ONLY ONE〜できること〜 #35

第5章 ONLY ONE〜できること〜  3.Make Love to Me-抱いて-


 いざドアの前に立つとドキドキしているのが全身に伝わり、鍵を差し込む手の震えも止まらない。
 けれど賭けでもなんでもなく、拒絶されてもこれが最後、という気持ちが後押しして鍵を回した。
 そっとドアを開けると、部屋の中はしんとしていて物音も人の気配も窺えない。まともに対面することは避けられてほっとしたが、今度は逆にいなかったらいなかったで(くじ)けるよりはいてくれるようにと祈った。
 玄関ドアを閉め、靴を脱いでいちばん奥の部屋へと進む。静かにドアを開けると部屋の主を確認した。
 上向きで微動だにせず、Tシャツにジーンズという昨日の服そのままの躰にタオルケットが掛かっていた。左腕を投げだすように伸ばし、そして包帯を巻いたほうの右腕は額に載っている。
 そのまま再びドアを閉めて引き返した。

 薄っすらと水の流れる音を感じた。
 夢なのか現実なのか境がはっきりしないまま、その音を聴いていた。
 隣の住人か……いや、隣はつい最近、突然に引越しが決まったと云って、今時にはめずらしく律儀に挨拶をしにやってきたばかりだ。
 ああそういや……改修工事やってたな……。
 違う……このマンションは防音が効いているはずだ。
 なんの音だ……?
 夢現(ゆめうつつ)のままそんなことを考えているうちに音は止んだ。
 頭に鈍い痛みを覚え、起きようという気力もなく、また微睡(まどろ)みに入った。

 バスルームの戸棚からバスタオルを取って躰を拭いたあと、そのまま躰に巻いた。
 自分がしようとしていることはまさに()骨頂(こっちょう)といえる。当たるまえにもう砕けている気分で、しばらくバスタブの縁に座り、決心いう言葉を集めて(ねが)いに繋いだ。
 最後だけど……あたしは、大丈夫。
 バスタオルを巻いた格好のまま廊下に出ると、正午近くとはいえ閉めきられた空間は薄暗く、まるで自分の前途を示しているようだと思いながら進んだ。
 寝室に入り、部屋の主が先刻と姿勢を変えることなく眠っているベッドに近づく。
 少しかがんで、その右腕をそっと額から下ろした。

 無防備な寝顔はそれでも触れたくなるほど、綺麗とも表現できそうな、強さを秘めたラインを消し去れていない。
 高弥……。
 まえのように今度は止めることなく、顔を近づけてふわりと触れた。高弥がかすかに身動(みじろ)ぎする。
「高弥」
「……昂月……?」
 ぼやけた声で高弥が反応した。
「うん」
 そしてまたそっと顔を下ろした。
 すぐに触れたくちびるが目覚めるとともに意思を表した。高弥の手が上がって昂月の頬を心持ち強く包むと、今度は立場が逆転し、遠慮を忘れたくちびるが昂月を襲う。
 分別をなくした互いの感情が(おもむ)くまま触れているうちに高弥が呻き、引き寄せていた昂月の顔を持ちあげてくちびるを離した。
 昂月を見上げると、彼女の剥きだしの肩の、白く儚さを覗かせた肌が高弥の目に触れる。
「何を……やってるんだ?」
 昂月に向けると同時に、自分にも問うように高弥はつぶやいた。
「あたしを……好き?」
「ああ」
 高弥は不意打ちで訊ねた昂月に考える間もなく即答した。
「愛してる?」
 言葉のかわりにすぐ近くにある高弥の瞳が深く翳り、答えを示す。
「……どうしたいんだ?」
 高弥は再び呻くように問い返した。
 昂月は目を伏せた。
「……抱いてほしい……の」
 精一杯で口にした願いに応え、高弥は自分の上に昂月の躰を引き寄せて背中に手を回した。顔を載せた高弥の胸から鼓動が大きく響いてくる。そのまま高弥は動かず、ただそうしていた。
「……どうして……?」
 昂月は顔を上げた。
「おれを試してるから」
「そんなことしてない」
「昨日……おれに祐真を重ねただろ。おれは……祐真じゃない。抱いておれのことをちゃんと受け入れてくれるんならそうする。そうじゃなきゃ、やっても意味ない。少なくとも、おれにとっては」
「……祐真兄はあたしの中から消えることなんてない……あたしは……汚いよね……」
 そう云いながら躰を起こそうとする昂月を、思わぬ言葉に驚いた高弥の腕が強く縛る。
「なんでそんなことを云う?」
「放して」
 高弥の腕に抵抗して無理やり起きあがると、昂月の躰を唯一隠し守っていたバスタオルが(ほど)けた。昂月が当惑して高弥の上に落ちたバスタオルに手を伸ばすのと同時に、高弥は起きあがり、隠そうとした昂月の手首をそれぞれつかんで制止させた。
 高弥の瞳が裸体を撫でると昂月の内部からカッと熱が広がり、肌をかすかに赤く染める。
「あたしの……心は穢れてるの」
「汚くなんかない」
「……兄妹でも?」
「関係ない……そんなふうに思ってたら祐真が泣く……触れるのが怖いくらい……きれいだ」
 そう云って高弥はバスタオルのかわりに抱きすくめた腕で(くる)み、視野から昂月を隠して衝動を抑えた。
 昂月の希いは叶わなかった。ただ、高弥の腕はまっすぐに心を映している。
 この腕を覚えていられるように。
 人形のように抱かれるまま力なく下ろしていた手を上げ、昂月もまた高弥の背に回してその首もとに顔を預けた。
 いま……だれよりも……ずっと愛してる。だから……だれよりも守りたいよ、どんなに傷つけても、高弥を。

 長い時間、ベッドの上でふたりはそうしていた。やがて手もとにあったバスタオルを取り、高弥は昂月の躰に巻きつけた。
 躰を離したとたんに温もりが冷めていき、昂月はプルッと少し震えた。躰が寒いわけではない。
 たぶんそれは心の怯え。
「服、着てきて。おれもシャワーを浴びる。ちょっと頭が痛い」
 高弥が少し顔を歪めて云うと、昂月はベッドから立ちあがりながら笑った。高弥が意図的にそうさせてくれたのか、笑うことで自己嫌悪に似た羞恥心(しゅうちしん)が和らいだ。
「二日酔い?」
「そうかもしれない」
 普段から姿勢を崩すことがないだけに自分が許せないのか、高弥は素直に飲みすぎたことを認めなかった。
 高弥は可笑しそうに自分を見てから部屋を出ていく昂月の背を追う。
 腕に抱いた素肌の感触が消えることはなく、高弥は髪をクシャッと掴んでうつむき、引き戻したいという我慾(がよく)を抑え込んだ。
 昂月の行動は高弥を惑わせる。
 けれど、いまの状況下、昂月の抱いてほしいという願いは明らかに裏があるということだけは察した。


『祐真のピアノオンリーの新曲はおまえのピアノか?』
 昼休みを見計らうように電話をかけてきた戒斗は、良哉が携帯を耳に当てるなりとうとつに訊ねた。
「そうだ」
『祐真がまた歌うつもりだったことは聞いてたが……どうりでおまえが何も文句云ってこなかったはずだ……良哉、高弥が歌えなくなった』
「……何をやってるんだ……」
 目を閉じて良哉はつぶやいた。
『おまえは……祐真と昂月ちゃんが兄妹だって知ってるんだろ?』
「どこからそれを?」
『高弥から聞いた。祐真には女がいたとも云ってる。おまえは祐真が死ぬ直前に会ったよな。何か知ってるんじゃないか?』
「女がいたって……高弥が……?」
 質問で返した良哉が、自分がした質問自体には驚いていないのに気づいて戒斗はため息を吐いた。
『やっぱ、知ってたのか。昂月ちゃんから聞いたらしい』
「昂月は……知ってたのか?」
『ああ』
 戒斗から事の次第を聞かされると、良哉は自責の念に駆られた。
「おれは祐真を守りすぎたのかもしれない。昂月に惨めだと感じさせたくなかったし、知らないなら知らないままで傷つく必要なんかないと思っていた。録音したMDを取りに来たときにその女が一緒にいたんだ。顔は見えなかったけど、明らかに昂月じゃなかった……」
 後悔のため息交じりで良哉は曝した。
『もう一つ、問題がある。昂月ちゃんの様子が普通じゃなかったからちょっと当たってみたんだが、石井さんによれば、木村さんが裏でヘンなことをやってるらしい』
「なんだ?」
『祐真に関して低俗な取材をやらせてる。それが高弥まで及ぶかもしれない。うちの連中を使っていま急いでそれを追わせてる。祐真と高弥と、材料が倍になるだけに曝される期間も長引く。昂月ちゃんが傷つくことはもちろん、そうだからこそ下手したら高弥は歌をやめる。おれが高弥の立場でもそう考える』
「わかった。おれも動いてみよう」
『どうする?』
「説得するだけだ。ネックは昂月だ。いますぐにはどうしようもないかもしれない。けど、放っとけないだろ」
『ああ。待つのはいい。()ちてもいい。けど解散は納得しない。おまえのことも、だ』
「わかってる」
 矛先を向けられると良哉は苦笑いしながら応じた。


 頭の鈍痛を払うのと、冷静になるのに時間を要した。ようやくバスルームを出てリビングへ行ったが昂月の姿がない。
「昂月?」
 答える声はなく、タオルで髪を拭きながら玄関先に行くと昂月の靴もない。
 くそっ。
 高弥は悪態をついて寝室に引き返し、タオルを放りだして携帯を掴むと玄関を出た。
 エレベーターのボタンを押そうとした矢先、ドアが開き、中から昂月がびっくりした(さま)で目の前に立った高弥を見上げた。
「どこか……行くの?」
「そうじゃない。おまえを探しに行こうとしてた」
「……コンビニ」
 昂月は手に持ったコンビニの袋を掲げてみせた。
 はっ。
 焦りが解け、高弥はため息と見紛(みまが)うような笑みを漏らした。
「すぐ帰ってくるつもりだったけど、久しぶりに仲良くしてる店員さんと会って呼び止められてたの」
「ははっ。昂月は人見知りするくせに人好きするんだよな」
「そう?」
「気づいてない? 行きつけのガソリンスタンドの従業員なんて典型だ。おれを通り越しておまえと喋ってる。ミザロヂーの店員だってやたらと話しかけてくるだろ?」
「……普通のことだと思ってたけど」
 昂月は戸惑ったように高弥を見上げると、おもしろがったような眼差しが見返す。
 引き返して玄関の鍵を開け、高弥はさきに入るように昂月を促した。
「二日酔いにいいって云うから、カップのお味噌汁を買ってきた。冷蔵庫に材料なかったから」
 昂月はサンドイッチやおにぎりを袋から出してリビングのテーブルに並べ、お湯を沸かしにキッチンへ入る。
「昂月」
「うん?」
「だからさ、昂月を嫌ってる奴はおれらのなかにはいない。水納も含めて」
「……うん……でも木村さんには間違いなく嫌われてるよ?」
 昂月がちゃかして云うと、二重の意味を込めて高弥はしかめ面になった。
 高弥の部屋で過ごす時間は、夕方になって呼びだしの電話が鳴るまで、まるで何もなかったように居心地がよかった。
 高弥の受け答えを聞いていて、おそらく戒斗だと見当をつけた。
急遽(きゅうきょ)、打ち合わせが入った。どれくらいかかるかわからないから、とりあえず送ってくよ」
「ううん。自分で帰れる」
「じゃ、駅まで。車出してくる」
 テーブルのコーヒーカップをキッチンに持っていって洗っている間に、高弥は車のキーを持ってさきに出ていった。

 昂月はバッグを手に取り、一回り部屋を見渡して目に(とど)める。
 玄関のドアに鍵を掛けるとその鍵を一度ギュッと握り締め、そしてドアポケットに落とした。
 エントランスまで降りると、すでに階段のすぐ脇に車を止めて高弥が待っていた。
 駅まで送ってもらう途中に昂月の携帯音が鳴る。
「はい」
『昂月ちゃん、依頼の件、見つかったよ。明日以降ならいつでも確認できる。併せて移るまえに二、三、書類を確認してほしい』
 これ以上にないタイミングの知らせをくれたのは弁護士の伊東だった。
「ありがとうございます。あとで連絡します。父にはおじさまから伝えてもらっていいですか」
『それはかまわないが、高弥はこのことを……?』
「すみません。まだ……」
『……いろいろ考えがあってのことだろうが……ご両親とのことも高弥とのこともうまくいくように願ってるよ』
「はい」
 電話を切ると、息を吐いた。その息は少し震えている。
「いまのは……」
「うん。高弥のお父さん。確認してほしい書類があるんだって」
 すぐに駅について、高弥はロータリーで昂月を降ろした。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「高弥も……ありがとう」
 普通にしていたつもりが昂月の声に何かを聴き取ったのか、高弥は一瞬、迷うような表情を見せた。
 昂月が運転席ドアの傍から一歩下がると、それを合図にしたかのように高弥はためらいを消し、軽く手を上げて車を出した。
 高弥の姿は見えなかったが、視界から消えるまで車を見送った。

 ありがとう……高弥。
 昂月のくちびるが声にしないままそう象った。

BACKNEXTDOOR