ONLY ONE〜できること〜 #34

第5章 ONLY ONE〜できること〜  2.I hope. act2


 高弥に云われて出入り口に向かう昂月の横を追い越しざま、
「まったくなんてざまだ!」
と奥には届かないくらいの声で罵声(ばせい)を浴びせ、木村は足早に店を出ていった。
 そうされて当然だとわかっていても、あたしは大丈夫、と昂月は何度も自分に云い聞かせなければならなかった。

「昂月さん」
 ちょうどドアの取っ手に手を伸ばしかけたときに後ろから呼び止められ、昂月が顔を向けると、ユーマのマネージャーだった石井が追ってきていた。
「今回のユーマのシングルの件、申し訳ないと思ってる」
 思いがけない言葉で、昂月は戸惑って石井を見た。
「僕は……ユーマと引き離そうとして、昂月さんを邪険に扱っていたことを悪いとは思っていない。それは、僕がユーマのマネージャーであり、ユーマの大ファンだったから。いや、いまでも、だ。音楽に専念してほしかった。少なくともマネージャーとしては、ユーマの最高の理解者だと自負してる。昂月さんが未発表曲の発売を許可しないことには僕もまったく同意見だ。ユーマの気持ちを尊重したい。今回の件も僕は反対した。事務所にとってまだ僕は若輩者で……力になれなくて申し訳ない」
 まだ三十そこそこの石井は若いからこそ、よき理解者になり得て祐真に信頼されたのかもしれない。
「あの……一つだけ……どこから出てきたのか、教えてもらっていいですか」
匿名(とくめい)の郵便で届きました」
 そう聞くとやはりあの少女しか思いつかない。
「石井さん、今度の件はたぶん祐真兄の意思なんです。だから石井さんが謝るようなことじゃありません。ありがとうございました」
「昂月さん」
 一礼して出ていこうとすると、再度引き止められた。
「……ユーマを追ってる記者がいる。気をつけたほうがいい」
「石井さん……?」
「木村さんだ、仕掛けてるのは」
「どうして……」
 昂月は途方にくれてつぶやいた。
「あの人は計算ばかりして、自分がマネージメントしてるアーティストに愛着がない。木村さんはたしかにマネージャーとしては敏腕だ。云われるままに動いていれば何も問題ないけど、FATEはスタンスをきっちり持っているだけに扱いかねてる。その記者と電話しているところを偶然に聞いた。当初の目的は鷹弥と君を引き離すためだった。でも鷹弥が歌えなくなったいま、木村さんは鷹弥を切り捨てるかもしれない。とにかく目的がどこにあろうと、いま木村さんがやってることはユーマを売ることになる。そんなことを僕は許せないし、事務所に対する背任でもある。事務所がこれを了承してるとは思いたくない。僕はユーマが歌えなくなったとき……昂月さんとのことを打ち明けられた」
 昂月が驚いて目を見開くと、石井はうなずき返した。
「それだけ僕を信頼してくれたユーマに応えたい。斉木内では実力者の木村さんだけに、下手するまえにいま全力で裏を取ってる。昂月さんにこういうことを云っていいのか迷ったけど……避けられることなら避けたい。ユーマを傷つける必要なんてないんだ」
 その記者がだれを指すのか、昂月はおそらく知っている。
 眩暈がした。

 ――世間にとっては最高の醜聞だ。
 ――鷹弥を切り捨てる。
 ――ユーマを傷つける必要なんてない。

 昂月はまた間違った選択をしようとしていた。
 失うものはなくなっても、守りたいものはある。
「……気をつけます。教えてもらってよかったです」
 再び一礼すると、昂月は外に出た。
 背後でドアの閉まる音を確認したとたん、昂月の中に自分を壊してしまいたい衝動が走る。繰り返し襲ってくるこの衝動をどう処理していいかわからない。

「昂月ちゃん!」
 呼び鈴の音とともにドアが開き、今度呼び止めたのは戒斗だった。
 足は止めたものの振り向かないままの昂月の前に戒斗は回り込んだ。
 見下ろした昂月はさっきまではなかった蒼白な表情に様変わりしていた。
「昂月ちゃん……どうしたんだ?」
 戒斗が驚きと心配の入り混じった声で訊ねると、昂月は縋るように戒斗を見上げた。
「戒斗さん……高弥は……歌えなくなったんですか」
 戒斗が気遣うような眼差しを向ける。高弥が保証するように、彼らは優しい。
「いまはスランプってだけだ。良哉と同じだ。昂月ちゃんのせいじゃないから」
 昂月は首を振って戒斗の言葉を否定した。
「戒斗さん……お願いします。高弥を見棄てないでください。いまのFATEが大好きです。高弥はまた歌えるようになります。祐真兄がそうだったから」
 昂月はまっすぐに戒斗を見上げてそう(ねが)った。
「昂月ちゃん……」
「高弥をお願いします」
 昂月は深く頭を下げてそう云うと、戒斗の横を通り抜けた。
 振り向いて見えた昂月の背には拒絶が(しるし)されている。
 高弥と昂月の間に何があったのか、高弥が苦しむほどに昂月は尚更そうであるはず。いまは何かを云えば云うほど、彼女は(かたく)なに離れていくだろう。
 互いを想う気持ちはだれが見ても明らかなのに、どうしてこれほどにすれ違わなくてはならない?
 昂月の後ろ姿を追い、戒斗はしばらく思案する面持ちで見送った。


 高弥は戒斗と唯子に連れられて病院へ行き、そのまま二人に付き添われてマンションへ帰った。戒斗に支えてもらわなければならないほど、足もとは酔いでふらついている。
「戒斗、ちょっと外してくれ」
 ベッドに倒れ込むなり高弥が云うと、戒斗は頷いて出ていった。

「水納……」
 力尽きたように包帯を巻いた手を(ひたい)に預け、高弥は目を閉じたまま、ベッドの脇に立った唯子に呼びかけた。
「何?」
「店では悪かった。ただ……昂月を責めないでくれ」
「でもこのままじゃ高弥が……こんなふうになる必要ないでしょ?」
「違う。云っただろ。おれが仕掛けたことなんだ。いまこうなってるのは、おれに覚悟が足りなかったからかもしれない。とにかく、いまはおれと昂月のことに口を出さないでほしい」
「……何が云いたいの?」
「電話……帰国した日……」
「……知ってたんだ」
「知ってたわけじゃない。話の流れで昂月が漏らした。訊いたら昂月は否定したんだ……いまの返事で知った」
「……酔ってるわりには頭が回るのね。ちょっと意地悪しただけよ」
 唯子はため息を吐き、かすかに笑った。
「事務所が引き離そうとしてることを昂月に云ったのも……?」
「そうよ。でもそれは意地悪じゃない。高弥を……FATEを守りたいから」
 唯子があっさりと白状すると、高弥は口にすることへのためらいからしばらく沈黙した。
「水納……おれはそれほど鈍感じゃない。水納の気持ちはわかってた。けど、おれは応えられない」
「わかってるわよ。私はいつまでも水納であって、唯子にはなれないから。昂月ちゃんを嫌いなわけじゃないのよ。皆から守られて贅沢すぎるくらい恵まれていることを、昂月ちゃんはまったくわかってない。それなのに高弥がこんなになるまで……祐真のことも――」
「昂月と祐真は実の兄妹だったんだ」
「……嘘……」
 さえぎってとうとつに告げられると、唯子はしばらく呆然とした。
「昂月も祐真も……離れられなくて……苦しんだ。昂月はいまも……祐真が死んで余計に……いろんなことから昂月は抜けだせなくなってる。それなのにおれは……告白させて追い討ちかけた。おれは体裁つけて結局は欲張ったんだ。昂月はおれとのことも終わらせようとしてる」
「そういうことなの……祐真も私を利用してたってことかぁ……」
 唯子は呆れたように笑った。
「なんの話だ?」
「……私が祐真に云ったのよ。付き合わない? って。祐真、なんて云ったと思う? 『おれをダシにしたって高弥は振り向かないよ。高弥は昂月に惚れてるから』だって」
「はっ……祐真はやっぱり見破ってたのか」
 一瞬、驚き、そして降参したように笑うと高弥は呟いた。
「私のこともね。祐真はそういう奴。昂月ちゃんを()られたらどうするのって訊いたら、高弥なら潔く負けてやるよって。仕向けたのは自分だからって云ってた」
「仕向けられたくらいでここまで……」
 高弥は投げやりに吐いた。
「そうね……好きなくせに、なんでそんなことするんだろうって思ってたけど……祐真は私の思うとおりにさせてくれた。お互いに利用してる裏で、祐真は悪あがきしてたのかもしれない。高弥が私に気づくのなら、昂月ちゃんをまだ手もとに置いておけるってね」
「あの頃は……奪う気なんてなかった。けど……祐真がいなくなったとたんにおれは……」
「好きなんだからしょうがないのよ」
 唯子がおもしろがった口調でからかうと、高弥は自己嫌悪の混じった笑みをふっと漏らす。
「水納……おれは思わせぶりな態度を示してきたつもりはない。はっきり云わなかったのが余計につらくさせたのならすまないと思ってる。けど……」
「私の立場が親友だってことくらいわかってる。公言できないような重大事を打ち明けられるほどにね。その立場まで失いたくなかったから……はっきりさせたくなかったのは私のほう。私も悪あがきしてただけ。親友でいたいって思ってくれるだけで充分」
「おれもわがままだよな」
「うんと苦しめばいいのよ。いざとなったら、親友として口出ししてあげるわ」
 唯子がわざと情無(つれな)く云うと、ははっと声を出して高弥は笑った。

 唯子が、じゃあね、といつもと変わりなく出ていき、入れ替わりに戒斗が入ってくる。
 戒斗はベッド横のクローゼットの戸に寄りかかり、高弥が口を開くのを待った。
「……戒斗、音楽ってなんだ? よく励まされたとか救いになったとか云うけど、祐真は……おれも歌えなくなった。救われるどころか……歌うことに……意味があるのか?」
「何があった?」
 そう訊ね返すと、高弥はまたしばらく黙った。
「戒斗、おまえはどこまで祐真のことを知ってる?」
「そのまんまだ。祐真が消えたときも、調べようと思えば難なく突き止められた。そうしなかったのは、あいつを信じてたし、あいつに対するおれの敬意だった。いまでもこれからもそれは変わらない。おまえらに対してもそうだ」
「おまえらしいな……戒斗……もし、いまの時点で、おまえが叶多ちゃんと親戚(しんせき)なんかじゃなくて……実の兄妹だって云われたらどうする?」
 高弥のとうとつな質問に、何を云わんとするのか戒斗は考えた。
「……祐真と昂月ちゃんが……?」
 戒斗は結論に至って問い返したが、高弥は肯定も否定もしなかった。
「祐真には死ぬまえ、女がいたんだ」
「まさか……?」
 戒斗は半信半疑で呟いた。
「昂月がいまいるホテルは祐真が最期にいた場所だ。そこの支配人から聞いた。祐真は昂月のことを吹っきれたらしい。おれが最後に電話で話した祐真の声は、たしかにすべてがうまくいくっていう感じだった。それはそれでいい。けど、それはあいつが生きてるというのが前提だ」
「昂月ちゃんは女のことを?」

「知ってる。昂月はその彼女から祐真が倒れたってことを電話で知らされたんだ。昂月は祐真がどこにいるかもずっと知ってた。それでも会いに行けなかったほどつらかったんだと思う。そのうえで祐真を追い詰めて死なせたのは自分だって責めてる。昂月を手に入れたくて動いたのはおれなのに、祐真じゃなくておれといることをおまえらがどう思ってるのか怖いって云うんだ」

 戒斗は顔をしかめて一度首を振った。
「祐真の路上ライヴを聴きに行ってた頃、昂月ちゃんに会うこともあった。いまみたいにかまえて笑う子じゃなくて、祐真にくっついて、笑ってなくてもいつもうれしそうに見えてた。祐真が溺愛してたことは見て知ってる。高弥……おれらのバンド名の意味、わかってるよな?」
「運命だ」
「そうだ。それでも祐真と昂月ちゃんがうまくいかなかったのは、その<未来(さき)廻り合い(みち)があったからだろ。おまえと昂月ちゃんを見ていてそう思う。祐真もそうだったんだろ。責めるようなことじゃない。おまえらをちゃんと知ってるおれらのなかにそうする奴はいない」
「わかってる。ただ、ずっと吐きだす場所がなかったぶん、昂月の傷は深いんだ。ロンドンで木村さんに写真を見せられたとき、昂月と祐真に何があったのか知っておいたほうがいいと思った。話したがらないのを無理やり云わせた。おれが歌ってなかったら……追い詰めないまま、昂月を守っていけたかもしれない」
「本末転倒だ。おまえが歌ってなかったら、祐真とも昂月ちゃんとも出会いはなかっただろ。どっちを後悔する?」
愚問(ぐもん)だ」
 高弥は即答して笑った。

「高弥、おまえらはなんでも思いどおりになることの虚しさを知らないだろ。ガキの頃から特殊教育されて、大の大人に持て(はや)されて、そうした地位にあることがあたりまえだと思っていた。けど叶多の兄貴を見てて、そういうことがバカげてると知った。自分の実力でもなんでもない。ただ有吏という名前の後ろ盾があっての地位だ。名前を剥いだら何が残る? だれがついてくる? そんな権力で世界を思いどおりに動かせたからって何も得るものはない。そういう虚しさと闘っているときに祐真の音と出会った。有吏の名を持ってしても人を動かせないもの、残せないものは音楽だと思った。おれが有吏の名を堂々と名乗れるほどの目を持っているのか、その証明の場所がFATEなんだ。高弥、おまえは昂月ちゃんを諦めるのか?」

「昂月はおれのことも祐真と同じだと思って離れようとしてる。そうじゃないことを示すまえにこのざまだ。けど……諦められるくらいなら、こんなふうにはならねぇよ」
「ああ。おまえが諦めるとしたら見損なうところだ。おれ自身のこともな。おれは嫌がってるおまえを無理に引っ張った。それだけの天性を見たし、おまえ以上の奴はいない。おまえが考えてることもわかってるつもりだ。おまえは歌えなくなったんじゃなくて、歌う気がないだけなんだよ。けど、おれもおまえのことは諦めねぇよ」
「……正直、迷ってる」
「焦るな。長引いて事務所が排出するならそれでもいい。おまえが歌う気になった時点でFATEはまたそこからスタートすればいいことだ。そういう覚悟は航たちも持ってるし、まえに云ったように是が非でも伸しあがってやる。FATEはそれだけの音を持ってる。覚えとけ」
 戒斗はそう云ってドアに向かった。が、すぐに足を止めて向き直り、目を閉じたままの高弥を見下ろした。
「高弥、さっきの質問。答えに悩むまでもないだろ、お互い?」

BACKNEXTDOOR