ONLY ONE〜できること〜 #33

第5章 ONLY ONE〜できること〜  2.I hope. act1


「高弥、いいのか?」
 航が携帯を閉じた高弥に問いかけた。
「ああ。もう穴を開けるわけにはいかない」
 断言とは裏腹に、これまで見たことのない高弥の表情には迷いさえ隠せていない。
「なら集中していくぞ。問題なければ早く終われる」
「戒斗、急ぐ必要はない。じっくりやってくれ」
「高弥……」
「いいんだ。今日は行かない。昂月もわかってる。音を聴かせてくれ」
 そう云うと、高弥はコントロールルームへ行った。
 戒斗たちは顔を見合わせた。健朗が無言で問うように戒斗の合図を待っている。
「とりあえず、やるぞ。早く終わるに越したことはない。流れをつかめば高弥はすぐに追いつく」
「よっしゃ」
 先立って航が持ち場に向かうと、戒斗と健朗もそれぞれベースとギターを手に取った。
「高弥、まずはライヴからだ。おまえのパートだけ最後まで通すぞ」
 スピーカーから戒斗の声がすると、窓越しに高弥はうなずいて答えた。
 航のカウントから曲が流れだし、高弥はプログラムと照らし合わせながらパートチェックをした。祐真の人気曲は完璧に近いほど網羅(もうら)している。繋ぎを確認するだけですんだ。
「どうだ、高弥?」
「問題ない。歌も空でいける」
「じゃ、今度はおまえの曲だ」
「オーケー」
 高弥が不在の間に作りあげられた音は、乱れることなく理想どおりに旋律を奏でていく。

 詞を追ううちに、高弥の脳裡(のうり)に昨日のことが甦った。
 思いやる気持ちを捨て、苛立ちに任せて奪ったくちびるは震えていた。置き去りにした高弥を振り向くこともなくうつむいた、昂月の後ろ姿が目に焼きついて離れない。
 その背に見えるのは孤独という覚悟。
 家族という場所まで取りあげたのは高弥だ。そういう選択をさせた自分が覚悟したあまり、愛したいというわがままを昂月に押しつけ、その果てに昂月の意思さえ奪おうとしているのかもしれない。
 昂月の中にも高弥への想いがあることはたしかなのに、その互いの想いが深いほどに昂月は高弥を遠ざけようとする。
 昂月がその覚悟を彼女自身の中に募っていくのがわかり、相反して高弥には昂月がそうしてしまうことへの畏れが生まれた。
 そして昂月がとる行動の理由。試されているような気がした。
 付き合うと云った高弥がどこまで揺るがないのか。
 その審判の場で、祐真という壁をなくした結果、自分を見てほしいという欲求が高弥の中に明らかな嫉妬を生んだ。おそらくは祐真に対しても。
 嫉妬は苛立ちを生む。苛立ちは昂月へと向かう。昂月を、()いてはふたりをめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。悪循環のスパイラルに(はま)った感触。
 けれど違う。
 審判の場なんてものがあっていいはずがない。これまで培ってきたふたりをそう簡単に捨てられるほど、互いの存在を軽くあしらうわけにはいかない。昂月にもそうはさせない。どんなに遠回りをしてもふたりであることを手放したくない。

「高弥、調整してほしいところは?」
「いや、そのままでいい。依頼どおりさすがに完璧だ」
「合わせるか?」
「もちろんだ。時間がない」
 高弥はスタジオに入った。
 いざマイクの前に立つと、経験のない違和を感じた。
 なんだ?
 高弥は自分に問いかけた。
「高弥、どうした?」
 顔をしかめた高弥に戒斗が声をかける。
「なんでもない。はじめてくれ」
 ヴォーカルを邪魔しないようにと、航の抑えたドラミングに、音量を調整したベースの重低音のリズムとギターのメロディが重なり、高弥も歌いはじめた。
 が、四小節もいかないうちに声は(かす)れ、やがて途切れた。
 まさか――。
 喉に違和を感じた高弥に限らず、手を止めた三人ともがそう胸の内でつぶやいた。
「悪い、最初からやってくれ」
「わかった。航」
 戒斗は至って普通に声をかける。
 けれど歌おうとすればするほど声帯がふさがったように、高弥は声を出すことができなかった。
「高弥、今日はもういい」
 もう一回、と高弥が云うままに繰り返して四回目に戒斗がさえぎった。
 高弥は髪をクシャッとつかむと、くそっ、と吐き捨て、スタジオを出てコントロールルームへ戻った。
「……祐真と同じ……ですね。良哉の次は高弥ですか……」
 健朗が半ば呆然とつぶやき、戒斗は険しい顔でうなずいた。
「……良哉と一緒で高弥には吐きだす場所がなかったぶん……いつかはくると思っていた。昂月ちゃんがいるからこのまま大丈夫かと思ってたが……」
「よりによってこの時期に――」
「この時期だから、だろ」
 航が乱暴に健朗をさえぎると、側の壁をドンッと蹴飛ばす。
「何やってんだっ!」
 航はだれにともなく、(ある)いは祐真に、そして自分に苛立ちを向けて罵った。


 高弥に電話したあと、昂月は何をやってるかも、自分が何を感じているのかもわからないままにぼんやりと一日を過ごした。
 夕方になって沈黙に耐えられなくなったように鳴り響いた電話は唯子からだった。

「昂月ちゃん、ミザロヂーに来て!」
 前置きもなく、半ば怒鳴るような響きで唯子が云った。
「あたしは……行けません」
「どういうつもりなの? 高弥がどうなってもいいの?」
 唯子が責めたとたん、その意味を探った結果、目の前のベッドに横たわる祐真の躰が見え、耳には救急車のサイレンの音が聴こえた気がした。
 少なくとも呼びだされたのが病院でないことは理解できているのに、感情だけがかけ離れている。
 いつになったらこの残像が消えるのだろう。
「……ちゃん……昂月ちゃん?!」
「高弥が……どうか……したんですか」
 サイレンのように昂月の名を何度も繰り返し呼ぶ唯子にようやく応えた声は、相手に届くのかというほど小さかった。
「自分で見るべきよ。とにかく早く来て!」

 電話を切ったあと、それでもすぐには動けなかった。高弥がああ云ってくれたにも拘らず、あの場所に行くには勇気がいる。それだけの覚悟を集めなければならなかった。
 ホテルを出たのは一時間近く経ったあとだった。
 通り過ぎる人の怪訝な視線もかまわずに、昂月はミザロヂーのドアの前まで来てしばらく立ち尽くした。これまでになく仮面を必要とした。
 あたしは……大丈夫。
 お決まりの文句を心の中で唱えて自分に云い聞かせると、一つ大きく深呼吸をしてドアの取っ手をつかんだ。
 小さな呼び鈴の音がやけに大きく響いた気がする。

 入ったとたんにいままでとはまったく違う雰囲気に迎えられた。いるのはFATEとDEEPBLUE のメンバー、それぞれのマネージャーである木村と石井、そして実那都と唯子だけだった。
「昂月ちゃん……?」
 入り口の近くで、遠巻きに奥を見守っていた実那都が呼び鈴の音を聞き取って振り向くと、心配そうな顔で近づいてくる。
「高弥くんが……」
 困惑した表情を浮かべた実那都が指差した方向に目をやった。
 奥のテーブルで横の壁に寄りかかって、明らかに酔っ払っている高弥がいた。お酒の飲み方も、喉が渇いて水を飲んでいるのかというくらい、まるで一気飲みだ。
 向かいに座った航が止めようとするがその手を払いのけ、高弥はグラスを口に持っていく。戒斗たちが声をかけているが、高弥は答えることもないままただ飲み続けている。
 それを周りのテーブルについたDEEPBLUE のメンバーが、マネージャーの石井とともに心配そうに見ていた。

 これまで、少なくとも人前では、崩れたことも飲み潰れることもなかった高弥の姿は見ているだけでつらい。それでもここで引き止めてしまったら立ち直るきっかけさえつかめなくなる。
 いまならまだ――。
 この場所は不安定のなかでも居心地がよかったのに、やっぱり昂月は部外者で余計者だった。
 それを示された夏のはじまりに、畏れに任せて水面に投じてしまった石は沈み、和やかさを取り戻したかに見えたが、そこから広がる波紋は岸にたどり着くまでどこまでも続いているのだ。昂月が投げた位置からは岸なんて見えない。そして追い討ちをかけるように、見えない位置でだれかが知らぬ間に投じた石がさらに波紋を大きくしていた。止めることはできない。止めたとしても、また別の位置でだれかがそうする。
 それなら、そうされることで避けられない影響を最小限に留めるのが昂月に唯一できることだ。

「昂月ちゃん、高弥をどうするつもり?」
 実那都と同じく遠巻きに見ていた唯子が昂月に気づき、つかつかと足早に寄ってくると、昂月に批難の目を向けた。
 昂月はただ首を横に振った。
 ただ自由にしたいだけ。
「高弥が歌えなくなったわ」
 唯子が冷たく報告したと同時に、昂月は高弥に視線を戻した。
「何笑ってるの?!」
 唯子に批判されて昂月は自分が笑っていることに気づいた。
 無理やりに笑うことを覚えた昂月は、“笑う”ことと感情の位置が狂ってしまっているのかもしれない。
「唯子、昂月ちゃんは――」
「実那都は黙ってて」
 庇おうとした実那都をさえぎると、唯子は昂月の腕を引いて奥へと連れて行った。
 酔っ払った高弥以外のだれもが、すぐに近づいてくる昂月に気づいて視線を向ける。畏れに胸が痞えながらも昂月はそれをおくびにも出さなかった。

 逸早く口を開いたのはマネージャーの木村だった。
「君は何をやったんだ?!」
「木村さん!」
 戒斗が制すると同時に、木村の怒鳴り声を聞いた高弥が顔を上げ、その瞳が昂月を捕らえた。
「……なんで……ここにいる……?」
 苦悩の滲む声で高弥が呻くように問いかけた。
「私が呼んだのよ。昂月ちゃんは自分がやってることをわかるべきよ」
 そう云った唯子に視線を移すと躰を起こし、高弥は睨むように目を細めた。グラスを持っている手が白く変わる。
「こんなとこに……昂月を連れてくんじゃねぇよっ」
 唯子に向かって怒鳴ると同時に、高弥は持っていたグラスを叩きつけるようにテーブルに置いた。強くつかんだままのグラスが張り詰めた空間を切り裂くような音を立てて割れ、高弥の手を切りつける。
 実那都が小さく悲鳴をあげ、唯子はかすかに身をすくめた。
「何やってるんですか!」
 斜め向かいの健朗が立ちあがってグラスを握ったままの高弥の手を無理やり開き、破片を落として手もとにあったおしぼりをあてがった。血が滲んでいく。
 そこにあるのは昂月が見ることのなかった祐真の姿。昂月がここまで痛めつけたという、目を背けた事実。
 感情が欠けたように昂月は立ち尽くし、ただその光景を見守った。
 木村が立ちあがり、昂月がゆっくり目を向けると、木村は平然として見える昂月をその視線で威圧した。
「ユーマに飽き足りず、君は鷹弥まで潰す気かっ?!」
 止めるまもなく席を立った高弥がテーブルに乗りかかって、健朗の横に座った木村につかみかかった。
「てめぇ、何もわかってねぇくせに昂月を責めんじゃねぇっ」
「高弥っ!」
 横にいた戒斗が素早く高弥の振りあげた右腕をつかんだ。
「止めるなっ」
 振り払おうとしたが酔っ払った高弥が戒斗の力に敵うはずはなく、抱き止められて椅子に押さえつけられた。
「おまえが殴ったら、ますます昂月ちゃんの立場が悪くなる。わかるだろ。云ったはずだ。守りたければ、てめぇがしっかりしろ!」
 戒斗は高弥にのしかかって耳もとに囁いた。
 くそっ。
 高弥は今日何度目かとなった下卑(げび)た言葉を吐き捨てて力を抜いた。握りしめていた右手が緩み、血が(したた)る。

 木村は高弥につかまれた服を整えながら、眉をひそめて高弥から昂月に視線を移した。
 その目が昂月に選択を迫っている。
 迫られるまでもなく――。
「木村さん、出てってくれよ。あとはおれらがやる」
 木村の視線を追った航は冷淡に云い捨てた。
 ミザロヂーの店員が救急箱を持ってくると、怒鳴られても怯むことのなかった唯子が、高弥の手を取って応急処置をはじめる。
 高弥は手当てされるままに任せて壁にもたれ、目を閉じた。
「昂月……早く帰れ……ここにいる必要ない」
 しんと静まったなかで高弥がつぶやくと、昂月はここに来てから一言も口を開かないまま身を翻した。
「昂月ちゃん――」
「昂月を引き止めないでくれ。頼むよ……怖がってるから」
 実那都をさえぎった高弥はそう懇願して深く項垂(うなだ)れた。

BACKNEXTDOOR