ミスターパーフェクトは恋に無力

第1部 PrimDoll
第3章 Risky charm

4.シャンパンゴールド

 建留はつかの間、小さな背中を追い、それから傍観者に徹している両親、旭人と順に見やったあと、滋と茅乃に毅然(きぜん)として向かった。
「千雪に当たったところでどうにもならないんです。おばあさまのせめての望みを僕が叶えればすむことでしょう。そうしますよ。おじいさん、あの話で納得させられるんですよね。だったら、もうそうしてください」
 素っ気なくした建留は千雪を追った。
 いま投じた決意は衝動任せだったかもしれない。正しいとは云えなくても、もしかすると明らかに間違いで、ただの延命的な処置かもしれないが、何もしないよりはましだと思った。
 階段の途中で千雪に追いついたが、後ろにつく建留を振り向きもしない。頼りないほどかぼそい背中はぴんとしているが、虚勢を張っているにすぎない。
 ずっとまえ、この場所で、こんなふうに千雪の背中を追ったことがある。危なっかしくて、はらはらして階段をのぼる千雪を見守った。
 まだ何も事情を知らず、厳密な教育漬けという日々を送っていた頃のことだ。
 たった一度の、つかの間の来訪者に気を取られた。
『おばさま、この子、髪も目も本物ですか?』
 滋が自分の娘だと紹介した麻耶に、八歳だった建留はびっくり眼で訊ねた。東京ではめずらしく雪の積もる朝に生まれたという千雪は、まだ二歳まえだった。髪も目も、いまよりもまだ色が薄かったような気がする。
『そうよ。仲良くしてくれる?』
『はい』
『ありがとう。千雪にも心強い御方ができた。独りぼっちにならなくてすむわ』
 そう云ったわりに、ふたりが加納家を訪れることは二度となく、建留が御方になる機会はなかった。
 麻耶にとっておざなりの言葉であったとしても、建留にとっては考えもせずにうなずいたことが呪縛となった。それは、千雪とのたった一つの共通点のせいだったかもしれない。
 呪縛といっても、終始、建留に付き纏っていたわけではない。ただ、ふとしたときに思いだす。そして、いまいくつだろう、とそんなことを考える。
 三カ月まえ、滋からの緊急指令で強制的に再会を果たしたが――あのひとときが幻影でなかったことだけは確かになった。
 御方に――いまそうしなくていつできるだろう。



 建留が後ろを来ているとわかっていても、千雪は知らないふりをして、そのまま部屋に入りドアをはねつけるように閉めた。けれど、鍵のない部屋は簡単に建留の侵入を許した。
「千雪」
 何を思って呼びかけたのか、建留はそれ以上、何も云わない。
 だれも本心を曝けださない場所にはうんざりする。何よりも――。
 千雪は発作的に片足を上げてスリッパを取ると、振り向きざま建留に投げつけた。コントロールが悪くて建留をかすりもしない。建留が微動だにしなかったのは、端(はな)から当たらないと思っていたせいだろうか。
「お母さんのこと、悪く云うなんて許せない!」
 嫌なことがあっても闘えたのは、きつくても笑顔を絶やさない麻耶の姿を見てきたからだ。千雪はいつの間にか心から笑うということができなくなってしまったのに。
「そのとおりだ。お母さんは悪くない。ばあさんにも事情はある。けど、さっきのはばあさんが悪い」
 云いながら近づいてきた建留は、千雪のほんの目のまえで立ち止まった。簡潔ながらあまりに理路整然としていて、建留は精巧に感情を構成されたマシーンのように思えた。
「ここは大っ嫌い! 大学なんて行かない。出ていく。お母さんだってそうしてきた。だから、わたしも独りでやっていける」
 こんなふうに人前で感情的になるのは自分らしくない。冷静至極な建留を動かしたかったのかもしれない。
「独りよりも」
 そこで言葉は句切られた。建留は首もとに手を添えて千雪の顎をすくう。
「おれのことは」
 あまりに建留の顔が間近に迫って、千雪は思わず目を閉じた。
「怖くないだろう?」
 囁くような問いかけの直後、建留のけっしてマシーンじゃない気吹(いぶき)が千雪のくちびるに触れた。

 やわらかくて、火照っていて――これまでくちびるでだれかの体温に触れたことはない。これがキスだということも判断がつかないくらい、千雪にはパニック寸前の戸惑いしかなく、躰はこわばっていた。
 緊張が少しも解けないうちに、合わせただけのくちびるの間に濡れた熱が走る。乾いたくちびるは、熱が移動したぶんだけ潤った。伴って建留のくちびるも口の端へと移る。
 心音が痛いほど高鳴って、呼吸の仕方がわからない。息が詰まりそう――と限界を感じたとき、ふと建留のくちびるが浮いた。
 建留がかがめた躰を起こすのと同時に千雪の顎が持ちあげられて、くちびるは触れるか否かのほんの間近に付き添ったままだ。

「息をして。人形じゃないなら」
 口もとで囁く声は、からかっているのかも生真面目なのかもわからない。千雪は少しだけふるえた息を吐いて、また止める。
「おれが怖いなら、いま、云ってくれ」
 怖い、とそんな言葉を建留が口にするのは二度めだ。いままでも、いまも、千雪が建留のことをそんなふうに感じたことはない。
 思わず視界を開き、そこを占めたのは建留の瞳だ。建留は目を伏せぎみにしていて、まつ毛が瞳を陰らせている。そのせいか、近すぎる距離におののいたものの、気まずくはなかった。
「シャンパンゴールドだ」
 煽られたように口走った。
「怖くない」
 そっとつぶやいた。
 ふたりは息を交えながら同時に声にした。

 建留は何かに触発されたかのように短く呻く。それから、怖くないとそう伝えた名残(なごり)でかすかに開いた千雪のくちびるを再びふさいだ。強引にすき間から潜ってきた舌は、建留の熱を教える。上と下のくちびるの間を滑り、くすぐったさに似た心地よさが生まれる。
 やっぱり息の仕方がわからなくて、千雪は気づくと息を止めている。苦しいあまり喘(あえ)ぐようにすると、建留はその無防備さを突いてさらに奥を侵してきた。
 熱がじかに触れ合って、建留が飲んでいたワインの香りが口内に広がった。荒っぽく探られると呼吸がおぼつかなくて息を呑む。反動で建留の舌を絡めとってしまう。建留は喉の奥で唸るような声を発したかと思うと、ますますくちびるを押しつけた。
 本当に息がつけなくなる。千雪は無意識に、自分の頬をくるむ建留の手首をつかんだ。直後、訴えは通じたのか、ひと際強く千雪に絡んだあと、建留は舌を引っこめてくちびるの右側半分に吸着する。こぼれそうだった雫(しずく)が舐めとられた。
 まえのキスが“触れ合う”なら、いまのキスは、襲うといったほうが合っている。
 パニックがおさまって、どきどきがおさまって、息苦しい。そして、ただ熱っぽい。
 けれど何がきっかけでこうなっているのかは思いだせない。違う、主導権は建留にあって、思いだす以前に千雪にわかるわけがない。
 ちょっと離れた建留の顔が切羽つまったように余裕がなく見えるのは、千雪の瞳が潤んでいるせいだろうか。

「何……してるの?」
 息が整わないまま、千雪はばかみたいなことを訊ねた。
「千雪の……御方になりたいと思ってる」
「御方?」
 キスすることと御方になるということの接点は皆目わからない。建留はため息なのか、ただの呼吸なのか、少しだけ長く息をついた。
「ああ。しばらく千雪の時間を預かる」
 やはり意味不明で、千雪が何も応えられないでいると――
「それからまたどうするかはふたりで決めればいい」
 千雪に関することなのに千雪自身の意思は置いてきぼりのまま、建留はなんらかを決定づけて云いきった。それからまたため息をついて。
「悪かった。そういう恰好してると高校生だってことを忘れる」
 建留は自嘲ぎみに薄く笑った。
 謝るなんて、どう受けとっていいのだろう。千雪に、恥じらいや照れくささといった感情が湧かないのは、つい“もっと”と思ってしまったせいかもしれない。建留のキスにも発言にも、感じるのは戸惑いだけで、千雪はまごついていることを隠すように目を伏せる。
 すると、建留の親指が下くちびるを撫でた。
 キスはただの気まぐれだという疑心は、たったそれだけのしぐさで払拭(ふっしょく)された。


 建留が「着替えてくる」と出ていったあとも、千雪はしばらく立ち尽くしていた。自分で思うよりずっと慌てふためいて放心状態なのかもしれない。
 チェストと建留用の小机の間にある姿見が目につくと、千雪は近づいて鏡を覗いた。腫れぼったく感じているくちびるは、いつもと見た目は変わらない。変わらないからこそ、残った感覚は内部に浸透するほど特別なことだったと証拠づけている。
 千雪のなかにある“好き”という気持ちは、千雪も建留も知っている。それなら、キスは一種の答え? そんな期待を抱く。
 鏡に映った自分の姿は、一見、建留が云ったように高校生には見えない。よく見ると、社会人の沙弓とは段違いに子供で、大学生の瑠依よりも幼い。年を考えればあたりまえのことだ。けれど。
 いますぐ大人になりたい。
 着替えるのはもったいなくて、せめて夕食までは着飾った恰好でいようかと思ったものの、建留が『着替えて、来る』とそう云ったことに気づいて、千雪は慌てて着替え始めた。
 やはり勉強は休ませてもらえないらしい。
 そこまで考えると、今度は茅乃の言葉が甦る。

 建留は遠慮しなくていいと云ったけれど、建留を頼らなくても学校の先生に訊けばすむことだ。それに、さっきのキスは、また茅乃に責められることがあったときに真っ向から無実を主張できなくさせた。
 たぶん、さみしくなることはわかっている。ただ、どんなに権利があると云われても、この家に住むことに多少なりと慣れてきても、千雪の在り処というには程遠い。それなのに、居心地の悪さをわざわざ自分で繁殖させることはない。
 スキニーパンツに姫袖のチュニックという恰好に変え、ボリュームたっぷりだった髪は片側に寄せてルーズな三つ編みをすると落ち着いた。
 建留が千雪の部屋に戻ったのは三十分後だった。スリムなカーキ色のカーゴパンツに丈の短い黒のオーバーシャツという恰好は、さっきまでのパーティスーツとは打って変わって砕けて近づきやすい感じだ。
 手にしていたノートパソコンを机に置くと、隣の机に座った千雪を見下ろして何か促すように首を傾ける。

「ちょっとじいさんと話がある」
「うん」
 他人事と思って千雪が返事をすると。
「千雪も、だ」
 建留は付け加えた。
 机に置いた問題集に目を戻しかけていたが、千雪は再度、建留を見上げた。
「……おばあさまとのこと?」
「関係なくはないけど、まったく違う話だ」
 千雪がおずおずとしたうえにためらって椅子に座ったままでいると、建留は片方だけくちびるを歪めた。伴ってちょっと首をひねったしぐさは、きっと千雪のかまえた気持ちを和らげようとするためだ。
「さっきおれが云ったことの仕上げだ。保証をもらう」
 訳がわからないまま、建留から腕を取られて千雪は椅子から立ちあがった。
 腕を放した建留の手は千雪の手のひらに滑りこんできて、心持ち強く握られたのもつかの間、千雪を引っ張った。
 こんなふうにふたりで応接間に向かうのは三度めだ。まえの二回がいずれも重大事であったことを考えると、今日はなんだろうと不安が集う。

 ノックのあと低い声が応え、建留がドアを開けると、そこには滋のみならず、その隣にもう一人いた。
 それが茅乃だとわかると、千雪はハッとして建留の手をほどこうとした。が、逆に握りしめられて、あまつさえ。
「千雪さん」
 と、畏まった声で茅乃に呼ばれ、千雪は萎縮したように身構えてしまい、反動で建留の手に縋(すが)った。顔を合わせにくいと思っていたのに、これではますます茅乃の機嫌を損ねてしまう。わかっていても力を抜くことができない。
「はい」
「さっきは大人げなかったわ。ごめんなさい」
 思いがけない謝罪だった。とっさには返す言葉が見つからないで千雪はまごつく。
「座りなさい」
 何も返事ができないうちに、滋がいつものように促す。
 のめりそうなほど手を引かれてソファに行くと、繋いだ手を離した建留は滋の正面に座る。自ずと千雪は茅乃と向かい合った。姿勢を正してこっそり深呼吸をする。
「おばあさま、負担かけているのは本当で、だからわたし、やっぱり独りでやります」
 茅乃の言葉を、しかもそれが謝罪であれば無下にはできない。千雪があらためて決めたことを口にすると、茅乃は「いいえ」と首を横に振った。千雪に対して否定的な感じではないと思ったとおり――
「そんなことよりも、建留でも旭人でもいいから当てにして、まずは慶永大に合格してちょうだい。それは、あなたの義務よ。加納家にふさわしくなりなさい」
 心なしか穏やかに聞こえる声に伴って、茅乃はつい一時間まえとは逆のことを勧めた。あるいは、命令したのか。
 調子が狂って、千雪はまた言葉に詰まる。
 合格する可能性が低いと見てわざとプレッシャーをかけている――と疑うのは、千雪が意地悪いというだけなのだろうか。
「……はい」
「建留に任せていれば大丈夫よ。そうよね、建留? あなたはわたしの期待を裏切らないもの」
「僕だけの力ではどうにもならないことがあります。合格したときは、それは千雪の力です。僕がおばあさまの期待に応えられることは、一時間まえに云ったとおりのことですよ」
 咬み合っているようで咬み合っていない。建留と茅乃の会話はそんなふうに感じた。
 けれど、茅乃は満足そうに微笑む。千雪に目を転じると――
「半年後、お祝い事が重なるといいわね」
 茅乃は訳のわからないことを云い、「わたしは失礼するわ」と立ちあがった。
 すっと伸ばした背中を見送る間も、その姿がドアの向こうに消えてしまった直後も、応接間にはなんともいえない空気感が漂った。おそらく、三人ともがそれぞれ違ったことに思考を馳(は)せている。そのせいかもしれない。
 滋が深々と息をつき、あやふやな空気を払った。

「千雪」
 またもや、厳粛(げんしゅく)にした声が千雪を呼ぶ。
「はい」
「ずっと考えていたことだが」
 まだ模索中で結論が出ていないかのように、滋はいったん口を閉じた。
 重苦しいような微妙な空気がまたはびこって、千雪は呼吸をするのにも気を遣う。何を云われるかとかまえつつも何気なく建留を見上げると、ちょうど建留の目と合う。瞳にはしっかりと千雪が映る。一瞬のことであり、実際には見えたわけでもないけれど、そんなふうに感じる眼差しだった。
 建留は滋に向き直る。
「僕から云いますよ。おばあさまに承諾していただいたようですから」
 建留は「そうですよね」と、質問というよりは確認するように続けた。
「そうだ。ただし――」
「そこからさきは不要です。僕と千雪が考えることではありませんか」
 滋は、さえぎった建留を推し量るように見つめる。
「それでいいのか」
「そうあるべきでしょう。僕はおばあさまに何一つ約束をしたつもりはありませんし、嘘を吐くことにもならない。そう思っていますが」
 滋は明確な返事をすることなく、ただ短く唸った。
「千雪」
 さっぱり会話の内容がつかめず、傍観者でいた千雪は建留に呼ばれて隣を振り仰いだ。
「半年後、進路がどうなるにしろ、おれたちは結婚する」
 どこか外の国の言葉のように聞こえた。それくらい、ひどく突飛な宣言だった。

「……結婚?」
「ああ」
 好き、とそんな気持ちを瑠依が曝露して、それがこの結果になったのだとしたら恥じ入るべきことだ。
 居たたまれなくなった。けれど、千雪よりも早く滋のほうが立ちあがった。
「千雪、そうしなさい。麻耶には私からも話しておく」
 滋が出ていき、建留とふたりきりで残された。考えようとしても何も考えることが思いつかないほど、キスしたときよりももっと混乱している。
「千雪、おれは千雪のためにならないことを排除したい」
「……同情?」
 千雪はつぶやくように疑問を口にしてから、その言葉がいちばん適切だと自分で思った。
 そんなふうに感じさせてしまう自分が恥ずかしくてたまらない。
「瑠依さんの云ったことは――」
 瑠依さんの勝手な想像だから――そう続けようとした言葉は、建留に頭を引き寄せられたことで発せなかった。
「同情で、あんなふうに……こんなふうにおれが人に触れることはない。千雪におれが必要であるように、おれも千雪を必要としてる」
 必要という言葉がどんな意味を持っているのか、額が触れた建留の胸から躰を伝って重々しく聞こえる。そこに建留のなんらかの気持ちがあるのか、もしくは、千雪がそう思いたいだけなのか。
「どうする?」
 結婚する、と、さっきはこっちの意見は関係なさそうな云い方だったのに、千雪の頭を抱える手に少し力がこもって、そのしぐさが心もとなくしているように感じられた。
 いつの日か。そんな希望を持つのは千雪の愚かさかもしれない。けれど、その希望に逆らえなかった。
「反対する人……いないなら」
 素直に答えられないことに自分で幻滅して、やはり愚かだと思う。
 建留は頭上で短く息をつく。同時に建留の躰がわずかに振動して、それが額に伝わってきた。きっと遠回しの返事を笑っているのだ。
「決まりだ」

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