ONLY ONE〜できること〜 #31

第4章 迷宮の行方  4.UNDER ZERO act3


 ドライブに出てからホテルに帰ったときは十時を回っていた。
 高弥を見送り、部屋へ戻ってからシャワーを浴びると昂月はベッドに横になった。
 人がいなことの虚しさが昂月を襲う。
 そんな自分に苛々して起きあがった。
 リビングへ行って冷蔵庫の中を覗くと、缶ビールを取りだしてプルトップを開けた。
「やっぱり苦い」
 一口含んだだけで昂月は顔をしかめてつぶやいた。風呂上りに美味しいというが、昂月にはビールが合わないようで苦いものは苦い。缶ビールは冷蔵庫の上に置いて再び中を覗き、今度はピーチチューハイを手に取った。飲んでみると甘いピーチの味が口の中に広がる。
 これだったら飲めそうだ。

 缶チューハイを持ってベッドルームに行くと、昂月は窓際のソファに横向きにもたれ、夜景を眺めながら少しずつ飲んだ。顔が火照(ほて)ってきてふんわりと気分が和らいだ。
 ソファの袖に頭を載せて横たわり、夜空を見上げているうちにいつの間にか眠っていたらしい。目が覚めたときはすっかり明るくなっていた。
 夏のはじまりから軽い睡眠障害が続いていたが、アルコールの力を借りてとはいえ、ちゃんと眠れるんだと思うと安心した。

 起きだして、音欲しさに習慣的につけっ放しにしたテレビが雑音を送るなか、不意に昂月の動きが止まった。雑音のなかに聞き逃すことのない名前を耳が捉える。
『……さん、昨日、ビッグニュースが入りましたよ。ユーマさんの新曲が二週間後の命日に発売されるそうです。ユーマさんは一年前、不慮の事故により……』
 立ち尽くしていた昂月だったが、曲の一部が紹介される寸前にテレビを消した。
 鳥肌が立つほどぞくっと背が震え、鼓動も音が聞こえそうなくらいにドキドキしている。
 大好きだった祐真の歌なのに、それがいま苦痛にさえなって、この一年は自ら聴くことがなかった。
 いつになったら平然と受け止められるのだろう。
 しばらく何も手につかなかった。

 昂月と同じようにテレビを見た慧からの電話でようやく動きだした。
『昂月、聴いた?』
 経緯と昂月が感じている葛藤(かっとう)を聞いていた慧は、前置きなく気遣うように訊ねた。
「ううん」
『そう……どこのテレビ局も取りあげてるし、CMも見た。触りだけだったけど、いい曲だってことだけ云っておく。あたしは事情を知ってるから昂月への歌ってわかるし、そのぶん、聴きたくない気持ちも理解できる。でも祐真兄ちゃんが昂月のことをすごく大事に想ってたことは、歌からもはっきり見える。だからこの歌、いつか素直に受け取るんだよ?』
「……ありがと、慧」
『今日の夜は家庭教師のバイトなの。その子、ユーマのファンなのよね。十分くらいは歌の話題で持ってかれちゃうかも』
 真面目に時間を取られることを(うれ)う慧に昂月は笑わされる。
「よく知ってるんだって云ったら十分じゃ終わらないかもね」
『口が裂けても云わないわよ』
 笑いながら慧は云いきると電話を切った。
 いつも変わることのない、慧の中にある昂月の居場所は心地よく心強い。
「あたしは大丈夫」
 声に出して自分に云い聞かせた。

 十一時頃になって今日は迷いなく携帯を取った。
『昂月?』
「何してるの?」
『ライヴの準備やってる。昨日、云っただろ。どうした?』
「来て、いますぐ」
『……昂月?』
「お願い、来て」
『……わかった。すぐ行く』

 電話を切ってから三十分ほどして部屋のドアがノックされた。ドアを開けると高弥の顔もまともに見ることなく、昂月は奥に行ってソファに座った。
「どうした?」
 ソファの脇に立って高弥が問いかけたが、昂月は答えず、昨日と同じように曖昧に首を振った。
 昂月はそのまま黙り込んでしまう。
 しばらくして、高弥の吐いた小さなため息が、静かな部屋にやけに大きく響いた。

 喋る気がさらさらないということに気づいた高弥は昂月の横に座り、テーブルの上にあった新聞を広げた。流し読みしつつ(めく)っている途中で、片面全部を使った広告が目に入った。
 大きく載せられた祐真の横顔を見ると、いないということの虚しさが甦る。会うことも話すこともないという現実は、高弥にとっても受け入れ難いことだった。
 それを救いあげたのは昂月にほかならない。昂月の存在が足を地に着けさせた。理由などない。届く日がいつか来るのか。

「出ようか?」
 読む気が失せて新聞を閉じ、高弥が訊ねると、昂月は首を振って断った。
 何をするでもなく、昂月はそっぽを向いてただ外を見ている。
 昂月がどういうつもりなのかをはっきりさせるまえに、付き合うと約束した以上、高弥は踏んぎりをつけ、沈黙にも副うことにした。
 高弥は立ちあがってテレフォン台に向かうとルームサービスを頼み、その横の冷蔵庫から缶コーラを取った。
 冷蔵庫の上に置かれたグラスを二つ取ろうとして手が止まる。
「昂月」
 疑うように呼ばれて昂月は振り向いた。
 高弥が手にしたものを見て、昂月はわずかに後ろめたい表情を浮かべた。
「飲んだのは一口だけ……苦くて飲めなかった」
 たしかに缶ビールの中身は満タンに近く残ったままだ。
「昂月……おまえが眠るまでおれはいたほうがいいのか?」
「……ううん。ちゃんと眠れたよ」
 高弥は納得していないようで、目を細めて昂月を探っている。
「さっさと捨てておけばよかった。あたし……へんなとこで抜けちゃうの。脇が甘いって祐真兄によく云われた」
 昂月が云い訳がましく後悔していると、高弥は可笑しそうに口の片端を上げた。
「そうだよな。だから助かるってのもあるけど、おれとしては」
「あたしは全然助からない。自分で自分も守れないし」
「おれが守られてるよ」
「…………だれに?」
「昂月に」
「……何もしてない」
 また増えた謎かけに昂月が責めて云うと、案の定、答える気もなさそうに笑んで高弥は肩をすくめた。
 それで拗ねたのか、昂月はまた黙りがちになった。
 こっちの都合におかまいなしのこのわがままが“いい子”から脱する過程であり、本心で振る舞っていることなら歓迎するところだが何かが違う。
 その日はろくに会話するわけでもなく時間が過ぎた。

「もう帰って。眠たい」
 夜の八時を回っていきなり昂月が通告すると、高弥は表情を硬くした。
「……何をやろうとしてる?」
「寝るだけだよ?」
 昂月は無邪気を装って首をかしげた。
「わかった」
 何かを心得ているような、昨日と似た響きで高弥はそう云って立ちあがり、背を向けた。
「高弥、明日もスタジオ?」
 ドアまで見送ることもなくソファに座ったまま昂月がその背に向かって訊ねると、高弥は怪訝そうに振り向いた。
「ああ。ライヴまであと二週間しかないし、祐真の名の(もと)にやる以上、いいかげんにやるわけにはいかない」
「そう……ね」
 昂月はつぶやいてそっぽを向いた。
「昂月――」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 昂月の理不尽な扱いにも怒ることはなく、高弥は出ていった。

 ついいままで高弥が座っていた場所に昂月は身を寄せる。ソファに触れた頬にまだ残っている高弥の温もりを感じた。
「高弥……」
 意味もなくその名をつぶやいて目を閉じた。
 ふと顔を起こすと、微睡(まどろ)んでいたらしく、時計の針は九時を指している。
「揺りかご……」
 昂月はつぶやくと、自らを嘲るように薄く笑った。
 振りきるようにベッドルームへ行くと、ここにも窓際のテーブルに置きっ放しにした缶がある。こっちは空っぽだ。
 云い訳もできない。
 ゴミ箱に入れたあと、証拠隠滅(いんめつ)を図る手間を省こうと部屋を出て最上階へ行った。

 バーに入ったとたん、まえと同じ席を陣取っていた高橋に手招きされた。
 一瞬だけためらったが、やましいことはないと自分を納得させて同席することにした。
「あのあと、大丈夫だった?」
 気遣って高橋が訊ねた。
「心配無用です」
「彼、FATEの鷹弥に似てるね」
「……よくそう云われるみたい」
 昂月はさり気なく返した。
「なんだ。本人じゃないんだ」
 運ばれてきたモスコミュールを一口飲んで昂月は笑んだ。
「鷹弥よりすごく優しい」
「お惚気(のろけ)か。残念だな」
 高橋が心底からがっかりして見せると、昂月の瞳が驚いたように大きく開いた。
「意外、かな? 理由がなくもないんだ」
「理由?」
 答える気がなさそうに高橋は笑った。
 何か潜んでいる笑みだった。高橋といると嫌な印象は受けないが、なんらかの意図、あるいは策略を感じる。
「気にすることはない。そのうちに」
 そう含ませ、そのあと高橋は言葉巧みにまた話題を提供した。

 次の日もまた昂月は高弥を呼びだして同じような一日を送った。何を思っているにしろ、文句一つ云わず、追い返されるままに高弥は帰った。
 そしてまた翌日、昂月はスタジオにいる時間を見計らって電話した。

「高弥、来て」
『……昂月、どういうつもりだ?』
 高弥の声から隠せなくなっていく苛立ちを感じ取った。
「来て」
『仕事中だ。終わったら行くよ』
「いま、いてほしいの」
 昂月がだめを押すと、電話の向こうでしばらく黙っていた高弥はやがて大きくため息を吐いた。
『わかった』

 もう少し。
 畏れる昂月の中でそう囁く声がした。


「高弥、またか?」
 航が顔をしかめて心配半分、困惑半分で訊ねた。
「迷惑かける。けどいまは……」
 高弥は言葉を切って髪をかきあげた。
「間に合うのか?」
「間に合わせる」
 きっぱりと云いながらも、高弥からは覇気(はき)が失われつつあるのが見て取れた。
「昂月ちゃん、こんなことする子じゃないのに……」
 実那都が考え込むようにつぶやくと、仕事上でライヴの準備にはじめてスタジオで立ち会っていた唯子は、いまになって状況を把握した。
「高弥、どういうことなの?」
「昂月が悪いわけじゃない。おれがそうさせてるんだ」
 唯子が問い質すと、高弥は昂月を弁護し、悪い、とつぶやいてスタジオを出た。
 戒斗は考え込むように高弥の背を見送った。

「高弥!」
 ドアが閉まると同時にまた開き、唯子が追いかけてきて高弥の腕を強くつかんで引き止めた。
「何やってるの?! 仕事でしょ? プロが仕事を放りだしてどうするの? ファンが知ったらどうなるかわかってる?」
「水納、事務所側としての見解は云われなくてもわかってる。プロとして、いまのおれの選択が間違っていることもわかってる。おれは……覚悟してるよ」
「……何を覚悟してるの?」
 怪訝な顔で訊ねた唯子に、高弥は軽く肩を竦めただけで答えなかった。
「おまえにも迷惑かける。事務所にはそのまま報告してもかまわない。じゃ、な」

 結局は昂月のもとへ行ったところで、その日も昂月の態度が変わることはなかった。
 ただ一つ違っていたのは、そっぽを向かずに高弥へとまっすぐに向けられた昂月の眼差し。まるで高弥の足もとを確かめているかのように(いど)んでいた。

 高弥を帰したあと、しばらくして携帯が鳴った。
『私よ、唯子』
 見知らぬ番号からの女性の声は知った声とわかっても、やはり昂月を怯えさせる。
「……唯子さん、こんばんは」
『昂月ちゃん、何をしてるかわかってるの? 忠告したでしょう?』
 唯子は出し抜けに強い口調で昂月を責めた。
 当然のことだ。
 今日、瞳に映った高弥の苦悩が拭い去られることはなかった。
 昂月は目を閉じた。
 立った足もとが不安定になって眩暈(めまい)がする。
「唯子さん、高弥を唯子さんにあげる」
『昂月ちゃん?!』
「ずっと邪魔してばっかりで唯子さんには謝らないと……じゃ」
『あづ……!』
 電話を切ると電源もオフにした。

 夜遅くなってから昂月はまた部屋を出てエレベーターに乗った。扉が閉まり、エレベーターは最上階へと昂月を送りだす。

 エレベーターが動きだすと同時に閉まった扉の前で足が止まった。動いていく電光を追う。高弥の顔が険しく歪んだ。


 バーに入ると、ほとんど毎日のように通い詰めているのか、今日も高橋がいた。飲み仲間として習慣化しつつあることに昂月は安心を覚えなくもない。
 あたしは大丈夫――。
 心の中でつぶやいた。

「リクエストしてくるよ。応えてくれるらしいから」
 高橋はピアノを指差した。
 昂月はどうでもいいように首をかしげた。
 高橋は立ちあがってピアニストに近づき、何やら囁くとすぐに席に戻ってきた。
「きみの好きな曲だよ」
 妙に断言した高橋がそう云ったとたんに演奏がはじまる。
 アレンジされていてもすぐになんの曲かがわかった。
 昂月の瞳が心許なく揺れ、ピアノに視線が行った。

 曲は“Rising Moon”だった。

「神瀬昂月さん、きみのお兄さんの曲だよ」

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