ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第4章 Bad sweet

2.サプライズ

 建留の車で栞里を家まで送ったあと区役所まで走った。
 家を出るとき、いってきます、とリビングにいた華世と茅乃に顔を見せたが、いってらっしゃい、と云われただけで普段と代わり映えしなければ、婚姻届は弁護士の常井の立ち会いの下(もと)、ずっとまえに書いていたから不備もなく受理され、栞里が云ったように手続きといった感じだ。
 サインをしたときのほうがどきどきしていた。もともと字が上手というわけでもないが、出すまえにあらためて見たサインは恥ずかしいほどいびつだった。
 また車に乗ると、エンジンをかけた建留は呼吸というにはいくらか大きい息をついた。車中はいつも音がなく、やけに目立って響く。
 千雪が思わず運転席を見ると、合わせたように建留も助手席に顔を向ける。気まずくなるくらい千雪を見つめたあと、建留は薄く笑った。どこか自嘲したように見える。

「どうかした?」
「緊張とかしてないなって思っただけだ」
「……わたし?」
「ああ」
「……みんな、いつもと変わらなかったし、名前を書いたときのほうが現実的だった」
「そうだな」
 ふっと笑みを漏らすと、建留は車を出した。
 建留は緊張していたのだろうか。ついさっきのため息を思い返しながら、千雪はそんな疑問を持った。
 車を走らせて十分もしないうちに、建留は首都高に入った。まっすぐ家に帰るのならわざわざ首都高を使うはずがない。
 千雪は通りすぎる案内標識を目で追う。
「建留?」
「寄り道する」
 建留は、千雪の問いかけにもなっていない呼びかけの意を的確に汲んで答えた。
「少しは実感したいだろう? 予行だ」
 実感したいというのは結婚でも、予行というのはなんだろう。
「どこ?」
「楽しみにしておけばいい」
 そのときまで教える気はさらさらないようで、建留は話を打ちきった。

 途切れ途切れだが大学のことを話しながら、五時半をすぎて車は首都高を出た。日も沈んで薄暗くなるなか、やたらと大きい建物があるビジネス街を通る。やがて、一つの角を曲がると、片側だけビル群が途切れて公園が現れる。
「この公園を通りすぎて行けば、業平ビルがある」
 建留が助手席側のフロントガラスの外を指差した。
 漠然と業平が大きいことは知っているが、実際に都心部まで来ると自分には場違いだとあらためて千雪は感じる。沙弓が建留のことを『将来の社長』と云ったことを思いだすと、畏怖(いふ)の念を抱きつつ、結婚をしてしまったことが本当によかったのか、後悔を覚えなくもない。
 世間が生きにくいことは知っていても、社会についてはまったく疎(うと)い。好きという気持ちしか考えずにここまできて、建留の奥さんとしての社交が自分に務まるのか、いきなり不安になる。大人になりたい、とそう思うほど千雪は子供なのだと自覚した。
「どうした?」
 千雪は考えこんでしまって何も応えず、建留はそれを不自然に思ったのだろう、窺うような声音だ。
「ううん。すごいなって思っただけ」
「……普通にしてればいい」
 ちょっと考えたすえに発せられた言葉はどういう意味だろう。車は公園の下の駐車場へとおりていって、千雪は訊きそびれてしまった。

 車を降りると、駐車場から地上へと出て、公園内を歩いていく。
 春はすぐそこまで来ているのだろうが、夜ともなると首をすくめるほど寒い。反面、空気はきれいで、外灯や屋内の照明がくっきりと建物を浮き彫りにして、そこだけ世界が違うように幻想的だ。噴水のイルミネーションはひと際目を引いた。
 歩きながら見惚れていると、千雪はちょっとした段差につまずいてしまう。両手はポケットのなかでバランスを崩すと、とっさに建留が腕をつかんで支えた。
「ちゃんとまえ見てないと転ぶ」
 建留の注意は子供に云っているのとかわらない。千雪はため息をつく。
 建留はそれを違うふうに受けとったようで、「帰りにゆっくり見ればいい。いまは時間がない」と付け加えた。そして、手を差し伸べる。
 その手が何かと考えたのは一瞬で、千雪が首をかしげたのと同時に建留も首を傾けて促す。
 例えば、玄関を出るときにかち合って、さきに行くよう云うかわりに背中を押されたり、そんな瞬間に触れられることはあっても、手を繋ぐことやキスや、そういうあらためて触れ合うことは、結婚を決めた日以来なかった。
 まごついて千雪がためらいがちに手を出すと、すかさず建留がすくう。再び首を傾けた建留の顔は、オレンジ色の外灯がそう映しているのか、おもしろがっているように見えた。
 歩くうちに、最初はどきどきしてわからなかった温度が手のひらから伝わってくる。建留の手は大きいから千雪の手はすっぽり隠れて、冷たい風も感じない。受験勉強の際、ずっと千雪に付き添ってはくれたけれど、出かけることはなくて、こんなふうに手を繋いで建留と歩くのははじめてだと思い至る。これからこういう機会が増えたら――そんな希望を持つと、不安が押しのけられるくらいうれしくなった。

 やがて、建留は一軒家のような洋館がある敷地に入った。
 ここは都心部にありながら、周囲の視界は木々が占めていて森のなかだと錯覚(さっかく)させる。建物全体がオレンジ色に浮かびあがって、簡単にはたどり着けない秘密の場所にやってきたようなときめきを覚えた。
 手前にあるスペースは加納家のローズガーデンに似ていた。ロートアイアンのアーチは布を纏い、ドレープをつくっている。布を留めるように添えられた頭上の装花はバラがメインで、クラシックな優雅さが演出されていた。
 千雪はやはり幼くて、それらをうっとりした気分で眺めていて気づかなかった。

「千雪」
 聞き慣れた声が千雪を呼ぶ。
 この頃は――ほぼ一年、聞いてきた声はいつも携帯電話越しで、じかに耳に届くことはなかった。
 千雪はぱっと声のしたほうを向く。
「――お母さん!」
 麻耶が建物のすぐまえに立っていた。
 駆けだしたい気持ちはやまやまなのに、逆に足は止まり、そうした瞬間に根っこが生えたみたいに動かなかった。かわりに、麻耶がゆっくりと近寄ってくる。
「千雪」
 麻耶の笑顔は少しも変わらなくて、千雪の頭に手を置くと、子供の頃そうやっていたように髪に添って撫でた。
「結婚、おめでとう」
 電話でもそう云われたが、顔を合わせて祝福を受けるのは格段に違う。何より、建て前ではなく本物の笑顔が付随して、麻耶が心底から賛成してくれていると心強くなった。
「ありがとう」
 ほかにも云いたいこと、いや、訊きたいことはいくつもあるのに、頭のなかは混乱していて千雪はそれだけしか応えられない。

 麻耶は微笑んで、それから建留へと目を向けた。
「建留さんもおめでとう」
「ありがとうございます」
「大きくなったわね。あのときは、ふたりがこんなふうになるなんて思いもしなかったけど」
「そうですね。幼かったおれにとっては、お母さんも千雪も印象的でした」
 その言葉に思わず千雪は建留を見上げた。気づいた建留も見下ろしてきて、片方だけ口角を上げた。
 麻耶に会ったことがあるとは聞いたが、千雪に会ったとは云わなかった。思い起こせば、小学生のときと建留は云ったのだから、逆算すれば千雪と会っていても少しもおかしくはない。
「千雪は二歳まえだったし、憶えてないのも当然だ」
「建留は云わなかった」
「だから。千雪の記憶にはないし、云ったからといって感動を引きだせるわけでもない。少しでも笑ってくれるんなら云ってもいい」
 納得のいく云い訳ではない。ただ、麻耶が吹くように笑って、拗ねるタイミングを逸らされた。
「千雪は相変わらずね。建留さん、わたしたちのせいなの。この子のこと、気長に見てくれるかしら」
「そのつもりでなければ結婚は決めません」
「ありがとう。よかった。建留さんが変わらなくて」
 千雪へと目を戻した麻耶は――
「さあ行きましょう。早くしないと」
 と、にっこりした。
 時間がないとなれば食事だろうと、千雪は見当をつけていたのだが。
「レストラン、そんなに早く閉まるの?」
「お食事はするけど、レストランとは違うの」
 麻耶の言葉を受けて千雪は建留を見上げた。
「牧師さんが待ちかねてる」
 建留がほのめかした意味に気づくと、千雪は目を丸くした。
「結婚……式?」
「ああ。名前変わるだけじゃ味気ないだろう」

 なんでもないことのような口調だが、建留は淡々として見える裏で、人のことまでもいろんなことを考えている。そう、身に沁みた瞬間だった。
 たまには素直に――栞里の言葉と、麻耶と会えたうれしさやら安堵感やらと相まって。
「ありがとう」
 千雪の顔から笑みがこぼれた。
 見上げた顔は一瞬だけ時間を止めたような気配になり、それからつと目を逸らしてすぐに戻したかと思うと、建留は右手でこめかみ辺りの髪を掻きあげた。ため息をつくような笑い方は何かをごまかすようにも見える。
 思わず目を凝らすと、そうした千雪に気づいて建留は首をひねってかわした。

「支度してきたらいい」
 建留は千雪から麻耶へと目を移し、「お願いします」と軽く一礼した。
「ええ」
 うなずいた麻耶は「来て」と千雪を促した。建留が背中に手を添えて後押しする。振り向くと建留はわずかに顎をしゃくって送りやった。なんでもないそのしぐさ一つで、ひどく建留を身近に感じられた。
 連れていかれた木製の洋館は個人宅のように温かみがあって、それはブライズルームも同じだった。
 アメリカンカントリーを思わせる、こぢんまりした部屋に入ると、片隅には白いミニドレスが飾られていた。麻耶が結婚祝いに買ったと云う。麻耶に勧められて着替えると、驚きが冷めきらないうちに千雪はドレッサーのまえに座らされた。
 麻耶はまず千雪の髪に巻き髪ウォーターをスプレーして、千雪が着替えている間に温められていたホットカーラーを巻いていく。

「お母さん、いまどこにいるの? 東京だよね?」
「外れのほうにいるわ」
「まだ住んでるところ、教えてもらえないの?」
「あとで名刺をあげる」
 まだ内緒なのかと思っていただけに、千雪は安心を通り越して拍子抜けした。
「どうして会いたくなかったの?」
「会いたくなかったわけじゃないの。そんなふうに思ってるなんて悪かったわ。千雪に確かな場所をつくっておきたかっただけ。建留さんとの結婚なんて考えてもなかったけど、ただ加納家に慣れてくれればと思ったのよ。わたしの場所がわかっていたら、千雪は加納家を飛びだしてくるから。せめておじいちゃんが元気なうちは、千雪にとって悪いことにはならないと思ってたし……。いまは建留さんもいるから、これからは大丈夫ね」
「お母さんは、いまのわたしの歳で独りでやってきたんでしょ。わたしだって――」
「だから。お母さんには加納家があったからよ。頼るつもりは少しもなかったけど、もしものときにおじいちゃんがいると思ってると心強かったから」
 千雪は不思議に感じた。
「お母さん、おばあちゃんとは何があったの?」
 あらためて訊くと、麻耶は口もとだけの笑みを見せた。
「話すと長くなるわ。結婚のこと、賛成してくれてるんでしょ?」
「そう云ってくれてる」
 千雪が茅乃をどこか信じきれていないことは云わないでおいた。麻耶から躰はもう問題ないとじかに聞いて、そのとおり元気そうだが、不確かなことで心配をかけるわけにはいかない。

 カーラーを巻き終わった麻耶はパフに化粧水を取り、千雪の肌をケアしていく。冷たくて、千雪はちょっと首をすくめた。
「お父さんのこと、訊かないのね」
 唐突な問いかけだった。千雪にはなんとも答えられない。気にならないといえば嘘になるが、千雪にとって芳明は到底理解できる父親ではない。電話でも、芳明のことが話題にのぼったことは一度もない。
 麻耶は沈黙した千雪を見て、しかたなさそうに微笑んだ。
「聞いてちょうだい。もともと、病院で云ったとおり、加納家から千雪を迎えにいってもらう予定だった。あの日は、千雪が病院を出てすぐお父さんから電話があったの、借金取りが押しかけてきたって。居留守使って、いったん帰ったらしいけど、また来るかもしれないから千雪を家に帰すなって云うの。でも連絡の取り様がないし、だからおじいちゃんに頼んだわ。だれも何も云わないし、ただ無事にすんだと思ってた。千雪の結婚が決まってからよ、何があったのか、お母さんが知ったのは」
 麻耶は、「お父さんは臆病だから」と深くため息をついた。
「お父さん、結婚を知って安心したのかしら。半年まえに打ち明けられたわ。お父さんも助けなかったことを悔やんでる。放っておいたわけじゃなくて、助けが来るってわかってたから。許さなくていいの。でも、知っておいて。ごめんね、千雪。何もしてあげられないうえに……」
 麻耶は言葉を詰まらせた。
 助けが来るのは確かでも、それで千雪に被害が及ばないとまでは断言できなかったはずだ。建留が来るのが、あと三十分でも十分でも遅かったら、そう思うと――いや、想像したくもない。
 あんなだらしない芳明にどうして麻耶はここまで献身的になるのだろう。

「お母さんが謝ることじゃない。あのことはあまり思いだしたくないの」
 麻耶の表情があからさまに曇る。
「ほんとに大丈夫だったのよね?」
「うん」
 麻耶はほっと息をつくと、千雪の顔にリキッドファンデーションを伸ばしていく。
「男性不信にならなくてよかった」
 しばらくして、雰囲気をかえるように麻耶はちゃかした。
「建留が来てくれたから」
 麻耶はうなずいた。
「軽く目を閉じて」
 云われるとおりに目を伏せると――
「建留さん、いいわね」
 麻耶は微笑んでいそうな声で云った。
 発言は漠然としすぎて、どういう意味なのか千雪は量りかねた。
「お母さんが結婚に反対しなかったのは、建留を知ってたせい?」
「知っていたといっても一度しか会ったことはないのよ。しかも、そのとき建留さんは小学生だったんだから、どういう人かなんてわかるはずないでしょ。おじいさんから聞いたときは、十八歳で結婚なんてって反対する気持ちのほうが強かった」
 千雪が報告したとき、確かに最初は麻耶の声も心配そうに聞こえた。
「それなのにどうして気が変わったの? 考え直したらとか、やめなさいとか、一度も云ってないよね」
「千雪の声から、しかたなくとか無理やりとか、そんな感じがしなかったからよ。それに……」
 麻耶は中途半端に言葉を切った。しばらく待ってもなんの音沙汰もない。
「それに?」
「嫌々だったら千雪は絶対に断ってる。そうしないってことは、って考えれば理由は見当がつく。そうしたら、興味津々で千雪の面倒を見てた小学生の建留さんを思いだしたわ」
 麻耶の云うとおり、不安はともかく、断らなかったのは嫌ではなかったから。それは控えめな云い方だが、麻耶をまえにして簡単に認めるのは、目をつむっていても照れくさすぎる。
「建留はどんな感じだった?」
「利発で素直な子って思ったわ。いまは大人になったぶん、素直さが隠れてるけど、さっき会ったかぎりじゃ本質的には変わらないんじゃないかしら。今日のことで電話をもらったとき、どこにいるか、もう千雪に教えていいんじゃないかって建留さんに叱られたの」
 千雪は思わず目を開いた。麻耶は可笑しそうにしている。
「千雪の結婚でこんなことができるなんて思わなかった。もう思い残すことはないわね。それくらい、建留さんていいわね、ってこと」


 支度が終わったのはおよそ一時間後で、アテンダントに案内されて麻耶とチャペルに行った。
 建留は退屈にしているだろうと思っていたら、いちばんまえの椅子に座って牧師と話していた。見えましたよ、とアテンダントが声をかけるのとどっちが早かったのか、建留が立ちあがる。
 すると、建留も着替えていることに気づいた。濃いブラウンの細身のタキシードで、インに着たシャンパンカラーのベストが優美な雰囲気を醸しだす。
 何気なく出した一歩のあと、建留はふと止まる。その瞳が、おもむろにホワイト尽くしの千雪の上を滑っていく。
 オーガンジーのティアードボレロ、幅広のリボンが胸もとについたビスチェ、サテンベースにオーガンジーがルーズに重なったスカート部分、そして、ほっそりした膝頭からパールのような光沢のあるヒールへとおりていく。かと思うと、視線は逆行した。ハーフアップにした髪は右肩に寄せられ、緩やかなカールで右側の胸が覆われている。そこからゆっくりと這いあがって、建留の視線は千雪の目で止まった。
 麻耶はさすがに母親であり、美容師という職業柄もあって、上から下までバランスよく千雪を飾りたてている。千雪の雰囲気がもっと元気な感じであればキュートにするところを、フェミニンにまとめて控えめな表情をやさしさに変えた。
 そんな自分を鏡でチェックしていた千雪は、自信がないと卑下するほどではないが、自意識過剰になっているわけでもない。ただ、実際はちょっとの時間だろうに、居心地が悪くなるくらい建留の目はじっと注がれた。
 紛らわせるように千雪が首をかしげると、建留は気が抜けたようにかすかに肩を落としてから歩き始めた。

「似合ってる」
 建留は一メートルくらい離れた正面で立ち止まり、もう一度ざっと千雪を眺めた。
「一回きりだともったいない気がするけど」
「そうだな」
 千雪が照れ隠しで云ったことに、建留はちょっと口を噤んだあと、「写真、撮ってもらうようにはしてる」と肩をそびやかした。戸惑っているのは一緒だろうか。建留のしぐさを見てそんなことを思う。
「寒くないか」
「外は寒いけど、ここは暖房きいてるから」
 うなずいた建留は左腕を軽く浮かせた。
「始めてもらおう」
 麻耶に目を向けると、笑みと一緒にこっくりとうなずいて促された。

 千雪は右腕で建留の左腕につかまる。
 アテンダントから薔薇メインのブーケを手渡されて説教台まで進むと、牧師は温和な様でふたりを迎え、簡単に進行を教えられて式は始まった。
 立会人が麻耶だけという式は、形式ばらず、緊張もそう感じない。
 ただ、牧師の事前説明で密かに千雪が驚かされていた指輪交換のときは、してもらうのもするのも手がふるえた。特にはめる側になると、建留の手はきれいだが、男っぽく指の関節が少し太くて手間取る。
 大丈夫――頭上で囁く声が少し落ち着かせてくれた。囁くといっても、五人しかいない小さなチャペルのなかでは丸聞こえだ。思わず牧師に目を向けると、にこにこした顔に合って千雪も和む。
 それから、結婚証明書へのサインという儀式のあと、牧師の結婚宣言で締め括られた。

「三つもお祝いが重なったわね。おめでとう」
 麻耶があらためてお祝いを云う。そして、「建留さん、千雪をよろしくお願いします」と建留に向かって深々と頭を下げた。
 その一礼は、儀礼的ではなく、丁寧すぎるほど長い。麻耶が心底から望んで千雪を加納家に置き、手放したわけではけっしてない。そう示しているように見え、千雪にずっとあった痞えが下りた気がした。
「はい。ご心配かけないようにするつもりです」
 建留が応えると、やっと麻耶は顔を上げた。
「お母さん」
「千雪、よけいなことを考える必要はもうないんだから、素直に幸せになりなさい」
 幸せというのが何をもってそう呼べるのか、千雪はよくわからないままうなずいて応じた。建留を見上げると、これからだ、とそんなことを云っていそうな眼差しにぶつかった。
「大勢のまえでにぎやかに祝福していただくのも良いのですが、こういった……けじめとでも云うんでしょうか、おふたり互いのために成す結婚式も良いものですね」
 牧師の言葉に、ただ効率的にすまそうという、お祝い事の一部だった結婚の日が、貴重な一日に変わった気がした。

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