ONLY ONE〜できること〜 #38

第5章 ONLY ONE〜できること〜  4.できること act3


 昂月は言葉を失い、信じられない、或いは信じたくないことを告げた良哉を見つめた。
 慧も横で息を呑んで良哉を見遣った。
「……だって……高弥は……歌えるよ?」
「歌えようが歌えまいが、それが理由じゃないだろ?」
 昂月は途方にくれて良哉から視線を逸らし、窓の外に目をやった。
 朝が少し肌寒くなっていくと同時に、透きとおっていく空が群青(あお)を柔らかく見せている。
「昂月、祐真も高弥も、どうして歌えなくなったんだと思う?」
「……あたしが……」
 昂月は云いよどんだ。
「おまえが離れていこうとするからだ」
 その言葉に、昂月は良哉へ視線を戻した。
「血なんて関係ないんだよ。おまえは、祐真が血に拘って一歩を踏みださなかったことがうれしかったか?」
 昂月は首を振って否定した。
 昂月はずっと祐真の決断を待ってた。それはけっして祐真が出した答えではなかった。
「祐真はおまえのためにって考えすぎたんだ。それと同じことを昂月、おまえは高弥に対してやってる。高弥が祐真の立場だったら、あいつは有無を云わさずおまえを(さら)ってくよ。おまえから一歩を踏みだせば、祐真だってそうしたんじゃないかとおれは思ってる」
「あたしは……ずるいんだよ? 祐真兄とのこと……なかったことにしようとしてた。祐真兄の最後は……間違いなくあたしからはじまってる。それなのに……あたしは高弥に甘えた……」
「それを『ずるい』と云うんなら、ずるいのは祐真だ。おれは、祐真に女がいたことを知ってた。見たんだ」
 昂月が驚くと良哉はうなずき返した。
「おまえを傷つけたくなくて黙ってたけど、逆に苦しめた。まったくの判断ミスだ。いま、祐真の何を知りたい?」
「……最後……祐真兄はつらいままじゃなかったの……?」
「祐真は穏やかだったよ。たしかな未来を手に入れたように。祐真はおまえから離れることを選んだ。おまえは祐真に任せることを選んだ。そしていま、昂月と高弥がいる。それが答えのすべてだろう。昂月、祐真の願いはおまえが望むとおりに進んでいくことだ。おまえはどうしたい?」
「……高弥と……一緒にいたい」
「だったら、そう高弥に云ってやれ。行くぞ」
 良哉は立ちあがり、慧も続いた。
「どこ?」
「高弥のマンション。みんな、集まってるはずだ。おまえは高弥に歌をやめてほしいか?」
「違う……ずっと聴いていたいよ」
「昂月の出番だよ。大丈夫、高弥さんは昂月の頼みはなんだってきくから」
 慧はためらっている昂月の手をつかんで引いた。
 三人でホテルを出た。

 良哉の車を待っている間に見上げた秋の空は高さを増していく。
 この空に引き寄せられるように祐真は逝った。祐真に触れることができなくなった手は、さみしさを覚え、別のだれかを求めた。
 一緒にいたくて、いつも触れたがる。昂月の手が高弥に触れたがる。


 高弥のマンションに着き、迎えに出たのは実那都だった。昂月を認めると、実那都はほっとしたように微笑んだ。
「大丈夫よ。来て」
 実那都は昂月の躰に手を回し、一度ぎゅっと励ますように抱いてから中に促した。
 リビングには、奥のソファに高弥と航、手前に戒斗と唯子が座り、ダイニングの椅子に健朗がいた。
 深刻な顔が一斉に昂月に向けられる。
 すくんだ昂月は目を合わせる勇気がなく、それまで張り詰めていただれもの表情が緩んだことに気づかなかった。
 ただ一人、厳しい表情をしたままの高弥は、昂月の背後に控えた良哉を見遣って目を細めると大きくため息を吐いた。

「高弥……歌……やめるって……あたし、そんなこと望んでない」
 リビングの入り口近くから奥に進むことのないまま、昂月は高弥に目を向けた。高弥もまっすぐに昂月を見つめ返す。
「ずっと考えてたことだ。曲作りはともかく、歌うのは……ずっと流されて曖昧にやってきた気がする。中途半端な気持ちでやるよりは、やめたほうがいいと思っただけだ。木村さんも……それを見抜いていたのかもしれない」
 この()に及んでも高弥は昂月を守ろうとしている。
 あたしができることは何?
「だって……あたしがいなかったら……ずっと歌ってたよね?」
 高弥は答えなかった。
「逆だろ、昂月」
 しばらく静まったなか、答えたのは航だった。
 唯子が立ちあがり、高弥の背後に回る。
「昂月ちゃん、高弥を私にくれるって云ったわよね?」
 唯子がゆっくりと口を開いた。
「水納――」
 高弥の言葉をさえぎるように唯子の手が高弥の肩に触れる。
「昂月ちゃんがそう云うのなら、遠慮なくもらうわよ?」
 高弥に触れている唯子の手が拡大写真のように昂月の目の前に迫る。
 だれも口を出さず、静まり返って成り行きを見守った。
「……らないで」
 沈黙を破ったのは聴き取れないくらいの小さな昂月の声だった。
「昂月」
 横に立った慧の、自分の名を呼ぶ声が昂月の(せき)を切った。

「触らないで! 高弥に触らないで。あたしから高弥を取りあげないでっ」
「昂月……」
 唯子の手が離れ、高弥は立ちあがった。
 昂月の瞳が(うる)んでいく。
「高弥……歌って……あたし、闘うから……諦めずに闘うから……ずっと……一緒にいて……」
 声を震わせて云った昂月の瞳から雫が落ちた。
「昂月……っ」
 一瞬、呆然と立ち尽くした高弥だったが、すぐに、深くうつむいた昂月に近づいた。
 雫がぽたぽたと床に落ちていく。
 高弥は昂月の首もとに両手を添え、少しかがみ込む。
「離れられないのはおれのほうだ」
 昂月の耳もとに高弥が囁いた。


「これで一件落着だ。とっとと帰るぜ」
 航はにやつきながら勢いよく立ちあがり、仲間たちを促した。
「高弥、明日、スタジオで待ってる。ライヴも企画も間に合わせるぞ」
 戒斗が去り際、高弥に声をかけていった。
 玄関を出たとたん、よっしゃ! と航が快哉(かいさい)を叫ぶと歓声が上がった。
「煩いって苦情が来るぞ」
 航のハイタッチに応えながら良哉は笑いつつ窘めた。
「けっ、知るかよ」
 航は一笑した。
「水納、これ以上にない演出だった」
「結局は放っとけない子なのよね、昂月ちゃんて。祐真がね、高弥が来ると昂月ちゃん、戸惑うくせにうれしそうなんだって……昂月ちゃんがそれに気づくときが来たら、譲らなくちゃって。高弥は高弥でだれがモデルかってすぐわかるくらい露骨なラヴソング書いてたし」
「じゃあ、祐真兄ちゃんが生きててもいなくても、昂月と高弥さんはこうなったってことなのかな」
「たぶん、ね。ふたりがそこまで惹かれてるなら、協力しないわけにはいかないじゃない」
「おまえ、いい女だよな」
「うん。なんていうか……カッコいいって思った」
 これまで唯子に対して持っていた反感が一掃され、慧は戒斗に賛同した。
「叶多ちゃんにベタ惚れの戒斗に云われたって少しもうれしくないわよ。慧ちゃんもいい女度はほどほどにしたほうがいいわ。男って頼りない女のほうが好きなんだから」
「おまえがいい女すぎんだよ」
「女扱いしてないくせによく云うわね」
 すかさず切り返した唯子に良哉は苦笑した。
「そう云ったついでに、水納、FATEのマネージャーにそろそろ復活しないか?」
「え? まさか! 木村さんがいるのにできるわけないじゃない。それに大学のときみたいなアマチュアのやり方とは訳が違うのよ?」
「木村さんの件は問題ない。おまえは木村さんについてたわけだし、流れはつかんでるだろ? おまえなら、おれらの考えてることが通じるし、プロ業界だからこそ、素人(しろうと)なりの感覚でやってくのもおもしろいんじゃないかと思う」
「僕たち、全員一致の意見ですよ」
 健朗が戒斗の後押しをした。
「唯子さん、どうかな」
 戒斗は明らかに断るはずがないと踏み、ふざけた口調で唯子の名を呼んだ。
「そうね……『水納』から『唯子さん』に格上げしてくれるんなら、やってあげるわ」
「了解、唯子さん」
 エレベーター前で再びドッと沸いた。


 一年前から泣くことができなかったぶん、溢れだした涙は止むことを忘れて高弥の腕を濡らした。
 長いこと引き寄せられるまま高弥にもたれていたが、時折しゃくりあげるように肩が揺れるほどに治まった頃、高弥が躰を離した。
 覗き込むようにして高弥が両手で昂月の涙を拭う。
「高弥……ごめんなさい……」
「なんで謝る?」
「……だって……いっぱい迷惑……かけた」
 そう云った昂月の泣き腫らした瞳がまた潤んで、一滴(ひとしずく)、涙が落ちて高弥の手を伝った。
「それがこの結果なら、全部チャラにしてやるよ」
 高弥が可笑しそうに片方の口端を上げた。
「……どうして……あたし……なの?」
「昂月、だから。そんなのに理由なんか探せない」
「……あたしで……いいの?」
「昂月がいい……ってずっと示してきたつもりだけどな?」
「高弥」
「何?」
「高弥のこと……いつからかはわからないけど……ずっと……好きだったの」
 高弥はくっと笑った。
 これまでにない、満ち足りた少年のような表情がある。たぶんそれはだれにも見せることのない顔。
「大好き……愛してる」
 隠すことなく想いを素直に言葉にして伝えられることが、胸が痛むほどの何かを昂月の中に溢れさせる。触れたがる手が高弥の頬に伸びた。
 高弥の瞳が底知れぬほど深く篤くなっていく。
「昂月、抱きたい」
「うん」
 高弥の手が昂月の頬から離れると同時に、昂月は背伸びしながら腕を高弥の首に巻きつけてしがみついた。
「足が震えて歩けない」
「ははっ。ドキドキが伝わってくるよ。はじめてキスしようとしたときみたいに」
「高弥も……」
「そうだ」
 高弥は笑って昂月をすくいあげた。
 寝室に入ってベッドの上に昂月を横たえ、高弥はベッドの端に腰を下ろした。左手を昂月の首もとに添えると、高弥はかがんで真上から昂月を覗き込む。
「昂月、愛してる。ずっと、こんなふうに触れたかった」
 そう告白した高弥のくちびるが昂月を襲う。乗り越えてきた重篤の時間がふたりの間に篤い熱を(いざな)う。たしかな鼓動と鼓動が触れ合い、絡んでいった。
 緩やかに時が刻まれ、互いの息が静まった頃、昂月の瞳からまた涙が零れて高弥の腕に落ちた。なぜ泣くのか、昂月は自分でもよくわからないまま、ごめん、とつぶやいた。
「泣いていいんだ」
 高弥はその腕を昂月の頭からそっと抜き、片肘をついて躰を起こす。
「痛くして悪かった」
「ううん、やさしかったよ。平気」
「思ってなかったんだ」
「……うん」
 高弥は昂月の手を引き、一緒に起きあがった。
 昂月の顔がはにかんだように少し赤く染まった。
 それを目にした高弥の瞳がその心情をあからさまに映しだす。一旦解き放った欲求は途切れそうになく、それを押し殺して高弥はタオルケットで昂月を包んだ。

「祐真を殴り倒したい気分だ」
 昂月は首をかしげて高弥を見上げた。
 ――電話じゃ、おまえに殴られることができないから。
 最後となった電話で祐真が云おうとしたことを、高弥はいますべて理解した。
「それはそれで……自分を優先するなら……うれしいんだ。たぶん、昂月にはわからないくらい。けど、おまえは傷ついてた。祐真が触れないことに」
 昂月の目の端に雫が揺れ、かすかにうなずくと同時に落ちた。
「おれは昂月が思っているほど律儀(りちぎ)な人間じゃない。勝負してた相手は祐真だ。昂月におれがおれとして求められること。それが曖昧なままじゃ抱いても意味がない。そう思うくらい、強欲でわがままだ。いつかの答え……おれなら。禁じられたことであっても、いまの気持ちがあるなら、絶対に離さない。ふたりで生きていく。そうできるように闘うよ。いまなら……信じてくれるだろ?」
「どうして……わかるの……あたしが欲しかった……言葉……?」
 昂月は叫ぶように云いながら高弥に躰を投げだして泣きじゃくった。
 受け止めた高弥の腕は、昂月がずっと欲しかった真の腕だった。

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