ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第5章 Prison Doll

3.云い訳

 ゴールデンウィークは明日からという金曜日、建留が帰国してから一週間がたつ。
 建留がいないことに慣れない――と遠回しに建留に答えたけれど、いざ一緒に加納家で暮らせるようになると、建留がいることに慣れていないと気づかされる。もしくは、帰国したのではなく、ただの休暇だという疑いが千雪のなかにあるのかもしれない。
 休暇じゃないと裏づけているのは、薄めのライラック色をしたシャツにスーツパンツという姿の建留が、ドレッサーの鏡をまえにしてネクタイを結んでいることだ。ドレッサーと建留に挟まれて椅子に座った千雪は鏡越しに、手の動きを中心にして建留を眺めた。
 ロンドンでの建留の働きがどうだったのか、出向のまえとあとでは様子が少し違っている。もともと不動な感じがしていたけれど、さらに鷹揚な気配を身に纏った。

「おれがいると気になる?」
 チークは片方だけという、メイクを中途半端にしたまま静止した千雪を見て、建留はわずかに首をかしげた。
 ふと気づくと、千雪の目は建留を追いかけている。いまもそうで、建留はそう感づいている。問いかけた声は、からかいつつも用心深そうな気配だ。
「……建留もそう」
 実際、建留は千雪のしぐさをつぶさに見ている嫌いがある。いまに始まったことではなく、出会った最初から建留と目が合うことは多い気がする。そして、結婚して建留の部屋に越したときから特にそうするようになった。ふたりきりで部屋にいるわけだから、何かしらの危害から保護するためではない。それなら、千雪はここにいたらだめなのか、そんなテリトリーを侵しているような気にさせられる。
 建留はわざとだろう、云い返した千雪をじろじろといった眼差しで見つめる。千雪もまた建留の目の動きを追った。それから、建留は可笑しそうに口を歪める。
「そうかもしれない。ドールには興味も関心も持ったことなかったけど、ドールに魂が入ると取り憑(つ)かれる」
 意味があるのかないのか、少しもわからない。
「だから、ドールは苦手とか嫌いって人が多い」
「反対に、好きだととことんのめりこむってコレクターが多い」
「……どっち?」
「魂の入ったドールなら関心はある。魂があるから、独占も隠ぺいもできないって難点はあるけど」

 そうしたい気持ちがあるってこと?
 建留は冗談めかした口調で千雪が期待するようなことを云う。すぐさま、深読みのしすぎだ、と期待を打ち消した。
 結婚しているのだから、好きという気持ちを求めるのはちぐはぐなことかもしれない。愛している、と告白されたからといって何かのゴールがあるわけでもない。ましてや、好き? と訊ねても、嫌っていたら結婚はしない、というばかばかしいような答えが返ってくるのは目に見えている。それくらい、きっとふたりにとって結婚はあたりまえのことになっている。
 それでも――と、そんなふうに、空港で瑠依と会って以来、千雪の思考は堂々巡りをしている。
 離れた一年、建留はずるいくらい落ち着いて、一方で千雪は同じところに立ち止まって、置いていかれたように落ち着かない。

「今日は何時くらいに帰る?」
 露骨にこれまでの会話を断ちきると、建留は呆れたように首を振る。
「遅くなるつもりはない。眺めているだけじゃ物足りないから」
 話は繋がっているのか否か、なんのことかと考える間もなく、千雪の胸もとからカットソーのなかへと建留の右手が斜めに忍びこむ。ブラジャーの下にくぐり、左側のふくらみをすくうようにつかんで持ちあげた。建留が顔をおろしてきたかと思うと、肩を通り越してバストアップした肌に口づけた。
 直後、建留は吸いついた。
「んっ建留!」
 そのひと言だけで抗議を示すしかないくらい、吸引が強すぎて痛む。やがて、建留は顔を上げたが、口づけられた場所はずきずきする。
「沙弓に誘われて外に出るんだろう? おれがいないのを見計らって行くんなら、独占できないかわりに、せめておれのしるしをつけておくべきだ」
 沙弓とふたりで食事をするというだけであり、それに、沙弓は建留が気を許している友だちだ。よからぬことを企んでいるはずはないのに、建留はテリトリーのなかに千雪がいるべきだと主張した。
 それなら、いなくなるかもしれないという不安から逃れたくて千雪が建留の姿を追っているように、建留の目が千雪を追うこともそうなのだろうか。
「行ってくる」
 建留は再び身をかがめ、背後から千雪の口の端にキスをして囁いた。
「いってらっしゃい」
 送りだしたあと、胸もとを見下ろすと、建留がキスと入れ替わりに指の腹で撫でた場所は赤く色を変えていた。


「千雪ちゃん、もとサヤの感想は?」
 ディナーコースのメニューを注文し終えるなり、沙弓はうずうずした様子で口火を切った。
「沙弓さん、もとサヤってべつにケンカ別れしてたわけじゃないです」
 千雪は至って普段と変わらず、冷静に間違いを指摘した。
「そういうとこ、千雪ちゃんぽくて可愛いと思うけど、わたしは建留の情報を仕入れたいのよね」

 千雪に近づかなくなる子にとって千雪の印象は“冷めている”が大半というなか、建留は栞里と同じで、“素直じゃない”と見ている。それは、沙弓も同じだ。
 沙弓とは、初対面の日以降、たまに誘われて一緒に出かける。建留がロンドンにいる間は、月に二回はこうやって会食をした。
 今日も家を出るとき、茅乃から、『OLIVAかしら?』と云い当てられるくらい、場所は、大抵がこのイタリア料理店“OLIVA”か居酒屋“IOMA”だ。
 沙弓によれば、どちらも業平グループの社員が多く利用する場所だから安心できるという。一般的に安心できない店のほうが少ない気がするのに、沙弓がそこにこだわるのは、千雪に関しては建留というネックがあるからだろうか。

「情報、って?」
「建留から聞いてないみたいだから、いままで云わなかったけど。千雪ちゃんの存在って、グループの女子たちの間ではかなり話題の的なわけ」
「……え?」
「業平不動産の創始者の御曹司だし、あの見栄(みば)えだし、興味ないはずがないでしょ。結婚指輪はしてるけど、奥さまの正体は従妹ってだけであとは秘密にされてるじゃない? よけいに好奇心を煽ってる。だから建留の情報流せば、あとは勝手に尾ひれがついてちょっとは気がすむだろうし……というのは口実で、わたしが知りたいだけ」
 ともすれば無責任な発言に、千雪は吹きだしそうになりながら目を丸くした。
 頼んでいたワインがきて、ひと口賞味したあと、千雪は首をかしげながら口を開いた。
「披露宴はしなかったけど、秘密になってるとかは思ってなかった」
「披露宴がなかったことに関しては、わたしとしても不思議なんだけど。建留が云ったのよね」
「何を?」
 千雪がわずかに身を乗りだすと、沙弓までもがそうした。
「知りたい?」
 あらためて確認を取られると、気持ちを筒抜けにしているようで千雪は気が引けた。そうしたところで何も問題ないはずが、建留が好きだということを、なぜこうも認めようとしないのだろう。自分でも戸惑っている。
 沙弓は躊躇(ちゅうちょ)した千雪を見て、なんでもわかっているという心得顔でうなずいた。

「披露宴のことは加納会長の意向もあったみたいだけど。建留が結婚したのは入社してまだ二年だったじゃない? 会社での評価は後継者候補というだけで何も結果を出せていない、って云ってたの。それって、千雪ちゃんの立場を守りたかったのかも」
「わたしの立場って?」
「お坊ちゃんはお坊ちゃん、てこと。ただのお坊ちゃんでいたら、千雪ちゃんに恥をかかせるって思ってるんじゃないかな」
「よくわからないけど」
「だって、仕事できなければ千雪ちゃんの評価だって下がっちゃうのよ。もっと具体的に云えば、敬意を払ってもらえないとか」
「敬意とか……気にしてないけど」
「だとしても。例えば、建留がばかにされているところに遭遇して、千雪ちゃんは平気でいられる?」
 沙弓の問いかけに想像力を働かせてみたが、建留がばかにされるということがあるのか――そんな疑問がさきに立って千雪はうまく想像ができない。
 けれど、朝から晩まで仕事を優先してこなしている建留を見て知っているから、仕事ができない、なんてことを聞かされようものなら――
「建留は毎日がんばってる」
 いま、つい口走ってしまったように、云い返すかもしれない。
 ロンドンでは日本でのように帰りは遅くなかったが、かわりに持ち帰ってくる仕事の量が半端ではなかった。家に持ち帰るぶん、時間に区切りがつけられないようで、千雪が『まだ仕事する?』と呼びかけて時間を把握させていたくらいだ。
 だからこそ、瑠依の渡英について建留がした云い訳がすんなり信じられているという面もある。

「って云いたくなるでしょ。“お坊ちゃん”なんて侮蔑的な言葉までついてまわる。千雪ちゃんもいい気持ちしないじゃない? 建留は人一倍結果を出さないとお坊ちゃんから抜けだせなくて、評価に繋がらないのよね。旭人くんもそうだし、御曹司もたいへんだわ。だから仲村くんも業平創業者一族の子孫だってことを大っぴらにしないんだろうけど」
 ということは、結婚が公にされない理由は、千雪に風が当たらないようにするためだろうか。
「わたし……建留にとってヘンなプレッシャーになってる?」
「逆じゃない? 気力になってると思うけど。最近になって仲村くんに聞いた話、ロンドン行きだって、最初は数年ていうアバウトな期間の予定だったって。再開発中のウエスト・エンドに、商業とオフィスと住宅を備えた複合施設をつくるっていうプロジェクトがあるんだけど、いくつか交渉が頓挫(とんざ)しかけてて停滞気味だったらしいのね。建留はそれを一年で纏めてくるってアピールした。それなら一年で帰っていいって云われたみたい。その言葉を引きだすためだったとしたら、建留も大した策略家だけど。賭けでもはったりでもなく、ほんとに計画纏めて一年で帰ってきちゃったわ。プロジェクトは帰国直前に着工してる。それを見届けたかったから帰国を延期したんだろうし」
 千雪は、シーザーサラダのレタスをつついていたフォークを止める。
 ロンドンにいる間もそんな大事が背景にあるとは思わなくて、ただ一緒にいられることにときめいていただけの自分を情けなく感じた。

「最初から一年て思ってた」
「建留は絶対にそうするって決意のもとロンドンに行ったんじゃない? こっち帰ってきて、“大口を叩く坊ちゃん”扱いではなくなったわね。商事のほうでも建留のお手柄話が出るくらいだから」
 それが今朝感じた建留の鷹揚さのもとに違いなく。
「……知らなかった」
 千雪が建留に仕事のことを訊ねることはない。建留も、企業秘密もあるだろうし語らないといっていいほど話題にのぼらず、千雪は漠然とたいへんだろうなという想像ですませていたけれど。
 須藤家の狭いアパートで暮らしている頃は、最低限、自分でできることはやってきたし、自分のこともちゃんと考えられていた。けれど、建留と結婚してからは、なんでもかんでも建留に任せっきりのような気がする。千雪は自分がのんびりしすぎていることにうんざりした。
 何が原因かはわからなくても嘆息しそうな気配を察したのだろう、沙弓が首を傾けて千雪を窺う。
「知らなくても千雪ちゃんの力は働いていると思うけど。気力だけじゃなくて、癒やしにもなってる」
 素直じゃない千雪がどうやって建留の癒やしになっているのか、さっぱりわからない。千雪は心もとなく笑みを浮かべた。それが本当だったら、せめてもの救いだ。
「実績を上げたんだし、結婚は公然になってもいいんじゃないかと思うけど、どうなの?」
 沙弓は好奇心を剥きだしにして訊ねた。
「何も云ってくれないから」
 正直なところ、大それたことを聞けば聞くほど、お披露目という機会はないほうがいいと思ってしまう。千雪こそが建留の評価を下げてしまいそうだ。
 千雪が肩をすくめると、沙弓は吐息を漏らす。

「何か気になるんですか」
 訊いてみると、沙弓は話すか否か、迷っているようなそぶりで摘んでいたピザをお皿に置いた。
「沙弓さん?」
「気のまわしすぎかもしれないけど、小泉社長令嬢のことよ。ちょっとした噂があって」
 沙弓はゴミでも振り払うかのように肩を跳ねた。
「瑠依さんがロンドンに行ってたこと?」
 沙弓は、今度は眉を跳ねあげて千雪を見つめる。
「知ってたの?」
「空港に迎えにいったから、一緒の飛行機で帰ってきたのも知ってます」
「よかった。それなら誤解してないってことね?」
「云い訳してくれたから」
「云い訳? 建留が?」
 びっくり眼と、立て続けに語尾を上げるという、くどいような問いかけからすると、建留らしくないことだろうか。次の瞬間。
「建留、千雪ちゃんには必死みたい」
 抑制はしたものの、沙弓は声をあげて笑いだす。
「よかった。千雪ちゃんも云い訳を信じられてるみたいだし、わたしの心配は取り越し苦労だったわ」
 ひとしきり笑ったあと、沙弓は胸を撫でおろした様子で息をついた。それから何気なく店内を見まわした沙弓の目が、ふと気を取られたように出入り口のほうを向いて止まる。
 沙弓が眉をひそめるのを見て、千雪は背後を振り向いた。
「千雪ちゃん、待って」

 沙弓が急いで引きとめるも、なんだろうという何気ない好奇心のほうが勝った。
 沙弓の気に留まったものは、探り当てるよりも早く千雪の目に飛びこんできた。建留の姿は見間違えようがない。
 そして、一緒にいるのが瑠依だというのは、その顔を見なくても雰囲気でつかんだ。
 云い訳も建留も疑っていない。
 けれど、信じることと、それを黙って見ていられるかということは違う。

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