ONLY ONE〜できること〜 #37
第5章 ONLY ONE〜できること〜 4.できること act2
高弥が叫んだとたん、高橋は軽くホールドアップして昂月から数歩下がった。
昂月がその場に座り込むと同時に、急いで近づいた高弥は高橋が落としたバスローブを拾う。昂月の前にかがみ、そのバスローブで強く彼女を包んだ。両手で挟んだ頬が驚くほど冷たい。
昂月には一言も発しないまま高弥は立ちあがり、高橋に向き直る。
「歯ァ、食いしばれっ」
云うが早いか、次の瞬間には高弥の握り拳が高橋の頬を打った。
うっ。
高橋が呻いて後ろによろけ、応接のテーブルに躰がぶつかった。テーブルにあった缶がカタンと倒れて転がり、ビールと酎ハイが零れて混じり合う。
「高……弥……!」
昂月は不穏な音を聞き取り、顔を上げて状況を把握すると、力なくも制止しようと高弥の名を呼んだ。
「立てよ。まだだ」
高弥には届かなかったのか、振り向きもせずに高橋に近寄っていき、その手が胸ぐらをつかんで、無理やり高橋を立たせようとしている。
昂月はもたつきつつもようやく立ちあがって、ふらつきながら倒れ込むように高弥と高橋の間に入った。
高弥はすぐに高橋を掴んだ手を放して、ずり落ちそうなバスローブごと昂月を抱いて支えた。
「高弥……だめ……高橋さん……殴らないで」
「こんな奴をなんで庇う?!」
高弥が頭を垂れて苦しげに声を荒げた。
「……あたしが……誘ったの……」
「昂月さんが庇ってるのは君だ。僕じゃない。君の立場を守ろうとしてるんだ。わかるだろう? 昂月さん、取材依頼はキャンセルされたんだ。僕は理由がなくなったことをわかっていながら君の誘いに乗った。殴られて当然だ」
切れた左の口端から滲む血を手の甲で拭いながら、高橋は自らを嘲笑した。
高弥は顔を上げ、高橋に目を据える。
「記事にしたければすればいい。何を書かれようと昂月が気にならないくらい愛してやる。どんな云い訳だってしてやる」
高弥は惑うこともなく直截簡明に云いきった。
昂月の頭を抱え込むように掻き抱き、高弥は顔をうつむける。
「出ていってくれ」
高橋は云われるままにドアに向かった。
廊下に出ると、マネージャーの大井が仕事上のポーカーフェイスを保ちながらも、わずかに批難を隠しきれない眼差しを向けて待ち構えていた。
「絶妙のタイミングだ」
高橋は降参するように手を上げた。
部屋のドアが閉まった。
昂月と高弥のどっちの躰がそうなのかわからないくらい戦慄いている。ざわつく鼓動が治まるまで高弥が手を緩めることはなかった。
やがて高弥は大きく息をすると、昂月の躰を離してすぐ横のソファに座らせた。
昂月は身震いをしてやっとのことで袖に腕を通し、バスローブを胸もとで掻き合わせる。
高弥は正面に跪き、うつむいた昂月の頬をすくう。その頬はまだ蒼く、冷たい。
昂月はまともに高弥を見ることができないまま、目を背けるように恐れを見せて伏せた。
「なんで……こんなことを……?」
そう問う高弥の声も手もまだ慄いている。
「全部を……終わりにしたかった……自分が……嫌い……壊したい。そうしたら……独りでも納得できるから……祐真兄と同じこと……高弥も……高弥にはずっと……歌っててほしいから……あたしにできるのは……これしかなかった……」
昂月は途切れ途切れに言葉を繋いだ。
「昂月、こんなことで守ってもらっておれが喜ぶと思ってるのか? こんなことをさせるくらいなら迷いなくおれは歌うのをやめるよ」
「高弥……!」
思わず目を上げて見た高弥の瞳は衷情を映しだしている。
「頼むから……もっと自分を大事にしろ。もっとわがままになっていいんだ。歌なんて……音楽なんてどこでだってやれる。けど、おまえは替えがきかないんだよっ。音がなくてもやっていけるという証明が必要ならそうする。だから、昂月……おまえは強くなりたいって云ったよな? それなら、畏れてる自分と闘え。おれも闘ってやる」
断じた高弥は激情を抑えきれず、憑かれたように昂月のくちびるをふさいだ。噛みつくようだったキスはだんだんと篤く、昂月にその心を訴える。引き返せないほどの熱を振りきって高弥はくちびるを離した。
「あいつは……触れてない?」
昂月がうなずくと、頬を支えている高弥の手がかすかに揺れた。高弥は親指で少し赤付いて腫れた昂月のくちびるを撫でる。
「荒くして悪かった」
昂月は首を振って高弥の謝罪が必要ないことを伝えた。
「……眠れる?」
昂月は口を開こうとせず、無言でうなずいて見せた。ショックがまだ尾を引いていることは見て取れる。
高弥はジーパンのポケットから携帯を取って開いた。
「良哉、慧ちゃんを連れて来てくれないか?」
待たされることなく良哉が電話を取るなり云うと、昂月が抗議を示して携帯に手を伸ばした。
高弥は難なくその手を取り押さえる。
『どうした?』
「それはあとだ。英国ホテルの二一〇五号室にいる。慧ちゃんには一晩、昂月のとこに泊まってほしい」
『わかった。おれもおまえと話したいことがある。じゃ、あとで』
高弥は電話を切ると昂月の手を離した。
「……必要……ない!」
そう云いつつも、昂月はまだいつものように滑らかに言葉を繋ぐことができない。昂月はそんな自分に苛々して少し口を尖らせる。
「必要なのはおれ。ふたりきりだったら手を出しそうなんだ。おれもいま、精神状態が普通じゃないからそうするわけにはいかない」
高弥は苦りきった渋い顔でかすかに笑んだ。
徹底した品行方正ぶりに感服する気持ち半分、昂月は惨めな気がした。後先を考えないまま、愚かさを露呈するようなことを遣らかして、守るどころか結局は高弥を巻き込んで負担をかけ、逆に守られている。
高弥は昂月の頬を一撫ですると、立ちあがってテーブルの上に転がった缶を片づけはじめた。
「あたし……が……」
昂月は立ちあがりかけてまたすぐその場に力なくガクンと腰を下ろした。足がさっきよりガクガクとしていて立ちきれなかった。
「いい、おれがやるから」
高弥は手際よくテーブルに零れていたお酒も拭いてきれいにした。
「良哉とは顔、合わせづらいだろうから……」
高弥は昂月の脇と膝の下にそれぞれ腕を潜らせて抱きあげた。
「高弥……!」
「歩けないだろ? 慧ちゃんじゃ、無理だ」
高弥は含み笑いをしてベッドルームに入って手前のベッドに向かった。
「……こっち……だめ……嫌!」
昂月が小さく叫んだ。
「……わかった」
理由を察した高弥は奥のベッドに昂月を下ろした。昂月を布団で包むと、高弥はそのすぐ横に腰かける。
「眠れそうだったら眠ればいい。良哉たちが来るまでここにいるから」
昂月はうなずいて目を閉じた。
「……高弥……」
「何?」
「……歌って……」
「昂月、おれはいま……」
「歌って……なんでもいい……子守唄……」
「……わかった」
返事をしたにも拘らず、高弥はしばらくためらった。
無音に靡く風の景
心から降る涙の音がこの鼓動を突き刺し
旋律を奏でて篤く絡んでいく
廻り逢ったのは…………
高弥は詩を読むようにつぶやきはじめ、掠れていた声はだんだんとたしかな音となり歌になっていった。
「……すごく素敵……この歌……はじめて……?」
「ああ。このまえから作ってた曲。昂月の歌だ」
昂月は驚いて目を開けた。
「あたしの……?」
「そうだ。タイトルは“ONLY ONE”」
昂月はさらに目を見開く。
「……祐真兄と……同じ……?」
「祐真との約束だった。いつか……おれがOnlyOne を見つけたら勝負するぞって。祐真にはおまえがいたから。けど、祐真が云いだした時にはおれにもOnlyOne
がいたんだ。いまになってみると、おれが昂月に惹かれてることを知ってたからこそ、祐真はそう云ったんじゃないかと思う。それが果たせないまま……こういう形で叶うとは思ってなかった。祐真以上の策略家はいない」
「……うん……もう一度……歌って……」
昂月は布団から手を出して高弥の腕に触れた。
その手をつかんで高弥は小さく笑うと、手を繋いだまま、さっきのように躊躇することはなく再び歌いだした。
高弥の謎かけの答えがすべて歌の中にある。昂月の中で、いつの頃からかずっと張り詰めていた気持ちが緩んでいく気がした。
「高弥……歌える……よね……」
「ああ、大丈夫だ」
今日、ここに来てはじめて昂月のくちびるに笑みが浮かんだ。
高弥が顔を近づけようとした刹那、ドアベルが邪魔をした。
「こういうのをバッドタイミングっていうんだろうな。おれが呼んだんだけど」
苦笑いをしながら高弥は立ちあがって部屋を出ていった。
高弥の背を追いながら、昂月は繋いでいた右手を胸に引き寄せて左手で包む。
目を閉じていると十分くらいの時間を置いてドアが開き、高弥と慧の声がした。
「昂月、大丈夫?」
まっすぐに慧はベッドに近づいてきて枕もとにかがんで訊ねた。
「うん……平気……ありがと……」
「昂月、おれは朝まで向こうにいるよ。慧ちゃんとお喋りするんだろうけど、ゆっくり眠れよ」
「うん」
昂月が再び笑みを見せると、高弥はその額にそっと触れ、
「じゃ、慧ちゃん、頼むよ」
と云って出ていった。
「こんなとこにいたのね。スイートなんてはじめて」
慧は素直にびっくりした様子で部屋をぐるりと見渡した。
「ベッドもダブルサイズで二つ! 寝心地いい?」
昂月は無邪気な質問にクスクスと笑いながら空いた右側を叩いて促した。
「じゃ、早速! って、ちょっと着替えてからね。昂月と泊まるのって高校の卒業旅行以来だよね。あの時は昂月の思い込みで新幹線、乗り違えてせっかく予約した指定席に座れなかった」
昂月の返事を期待しているわけでもなく、慧は着替えながら話した。
「……慧……怒って……喧嘩……」
「そうそう。まあ、いまとなってはそれも楽しい思い出になってる」
「うん」
ベッドが沈んで慧は昂月の横に潜り込んだ。
「バカなこと……したの……遅くに……ごめん……」
「だいたいのところは高弥さんから聞いたよ。無理して喋らなくてもいいから。あたし、云ったでしょ。あんたはもっとラクになっていいって。昂月も祐真兄ちゃんも裏切ったわけじゃない。たぶん過程だったんだよ」
「……過程……?」
「そう。昂月と祐真兄ちゃん、兄妹だって聞いたからそう思うのかもしれないけど、やっぱり似てるよ。弱さを隠そうとして、あんたはいつも笑ってるし、祐真兄ちゃんは冷めて見せた。あたしみたいに泣き言を云ったり怒ったりしていいのに……その仮面を外せる場所ってやっぱり必要だったと思うし、その場所が昂月にとって祐真兄ちゃんで、祐真兄ちゃんにとって昂月だったんじゃない? よくよく考えてみれば、小さい頃から昂月がお母さんたちにわがまま云ってるところも見たことなかったし。あ、勘違いしないで。それが恋じゃないって否定してるんじゃなくて、んー……なんて云ったらいいんだろう。こういうときはやっぱり、亜夜の出番なんだけどな」
昂月は慧のほうに首を回し、笑みを浮かべた。
「つまり……練習台……?」
「うーん、簡単に云えばそんなものなんだけど……もうちょっと複雑にして!」
横顔でも慧が顔をしかめているのがわかって、昂月はプッと吹きだした。
慧も横を向いて昂月と顔を見合わせると笑った。
「……いま……なんとなく……ラクになってる気がする……」
それから慧が家庭教師のエピソードを話しているうちに、昂月はいつの間にか眠っていたようだ。
ふと目が覚めたときには窓の外が明るくなっていた。
昂月は起きあがり、そっと床に足を下ろした。たしかな感触がある。立ちあがってみると、揺れることもなく立っていられる。
隣に寝ていた慧ももぞもぞと身動きして起きだした。
「慧、おはよう」
「おはよ、大丈夫そうだね」
「うん」
慧は、ゴージャス! という言葉を頻りに繰り返し、二人でシャワー浴びたりと、はしゃぎながら身支度を整えた。
九時頃にようやくリビングへ行こうとすると、ちょっとためらった昂月を差し置いて慧はさっさとドアを開けていく。
「おはよう、良哉兄ちゃん、高弥さん!」
軽快に声をかける慧のあとをつられるように昂月は追う。
「朝から元気だよな。聞こえてた」
良哉が可笑しそうに云った。
「おはよう。良くん、心配かけてごめんね。泊まってくれてありがとう」
「いや、今日は日曜日だし、ちょっとした見物だった。高弥の泣き言はめったに聞けることじゃないから」
「煩い」
「高弥もありがとう」
昂月が云うと、しかめ面だった顔が安心したように笑みに緩んだ。
「座れよ、もうすぐ朝食が来る」
四人で朝食を取っている間、ほとんど慧が取り仕切ってどうでもいい話題が飛び交った。
その後、高弥は打ち合わせだと云って十時過ぎに出ていった。
「昂月……」
ためらうように良哉が切りだしたのはそれから三十分くらい経ってからだった。
「何?」
「高弥がFATEを抜ける」
「……え?」
「歌、やめるって決めたらしい」