ONLY ONE〜できること〜 #32

第5章 ONLY ONE〜できること〜  1.CROSS-OVER


 高橋に視線を戻すと、これまでの穏やかだった表情が陰鬱(いんうつ)な様に一変していた。
「兄じゃなくて従兄です」
 そう訂正した昂月を見て、高橋の口もとが皮肉った笑みを象った。
「いいえ、昂月さん。きみのお兄さんだよ、間違いなく」
 高橋が断定すると云い様のない不安が押し寄せる。
「……あなたは……だれ?」
「云ったでしょう。高橋州登。聞いたことはないかな?」
 高橋はわからないはずはないと云わんばかりで、昂月は急いで考え廻った。
 ……高橋……まさか――――?
 名前からたどったとたん、ありふれた姓が意味のあるものに変わった。
 昂月が大きく目を見開いて高橋を見返すと、またもや陰鬱に笑んで高橋は胸のポケットに手を入れた。テーブルに差しだされた名刺を半ば呆然と見つめた。
高登(たかと)不動産』の役員という肩書きと、そう知ったいま、嫌な印象を受けなかった理由に気づき、ある程度の答えにたどり着いた。

「高橋祐登(ゆうと)は僕の腹違いの兄。つまり、僕は祐真の叔父に当たるわけだ」
 昂月が知っていることを確信した高橋は薄笑いを浮かべて衝撃を与えた。
「僕はもう一つ仕事を持っている。もう一つというよりは本業というべきかな」
 二枚目に差しだされた名刺の職業を示す文字に昂月は慄いた。
「フリー……ジャーナリスト……?」
 高橋が昂月に近づいた目的の、少なくとも一つははっきりした。
「あるところから知り合いを通して依頼があった。祐真の一生を追ってみないか、と。先方は僕と祐真に血の繋がりがあるとは思ってもいない。おもしろい巡り会わせだと思ったよ」
 その表情はけっしておもしろがっていない。むしろ、怒り、もしくは憎しみのような感情が見えている。強いて云うなら、昂月が見せる反応をおもしろがっている。
「ジャーナリストといっても、僕は芸能方面には興味がない。専ら追ってるのは政界や経済界の腐った関係。先方は僕の情報収集力に目をつけたらしい。光栄なことだけど普通なら即、断る話だ。いくら金を積まれてもね。このとおり、お金には困っていない」
 高橋は経済面では何も気に病むことなく滞在していることを示すように、バーを見渡しながら云った。
 祐真の父親の実家が不動産業を営んでいることは知っていたが、それが全国区の高登不動産ということであれば、資産家という言葉ではすまされないほど裕福に違いない。
「なぜ……受けたの?」
「興味があった」
「興味?」
「そう。異母兄(あに)が莫大な財産を投げ打ってでも選んだ女性、つまり君のお母さんがどんな人なのか」
「……いまになって?」
「依頼がなかったら……たぶん、僕は興味なんて持たなかったかもしれない。ただ……(うら)んではいるだろうけど」
「母を……恨むってどうして?」
 恨みという感情に驚いた昂月は思わず問い返した。
 高橋は答える気がなさそうで、冷めた目を昂月から逸らした。

「でも、驚いたよ。ネタとしては大穴に当たった……」
 思わせぶりに云いながら、ゆっくりと視線を戻した高橋の口が歪んだ。
「祐真の一生を追ってきて……禁断、にぶち当たるとはまさか、だった」
「違……う」
 蒼ざめた昂月は声までも失い、囁くような音しか出なかった。
「僕の正体に思い至ったってことは、君は祐真の出生の経緯を知ってるってことだろう? 過程がどうであれ、禁断であることに変わりない。祐真と君がここで過ごしていたこと自体が証拠で、祐真がその部屋で死んだことにもたどり着いた。活動休止したあと、祐真はここで暮らしていた。最期に女性と過ごしていたことも調べがついてる。昂月さん、君だろう? 云い訳はできないよ。裏はいくらでも取れる」
 高橋は最後の詰めで間違いを犯していた。
 けれど、あの少女を曝すわけにはいかない。
「加えて君には鷹弥というおまけまである。世間にとっては最高の醜聞(スキャンダル)だ」
 昂月は膝の上に置いた手を固く握り合わせた。
「……知ってたのね」
「あの彼が鷹弥だってことはもちろん知っていた。それほど付き合ってることを隠しているふうでもなかったから。僕に限らず、君らはかなりの連中からマークされてるよ」
 高橋は右のポケットから数枚の写真を取りだしてテーブルに並べた。空港での写真と、家を出たあの日、高弥がホテルに送ってきてくれたときの写真。
「記事に……するの?」
「引き受けた以上は」
 高橋はあっさりと肯定した。
 その瞬間、昂月の中で衝撃が諦観(ていかん)な様に変わり、ピアノの演奏も色褪せてもう意味を成さなくなった。

 パンドーラーの(つぼ)にはやっぱりだれかが触れたがる。
 祐真兄、あたしたちはジ・エンド。それとも裏切って嘘になったいま、やっと、認めてもらいたいというふたりの願いが叶ったの? それなら……あたしは喜ばなくちゃいけないんだよね。

 昂月は笑った。
 高橋は思いがけない反応に眉をひそめて見返す。
「あたしには……もう失うものなんてないから……記事になっても平気」
「鷹弥はそう思わないかもしれない」
「高弥はすべて知ってる。それに……あたしたちはもう終わったの」
「終わった?」
「禁断。あなたはそう云った。認めたくなくてもそのとおりだから……あたしは穢れてる。高弥には似合わない」
「君のお母さんのことはどうする? 間違いなくショックを受けるだろう」
 今度は昂月の口が皮肉っぽく歪んだ。
「母? (あのひと)がどう思おうと知らない。どうでもいい」
「……僕はどうやら見込み違いをしていたらしい」
 高橋はさらに顔をしかめ、そうつぶやいた。
「何をあたしと交渉してるの?」
「昂月さん、君が欲しくなったんだよ」
 露骨な言葉に驚いて高橋を見つめると、苦虫を噛み潰したような表情があった。
 昂月はくすりと笑う。
「不本意?」
「そんなところだ。おれは兄と同じことをしてるらしい。追っているうちに、お母さんよりも君に興味を抱いた」
「興味……それくらいのほうが気が楽なのかもしれない。でもあたしはだれのものにもならない。あたしは記事にしていいって云ってるの。そうしたら、だれも本気であたしに近づかなくなるから」
 笑ってそう云った昂月の瞳は少しも笑っていない。真意であることだけが伝わってくる。

 高橋は頭を振って、ポケットから煙草を取りだした。
 口に(くわ)えて火を点す高橋の少し横向きにうつむいた顔に祐真の面影が重なる。
「……参ったな」
 大きく煙草を吸ったあと、ふっと笑いながら高橋がつぶやいた。
「高橋さん、煙草吸うのね」
「レディの前では吸わないことにしてるけど……いまは勘弁してほしい」
「思いもしなくて気づかなかったけど、祐真兄と雰囲気が似てる。もうちょっと早く、目の前で煙草を吸ってるところを見せてくれたらわかったかもしれない」
「父を見たらもっとびっくりするだろうな。祐真は父……つまり、祐真にとっては祖父に似てる。兄は母親似だったけど、僕は父親似だってよく云われたよ」
 高橋はどこか憎々しげに吐いた。
「心底、嫌いなのね、お父さんのこと」
「君は? お母さんに似てるって云われない?」
「そうね……思ってたより似てるのかもしれない。いっつも人を頼って……」
「守りたい。そう思わせる。君も君のお母さんも」
 昂月の瞳に自嘲とも哀しみともつかない感情が宿った。
「記事にしたら高橋の家の体面も傷つくでしょ?」
 昂月は冷めた声で問うと、高橋は声を出して笑った。
「僕たちは似た者同士なのかもしれない。父がどうなろうとどうだっていい。兄の母親と父は政略結婚のせいか、折り合いが悪くていつも喧嘩していたらしい。うまくいかなくなって離婚した。その後釜(あとがま)で僕の母が父と一緒になったわけだけど……兄はオールマイティにこなせる人で人当たりもよくて、僕は憧れた。兄が君のお母さんと駆け落ち同然で家を出てから、僕はいつも父と母に尻を叩かれてたよ。同じようにできて当然だってね。兄がいればこうまで風当たりは強くなかったはずだ」
「だから母を恨んでるの?」
「子供染みてるけど……そのとおり。僕は跡なんて絶対に継がないと誓った。だいたい、今時に大会社で世襲なんてどうかしてる。それでは会社は成長しない。よっぽどの才能がない限り。兄はその点では合格ラインにいたのかもしれない」
「でも役員になってる」
「保険なんだよ、父にとっては。反逆児の僕に対する(いきどお)りがあっても、血筋を残したいっていう気持ちには敵わないらしい。それに加えて、僕の職業柄、世間体的に危ない立場に置かれないように。そんなもので容赦するつもりはないけど、父には通じない」
 (さげす)むように笑んで高橋は冷たく云うと、そっぽを向いて煙草の煙を吐きだした。
「そういう正義感みたいなまっすぐなところも似てる」
 高橋の心情とは逆に昂月が可笑しそうに云うと、高橋は眩しそうに昂月を見返した。
「君と出会ってわかった。兄が君のお母さんを選んだ理由。兄を置いていった母親は会いに来ることすらなかった。それほど父を嫌ってるんだろうな。父は夫としてや親としての情よりも財産のほうが大事らしいから……要するに兄は愛情に飢えてた」
「……あたしは応えるつもりないから」
 高橋が云わんとするところを察して昂月は答えた。
「僕は祐真にも鷹弥にも敵わない、か……」
「そのまえに……あたしは何も求めないことにしたの。あたしがどうしてここにいると思ってるの? 家はすぐ近くなのに。あたしは全部、捨てる覚悟をしたから独りでいるの。だから記事にしても全然かまわない。母が傷つこうと、それは母が自分で招いたことだし」
 云い捨てて、昂月はとうとつに席を立った。
「昂月さん、本気だよ。君のことも記事のことも。どちらを選ぶかは君次第だ」
「どっちも選ばない」
「ここで待ってる」
 高橋を一瞥(いちべつ)し、返事もしないまま身を(ひるがえ)して昂月はバーを出た。

 エレベーターのボタンを押して待っていると、深夜になり利用者が少ないのかすぐに扉が開いた。
 人恋しかったはずなのに独りになってほっとしたが、それとともにいちばん畏れていたことがいざ現実になることがはっきりしたいま、気持ちがごちゃごちゃになってまたわけがわからなくなった。落ち着いているようで不安にかき回されているようで。

 エレベーターが止まり、混乱したまま降りたとたんに昂月は立ちすくんだ。
 廊下の壁にもたれていた高弥が躰を起こして昂月に近づいてくる。
 目の前で立ち止まると、高弥は無言のままに昂月の顔を両手ですくった。
 高弥の瞳に映るのは怒りと見紛うほどの暗く深い眼差し。
 何を云う間もなく、気づいたときはくちびるが重なっていた。
 驚きに思わず声を上げようと口を開いた刹那、高弥が深く触れて荒っぽく、そして熱っぽく昂月を探った。
 されるがままに目を閉じると、ちゃんと立っているのかさえ不確かになって昂月は高弥の上着をつかんだ。
 ……んっ……。
 あまりの激しさに息をすることすら忘れて(うめ)くと、高弥がくちびるとともに手を離し、反動で昂月は少しよろけ、高弥の上着を放した。
「お酒の味がする。煙草の匂いも。おれが来ても来なくても同じらしい」
 淡々とした口調はまるで自分に云い聞かせているようで、高弥は昂月の脇をすり抜け、まだそこに待機していたエレベーターに乗り込んだ。
 昂月は振り向くこともなく、うつむいてくちびるに手を持っていった。
 扉が閉まり、エレベーターが動く。
 はじめてのキスがこんなふうに……。
 ずっと高弥に触れてほしかった気持ちまでも薄汚れた気がする。
 けれどこれは昂月自身が導いたこと。
 あたし……らしいのかもしれない。

 お酒を飲んでいたにも拘らず、眠れなかった。
 そのまま朝になり、昂月はまた電話をかけた。

「高弥、来て」
「……昂月、もう無理だ。行かない」
 感情のない声とともに、電話はぷっつりと切られた。

 ただ一つ、たしかなこと。
 もう失いたくないものなんてなくなった。

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