ONLY ONE〜できること〜 #36

第5章 ONLY ONE〜できること〜  4.できること act1


「木村さん、あなたがやってることは明らかに事務所にとって背任行為だ。あなたについていってるおれらに対する背信行為でもある。どういうつもりですか」
「なんの話だ?」
 口火を切った戒斗の詰問(きつもん)に木村は動じることもなく問い返した。
 事務所二階のいくつかある会議室の一つで、FATEとマネージャーの木村が互いに不機嫌な様で向き合っている。
 それに先駆けてメンバーが集まったなか、戒斗から聞かされた事態は到底許せるものではなかった。時間を置くまでもなく、全員の意見が一致し、今後を踏まえた打ち合わせのうえでの木村との対峙(たいじ)だった。

「高橋州登。名前に覚えはありませんか」
「知ってるよ。政財界じゃ名の知れたフリージャーナリストだ。それがなんだ?」
「その彼が、無縁のはずの芸能界で動き回っている」
「だからなんだ? 私はその男とは面識がない」
「面識はなくても、通じることはできる」
「知らないね。会ったこともなければ話したこともない」
「話したことも?」
「もちろんだ」
 戒斗はダレスバッグから数枚の書類を取りだして木村の前に広げた。
「あなたの携帯の通信履歴だ。これを追えば繋がりは難なく明白になる」
「……どこからこれを? 違法行為だろう?」
「そんなことはどうでもいい」
「これは会社の携帯だ。ほかの奴が使っていることもある」
「それならそれでいいでしょう。じゃあ、これはどうです?」
 戒斗はまた別の書類を呈示(ていじ)した。
「活動経費の予算として毎月振り込まれている、会社が与えたあなた名義の銀行口座も調べさせてもらった。この口座は六月から毎月五十万の送金がされている。受取人の松本ってだれですか」
「松本は私が新しく手がけているヴォーカリストだ。正当な経費だ。鷹弥にも引けを取らないほどの能力を持ってる。バックバンドは話にならないが、鷹弥がこういう状況だ。ちょうどいい」
 平然と辛辣(しんらつ)な言葉を口にする木村への憤りを抑えられず、航は拳を握り締めるが、手を出すことも口を出すこともしなかった。健朗は冷たく木村を見据えている。引き合いに出された高弥も、わずかに顔をしかめただけで泰然とかまえている。この場は戒斗に任せるべきことと三人とも承知していた。
「そういう話で釣ってるわけか。この松本の口座は自動送金先がありましたよ。同額の五十万。送金先は高橋州登。あなたがやってることはまるで資金洗浄(マネーロンダリング)だ。会社への背任行為にほかならない」
「……おまえは何者だ?」
「有吏戒斗ですよ。と云っても、あなたにはわからないことですが」
 怪訝に眉をひそめて訊ねた木村だったが、戒斗は冷笑して返した。
「……背任行為ではない。私は事務所のためを思ってやってる。従妹とはいえ、同じ屋根の下で何があったかは知らないが、ユーマを歌えなくしたのは妹だ。彼女はユーマにとってもFATEにとっても厄介者(やっかいもの)でしかない。現に、鷹弥はどうなった? 歌えなくては仕事にならない。私がマネージメントしている以上、堕ちることは許さない。FATEを守りたいからこそやったことだ」
 今度は高弥が手を握り締める。それは木村に対する憤りよりも、そう云わせてしまう自分の現状への不甲斐なさだった。
「それでも、あなたがやったのは祐真を売る行為に当たる。いくら女性問題に過敏であれ、祐真が美化されているいま、世間に醜聞(スキャンダル)として報道されることを事務所が喜びますか」
「私はユーマの妹に手を引かせる材料が見つかればよかっただけだ。報道に踏みきるつもりはない」
「あなたは記者という職業を見縊(みくび)ってる。一旦、仕入れたネタを簡単に手放すほどいい加減にやってる奴ばかりじゃない。記事になるならないはこの高橋州登の一存にかかっている。あなたがいかに危ない橋を渡っているか、この世界に長年いたとは思えない行動だ。あなたは守ると云うが、高弥まで及ぶのは明らかですよ。つまりはFATEまで道連れにしようとしているということです。それを、事務所にどう云い訳されますか」
「……どうしたいんだ?」
 戒斗の声に条件付きで見逃そうとしている響きを悟り、木村は訊ねた。
「取材依頼のキャンセル。そして、FATEのマネージャーを降りてほしい。大丈夫ですよ。もうすぐ十月だ。十月といえば人事異動もおかしくない月でしょう。それにあなたの推薦ということにすれば、あなたの体裁も守れるはずだ。ただし、後任はこちらで決めさせてもらいます。ああ、それから。おれについて調べようとしてもたどりつけませんよ。労力の無駄使いはやめたほうがいい。おれらに関しておとなしくしていればあなたもいままでどおり、安泰(あんたい)だ。松本とかいう奴のマネージメントにでも専念すればいいし、これ以上、どうこう云うつもりはない」
 戒斗は、どうだ? と無言で問いかけるように木村を見た。
 決して納得はしていないが、保身の意には勝てないようで渋々とうなずいた。
「わかった。勝手にすればいい」
 木村は云い捨てて立ちあがり、(きびす)を返して会議室を出ていく。
 その直後、だれもが清々(せいせい)したように息を吐きだした。
「高弥、とりあえずここまで調べた」
「ああ、悪かった。これ以上はおれがなんとかする。ライヴは――」
「大丈夫だ。真柴がやってくれる。あいつらはもともとユーマのコピーからはじめた奴らだ。おまえの曲も音録りは終わってる。あとはおまえ次第だ。ゆっくり考えろ」


 昂月はバーラウンジへ行った。
 そこには云ったとおりに、あの席で待っている高橋がいた。だれかが入って来る度にそうしているのか、昂月が入ったとたんに高橋は顔を上げた。なぜか驚いた様子の高橋は手を差しだして向かいの椅子を示す。
 昂月は断罪の場に向かうような気分でその席に進んだ。

「どうしたのかな……いつもと様子が違う」
 昂月は(うつ)ろに笑った。
「いつも? 数えるくらいしか会ってないのに」
「僕が何カ月かけて君を追っていたと思う? それに職業柄、観察力は肥えてるつもりだ」
 昂月は答えないまま黙り込んだ。
 なぜか高橋もそれに付き合って、いつものように喋り続けることもない。
 高橋が頼んでくれたファンタジーグリーンフィズは緑茶の香りがして、アルコールが入っているのを忘れそうなくらいにさっぱりと甘い。
 今日は眠れるだろうか。
 ふとそんなことを思った。
「高橋さん……あたしの部屋で飲みませんか」
 高橋は問うように眉を上げた。
「ここじゃ、話せないから」
 昂月が伝票に手を伸ばすと、高橋が素早く取りあげて立ちあがった。
「僕が払うよ。誘ったのは僕だろう」
 部屋のカードキーで精算をすませる高橋を見上げた。
 背が高いせいで、人と会話するにはどうしてもうつむかざるを得ないその横顔を少し後方から見ると、やはり祐真の面影と重なった。

 忘れないで。
 祐真兄、云われるまで気づかなかったあたしの心は、いつのまにか祐真兄の存在を思い出としてしまっているのかもしれない。あたしって……すごく薄情な人間。でも……人ってそんなもの……なんだよね? お母さんがそうだったように、祐真兄もそうであり、そしてあたしもまた。乗り越えられるようにできてる。だったら、どんなにいま傷つけてもそれが思い出になるときが必ず来る。
 強くありたい。
 そう願うあたしがいまいちばん守りたいのは高弥がいるべき場所。
 だから、あたしにいまできること。

「行こうか」
 不意に高橋の視線が昂月に下り、まともに目が合った。
「僕に……祐真を見てた?」
「……やっぱり気になりますか、自分じゃないだれかを見られてるって」
「気にならないと云ったら嘘になる。想う気持ちが強ければ強いほど、気にならないはずがない」
 それなのに高弥は――。


 マンションに帰り着き、玄関のドアを開けようかというとき、ついさっき、別れたばかりの戒斗から電話が入った。
『高弥、高橋州登の居場所がわかった』
 いきなりそう云った戒斗の声はいつになく焦っているように感じた。
 高橋の居場所がどこであろうと、そう重要なことでもないような気がしたが、どこだ? と高弥は戒斗に問い返した。
 背後で玄関のドアが閉まると同時に、いつもにない金属音が耳に入る。
『英国ホテル。昂月ちゃんが滞在してるホテルだろ?』
 振り向いて玄関のドアポケットを開けた手が止まった。
 ドアポケットに返された鍵、高橋州登の居場所、昂月が一緒にいた高橋という男。
 一瞬にして三つの点がラインとして繋がった。
 余裕をなくし、そこまで気が回らなかった自分に苛立つ。
「わかった」
 いま帰ってきたばかりの部屋を再び出た。
 戒斗の電話を切ったとたんに別の音で携帯が鳴りだす。
『高弥さまでいらっしゃいますか』
「大井さん?」
『はい、高弥さまの依頼の件で』
「昂月がまたあの男と?」
『はい。従業員の話ですと、昂月さまが部屋のほうへ同伴されました。どうなさいますか』
「すぐ行きます。大井さん、その男は高橋……高橋州登ではありませんか?」
『それについてはプライヴァシー上、申し上げられません』
「大井さん!」
 高弥は頑なに業務に徹する大井に声を荒げて急かした。
『……昂月お嬢さまが仰ったということであれば……そのとおりです』
「すみません、ありがとうございます」
 電話を切ると同時にマンションのエントランスを出た。


 高橋は案内しないまでも、迷いなく昂月が滞在している部屋を目指す。
 先立って部屋に入り、ついてきた高橋にソファを示した。冷蔵庫から缶ビールと缶酎ハイを取りだして、缶ビールを高橋の前に置いた。

 昂月は一口飲んでふと笑う。
「何?」
「ほんとにちゃんと調べてるんだなと思って」
「公私問わず、女性をここまで追うのははじめてだ。ストーカーと云われてもしょうがない……こと、君に関しては」
 昂月は目を逸らした。視線の先のガラス窓に自分が映る。
「高橋さん、あのこと……記事を取り下げてもらえませんか」
「君は……知らないのか?」
「え?」
 かみ合わない会話に昂月が高橋を向いて問い返すと、高橋は迷っているように視線を外した。
「……いや……どうして気が変わった?」
「怖いから」
 高弥から歌を取りあげることが。
「……それだけ?」
 昂月に目を戻し、高橋は疑うように見返した。
「去年のことを思いだしたの。あの時はなんだか感覚がなくて何も思わなかったけど……いま同じことをされたら耐えられる自信がない感じ」
「……ということは僕に応じてくれるってこと?」
 昂月はうなずいて答えた。
 高橋は歓迎を示すどころか、逆に考え込むように顔をしかめる。
 その時、昂月の携帯がテーブルの上で震えだした。
 手にとってそれが高弥からの呼びだしと知ると、携帯の振動とともにためらうように手が震えた。
「出ていいよ」
 高橋は察したのか、その言葉に押されるように指が通話ボタンを押す。

『昂月?』
「うん」
『いまからそっち行く』
「だめなの」
『……だめ?』
「……あ、いま慧のところにいるから」
『…………わかった』
 不必要なくらいの沈黙のあと一言だけ口にして電話はぷっつりと切られた。

 昂月はゆっくり携帯を閉じて窓ガラスに目をやる。
 昂月は気づいていないが、その顔はだんだんと色をなくしていく。
 高橋はポケットから煙草を取りだして口に咥え、火を(とも)すと一息吸って吐きだした。
「祐真とはどうだったか知らないけど……鷹弥と君は自然に見えた。君は鷹弥のことを忘れられるのか?」
「……終わったって云ったでしょ?」
「終わることと忘れることは違う」
「……祐真兄だけがすべてだと思ってた。でもあたしは高弥に簡単に乗り換えたの。高橋さんが高弥の存在と闘ってくれるのなら、またあたしはたぶん……」
 窓ガラスの自分を見つめたまま昂月が云うと、高橋は答えずに黙りこくった。
「高橋さんもいつもと違う。今日はあまり喋らない。どっちがホント?」
 昂月が訊ねても高橋は肩をすくめて答えないまま、昂月と同じように外のネオンに目をやった。
 しばらく部屋はしんと静まった。
「高橋さん……ちょっとだけ……ここで待っててもらっていいですか」
「ああ、かまわない」
 昂月はベッドルームへ入り、そのままバスルームへと行く。鏡に映った自分を見つめた。
 その見た目そのままにバカみたいに幼くて、だれのためにも何もできなかった自分。そんな自分を壊したい衝動。
 いまやっと、あたしはその衝動を叶えられる。
 着ている服を全部脱ぎ捨ててバスローブを羽織った。
 素足でリビングへのドアを抜ける。
 外を見ていた高橋がゆっくりと昂月に目を向ける。昂月の姿を見てもさほど驚きは表さず、ただ問うように少しだけ目を見開いた。
「高橋さん……約束してほしいの」
 思った以上に緊張して口の中が乾いている。足が震えて、これ以上進めない気がした。
「約束?」
「そう……来て……?」
 高橋は立ちあがってドアの前に立つ昂月の近くまで来て立ち止まった。
 昂月は震えだした手を隠すように握り合わせた。同じように震える息を吐き、手を(ほど)くとバスローブを床に落とした。
「昂月さん、何を――?」
「記事にしないって約束して」
「しないよ。だから急ぐことはないだろう?」
「たしかな約束がほしいの」
 怯えるように震えながらも云い募る昂月を、訝しく高橋が見下ろす。
「君は……何をやろうとしてる……?」
 高橋が訪ねている途中で部屋にノックの音が響いた。二人ともそのドアに目を向けた。
 なぜか昂月の目にはドアの向こうに立っている高弥が見えた気がした。
 昂月が息を詰めて動けないままでいると、今度はドアベルが鳴った。
「服を――」
「いいの。だれも来る予定なんてない。たぶんホテルの人」
 首を振ってさえぎった昂月の判断力は明らかに普通ではなくなっている。
 高橋はかがんで昂月の足もとのバスローブを取った。
「だめなの? 約束してくれないの?」
 昂月は混乱したように詰め寄った。
「君は無茶なことをやってることがわかってる? こんな安売りするほどに君がやろうとしてるのは……鷹弥を守ることなん――?」

 ドアの施錠が解除される音が高橋の言葉を打ちきった。ドアが開く。
 昂月は意識しないままドアに目をやり、凍りついたように呆然と見つめた。
 入ってきたのは高弥だった。高弥の背後でドアが閉まる。
 高弥は目に入った光景が信じられずに立ち止まった。
 昂月から高橋に目を移し、そして昂月にまた戻した。

 もしかしたらこのいまの瞬間が、自分が望んでいた覚悟の時に相応(ふさわ)しいのかもしれない。
 頭の片隅でそんなことを思いながらも心がついていかなかった。
 こんな場面は想像するはずもなく、昂月の顔は蒼白く色を失う。ショックに足ががくがくと震え、眩暈がして躰が揺れた。

「昂月さん!」
「触るなっ」

 気づいた高橋が支えようと手を伸ばした瞬間、高弥の怒号が飛んだ。

BACKNEXTDOOR