていた。
それがいま、少なくとも建留には千雪が不安になるような理由がないと確かめられた気がした。
「建留も」
そう付け足すと建留は可笑しそうにした。
「ああ。おれもいる」
沙弓が云う『あっち』は業平グループご用達の居酒屋IOMAだった。
うなぎの寝床みたいな造りで、千雪と沙弓はいつも手前のほうにあるテーブル席を利用するのだが、建留が店員に貴大の名を伝えると、奥の座敷スペースに案内された。個室が並んでいて、一つの格子戸が開けられる。
建留に腕を取られ、沙弓に背中を押され、千雪が現れると、室内は冷やかすような雰囲気を伴ってどよめいた。ざっと十人くらいの男性ばかりがいて、部屋が狭いように感じる。こんばんは、とかろうじて挨拶言葉だけは云えたものの、緊張と気後れという、邪魔なだけの意識がオーバーヒートしそうになった。
「千雪ちゃん、座って」
周囲の反応を楽しみながら貴大が自分の正面を指差した。建留でも沙弓でもなく、すでにこの場になじんでいた側から迎えられると多少ほっとする。場所を空けてもらいながら、建留と沙弓に挟まれて座った。
「わたしたちがお邪魔しちゃったら、できる話もできなくなるかしら」
沙弓はうらやましいほどウィットに富んだセリフで溶けこんでいく。失笑が漏れ、「なんか疾しい奴いるかぁ」と、テーブルの端から揶揄した声があがってまたさざめいた。
「当面、加納に問題なければまずい話なんてないだろ」
建留の声も低くこもったような音で好きだが、この人も微妙にヴィブラートのきいた、特徴的な声を持っている。斜め向かいの席から千雪へと目を向けてきた。
「加納は訊いてもかわすし、だから千雪さんのことは仲村からしか情報を得られてないんだ。実在するのかって疑ってたけど、目のまえにしても明日にはやっぱり疑っていそうな雰囲気だ」
どう千雪は見えているのだろう。建留を見上げると、シニカルな笑みが返ってきた。
「おれ、金城柾也(かねしろまさや)。商事の営業に所属してる」
その人は名乗ると同時に手を差し伸べる。そんなふうにされたとき、千雪は手を差しだすよりもつい引っこめてしまう。いまも、何気なく膝にのせていた手を縮めた。気まずくさせてしまう、と焦ったのはつかの間、建留が手を上げて金城の手を払った。
「触るな」
時間が静止したかのようにしんとした。しらけたかと思いきや、直後、沙弓が吹いて、それが合図だったかのように、ほかの客に迷惑になるんじゃないかというほどどっと沸いた。
「千雪さんを表に出さないのはそういうことか。加納は女に固執することはないって思ってたけど、おれの勘違いだったらしい」
「いちばん硬派な加納がいちばんに結婚するんだからな。ゾッコン、てヤツでもおかしくない。むしろ、そうじゃなきゃなんだってことだろ」
金城に次いで貴大がちゃかす。
建留に助けられてほっとしたものの、千雪が戸惑うような応酬だった。建留は反論も云い返すこともなく、口を歪めてすかしている。
貴大の云うことが本当なら、つい三十分まえの不快な気持ちもすべて浄化される。千雪はそんな期待を抱いた。
「え、いちばんってそうなのか? おれは上戸(うえと)だって思ってたけどな」
テーブルの端から意外そうにした発言が飛ぶ。
「あー、おまえは大学違うから、そんときの上戸を知らないよな。上戸は、“たらし”っていう名誉な称号持ってたのさ」
「金城、名誉じゃない」
上戸というのはどの人だろうと思っていると、千雪から見て、金城とは反対側の斜めまえに座っている人だった。上戸は苦虫を咬み潰したような面持ちでため息混じりに訂正した。
なるほど、いま見る雰囲気ではとても“たらし”とは感じられない。まっすぐな眼差しは人を威嚇する。建留が内心でどう思っていようが上辺を繕うのと違い、上戸はそんなことをしそうにない――と判断した矢先。
「千雪さん、上戸だ。上戸匠(たくみ)。金城と同じく商事の営業にいる。よろしく」
と、上戸はかすかに笑みを浮かべていて、金城のように手を伸ばしてくることはなく、かわりにうなずいた。
千雪は不意打ちの自己紹介に慌てて「はい」とうなずき返した。
「上戸、いまと大学時代と、どっちが本当なんだ?」
建留がおもしろがって問うと――
「じゃなくて、建留、おまえと一緒じゃないのか」
貴大が口を挟む。
「どこが?」
「意中の女がいる、ってことなら納得できる」
「そういうんじゃない」
上戸がすかさず否定すると、かえって好奇心を煽ったようで、何人かがテーブル上に身を乗りだす。沙弓がテーブルの上で腕を組みながら正面に向かって上半身を傾けると、「上戸くん」と呼びかけた。
「それって、もしかして一コ下のきれいな子? 実家が近いって云ってた、立花(たちばな)さん、だっけ」
「違う」
「って云うってことは、別にいるってことだな。加納と一緒で、合コンも参加したことないしな。あ、千雪さん、いまは加納を誘うこともないから」
ふいに弁明されて千雪はまごつきながら曖昧に首をかしげた。建留を見ると、云うまでもないといった気配で――
「おれはそれどころじゃない」
と肩をそびやかした。
「おれも加納と同じだ。そんな暇があるっていうほうがよっぽど不思議だ。業平に勤めていながら、おれにはそんな余裕はない」
上戸が云うと、だれからともなくため息が漏れる。
「そこなんだよな。商社がこうまで遊ぶ暇がないとは思わなかった。出会うきっかけを逃してる」
「だよな。不動産のほうもだぜ。だからなのか、業平ってさ、社内とかその家族とか、異様に身内的結婚が多くないか?」
「加藤会長夫妻からしてそうだろ」
「わたしは先輩たちから社内恋愛推奨って話を聞いたことあるわ」
「加納はもろ身内だしな」
商事と不動産という、現場は違っても、業平グループ内の交流は分け隔てなくあるようだと思っていると、また話題が千雪に及ぶような発言に出くわす。
「加納、そういや、小泉社長の娘、小泉瑠依。独りっ子でひとり娘だし、おまえがロックオンされてるって思ってたんだけどな」
いきなり瑠依の名前が出てきて、千雪は内心でびくっと神経を尖らせながら無意識に身構えた。沙弓も同じようなことを云っていた。その沙弓は千雪に聞こえるほど大きく息をつく。
「厳密にいえば、おれ、じゃなくて、加納家だ」
建留はちらっと千雪を見やったあと、動揺なく応じた。
「なら、小泉社長の意向ってことか? 創業者と縁を組めば、このさき安泰だろうしな。けど、それにしてはあの令嬢、弟のほうじゃなくおまえに引っついてる気がする。ロンドン行きの噂、おさまるといいけどな」
「瑠依は中学から慶永に入ってきて、おれと被ってた時期あるし、面倒みたからそういう名残だろう」
それだけの理由で、瑠依は家族同然のように加納家に入り浸るのだろうか。実際のところ、建留がロンドンにいる間は、一カ月に三日来れば多いほうだった。帰国して一週間、すでに二日も訪れていることを考えると、やはり加納家ではなく建留がターゲットだと思えて憂うつになる。
「はい、そこまで。ここで瑠依さんの話をわざわざやらなくてもいいと思うけど」
沙弓はうんざりした声で仕切った。話を振った人は、そこで気づいたようで、ぱっと千雪に目を向けた。
「疾しいことはないから問題ない」
その人が何か口にするより早く、建留がフォローした。
謝罪されてもどう反応したらぎくしゃくしないですむだろう、とそう思っていただけに、千雪から肩の力が抜けた。
一緒に家に帰って入浴後、千雪が部屋のドレッサーのまえで髪を乾かしていると、同じように入浴をすませた建留が戻ってきた。近づいてくると、いきなり千雪の手からドライヤーを取りあげる。
「建留」
呼びかけているうちに風の音はやんで、躰がすくわれた。
「云い訳してほしいことは?」
反射的にしがみつくと頭の後ろで建留の問いかけが響く。
「……何かあってる? 違ってきてる?」
ベッドに寝転がされてから訊いてみると、真上にある建留の表情が止まった。
そのことが無言のまま千雪の質問を認めていた。
結婚して二年をすぎた。これまで穏やかで――それは控えめな云い方になるけれど、そうしていられたのは猶予期間、もしくは序奏だったかもしれない。瑠依がロンドンにいたと知ったとき――それが、結婚するまえではなく“いま”だから、そんなことを思っている。
御方が必要だというのは即ち、敵がいる、ということ。
建留が何かを隠すとしても、もしくはあえて語らないとしても、それが配慮してのことだとは理解している。けれど、事が起きるまえに話してくれたらいいのに、とそう思うのは贅沢なのか。
栞里が指摘した建留の欠点の延長上にある、よけいなことは云わない――それはいま、よけいに千雪を惑わせている。
「そうだとしても方はつける」
不自然な沈黙のあと、建留はそう云い遂(と)げると、めずらしく不機嫌なのだろうかと思うくらい、少し荒っぽいしぐさで千雪の胸もとをはだけた。自分が刻んだ赤い斑点を確かめ、それから慰撫(いぶ)するようにそっとくちびるを置いた。
「建留」
「ああ」
顔を少し上げて短く返事をした建留は、くちびるから舌に変えて纏わりつく。肌が熱く潤んでいくと、触れられてもいない胸の先が反応した気がする。
「しるしをつけておくべきなのは建留のほう」
含み笑ったあと。
「ベッドの上じゃ、やっぱり素直だな。そうすればいい」
建留は受けて立った。