ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第4章 Bad sweet

3.怖い?

 三人で食事をすませたあと、麻耶を駅まで送り、それから帰途についた。
「建留、この恰好で帰ったら何か云われない?」
「困ることはないだろう。結婚したんだし、みんな認めてる」
「でも……」
 自分でも何をためらっているのかわからない。
 建留は運転しながらちらりと千雪を見た。
「おれだってこんな恰好だ」
 からかったように対抗したことを云い、「すぐには帰らない。これから寄り道の二カ所めだ」と建留は小さく笑った。
 どこに行くのだろうと思っていると、建留はやがて背の高いビルの下にあるプライベートロードに沿い、エントランスの正面に車をつけた。
「すぐ暖かい部屋には行くけど、寒くないようにしろ」
 着替えるには窮屈な助手席でコートに腕を通している間に、建留は車を降りて、次には後部座席のドアを開ける。着終わって何かと後ろを振り向こうとしたとき、助手席のドアが開けられた。冷たい風が入って千雪はびくっと首をすくめる。ドアに目を向けると、どう見てもホテルマンという恰好の男性がドアを支えて立っていた。
「降りて」
 建留が声をかける。
 降りるためにコートを着ていたわけだし、松田から送迎されることがたびたびあってこんなこともめずらしくはないが、いまだ慣れず、気後れしてしまう。
「いらっしゃいませ」
 千雪が降りると恭(うやうや)しく一礼をされた。
 すぐに建留が傍に来て千雪はほっとする。歓迎の挨拶もそこそこに、ホテルマンが建留の手荷物を預かり、もう一人のホテルマンに車の鍵を渡した。
「建留?」
「あとで」
 建留はひと言で千雪の疑問を制する。

 受付をすることもなく、フロントから鍵を預かってきたホテルマンが即座にエレベーターへと案内した。一流を誇示するように振動もそう感じられず、あっという間に最上階の『21』が点灯した。
 荷物を運びこんだホテルマンは、マニュアルどおりのセリフを残して速やかに出ていった。
 奥に行けば、部屋は見るからに贅沢だった。ホテルの一室ではなく、だれかの住み処のように広い。千雪はリビングから見てまわった。
 へまをしでかしそうとおかしな不安を抱くくらい、やはり場違いに感じながらも、着ているのがミニ丈のウェディングドレスでよかったと思う。家に帰れば浮いた恰好かもしれないが、ここでは相応だ。
「家で結婚スタートするってのは無粋だ……って沙弓に怒られた。かと云って、いま決算控えてるから旅行するほど休みは取れないし、どうでもいい場所っていうのもどうかと思った。このグレイシャスホテルは業平不動産が経営してるホテルだ」
 建留は唐突に、エントランスで口にしかけた千雪の疑問に答えた。ちょうどベッドルームに入ったところで、建留の発言からいきなりその奥底の意味を察した。

 千雪が躰を反転させてリビングのほうを振り向くと、建留とまともに目が合う。
 リビングの向こう端からゆっくりと近づいてくる様は、ほんのいままであった、なめらかな声とは印象が違っている。警戒心と攻撃心を併(あわ)せ持つような気配で、さながらレオパードだとインスピレーションが湧いた。
 ずっとまえ――去年、出会った日にちらりと見せた、毛を逆立てているといった敵対心ではなく、獲物を捕らえるかのような雰囲気だ。タキシードの色の組み合わせがそう見せているのかもしれない。
 建留の印象はその時々で変わる。大抵は鷹揚(おうよう)といった雰囲気だが、初っ端(しょっぱな)、獰猛な獣だと感じた瞬間のほかにも、借金取りの男の扱いはぞんざいだったし、千雪に対しては、問いかけるときは淡々として、説得するときは強引で、加納家に着いたときはからかうようで気さくさを見せた。
 変わるということは、建留が本性を隠しているということにほかならない。
 いまさら気づいた。けれど――。
 建留は一歩を空けて正面に立ち止まる。頭を支えるように千雪の首の後ろ部分を両手でくるむと、持ちあげるのではなく、建留のほうが上半身を折りながら首を傾けた。千雪は見開いていた目をとっさに閉じる。
 片方の口の端にふんわりとした感触がして、それから緩く吸いつかれる。小さな吸着音を立てながら建留は離れた。
 くちびるの傍に息遣いを感じているけれど、しばらくしても再び触れてくることはない。首もとに添えられた手から温かさだけが伝わってくる。
 終わり? そう内心でつぶやいてから、つい物足りなさを感じてしまったのは恥ずべきことかもしれないと戸惑う。千雪がおもむろに目を開けると、間近で建留の顔がクローズアップされていく。

「不安か、もしくは、怖い?」
 これからの時間のことに違いなく、不安はともかく怖いかという質問は大げさな気がした。ひょっとして建留の口癖なのか。それにしては、まだ三度めで、しかも何気なくではなくて耳に残る声音だ。
 建留の考えていることは少しもわからない。けれど――
 少なくとも怖くはない。
 首を横に振ると、すぐ傍で皮肉っぽく見える笑みが向けられた。
「風呂、入っても入らなくても、おれはかまわないけどどうする?」
 唐突な質問は生々しく感じてどきどきさせられ、千雪は目を瞠(みは)る。
「……入る」
「一緒に?」
 思わず目を伏せると、建留は含み笑う。
「……。独りで」
「迷うってことは嫌われてないってことだ」
 からかった声のあと、「そうしたほうがいいんだろうな」と独り言のようにつぶやいて建留は躰を起こした。

 ベッドルームを見回した建留は、千雪の背後を指差す。それを追って背後を向くと、ベッドの脇に置かれたスーツケースが二つ、目に入った。
「ピンク色のほうが千雪のだ。浅木さんに頼んだ。出かけている間に、着替えを詰めて運んでもらってる。帰るのは日曜日だ」
 そんな手配がされていたことに驚いているうちに、背後から首もとへ手が伸びてきた。そうして、着ていたコートとボレロが一緒に奪われる。振り向こうとすれば肩を戻されて、背中にあるドレスのファスナーがおりていった。
「建留!」
 叫んだとたん、肩をつかまれてくるっと半回転させられる。
「ウェディングドレスを脱がせる機会はもうないから。おれの特権だ。脱がせられるのは千雪の特権、だろう」
 くちびるを歪めて云いながら、建留は胸の間に人差し指を忍びこませた。ファンデーションを身につけているが、素肌にほんの少し指の関節が触れただけで千雪は飛びのきそうになる。建留はビスチェの部分を引っ張って浮かせると、両わきに手を添わせて下へと滑らせながらドレスを落とした。ペチコートがあるからまだましだ、と自分をなぐさめていると、それにまで建留の手が伸びてくる。
「建留!」
「千雪のためだ。ちょっと緩和しておく。飢えた野獣みたいな真似はしたくない」
 そうしてペチコートまで落とされた。
 すくんだ千雪を肌が痛くなるほど眺めて、ひどく目を細めた顔はしかめているようにも見える。呼吸すらもままならず、動けないでいると。
「オーケー」
 と、どんな気がすんだのか、建留は千雪から顔を背けるようにして薄らと笑った。
「そこから入ったところにバスルームがある。おれは向こうでシャワーを浴びてくる」
 ベッドの脇のほうを示したのに続きリビングを挟んで反対側のほうを指差すと、建留はあっさりと背中を向けて行った。

 ほっとしたのか拍子抜けしたのか、千雪は自分の気持ちが判別できない。すぐには動けず、すると、建留が戻ってきた。
「お母さんからもらったメイクセットがいるだろう」
 さっきまでのこもったような声と違い、平常どおりの喋り方だ。そんなふりをしているのか、呆気なく気分を切り替えられたのか、やはり建留のことはわからない。
 建留はメイクボックスを渡しながら、「風邪ひくまえに早く風呂に入ったほうがいい」と促す。それはやはり余裕に見えた。
 建留がベッドルームから消えて、千雪はやっと動きだす。
 建留が指差したドアを開けるとそこは普通にひと部屋というクローゼットルームで、左側の奥にドアがある。行ってみるとパウダールームだった。ちょうどベッドの枕側がバスルームになっている。
 メイクボックスを洗面台に置くと、鏡のなかにいる自分の姿が目についた。
 Cカップそこそこの胸をくるむロングブラジャーにはガーターが付属している。ストッキングをガーターで留めるという恰好は、それだけ見れば大人っぽいが、自分に合っているかというとそんな自信はない。結婚式とは知らなかったから、ホワイト尽くしというなかでショーツだけ淡いブルーというのがアンバランスだ。
 がっかりさせたかもしれない。
 そんな心配をしてしまうと、ついさっきの建留の言葉を思いだした。

 嫌われてないってことだ――それは一見、安堵したように聞こえる言葉だ。そう云った建留の真意はなんだろう。嫌うどころか、千雪の気持ちはとっくにばらされているのに。
 婚姻届を出したあと、垣間見えたもの――建留にも緊張や不安がある。そういうこと?
 ベッドルームでは、いつもより低く感じた声がそうだったように、眼差しもなんらかの感情に烟(けぶ)って見えた。
 勘違いでないように。
 胸が締めつけられそうなほど緊張も不安も感じている。それと背中合わせにある、ときめくような気持ちを咬みしめた。
 大学生になると必要だと思うから、と麻耶がお祝いの一つとしてくれたメイクボックスを開けて必要なものを取りだす。説明のとおりにメイクを落としてしまうと、濃くしていたわけでもないのに、千雪の表情からは華やかさが消えた。
 メイクなんて考えていなかったけれど、せめて建留と出かけるときはするべきだ。チャペルでの写真撮影のとき携帯電話でも撮ったのだが、それを見るとアンバランスには感じなかった。対照的な濃淡の色を身に纏うなかで、千雪の髪と建留のベストの色がふたりをぴったりと繋いでいた。そんなふうに、少しでも近づいていたい。

 バスルームに入ると、加納家に負けないくらい広く、気分的にもゆったりと優雅にすごせそうな雰囲気だ。それでも、いまはそわそわして落ち着かない。のぼせそうになってやっと千雪はバスタブを出た。
 すると、躰を拭きかけたところで替えの下着を持ってきていないことに気づいた。正常に頭がまわっていない。ひとまず千雪は棚に用意されていたバスローブを羽織った。ベロアのようにやわらかい肌触りでふかふかと躰が包まれる。
 歯をみがいて髪を乾かしてベッドルームに戻ってみれば、そこに建留はいなかった。おそらくテレビだろう、リビングのほうからかすかに建留ではない声がする。見ると、開いたドアの向こうで、建留がこっちに背を向けた恰好でソファに座っていた。
 時計を見れば十一時をとっくにすぎているから、千雪はずいぶんとバスルームに閉じこもっていたことになる。
 その退屈しのぎなのかもしれないが、てっきり、建留は罠でも張っていそうに待ちかまえているかと思っていた。
 千雪は気が抜けたあまり、どきどきしてたのに、と声には出さずにつぶやく。空回りしている気持ちは、情けないような拗ねたような気分に転換された。

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