ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第5章 Prison Doll

2.云い訳

 空港はいつ来ても何かに掻き立てられるような感覚がある。送迎だったり旅立ちだったり、あるいは今日の建留がそうであるように故郷に帰ってきたり、人それぞれになんらかの高揚した気分があって、たぶん、それらが伝染してくるのだろう。
「義姉さん、到着だ」
 旭人が教えるまでもなく、千雪は掲示板を見て知った。十五時二十分の予定を十分遅れての到着で、何より無事に会えるということがはっきりしてほっとした。
「うん」
 うなずきながら振り向くと、旭人はおどけたように首を傾けた。
「義姉さんてさ、見てて飽きない。義姉さんといる兄さんは、もっとおもしろい」
 どう受けとればいいのだろう。千雪は戸惑ったすえ、何も応えないことにした。

 旭人のことは、加納家に住んでまもなく三年になるが、一向に理解できていない。結婚したとたん、旭人は千雪のことを“義姉さん”という呼び方に変えた。従妹でもあるのだから以前のままでよかったのに、わざわざ変えたのは千雪をからかうためか。そんな響きがある。
 その気まぐれと同じように、旭人は昼になって、松田のかわりに急に自分が千雪に付き添うと云いだしたのだ。
『役に立つから』
 と、何が千雪のためになるのか、そういう云い方をした。
 考えてもわかることはない。旭人に関しては、理解しようという努力はとっくにやめている。千雪にしろ、人のことを云えた義理ではないが。
 もっとも、本性を隠すのは加納家のモットーだろうかと感じるほど、建留も含めて正体不明だ。
 茅乃は相も変わらず話しかけてくることはないのに、今日の迎えに限っては、「迎えにいくのよね。そうしたほうがいいわ」と干渉までした。お気に入りの孫が帰ってくるから、千雪と同じようにうれしくてたまらないのか。

 建留を待つ間、旭人がいることで少しそわそわした気が紛れた。けれど、それもメールが入るまでだった。
『もうすぐそっち行く』
 たった三週間まえまで二カ月一緒にすごしたばかりだ。それなのに落ち着かない。
 好きと口にすることはなくて、そんなふたりだから、もしかしたら互いに片恋している気分でいる。いつまでもどきどきしていなければならなくて、けれど、そういうのは嫌いじゃない。
「来たよ」
 やはりそう云う旭人よりも早く、千雪は建留を捉えた。建留もまた、千雪よりも早く気づいていたのか、同時だったのか、しっかりと千雪を視界に入れた。
 駆けていきたい気持ちはあっても、それが足までは伝わらない。一歩でも踏みだしたら転ぶかもしれない。それくらい慌てふためいている。
 人の多いなか、建留のまえは自然と道が開ける。気配がそうさせるのか。
 もうすぐじかに声が聞ける。そう思った刹那。
「建留」
 と、そう呼んだのは女性の声だが千雪の声ではなかった。

 千雪の脳裡に一週間まえの電話が甦る。
 あの声はいまのイントネーションと同じで、それなら、電話の向こうで建留を親しげに呼んだのは瑠依だったのだ。おかしいと思っていたのにやりすごしていた。
 ロンドンではファーストネームで呼び合うのもめずらしくなかった。ただ、あのとき、YesでもHereでもHiでもなく、建留は『ああ』と呼びかけに応じた。
「休暇を取ってロンドンに行ったらしいよ。義姉さんと入れ替わりに」
 なぜ、という千雪の内心の疑問が聞こえたように旭人は説明した。見上げると、皮肉っぽい笑みに出くわす。旭人は知っていたのだ。
 建留は後ろを一瞥しただけで、立ち止まることもなく千雪のもとを目指してくれたことは、ほんの少し救いになった。
「ただいま」
 目のまえに立った建留はシニカルに笑う。それは建留の笑い方ではなく、そのとおり千雪の内心を見透かして、どういう意味であれ嗤(わら)っているように見えた。それと似通った笑顔を貼りつけて、瑠依が建留の背後に見えたかと思うと避ける間もなくその挑発した目とかち合う。
「千雪」
 おかえりなさいと返す気にもなれない。建留の手が伸びてきて、捕まるまえに千雪はたまらず背中を向けた。信じていないわけではない。ただ、嫌、という気持ちに独占された。

「千雪」
「建留」
 建留に重ねるように瑠依が呼ぶ。
「兄さん、これ」
「助かる。旭人、荷物を頼む」
「オーケー。瑠依さん、おれ、瑠依さんの荷物は知らないからな」
「旭人、どういうつもり? わたしには当然の――」
「瑠依さん、当てにならないことを当てにしないほうがいい」
 遠ざかるにつれ、旭人の声ははっきり聞こえなくなった。
 そのかわりに。
「千雪、疾しいことはない」
 と、正面にまわりこんだ建留は宣誓するように云い、千雪の足を止めさせた。

 千雪は口を開くが、何を云おうとしているのか、加えてよけいなことを云いそうで、そのまま口を閉じていく――刹那。
 ロンドンですごしたとき、挨拶がわりに交わすようになったキスが千雪のくちびるにおりた。
 突然のキスに驚いて千雪がとっさに一歩退いたのと、建留が顔を上げたのはほぼ同時だった。
「云い訳、聞く気ある? それとも、おかえりって云ってくれる?」
 建留は首を傾けて生真面目な口調で問いかけた。
「……どっちも建留に都合よくて、二者択一になってない」
 切り返すと建留は可笑しそうに口を歪めた。
「日本語の使い方が下手になったかもな」
「一カ月まえもちゃんと喋ってた」
 建留はどこ吹く風と肩をすくめてかわす。
「おれから提供できる選択はほかにない。どっち?」
「……どっちも」
 建留は、今度は声が漏れてきそうにはっきり笑った。
「オーケー。行こう」
 建留は千雪の手を取って、返事も待たずに引っ張った。
 なんの結果も出ていないただの言葉の応酬が、千雪の拗ねた気分を払拭する。建留にうまく操縦されている気がするものの、不機嫌になったとき、いまみたいに素直に云える瞬間を与えてくれるから後悔しなくてすんで心地がいい。

 ターミナルを出て連絡バスに乗り、それから建留は迷いもせずに旭人が車を止めていた場所にたどり着いた。うろ覚えながらも駐車場の方向を示すと、会社の専用スペースだからわかっていると云う。
 なるほどよく見ると、隣の数台分には“業平グループ”という文字がペイントされていた。来たときはそれに気づかないくらい、建留が帰ってくることしか頭になかったのだ。
 車のエンジンがかかるといまにも出発しそうな気配で、千雪は建留を覗きこむ。
「旭人くんは? 待ってなくていいの?」
「じゃなきゃ、旭人は車のキーを預けない。瑠依をあしらって適当に帰ってくるだろう」
 無責任な発言だが、千雪は旭人の『役に立つ』という言葉を思いだす。
「もしかして、ふたりで打ち合わせしてた?」
「いや、おれにとっては予定外だ。いろいろ考えてるんだろう、旭人なりに。旭人は頭が働く。うかうかしてると、おれもすぐに追いつかれる」
 その実、千雪からすると余裕がありそうなにやりとした笑みを見せ、建留は正面に向き直って車を出した。

 旭人は大学卒業後、業平不動産に入社して、コーポレート事業部の経理部に配属された。確かに旭人は頭が切れる。けれど、最前線で動く建留とは畑違いであり、なお且つ機転が利くというところも建留は旭人に引けを取らない。
 そして、瑠依は旭人より一年早く、同じコーポレート事業部で総務部に所属している。オフィスがどういう配置になっているかは知らないが、瑠依が休暇中だという旭人の情報源が社内だという可能性は高い。

「旭人くんて、よくわからない。兄弟仲っていいよね?」
「どうだろうな。少なくとも、ケンカっていうほどの諍いは憶えがない。旭人のことに限らず、まず、よくわかるヤツなんていないだろう。自分のことだってわからないことがある」
「建留のこともわからない」
 千雪はつい、燻っているわだかまりを吐露した。引っこめることはかなわず――。
「だから、お互いさまだ」
 建留は可笑しそうにつぶやいたかと思うと、「あとだ」と抑制した声で云った。
「なんのこと?」
「云い訳、だ。何も見逃したくないから、千雪の顔を見ながら話す」
 建留は千雪が云わんとするところを見抜いていた。
「見逃すって?」
「商談相手より千雪の気持ちを観るのは難しい。千雪とは、何もないことでなんにもならないケンカをしたくない」
 冗談というには声音が淡々としすぎていた。
 千雪に限らず、建留はだれを相手にしてもけんかをしないタイプだ。悪く取れば、けんかが面倒くさいのだろう。反対に、善意に取ればどんな気持ちがあるのだろう。
「表情を変えるドールはいないと思う」
 欠けがちな表情を正当化すると、建留は薄く笑った。


 加納家に帰り着き、いのいちばんでリビングに顔を出す。両親と滋が安堵混じりの喜びと労(ねぎら)いで建留を迎えるなか、茅乃はどこか物足りなくしているように思えた。
「瑠依ちゃんは一緒じゃないの?」
 茅乃の質問は千雪のなかに疑惑を生む。
「知りませんよ」
「小泉家のお嬢さんよ」
 茅乃は顔をしかめて建留を咎めた。
「瑠依と違って、僕はロンドンに遊びにいってたわけではありませんから、彼女が何をしようと、それは彼女の判断と責任ですよ。社長令嬢としてというならなおさら、内部間でへつらう必要はないんです」
「建留の云うとおりだ。食事に呼ぶのなら日を改めればいい」
 滋が建留の加勢をして締め括った。
 一年ぶりに家族がそろう。そんな日に、帰宅して早々、奥底には何があるのだろうという、驚くほどぴりっとした空気が漂う。
「千雪さん、もうすぐお夕食だし、みんなで食前酒をいただきましょう」
 華世が気をきかせて沈黙を断ちきった。「そうしよう」と調子を合わせた孝志が千雪のほうを向いた。
「千雪」
「はい。カシスでいいですか」
 千雪のほうから云ってみると――
「ここ最近はそれしか飲む気がしないな」
 と、孝志は顔をしかめる。さっきの茅乃と違うのは、それが孝志自身へ向けたものであることだろう。コーポレート事業部の忘年会に参加して、女子社員に勧められたカシスリキュールが孝志の最近のお気に入りなのだ。最近といってももう四カ月はたつ。
 千雪はかすかにくちびるを緩めてうなずいた。
「みんなのぶん、用意してきます」

 気まずさから抜けだせたことにほっとしながら準備した食前酒は、口をつけるのもそこそこに建留から取りあげられた。
「疲れているので、今日は引きあげます」
 建留は云い、「ゆっくりしたらいいわ」という華世の言葉に後押しされつつ、ふたりはリビングから退散した。
 浅木に夕食は部屋に運ぶよう依頼して、建留は千雪を伴い、部屋に向かった。
 まずは千雪の部屋に入って、建留はひととおり室内を見渡すと、結婚したときに新たにできた、千雪と建留の部屋を直接繋ぐドアに向かう。
 建留の部屋に入ると、何を感じとったのか建留から笑みがこぼれた。

「建留?」
「無機質な部屋に帰るのはいただけないなと思ってたけど、そうじゃなかったみたいだ。千雪の部屋よりこっちのほうが体温を感じる」
 そのとおり、建留がいない間も建留の部屋ですごすことのほうが多かった。
「結婚してからずっと建留の部屋を使ってる。慣れただけ」
 こんな弁解はなんのために必要なのか、千雪は自分でもわからない。
「離れていることにも慣れた?」
「慣れてきたと思ったときに、ロンドンに呼んだり、帰ってきたり、建留が慣れるのを邪魔してる」
 建留は期待はずれにあったように首を振りつつ、ため息をついた。
「建留は慣れたの?」
「まともに答える気にはならない。千雪がそうしてないから」
 建留は挑むようにしている。千雪の都合はそっちのけという、意思決定が建留にあることを示すときの常だ。
「云い訳は?」
 うやむやにする気なら、と千雪が思いださせると――
「さきに風呂に入らせてくれ。千雪もすませておくといい。一緒に入ってもいいけど体裁悪いみたいだし」
 と、建留はまた引き延ばしたすえ。
「ゆっくりできるように」
 長い夜をほのめかした。


 千雪が入浴をすませて部屋に戻ると、黒いルームウェアに着替えた建留が大きなスーツケースを開けて片づけていた。バスルームにいる間に旭人は帰ったようだ。あとの荷物は別送品で送ったという。
 クリスマスから正月にかけて帰ってきたときもそうだったが、あたりまえに部屋に同化している建留を見ると、くっついていたい気持ちが湧く。ロンドンでは一緒にいられることで満足できていたのに、それで足りなくなるのは、ここがふたりのいるべき場所だと思うから――正しくは、千雪がそうであるようにと願っているからだろうか。
 ドアの開いた音を聞きつけ、振り向いた建留は、シャーベットオレンジ色を纏った千雪を見つめる。マキシ丈のワンピースというルームウェアは、ハイウエストの切り替えがあってバストが強調される。建留の目がふくらみに留まると、その奥で鼓動がふるえた。

「おかえりなさい」
 うれしさの混載した戸惑いをごまかしたかったはずが、千雪の口をついて出たのは、建留の要求の一つに応えたわけではなくて、ただ正直な気持ちだった。
 南の窓際に置いたソファの傍でかがんでいた建留は、立ちあがると千雪のもとへとやってくる。
「もう云ったけど……また云いたくなるのはなんでだろうな」
 建留はいったん口を閉じて、なんのことだろうと千雪が思いつかないうちに――
「ただいま」
 ふっと笑んだあと、建留はそう云った。
 ついさっき千雪が思ったことは建留とちゃんと共有できている――とそんなふうに感じられた。
 そして、何かに突かれたように建留の手が伸びてきた。頬に触れる寸前、部屋にノック音が響く。
 時間が静止したようだったのは一瞬で、浅木の声がするのと同時に建留は小さく息を吐くと、「まずは腹を満たせってことだな」と首を振りながらつぶやいた。
「あとで」
 建留はミントの香る口を近づけてきたかと思うと千雪のくちびるの端に素早くキスをして、ドアを開けにいった。

 ワゴンを押して浅木が運んできた料理は、部屋の隅にある小ぶりのテーブルに並べられた。コーヒーメーカーをセットして浅木は出ていった。
 結婚してから、折りに触れて建留はこういうふたりだけの食事をセッティングしてくれる。家族で食事をするときとかわらず、にぎやかに会話が弾むということにはならないけれど、ご機嫌伺いというアンテナを張る必要がなく、千雪にとっては贅沢な時間になっている。
 離れていたこの三週間の出来事を話しながら、今日もやはり笑い声が飛び交うとまではいかず、けれど、おなかが満ちていくにつれて、物足りなくてすかすかしていた気分も埋められていった。
 食事がすんでコーヒーを注ぐ。ひと口飲んだ建留はカップを置くと、テーブルに左腕を置き、右は肘をついて指先で顎を支えた恰好で、まともに千雪を眺めやる。まごついてしまうほど、建留はしばらく黙ってそうしていた。

「瑠依は突然やってきた」
 やっと口を開いたと思えば、建留自身が突然、本題を持ちだした。千雪は手にしていたカップをソーサーの上に戻した。
「……帰ってくるって電話のとき、建留を呼んだのは瑠依さんだったの?」
「ああ。あの一日まえに来た」
「一週間もいたのに、一度も瑠依さんの名前は出なかった」
「聞こえてたとは思わなかった。隠したわけじゃなくて、必要のない気分をわざわざ抱えさせることはない。そう考えただけだ。千雪は瑠依とは合わないだろう。こんなふうに云い訳しても、結果的には何もしてやれないっていうことになる確率は高い。信頼度の問題じゃなくて、傍にいないからだ。そうだろう?」

 千雪が鈍いだけなのか、瑠依が建留を好きだというのは今日のことではじめて察した。結婚祝いの言葉が儀礼的だったということに合点がいく。けれど、結婚するまえに邪魔することがなければ、結婚してからも何も動くことはなかったのに、いまになってなぜ瑠依は波風を立てるようなことをするのだろう。
 建留の云うとおりかもしれない。瑠依が勝手に千雪の気持ちを曝露したときから、瑠依に対しては警戒心が拭(ぬぐ)えないでいる。
 疑っているのは瑠依のことであって――
「建留が嘘を吐かないことはわかってる」
 建留はふと何かに気を取られたように表情を止め、やがて、ため息をついて口を歪めた。

「瑠依がおれと一緒にいたのは、どうしても避けられない昼休みだけだった。その時間を狙って会社に来るから。けど、だれかを同席させてる。帰りは、時間をまちまちにしたり、ほかの奴を使ったりして撒(ま)いた。あとは……借りてたマンションのセキュリティがしっかりしてたのは千雪も知ってるだろう」
「建留は……瑠依さんが建留のこと好きだって知ってた?」
 ためらいがちに千雪は問いかけた。人の気持ちを勝手に決めつけるのは、瑠依がしたことと同じだが、お相子にしてもかまわないはずだ。
「好きかどうか、それはおれからはなんとも云えない。どっちであっても、おれは興味ないし、瑠依にとってはどうにもならないことだ」
「おばあさまは……瑠依さんがロンドンにいること知ってた気がする」
 建留はつと目を逸らすと、何かを思案するように顔をしかめた。またふたりの間ではびこった沈黙は、建留のため息で解消された。
「なるほど。そうかもしれない」
 建留は気づいていなかったのだろうか。結論は曖昧に濁されて終わった。
「わたしはやっぱり嫌われてる」
「けど、じいさんは千雪の御方だし、父さんたちとはうまく渡り合えてる。さっき、ほっとした」
 ずっと気にかけていたような云い方に聞こえた。
「努力してる」
「ああ、わかってる。帰りの飛行機は、瑠依が社長令嬢という切り札使って便乗してきた。おれはとにかく寝てた。はっきり云うなら、年度が切り替わる時期にのんびり休暇を取るとか、立場を利用するっていうのが理解できないし、それを許す側もそうだ」
 すっぱりと云いきった建留は「云い訳は終わりだ」と付け加えた。納得したか否か、問うような眼差しが向く。
 建留の云い分は納得できても、不安要素は消えていない。千雪は目を伏せてなんとも答えられず、コーヒーを飲んだ。

「肝心なところを答えないってなんだろうな」
 と、建留はいきなり席を立ってテーブルをまわってきた。テーブルが小さいせいで、反応する間もなく、千雪は脚をすくわれるようにして抱きあげられた。
「建留!」
「答えを知る方法は一つとは限らない。言葉で答えられないなら……」
 ベッドに転がった千雪の躰を跨がると――
「千雪はリアルなドールだ。躰は精巧にできている。抱けば答えが聞けるんだ」
 本性を剥きだして建留は含み笑った。

 建留の云い分は少し間違っている。
 答えているのではなくて、なぜかベッドの上では隠せない。
 千雪は、伝えるチャンスを与えられても好きとも愛しているとも言葉にできない。躰の反応は隠そうとしても隠せないから、それなら素直に応えるほうがいい。そうすることで、秘密にならない気持ちが建留に伝えられて、一方的に好きでいる苦しさから少し解放される。
 千雪に限らず、建留も言葉にすることはない。そもそも、建留の心中には結婚を決めるのにどんな根底があったのだろう。
 建留は千雪を抱き寄せて、同情ではないと云いきって、必要としていると訴えた。
 いまは、御方になりたいと、そう云ったときのように、切羽つまった眼差しが千雪を見下ろしている。
 ――そう……なんだ。
 なぜか、という理由がわかった気がした。
 あれらすべての言葉はプロポーズで、そしてそのときと同じ腕と眼差しで、ベッドの上の建留は、愛されていると感じる、訴えるような抱き方をする。セックスのときも、ただ一緒に眠る夜も。

「建留、疲れて……」
「ロンドンはいまの時間、まだ昼間だ。飛行機のなかじゃ眠ってばかりだったし、むしろ時差ボケ解消のために疲れきるまで……」
 建留は中途半端に言葉を切ってぼかし、そのさきは、いつもの笑い方が代弁した。
 笑みを宿らせたまま、建留のくちびるは千雪の口の端に触れる。千雪が目を閉じると、建留はくちびるを割って舌をくぐらせた。同時に、シャーリングゴムの襟もとが肩からはだけられ、ワンピースは胸の下までずれて千雪を腕ごと括る。ブラジャーは身につけていない。建留の手がそれぞれの胸をくるんでうねらせた。
 ふくらみがゆったりと揺さぶられるうちに、そこから始まって躰全体が温まっていった。キスはワインを味わうように緩やかで、千雪の口のなかにふたり限定のアルコールが生成されていく。酔ったように思考力が奪われそうになる。
 建留が胸から手を離した。かと思うと、手のひらで胸の突起をつついた。感覚が一気に鋭くなって、千雪は呻きながら反射的に胸を反らした。手のひらで転がされるのに連動して上半身がうねり、胸先は痛いほど硬くなっているのが自分でも感じられた。理性が飛んで、もっと! そんな欲求を叫びたくなる。かわりにキスを交わしながらひどく喘いで訴えた。
 建留はそうした反応を待っていたかのように顔を上げた。建留は千雪の欲求を察している。抱けば聞ける、とそんなふうに暗黙の了解になっているかもしれない。
 十センチくらいしか離れていない真上から、建留は燻った瞳で千雪を戸惑わせる。

「このままじゃ、千雪を置いていく。だから、さきにイってくれるだろ? 我慢しないでできるだけ早く」
 余裕がなく聞こえた。けれど、千雪も同じだ。
「……我慢なんてできない」
 素直に応じると、建留は力尽きたような様で笑う。
「そうしてくれ」
 建留の手が性急なしぐさでルームウェアの裾をたくしあげ、千雪のショーツを取り去った。
 ルームウェアはウエストに纏いついたままで、膝の裏が持ちあげられて、躰の中心へと建留が顔をおろしていった。息が触れた直後、敏感な花片が熱く含まれた。腰がびくりと跳ねあがる。予想していたにもかかわらず、その快楽はその度合いを超えた。慣れることはなくて、ただ躰が果てを求めて開いていく。
 建留は集中して、息がかかるだけでふるえてしまう、弱点でしかない突起を責めた。花片を咥えたまま、先端を舌でくすぐる。軽く持ちあがったお尻を粘液が伝った。
「あ、ふっ……建……留っ」
 我慢できる余地はまったくなかった。こんなやり方でイカされるとき、頂点に達する間際、腕で声をふさぐのは無意識の癖になっている。けれどいま、腕はルームウェアに括られていて、思うように動かなかった。
 んんっく――っ……ぅふ、はっ。
 声を堪えたぶん、千雪は目の眩(くら)むような快楽のなかにこもった。その間も建留はくちびるを放さず、感覚が過敏になりすぎて腰が何度も上下する。快楽から抜けだせないまま、また次がやってきそうな怖さを抱いた。
「建留!」
 もういい。そんな気持ちを込めたはずが、建留は煽られたようにそこに吸着した。充血した花片がさらにふくらんだ気がした。きつく吸いつかれて、止めようとしても自分でもどうしようもない快楽がこぼれた。
 ぅく――――っ。
 息が詰まる。躰中を痙攣が襲った。
 建留が顔を起こすと、千雪の躰から一気に力が抜ける。
 手がこめかみに触れて、苦しそうに喘ぐ口の端にちょっとだけくちびるが触れる。
「やっぱり千雪はおれのためにいるみたいだ」
 満足げで、からかうような声が千雪のくちびるに注がれる。まぶたをふるわせながら目を開くと、溜まっていた涙がこぼれて建留の手に添った。
「泣くほどよかったらしい」
「でも……ちょっと、だけ……怖く、なるの……わかって、る……?」
 息を切らしながら抗議すると、建留は首をひねって悦に入った表情を見せる。
「わかってるつもりだ。おれも死にそうな気分になる」
 そう云って、建留は躰を起こすと服を脱ぎ始めた。

 時間があればスポーツクラブで鍛えている躰は、程よく波打つように隆起している。運動不足の解消と同時にリラックスできると云う。時間が合うときは千雪を一緒に連れていく。息抜きの時間に同伴されるのは、千雪のまえで建留がかまえていない証拠のように思えてうれしくなる。
 触れたくてたまらない衝動を堪え、建留がすべてを晒すのを待って千雪はルームウェアの束縛に邪魔されながらも手を伸ばした。合わせたように建留が上体をかがめてくる。再び膝を抱えあげられて、次には躰の中心に建留の慾が触れた。一瞬後――。
 んっ。
 多少の手加減はあったものの、慾がぐっと奥まで届いた。千雪は建留に触れる寸前でそれはかなわず、背中を反らした。
 あ、あっ……は、ぅっ。
 建留はずっしりとした感触で二回だけ往復させると、かすかに呻きながらいったん躰を離す。避妊具をつけ、すぐに千雪の体内へと慾を沈めた。
 躰を繋いだまま、建留が千雪の背中を支えて起きあがらせた。ちょっとした動きにも敏感になったふたりは、ともに小さく喘いでいる。あぐらを掻いた建留の上で服を脱がされて、千雪も裸体を晒した。腰をぐっと引き寄せられると、建留の慾が最奥をつついた。

「建留」
 悲鳴に近い声で名を囁く。
「きついか」
「でも、つらくない」
 ほんの傍で唸るような笑い声が漏れる。
「一回めはそう持たない」
 つまり、一回では終わらせない、とそう宣言したのも同じことだ。
 建留は腰を押しつけてきた。千雪を縛る腕のせいで、感覚を緩和させることはできない。
「あ、やっ」
 身ぶるいが躰の隅々まで波及する。融けてしまいそうな怖さに襲われて、建留にしがみついた。鼓動が重なって乱れる。
 波に揺られているような水音を伴う律動のなか、胸のふくらみは密着した建留の胸筋が摩撫する。急速に、果てへと煽られていく。
 体内で感じる快楽はとっくに憶えたのに。そこそこで感じ方が変化して、同じことをしているはずなのに、感度はその時々によって異なる。好きという気持ちがそうであるように、やはり慣れることはなくて、だから、建留に抱かれるのは好きで、そうしてくれるならほかのことは捨ててもいいと思ってしまう。
「千雪」
 千雪の耳もとで振りしぼるように呼ぶ声は限界だという建留の合図だ。
「た、つる……っ」
 わたしもまた――続けようとした言葉は声にならず、そのかわりに叫びそうになる。建留の肩にくちびるを押しつけ、それでも飛びだした悲鳴はくぐもって漏れた。
 くっ。
 建留の抑制した呻き声と同時に、それぞれのふるえが互いの躰を刺激した。

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